学校へ行くのは死刑台への階段を一歩ずつ上がることに等しい。
心の中につもるどす黒い塊は、日に日にその大きさを増していった。
教室に入ると必ず数人からの視線を感じる。
それは気のせいかもしれないが、それで私は搾取される側の体勢を毎日整えている。
仕方のないものだと割り切っているつもりだった。
それでもどこか、救いの手が差し伸べられることを待っていた。
HRや、授業の時間ではいつも体を小さくして存在を薄くしている。
自分から積極的に授業に参加することはしないし、授業中の発言は
最小限以下に抑えていた。とにかく目立たないようにすること。
それは虫や動物が擬態するのに似ていた。
一番苦痛なのは休憩時間だった。
授業という半ば強制、束縛されている時とは違い、なまじ自由が与えられるから、
私の孤独が浮き彫りになって現れる。
私に話しかける人はいない。私が話しかけられるような人もいない。
学校にいる間、一言も喋らないことがしょっちゅうあった。
それにも慣れた頃、いつの間にか私の周りには肉食獣が群れを作っていた。
七月の初め、クラスの人に二万円を貸した。
すぐに返すとその人はいっていたが、結局返ってくることはなく夏休みに入ってしまった。
夏休みが終わると今度は他の人からお金を要求されるようになった。
断ると、私のくつが無くなったりロッカーに落書きされるようになった。
だからバイトを始めて、要求されるだけのお金は払うようにした。
大体月に二万円から四万円。それは上納金だった。
それさえ払っていれば、また私は存在を隠すことが出来る。そう思っていた。
ある日球技大会のメンバー決めで、私は無理矢理ソフトテニスを選ばされた。
私のペアは潮崎さんという人で、私が入っているバレー部のアタッカーだった。
潮崎さんは球技大会の前日、同じバレー部の野菊さんと甲斐さんを後ろに連れて、
仁王立ちで私に言った。
――もし負けたら、あんたのせいだから。その時は慰謝料払ってもらうよ。
私は男の時から運動が得意だった。潮崎さんだって得意だったはずだ。だから勝てる自信はあった。
そうでなくとも、私に断る権利なんてあるはずが無かった。
結果は予想通り優勝だった。これ以上お金を払うまいと、全力で試合に挑んだからだ。
球技大会なんてみんな遊び半分でやっているから、死にものぐるいで
ボールを拾いにいった私を、遠くから指をさして笑う人もいた。
それでも勝ちは勝ちだから、慰謝料は払わなくて済む。
そう思っていたけれど、結局私はお金を請求された。
理由は、私のせいで潮崎さんが腕を痛めて、バレーが出来なくなったから、だそうだ。
実際潮崎さんはあの後バレー部を数日休んだ。
でも、それだけで……たったそれだけで、私は二十万という大金を払う必要があるのだろうか?
バレー部の部室をノックすると、中から潮崎さんの声がした。
中にはいると、潮崎さんの他に、野菊さんや甲斐さん。
二年生や三年生の先輩方もいた。
「ねえ、どういうこと? 払えないって」
私がずっと黙ったままでいると、潮崎さんが怒りを含んだ声で私に言った。
ドスの利いた声で、男の子と喋るときと全く違っていた。
「お金、もう無いの……ごめんなさい」
そう言うと、部室に散らばっていたボールやらシューズやらが私目掛けて飛んできた。
かわしたり逃げたりすると、余計状況がこじれることがわかっていたから、
私は飛んでくるものを全て体で受け止めた。
顔にあたったバレーシューズがとても痛かった。口の中が少し切れたらしく、鉄の味がした。
「あんたさ、笑顔が取り柄だって?」
野菊さんが何か含みのある笑顔で私に言う。
私と同じ中学校出身の子が同じクラスにいたので、その子から聞いたのだろう。
「へえ、ほんと? 笑ってみなよ、桂」
腕組みをしている先輩のバレー部部長が、けらけら笑いながら楽しそうに言った。
こんな状況で笑える訳もなく、ただ私は扉の前で立ちつくすしかなかった。
そんな私に苛ついたのか、甲斐さんは私に近づき、ボクサーのように腕を構えた。
甲斐さんは元々柔道部出身だったらしく、そのパンチの重さは、もう知っていた。
「えぐっ!」
お腹に鈍い衝撃が走る。絶対に顔や見えるところは殴らない。
「笑えよ、ほら」
お腹を抱えてうずくまる私に、誰かの冷たい声が上から降ってくる。
壁に手をついて何とか立ち上がり、これ以上殴られないように笑ってみせた。
「もっと楽しそうに笑えよ」
「あははは、ははははは」
「もっと大声で!」
自分の顔が引きつっているのがわかる。足が震えてきた。
もう笑顔どころではない。でもここで笑わなければ、また殴られる。
「あはははははは! あはははははははははははは!」
無理矢理顔を作って笑う私を見て、みんながクスクスと笑い出した。
「なにこいつ、きもちわる」
「泣いたまま笑ってるし」
「写メ取れた?」
「今取ってる」
「あたしも取るー」
私の笑い声に混じって、携帯のカメラのシャッター音がカシャカシャと聞こえた。
この写メは明日にはクラス中に届いていることだろう。
どうしてこんなことをしなければならないのだろうか。
私が一体何をしたというのだろうか。
その後、昼休みのチャイムが鳴るまで、私はずっと笑い続けたままだった。
お腹の筋肉がつってしまい、その日の夕ご飯は残してしまった。
しかし悪いことばかりではない。
その日の夜、自宅の自室で勉強をしていると、携帯が鳴った。
マコっちゃんからだった。
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件名:今度の土曜日、暇?
本文:良かったら、戸塚動物園に行かない?
あそこならキリンさんが見れるよ。
土曜日が駄目なら、日曜日でもいいけど。
日本キリンさんを見る会会長より
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思わずクスッと笑ってしまった。
マコっちゃんだけが、今の私の心の支えだった。
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件名:行きマース☆
本文:マコっちゃんからデートのお誘いとは積極的だねー(笑)
待ち合わせは何時にしようか?
日本キリンさんを見る会会員より
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メールはすぐに返ってきた。待ち合わせの時間と場所。
そして、夜はレストランで食事をしようという嬉しいおまけつき。
誘うのはほとんど私の方だったから、こうやって誘ってくれるのはすごく嬉しい。
今友達と言えるのはマコっちゃんだけだった。
マコっちゃんがいるから、嫌なことにも堪えられた。
心のどこかで、いつもマコっちゃんがいた。
いつから好きだったかわからないくらい、私はマコっちゃんのことが、好きだ。
それは男を想う女として、恋をする女として、好きという意味だ。
だからすごく怖い。
離れていった何人もの友達の内の一人に、マコっちゃんがなってしまわないか、怖いのだ。
中学校を卒業する直前にTSSが発症したから、TSS患者に対する世の中の差別的な視線に、
高校に入るまで全く気がつかなかった。男のときと、女の今と、一体何が違うというのだろうか。
私は私のはずで、本質的には何も変わらないはずなんだ。
でも私の高校の人はそうは思わないらしい。
元々男だったと知ったその瞬間から、友達だと思っていた人たちは捕食者となり、
私の存在はコミュニティから外れ、ただ搾取されるだけの命となった。
殴られ、奪われ、罵られ、いずれ食べられる。それだけの存在。それが、私。
私を虐げる人に罪悪感なんて無いだろう。私は人であって、人では無くなった。
アリを踏みつぶして涙するような人はいない。命の軽視は、存在の軽視になり、
それに伴って罪の意識をかき消していったのだ。
それでも私が私でいられるのは、マコっちゃんがいるから。
例え世界中の人に嫌われても、マコっちゃんが傍にいてくれれば、笑うことができる。
土曜日は何か、良いことがある気がする。
私の勘はにぶちんだけど、今回だけは当たりそうな予感がするのだ。
土曜日のことだけを考えて、一週間を堪えきった。
その週も何とか無事に過ごすことが出来た。
特にいつもと変わらない生活を送っていたが、一つ変なことがあったとすれば、
金曜日に携帯をなくしたことだ。
携帯はかばんに入れておいたのだったが、気がつくと無くなっていた。
普段あまり使わない代物ではあるが、私とマコっちゃんを繋ぐたった一つの連絡路でもある。
必死に探しても見つからなかったのだが、携帯はその日の放課後にはまたかばんの中に入っていた。
変だとは思ったが、結局携帯は戻ってきたので、深くは考えないことにした。
明日はマコっちゃんから誘ってくれたデートの日だ。
マコっちゃんに悟られないように、心を切り替えなくては。
私の頭の中を占めるのは、そのことだけだった。
第二幕「摂理」 終わり
最終更新:2008年09月17日 20:54