「□□病院の者です。
救急で運ばれた潮崎乙女さんが、この番号に電話して欲しいとのことでしたので、
お電話させていただきました。潮崎さんのお友達の、誠さんでしょうか?」
潮崎乙女(しおさき おとめ)。忘れもしない、中学一年の夏。
夏休みの自然学級というキャンプで知り合い、その後付き合った、初めての彼女。
潮崎がどうして今頃俺に連絡を……それも、病院から。
「は、はい。俺が誠です」
「潮崎さんは今病院にいます。私たちにも、警察の方にも、事情を話そうとしません」
警察……?
「潮崎さんは今日のお昼頃、三階から飛び降りたようなんです。
下が柔らかい芝生だったのと、途中で木にひっかかったのが幸いして
命に別状はありませんでしたが、ひどい怪我を負っています。
今から病院にこれないでしょうか?」
「……行きます」
「すぐに迎えを用意します。十分後に、家の前で待っておいてください」
「……はい」
潮崎乙女、飛び降り、病院、警察。
わからない。全く意味がわからない。
潮崎とは別れた後一切連絡を取ることはなかった。
だから乙女のその後を、俺は知らない。
母さんに病院に行き、帰りは遅くなるかもしれないという旨を言い、
俺は外で迎えを待つことにした。
しかし十分後に俺を迎えに来たのは、タクシーでも救急車でもリムジンでもない。
白と黒のパンダ模様の、警察車両だった。
「泉堂誠くんだね」
「はい」
「パトカーで来ちゃ、悪かったかな」
「……」
「ごめんね。潮崎さんと会う前に、どうしても聞いておきたいことがあったから。
私の名前は小栗。今回の事件の担当だ」
俺の隣に座っている警官が、警察手帳を広げて言った。
警察手帳には、”警部補”という肩書きの下に、顔写真と小栗太郎という
名前が書かれている。
小栗さんはもう一冊、メモ用の手帳を取りだし、柔らかい物腰で俺に質問を始めた。
「潮崎さんとは友達なの?」
「……ええ、まあ」
「高校は一緒?」
「いや、俺は△△高校です」
「中学校が一緒だったの?」
「いいえ……潮崎とは中一の時夏のキャンプで知り合って……。
あ、でも、中二の時から一切連絡を取ってませんでした」
「うん……そうか。あ、ちょっと待って」
小栗さんは質問を一端中断して、着信のかかっていた携帯に出た。
二、三言会話を交わし、すぐに電話は終わった。
「誠くん、○○高校に知り合いはいる?」
ドクン――。
○○高校は、麻衣子が通っている、学校だ。
「どうして……○○高校なんですか」
「あ、いってなかったか。潮崎さんは○○高校なんだよ」
ドクン、ドクン――。
「潮崎さんはね、五限と六限の合間の休みに、一人でトイレに向かったらしいんだ
その後トイレの下の芝生で倒れている潮崎さんが見つかった。
潮崎さんの傍に落ちていたガラスの破片が、三階の女子トイレのガラスだったことから、
その女子トイレから落ちたとしか考えられない。わかるかい?」
「はい……」
「そして、潮崎さんが三階から飛び降りてから、一人の女子生徒がいなくなった。
事件の匂いがするから、意識が戻った潮崎さんにいろいろ聞いてみたんだけど、
何も喋ろうとはしない。その日は諦めようと思ったとき、突然携帯を取りだして、
君の家の電話番号を見せて、ここに電話して、誠くんを呼んで欲しい、と言ったんだ」
いなくなった女子生徒……? まさか、まさか、まさか、まさか。
「私たちは表向きは事故として調べているが、私は殺人未遂だと思っている。
さっき裏が取れたけど、いなくなった女子生徒と君は、中学校が同じだね?」
嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。
「……麻衣子、ですか……?」
「ああ、いなくなったのは桂麻衣子さんだ。やっぱり、知り合いかい」
「……俺の……、俺の、彼女です」
「……私はね、君がこの事件に何か関係していると思っているんだ。
もちろん、君が仕組んだものとかそういう意味ではなく、ね。
それでだ。桂さん、今どこにいるか知ってる?」
「……知りません」
「本当に?」
「……知りません……」
「わかった」
病院が見えてきた。小栗さんはメモ用紙を一枚はぐり、電話番号を書いて俺に渡した。
「何かわかったら、ここに電話して欲しい。私の携帯につながる。
病室には私が案内しよう。中には入らないけど、中で話したことは後で私に
全て話して欲しい。いいね?」
「……はい」
混乱する思考に、正常な判断力があるはずもなく、人形のように返事を返すしかなかった。
小栗さんともう一人の警察官に、挟まれるようにして病室にたどり着いた。
警察官がノックすると、中から医師と看護師、そして潮崎の両親らしき人たちが出てくる。
お互い短い挨拶をした後、彼らは廊下の奥へ消えていった。
小栗さんは病室の前のソファーに座り、目で俺に合図を送ってくる。
俺は何も言わず、そっと病室のドアを開けた。
痛々しい包帯姿の潮崎が、俺の記憶とは二年分の年別が経った顔で、そこにいた。
俺に気がつくと、笑い顔をつくろうとしたのか、口角を上げる。
しかし顔を覆う絆創膏が少し動くだけで、笑顔には、とても見えなかった。
「久しぶり、だね」
「……ああ」
ぎこちない会話だと感じているのは、俺だけなのか。
潮崎は穏やかな顔で、俺のことを見つめている。
三階から落ちたというのに、何故ここまで平然としていられるのだろう。
沈黙が流れ、気まずい雰囲気になる。
たまらずしゃべり出した俺の言葉に被せるように、潮崎もしゃべり出した。
「あ、あの……」
「聞いて欲しいことがあるの」
穏やかな顔に、変化があった。
傷が痛むのか、それとも別の痛みか、潮崎は少しだけ苦しそうな表情になっている。
「最後まで、聞いて欲しい。あの子のこと、あの子に、したこと」
そう言って語り出したことは、あまりにも非情で、残酷な真実だった。
ふらついた足で病室を出た俺は、すぐ傍で待っていた小倉さんの元へ歩み寄った。
一時間以上かかった潮崎の話は、俺の口からでは三分もかからなかった。
小倉さんはもう一人の警察官を病室の前に待機させておき、俺をパトカーまで案内した。
病院の前で、谷口と出会った。
「……」
谷口は何も言わず俺の横を通り過ぎ、病院の中へと入っていった。
ひょっとすると、あいつはもう聞いていたのかもしれない。
そうでなくとも、俺の顔から何か、察したのかもしれない。
いずれにしても、もう俺と谷口は、今まで通りの関係を続けるのは難しいだろう。
潮崎の彼氏が、谷口で、谷口の友達が、俺で、俺の彼女が、麻衣子で、麻衣子は潮崎を、突き落とした。
相容れぬはずの俺たちが、偶然ではない、欲望と痛みで繋がっていた。
「家まで送るよ。明日、学校が終わったら、署まで来て欲しい」
「……はい……」
抜け殻。俺は抜け殻だ。中身の無い、人形だ。
ただ息をして、心臓を動かし、手足の動作で、社会にとけ込んでいるだけの、存在。
何も、無くなった。何も、何もかも。
俺を占める大切なものが、俺が俺である証であるものが、全部、ぶっ壊れた。
家に帰ると、母さんはまだ夕飯を食べずに俺を待っていた。
「誠、夕飯、食べる?」
俺を見て、心配そうな顔をしならがらも、平然を装っていた。
何故警察が迎えにきたのか、病院で何があったか、聞いてくることは無かった。
それは俺への信頼と、母さんの優しさからだった。
でも今は、誰の感情にも、触れたくなかった。
「ごめん……食べない……」
「……そう。ラップしとくから、食べたくなったら、食べなさいね」
「うん……」
二階に向かい、自分の部屋にはいると、ベッドに倒れ込んだ。
見慣れた天井が、どこか遠く見えた。
麻衣子は今、何処にいるのだろう。
会いたい。会いたい。会って、謝りたい。
何も知らなかったこと。何もしてやれなかったこと。
……そうだ、まだ全てが終わった訳じゃない。
まだ俺にはやれることがある。心臓が動く限り、もがき続けるんだ。
もう一度、もう一度やり直すんだ。
階段を転がるように下り、玄関から飛び出した。
自転車に乗り、夜の住宅街を駆け抜けた。
考え無しに自転車をこいでいたが、いつのまにか俺は無意識に、
あの代乃木公園に向かっていた。
第五幕「倒錯」 終わり
最終更新:2008年09月17日 20:56