『名前を呼んで』(上)

「ひ~ろみっ、いっしょに帰ろーぜー!」

 放課後、僕が教室の前に来たところで、いつものように気に食わないセリフが中から聞こえてきた。

「でも、アキちゃんを待たないと……」

 少女と見紛うほどの美少年の眉が困惑したように寄せられる。そうそう、そんな奴の言うことなんか聞かなくても良いんだぞ。

「あ~。でも別にそのうち追いついて……って、ほらもう来てるし」

 尋海をそそのかす言葉を吐きながら昌俊は顔をこちらに向けて。ようやく僕の存在に気付いても悪びれもせずに手をひらひら振ってくる。

「いいかげん何度言ったらわかるんだ? くだらない道草に尋海を巻きこむな」

 勝手知ったる他人の教室。尋海の席に引っ付いてる昌俊の前まで行って、そう言ってやる。

「じゃあ俺のほうも何度も言わせてもらうけどな、それを決めるのはおまえじゃなくてヒロだろ?」

 そんなこと当たり前だ。僕だって尋海が行きたがってるならこんなこと言ったりしない。

 ……だけどな、『制服のまま入れる18禁の店、見つけたんだ』なんて言ってるの聞いた身としては止めないわけにいかないだろっ?

「どうしても行きたいなら、せめて家で着替えてから行けばいいじゃないかっ!」

 結局三人での帰り道の途中、毎回の同じ説得を昌俊にするけど、やっぱり昌俊から返ってきた言葉はいつものものだった。

「こう、下校途中に行かないと意味ないんだよな~」

 いつまでも考えを改めるつもりのない昌俊に溜息をつくと、尋海がくすくすと笑う。

「二人ともいつも飽きないね~」

「ほんとだよな、こいつがいつも突っかかってくるから」

 こっちはこれでも譲歩してやってるのに、その言い草はなんだ!?

 口からその言葉が出かけて、だけどぐっと我慢してやる。これ以上言い争っても泥沼にしかならないのは目に見えてるし。

 そうこうしてるうちに僕たちの家の前に着いた。

「じゃ、また明日な~」

 別れ際に『お別れのちゅー』とか称したものを昌俊が尋海にしようとして、それは僕が昌俊の頭を思いっきり殴ったことで阻止しておいた。

「トシちゃんけっこう痛がってたみたいだけどいいの?」

 玄関に入って尋海がそんなことを話しかけてきた。

「あんなのあいつの演技なんだから放っといていいんだよ。それともあのままされたほうが良かったか?」

「ううん。まったく」

 無邪気ゆえの無情さでばっさり切り捨てて、尋海は2階の自分の部屋に向かって行った。

 ――まぁ、昌俊の気持ちもわからなくもないけどね。

 控えめに言ったとしても尋海はそこらのアイドルなんかよりずっと可愛い。

 普通、兄弟がいる人はみんな相手のことを過小評価するもんだけど、僕はまったくそうは思わない。

 そのうえ、性格も良くて人望もあるんだからこれ以上言うことなんかない。

 深く考えて、少しだけ落ち込んでしまう。尋海とのあまりの違いに……。

 双子なのに、僕は本当に十人並みの顔で。

 頭の方も、努力してやっと尋海と同レベル。勝っているのは少しばかりの身長と、多少口が回ること。

 一時期は普通を装いながらも、内心では醜い嫉妬を尋海に向けていた。なんで同じ日に、同じように生まれたのに…って。

 でもあいつはその暗い感情から救い出してくれた。

『同じ日に生まれたって言っても、違う人間なんだから顔が違ってるのは当たり前じゃないのか?』

 まだまだ知識が少なかったころ。だからこそ、あいつにとってはなんの含みもない純粋な質問だったんだと思う。

 勝手な思い込みでがちがちになってしまっていた頑なな心はその言葉で解放された。

 だから感謝こそすれ昌俊を疎ましいと思ったことなんか、今まで一度もなかった。

 だけど、最近は……。

「………はあ…」

 考えるのを中断した僕は一つだけ溜息を吐いて、顔を上げる。
息を吐きながら、肩の力を抜く。そうして気分をリセットすればまた前を見れる。

 そういえばこれも昌俊に教えてもらったことだっけ…?

「…やめやめ」

 そうして僕も尋海に遅れて自分の部屋に向かうことにした。

 こんな感じが僕たちの日常。僕たちの自然だった。



「今日母さん泊まりになるって」

 夜になってかかってきた電話を置きながらの尋海の言葉。まぁ大体予想はついてたけどね。

 僕たちの母さんはコンピュータ関係の仕事をしている。ヘルプっていうんだっけ?

 仕事が少ない時はずっとうちにいるけど、こうやって切羽詰まった時に母さんは呼ばれていって、そしてその時は大体今日みたいに泊まりになる。

 ちなみに父さんは海外出張の真っ只中だ。家ではいつもにこにこしてて少しだけ頼りない感じだけど、仕事になると頭に『鬼』が付くほどの厳しさらしい。

 日本に帰りたい、と電話をかけてくるたびに漏らす声からは想像もできないけどね。

「アキちゃんはもう寝る~?」

 今日ずっと微妙に具合悪そうだった尋海が目をこすりながら訊いてくる。

「うん。寝ようかな」

 双子が同時に精神的に繋がってて云々とかいう迷信を信じてるわけじゃないけど、僕のほうもなんとなくだるくて、まだ少し早いけど自分の部屋に引っ込む。

 ――明日は日曜日だし、ゆっくり寝ればすぐに治るよね。

 漠然とそう考えて、僕は痛む頭を休ませてあげることにした。

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「……っちゃん!? アキちゃんっ! 起きてっ!!!!」

「うぇ!?」

 いきなりの大声に僕はすごい勢いで目を開けた。

 そこに広がってた光景といえば、まだ薄暗い部屋の中で至近距離から尋海が見つめてきていて、一瞬だけ息を飲んだ。

「どしたんだ? まだ6時前のなのに…」

「アキちゃん……だよね…?」

 目は開いてもまだちゃんと覚醒できてなくて、明らかに様子のおかしい尋海に気付かずに僕は疑問符を浮かべる。

「当たり前だろ。僕じゃなきゃ、誰がこの部屋に寝てるんだ?」

「だ、よね…アキちゃん、なんだよね?」

 眠くて、意味がよくわからないけど、もう話は終わったと思って僕は布団にまた潜ろうとする。

「ちょっと来てっ!」

 なのに手を掴まれて、無理やり部屋から連れ出される。尋海らしからぬ強引さに目を丸くしてるうちに、僕は母さんの部屋に連れて来られていた。

「見て」

 母さんの部屋にある姿見を指しながら尋海が言う。

「なんで…」

「見たらわかるからっ!」

 僕はまだ寝たいんだけどなー、と思ったけどしぶしぶ鏡を覗きこむ。

 そこにはめんどくさそうにしている尋海が映っていて、別に何も不思議なことはない。

 なんでここに連れてきたんだ、と聞こうと振り向いて、そして僕は違和感に気付いた。

 尋海はただ不安そうな表情で僕を見ている。そして僕の真後ろにいるんだから鏡に映るはずがない。

 じゃあ……、今、鏡にいたのは……?

 すごく、嫌な予感がする。

 動きの悪くなってしまった首をどうにか鏡に向けると、鏡の中の人物も同じ動きで僕を見る。

 ――これ……僕、なのか…?

 大きな目に、白い首、可愛くぽっちゃりとした唇に、やわらかい猫っ毛。

 どこをどう見ても、尋海の特徴なのに、鏡はどこまでも僕と同じ動きをする人を映し出す。

 ここまで劇的に外見が変わってしまう現象は一つしか知らない…。

「朝、起きてね……ぼく、トイレに行こうとして、気づいたんだ…」

「何を……?」

「……無かったの」

 今度は、何が…とは聞けなかった。尋海の言葉の直後、はじけるように僕は手を伸ばした。自分の股間に。

 男なら誰しもあるはずの膨らみ。それが、完全に消え去っていて、信じられない答えが突きつけられる。

 まだ全然誕生日には遠いはずなのに……。だから特に何も考えていなかったのに……。

 だけど現実は容赦なく突きつけられる。

 そう、僕と尋海は、同じ日に女になってしまったんだ。



 ふらつく足元をお互いに支えながら、僕たちはリビングまで来た。

「…どうしようか、これから……」

 どちらからともなく力の無い声が発せられて、だけどそれに答えを見つけることができなくて、沈黙が訪れる。

『十五、十六歳で女体化』

 僕たちが生まれた時には、それが常識になっていた。

 学校にも何人かそういう人はいるけど、クラスにはいなくて、どこか遠いことのように考えていたのに……。

「アキちゃんもしたこと、なかったんだね」

 唐突にぽつりと呟かれた言葉に、カッと顔が熱くなった。

「そんなのっ、尋海だって同じじゃないかっ!」

「そうだけど…、それにしてもアキちゃん迫力ない~」

 こんな時なのにけらけら笑う尋海が信じられなかったけど、よくよく考えれば尋海はほとんど外見に変わりないせいだと思う。

 男の時の美少女顔のまま、本当に美少女になって、いつもよりさらに雰囲気が柔らかくなった気がするくらいだ。

 対して僕は……。

「アキちゃん、本当に可愛くなったね」

 それはほとんど自画自賛に近いんじゃないのか?

 僕は顔が同じばかりか身長や体型まで尋海にそっくりになってるんだから。

 それでもいつもと変わらない感じの尋海に安心もできて、僕の混乱も一時的にだとわかってるけど落ち着いてきた。

「ただいま~…」

 そのまま尋海となんの実にもならない会話を交わしていると、死にかけている声が聞こえてきた。

『おかえり~』

 二人の声が重なった。

 リビングまで来た母さんは、僕たちの方を見て、そして動きが止まった。

「…っあ~、限界だわ…。本気で尋海が二人に見える……」

 ツキ、と見逃してしまいそうな、だけど確かな痛みが走る。

「あのね、ぼくたち、女の子になっちゃったんだ」

 仕事の時だけかけるという眼鏡を外しながら目頭を揉む母さんに、なんの前振りも無くいきなり核心を話す尋海。

 寝不足の頭が必死に頑張ってるんだろう、母さんの目はじっと尋海を見て、そして僕のほうも見る。

 三往復したところで、ようやく理解できたのか母さんは。

「『僕たち』ってことは、明は…?」

 僕たちを見比べながらそんなことを聞いてきた。渋々僕が手を上げると、母さんはさらに驚いた顔になって。

 当然の反応なのに、僕の気持ちは沈みこんだ。

「だけど、二人ともまだしてなかったなんて…」

 そこを突かれると少し弱くて、僕たちは素直に謝った。

「いいのよ、下手に犯罪とかされるよりはっ。こうやって美人の双子の娘たちを手に入れられたんだから!」

 豪快に笑って、母さんはあっさり許してくれた。

「って、あんたたち、いつ女の子になったの?」

 突然態度を切り替えた母さんが真剣な面持ちで訊いてくる。

「今日起きたらもう…」

「それじゃあ!」

 こぶしをぐっと握りしめていきなり大声を出した母さんに、僕と尋海は思いっきり引いた。

「まだ何にも用意できてないじゃない!!」

 そんな大声で言わなくたってそれくらいはわかってるけど…。

「…よし! 尋海、着替えてきなさい」

「どうして?」

 尋海の言葉。僕も聞きたいところだったけど、母さんが理由を話し出して、言うタイミングを逃した。

「買い物に行くからよ!」

 それを聞いて納得したのか、尋海は階段を上っていった。

「なんで尋海だけ?」

 さっきまでの半ゾンビ状態はなんだったのかと思うほどにいきいきしてる母さんに言ってみた。

「ほんとは3人で行きたいんだけどね。ほら、尋海はほとんど変わってないけど、明はすごい変わったでしょ?」

 だから僕たちが並んで歩いてるのを知り合いに見られると、色々面倒なことが起きる、と母さんは言った。

「この面倒は避けられないけどね…。準備が終わる前にわざわざ飛び込むことも無いでしょ?」

 僕を気遣う、間違っていない母さんの言葉に頷くことしかできなかった。

「じゃ、行ってくるわね」

 着替えてきた尋海と母さんは出かけていった。

 そろそろ寒くなってきたし、尋海のノーブラがばれないための厚着も不自然じゃないと思う。

 リビングで一人、尋海の格好を思い出していると、急に独りだということを意識しだしてしまった。

 自分を取り囲む環境は何も変わっていないのに、自分だけが変わってしまって…。

 まるで僕だけが世界から弾き出されたような錯覚が、足元から忍び寄ってきて、自然と呼吸が速くなる。

 ――おちつけ自分…っ。

 わざと限界まで吸った息を、何秒も何秒もかけて吐き出すと、少しだけ気分が楽になってくる。

 そのおまじないをして、不意に昌俊のことが思い浮かんだ。

「昌俊は………」

 そこまで口にして。だけど自分でも何を言おうとしたのかわからないまま、もやもやした何かが胸の中にわだかまる。

 その理由をどうしても見つけられずに、僕はもう一度深呼吸をして、ソファに横になった。

 早くに尋海に起こされて寝不足だったのもあるし。それに…、ぐだぐだとくだらないことしか考えられない頭を止めたかったから……。



―――ガチャ―――

 空気が動く感じがして、僕は目を覚ました。

「開いてるし……。おじゃましまーす」

 母さんめ…鍵かけないで出かけて行ったな…?

 返事も待たずに勝手に入ってきた足音の主は、廊下を抜けて、そしてリビングに来たところで歩みを止めた。

 こんなふうに入ってくるのは一人しかいない。

 もう十年以上の付き合いだから、ある程度は信頼してるし、今更誰も注意したりしな……。

「なんだ、尋海だけなのか?」


 何かが、壊れる音がした。


「あいつは、どこ行ってるんだ?」

 キョロキョロ見回しながらの昌俊の声が、こんなに近くにいるのに、フィルター越しのように聞こえてくる。

「あいつ…って?」

「尋海の弟だよ」

 尋海の弟は…僕だ。今、おまえの目の前にいる『明』なのに……。

「いまは、出かけてるみたい」

 いつから昌俊は僕の名前すら呼んでくれなくなった…?

「『アキちゃん』、に何か用でもあるの?」

 どうして僕は尋海の口調を真似ているんだろう…?

「いや、別に何もないけどさ」

 やっぱり、だよね。昌俊の中では、『僕』にはほとんど価値なんか無いんだよね…。

「尋海? どうかしたのか?」

「なんでもない……」

「そんな変な顔色して、なんでもないってことないだろ」

 両方の肩を掴まれて、無理やり上を向かされる。

 そんなに心配するのは尋海だから、だろう?

「女の子になっちゃったのが、ちょっとショックで…」

 何に傷ついてるかなんて知られたくなくて、自分から体の変化を明かした。

「お、んな…って、おまえ、女体化しちゃったのか!? …だけど、あんまり変わってないな、可愛いまんまだ」

 僕は、こんなにも変わってしまったのに、昌俊はまったく気づかない。

 ――……違う…。

 昌俊の中では、ここには『明』は存在してないんだ……。

 ずっと、ずっといっしょにいたのに…、こんなに穴だらけの演技なのに……、僕が明だとは思いつかない昌俊。

 それほどまでに僕は必要とされていない、と突きつけられた気がした。

「でも女になったってわりに胸の方は…」

「帰って」

 必死に、それだけ紡ぎ出せた。

「今日は、帰って!」

 あまりの剣幕に面食らった昌俊は、それでも僕――尋海のそばから離れようとしない。

「帰って! 帰ってったら!!」

「落ち着けよ。いきなりどうしたんだ?」

 手首を掴まれて、抵抗が止められる。力がまったく及ばなくなってることにさらに恐慌が深まっていく。

「放してよっ!」

 こんな顔、見られたくないのに…っ。

 だだをこねるように、ぶんぶんと手を振り回して、でもそれは昌俊に止められてしまう。

「こんなになってる奴を放って帰れって言うのか?」

 真剣になった昌俊の声に一瞬嬉しさが湧いて。だけどその言葉は一つも僕に向いていないことにどこまでも深い悲しみに覆われた。

 溢れそうになっていた涙を、もうこらえていることはできなかった。

「……っふ、…ぇ…」

 情けないしゃくり声も出てしまって、いっそここから消えてしまいたくなる。

 ――…それもいいかも……。

 僕を僕だと、誰もわかってくれてない。尋海の顔をしているのは尋海だけで十分なんだから…。

「…………っ…」

 困惑したような、昌俊の小さすぎる声が聞こえたけど、何を言ったのかわからなかった。

 次の瞬間、突然引き寄せられて、気づけば僕は昌俊に抱きしめられているかのような体勢になっていた。

 まだ状況が理解できないうちに、僕は昌俊にあごをすくいあげられて。

 そして唇をふさがれた。

「――――っ!?」

 意味がわからなかった。

 頭の中が真っ白になって、何も考えられない。

 どうして、どうして、どうして???

 それでも唇が離されて、至近距離で昌俊の顔を見た瞬間、今まで感じたことのない強い感情に支配されて。

 僕は思いっきり昌俊の頬を殴って、自分の部屋に駆け込んだ。

 昌俊が僕を追ってくることはなく、玄関が閉められる音を僕は自分の部屋で聞いたんだ…。

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 次の日の月曜日、学校での出来事は語るに落ちる程度のことだった。

 みんな、誰もが僕が女の子になってしまったことよりも、僕が尋海そっくりになったことに興味を持った。

『わぁ~、本当に双子になったみたい』

『尋海くんそっくりでかわい~!』

『なあ、ちょっと三組まで行って並んでみてくれよ~』

 休み時間という休み時間、毎回同じようなことだけを繰り返されて、心が凍り付いていくのがわかった。

 ようやく僕が返事をする気がないと理解したのか、放課後になった今はみんなさっさと思い思いの場所へ散っていく。

 僕も、いつもならすぐに尋海のクラスまで向かうんだけど、自分の席からどうしても立ち上がることができなかった。

 昌俊は尋海と同じクラスで、尋海に会いに行くと、必然的にあいつとも顔を合わせることになってしまう。

 ――そんなこと、できるわけがない…。

 僕と尋海が女体化してしまったことは伝わってないはずないけど、幸いにも昌俊は僕の前には現れなかった。

 ――いや、やっぱり…って言うべきなのかも…。

 あんなに可愛い尋海が女の子になったんだから…、余計に僕に気を回すことなんかないもんね…?

 そうだよ。だから昨日、僕を尋海と間違えてあんなこと……っ。

「って……あれ?」

 昌俊は『アレ』を尋海にしたつもりなんだから、いっしょにいる尋海はかなり危ないんじゃないか?

 それに気づいて、僕は教室を飛び出した。

 尋海に手を出されるのをむざむざ見逃すことなんかできないし。

 …それに昨日のあのことを、間違えて僕にしたんだと昌俊にばれたくなかったんだ……。



 廊下を歩いていく間、何人にもちらちらと見られるのがわかったけど、そんなのに構わず、僕は尋海の教室の前まで来た。

 だけどいつものように教室の扉を開けることは躊躇われた。

 もし、もう昌俊が話してしまっていたら…。

 それに今は昌俊に軽口を言われても、冷静に受け止められる自信が…無い。

 ――やっぱり、帰ろうかな…。

 気持ちが負けてしまって、扉にかけた手が落ちてしまう。

 それでも踵を返しかけた僕は、中から聞こえてきた声に足を止めた。

「尋海…、今日はあいつ、来ないのか?」

 昌俊の、声だ。

「ね、アキちゃん、遅いね」

 続いて尋海の声も聞こえてきた。

 三人で帰るのが、習慣になっているけど、実際僕は昌俊にいっしょに帰ろうと言われたことはない。

 昌俊が尋海を誘って、それに僕は監視役のようについて行ってるものだと思っていた。

 だけど、昌俊も少しは僕のことを気にしてくれていた。

 昌俊の目は全部尋海に向いているとしても、その中から僕の存在を消さずにいてくれた。

 たったそれだけのことなのに、とても嬉しい…。

「ごめん。掃除当番で遅くなった」

 さも今来たように。今の会話なんか聞いてないように装って、教室の中に入り話しかける。

 昌俊は僕の姿を見て、目を見開いて。けどやっぱり何も言わずに、いつもみたいなセリフを吐いた。

「でも、遅刻は遅刻だしな~」

 それだけで…十分だった。

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『はっきり言わなくても尋海は可愛い』

 前も同じことを言ったけど、そのとき尋海は男だった。

 そう、だから『そういう意味合い』で進んで尋海に声をかける男はいなかったんだ。

 だけど今、女になってしまった尋海はかなり声をかけられるように……なっていなかった。

 聞くところによると、男子の間で変な不可侵条約が交わされているらしい。昌俊がこの間の帰り道に、尋海に聞こえないように教えてくれた。

 僕たちが三人で帰る習慣は…まだ続いている。昌俊がくだらない冗談を言って、僕がそれをたしなめ、それを見て尋海がニコニコ笑う…。

 こんなふうに変わらない日常が続く。願っていたけど、本当にそうなるとは思ってなかった。

 でも、確実に僕の日常は変わっていた。

「付き合ってください」

 もう幾度目かになるその言葉に、内心溜息を吐きながら僕は同じ質問をする。

「どうして?」

 この言葉だけで簡単にそいつらは言葉に詰まる。

「理由も言えないような人と付き合えると思う?」

 さらにそう問うと、そいつらは決まって気まずそうに目を逸らす。

 ――理由は…わかってるけど……。

 さすがにこれ以上追いすがっても無駄なのがわかったのか、僕が背中を向けて歩き出してもそいつは何も言ってこなかった。



 尋海は、可愛い。弟(今は妹だけど)の僕から見ても、絶対に傷つけたくないと思わせるほどに。

 だから、あいつらは同じ姿になった僕に告白してくる。

 尋海の…代替品として…。

『やっぱ…、三組の三枝と同じ顔だから…』

 最初に僕に告白してきた奴が、僕の質問に長考したそう答えて、ああやっぱりと心の中が冷たくなった。

 そういうことを言ったのはそいつだけだったけど、みんな同じなんだろう。

 大事なものほど壊れてしまうのが怖くて、手も出せないし中々使うことができない。

 でもそれの形だけは同じのイミテーションがあったら……それで我慢しておこうと考える人は少なくないと思う。

 そのイミテーションとは…僕のことだ。

 尋海のことをどうこうするのは気が引ける。それじゃあ、どうすれば……と考えて、僕に告白してくるんだろう。

 告白されるたびに、おまえのことは大事じゃないと同時に言われて、むなしさが積み重なっていく。

 外見に惹かれてるわけであって内面はどうでもいい。

 この、尋海そっくりの見ためだけに価値があって、僕自身には何も惹かれるものはない。

 自分でもわかってることなのに…。

 わざわざ何度も思い知らせることはないじゃないか…っ!

 自然と速くなった足に気づいて、僕は一旦立ち止まって、肩の力を抜こうと深呼吸をする。

「ん? こんなとこで何やってんだ?」

 突然後ろからかけられた声に、僕はぎくりと体を弾ませた。

「昼休みなんだし…別にどこにいても不思議じゃない」

「でも体育館にいるなんて、おまえにしちゃ珍しいだろ?」

 確かにそうだ。というよりも昼休みに自分から体育館に来たことなんか僕は一度もない。

 そんなふうにそこで話していたのが災いした。

 僕に告白してきた奴が後ろから追いついてきたんだ。

「あ……」

 そいつは僕と昌俊を交互に見て、そして逃げるように出口から走っていった。

 なんか…もしかして……。

「告白でもされてたのか~?」

 からかうような昌俊の言葉に、いつものように反応することはできなかった。

「って…マジにか?」

 黙りこんだ僕に、滅多に出さないような真剣な声で昌俊が聞いてくる。それに頷くと、昌俊はさらに訊いてきた。

「断ったのか?」

「そんなのは当たり前だろ」

 僕が女になる前は一度も話したことがない上、外見に釣られてきたような奴と誰が付き合うんだ。

「それに、昌俊といるところを見て、勝手に誤解してくれたみたいだし」

 そのおかげで、後々になってやっぱり納得がいかないと突っかかってくるようなこともないだろう。

「ごかい……ごかいねぇ~…」

 ぶつぶつと呟く昌俊。教室に帰ろうと、その横をすり抜けようとしたところで、僕の耳に信じられない言葉が届いた。

「別に全校生徒に誤解されてもいいけどな、俺は」



 足が止まる。

「なに…言ってんの?」

 壊れかけたおもちゃのように、ぎこちなく昌俊を見上げると、いつも僕にだけ見せる何かを企んでるような笑顔にぶつかった。

「ん? まんまの意味だけど」

 だから…っ。

「なんでそんなこと、言うんだ?」

 声を荒げそうになってしまって、だけどそれを抑えて普通に聞こえるように声を出す。

 昌俊に動揺してるなんて悟られたくなかった。

「なんでだと思う?」

 ニヤけた顔のまま聞き返されて、僕は言葉に窮した。

 またからかってるだけだと、僕の反応を見て面白がってるだけだろうと言ってやりたいのに、なぜかそれを口に出すのは躊躇われた。

「なんで、なんだ?」

「なんでだろうな~?」

 だからもう一度訊いたのに、鼻歌のように変な調子を付けたその言葉を残して、昌俊は僕に背中を向ける。

 そしてそのまま僕を置いて歩き出した。

 ――……いつも…そうだ。

 昌俊は、僕のことを待ったりしない。あいつの目は、決して僕を見たりはしない。

 尋海という接点がなければ…、僕が追わなければ……、こうして簡単に距離が開いていく。

「ま………」

 それが……嫌なのに…。

 呼びかけた名前は喉で止まってしまって、僕は昌俊の背中を見ているだけしかできなかった。




 HR終了とともにクラスの全員が動き出す。その波に乗って、僕も教室の外まで来たんだけど……。

 ――どうするかな、これから。

 いつもなら尋海のクラスに行っていっしょに帰るんだけど、今日尋海は学校を休んでいる。二ヶ月に一回はなぜか尋海は熱を出すんだ。一日で治るけどね。

 色々考えて、結局一人で帰ることにする。前に尋海が休みだった時も、そうだったし…。

 そうして玄関に行こうと体の向きを変えて…。

「ぅわっ?」

 男子の制服の胸の部分にぶつかってしまった。

「ごめんなさ……っ」

「よっ」

 ほとんど脊髄反射の速度でそいつの顔を見上げていた。

「な……え…? 昌、俊…?」

 異常なほどの晴れやかな笑みの昌俊が目の前にいる。

 ――なんで…?

「尋海は…今日休みだぞ」

「同じクラスなんだから、そんなことわかってる」

 じゃあ、なんで昌俊はこんな所にいるんだ…? 僕のクラスに来るなんて、今まで一回もなかったのに…。

 僕の疑問のまなざしに、昌俊は何か満足そうに頷く。そしてなんとなしに周りを見回して…。

「付き合ってる奴を迎えにくるくらい普通だろ!?」

 ざわっ…と僕たちの周りがどよめいたのがわかった。

「やっぱ、こんなに可愛い奴を一人にしとくのはしんぱ……」

「ちょっと来い!!!」

 さらにたわ言を続けようとする昌俊の腕を掴んで、渾身の力で引っ張っていく。これ以上ここにいることなんてできなかった。

「いきなり何言ってんだ!」

 校舎の中でも奥まった場所にある階段の踊り場。そこまで昌俊を引っ張ってきて、開口一番僕はそう叫んでいた。

「しかも…っ、あんなっ…でかい声で!」

 少なくともあの時廊下にいた全員に昌俊の声は届いていたはずだ。

 そのことを考えると眩暈を感じる…。

「俺、言っただろ? 全校生徒に誤解されてもいいって」

「だからって…!」

 心にもないことを言って、その反応を楽しむなんてただの悪趣味じゃないか…っ!

 昌俊にとってこれはただの冗談のつもりなんだろう。だから、だからこそ、無性に腹が立った。

「わかった。おまえ、今からさっきあそこにいた人全員に謝って来い」

 冷静を通り越して、非情なほどに冷たい声で僕は昌俊に命令していた。

「ごめんなさい。自分が言ったのはただの冗談です。真に受けないで下さい、って頭下げて来い」

「……なんで、そこまで怒ってんだ?」

 いっそ殴ってやろうかと、本気で思った。

 自分がどれだけ僕のことを傷つけているなんてわかろうともしない。

 実際は大して見向きもされていないのに、他人からは付き合っていると思われる…。そんな惨めなこと、誰が耐えられるか…っ!

「そこまで嫌がられると、俺もショックなんだけど…」

 不意に、本当に傷ついた昌俊の声音が聞こえてきた。

「じゃあ、最初からこんなこと言わなきゃ良かっただろ」

「ま、そうなんだけどさ~……。なあ、本当に付き合ってるってことにしないか?」

 まだ同じ事を繰り返す昌俊に、瞬間頭に血が上って、手を振り上げていた。

 けれどもそれは僕の手首を掴まれたことで阻まれる。

「放せっ!」

「俺もさ、実際知り合いが告られてるシーンなんて初めて見たけどさ~」

 僕の言葉をまるっきり無視して、昌俊は手首を掴んだまま話し続ける。

「な~んか気持ちいいもんじゃないんだよな~」

 どこまでも身勝手なセリフなのに、僕は抵抗するのをやめていた。

「だから、俺と付き合え」

 どこに『だから』がかかったのかわからない。

 なんで昌俊がここまでこだわるのか、なんて僕には理解できない。

 でも、多少なりとも僕に執着してくれてるんだ…。

「……………わかった」

 長い沈黙の末、一言だけ昌俊に返す。

 未だに握られてる手首から、ピクリと昌俊の手が動いたような感触が伝わってきた。

「…おお。……やっぱこんなに可愛い顔がしおらしく言うとクルな」


――――ピシッ――――


 また、何かが壊れる音がした…。

『顔』

 そう…昌俊は言った。元々は、僕が持っていなかった物…。

 尋海と、同じ、顔…。

 また、言われてしまったんだ。『おまえなんか大事じゃない』と。

 ――…やっぱり、そう…なんだ……。

 今まであった感情が、もう思い出せない…。

 どこまでも…どこまでも僕は、必要とされていない。誰も…僕を見てくれない。

 ずっと、小さい時からいっしょにいた昌俊まで…、尋海のことしか見ていなかった。

 …いや、そんなのはわかってた…。けどそれを認めたくなくて…、二人がいるところに、僕が入っていっていただけなんだ。

「どうし…!?」

 僕の顔を覗きこんだ昌俊は言葉を切って、ぎょっとしたような顔になった。

「なんで泣いてるんだ?」

 正直に答えたら…おまえはどんなふうに思うんだ…?

「泣き止めよ…。『おまえ』の泣き顔を見るのはキツい…」

 痛ましいという顔で、僕の頭を抱きしめてくれる。……昌俊、おまえの言う『おまえ』は……誰のことなんだ?

 僕……それとも……。

「…ぅっ、えッ……」

 ただただ溢れてくる涙は、昌俊の制服に吸い取られていく。

 こんなに苦しいのに…こんなに胸が痛いのに…、僕はどうしてもできなかった。

 昌俊と付き合うことを、拒否することを…。

「…………ぇっ……」

 たった今、自覚して、その瞬間にはもう終わってしまっていた感情。

 それを想って、僕は声を殺して泣き続けることしかできなかった。

 決して僕のものになってくれない、大好きな奴の胸の中で……。




 僕が昌俊と付き合ってる。

 その噂はあの日の翌日には少なくともうちの学年全体に伝わっていた。

 なのに、不思議なほどそのことを追究されることはなかった。みんな遠巻きに興味ありげな視線を向けてくるけど、実際に訊いてくる奴はいなかった。

 ある一人を除いて…。

「なんでアキちゃんとトシちゃんが付き合ってることになってるの!?」

 昼休みになるのとほぼ同時に尋海が駆け込んできた。…あ、先生がびびってる。

 一応授業は終わってたけど、本当に終わった直後だったせいで尋海の大声がやたらと響いて、教室の全員が呆気に取られている。

「…ちょっと、尋海、こっち来て」

 変な沈黙に包まれてる教室から、同じ顔をしている兄……いや、姉を連れ出す。

 昨日、帰ってから僕は尋海にこの件を説明できなかった。

 まだ尋海が本調子じゃなかったのもあるし……。

 ぼろぼろになってしまった気持ちのまま、尋海とまともに顔を合わせることなんかできなくて、早々に部屋に引きこもってしまったせいだ。

 息ができないくらいに胸が痛いのに、泣けた方のが楽なのに涙は枯れたようにもう流れてくれなかった。

 ベッドの上で小さく丸まりながら…色んなことを考えた。

 昔のこと、とか…、これからのこと…。考えれば考えるほどに、気持ちが沈んでいって…、だけど僕は一つだけ心に決めた。

 あんまり人が通らない廊下まで来て僕たちは足を止める。

「尋海はやっぱり嫌か…?」

 僕と昌俊が付き合うことになって。

 弱々しくなってしまった口調で尋海に訊く。すると尋海は少しだけポカンとした顔になって、そして尋海らしからぬニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。

「ふ~ん? あ、そう、そうなんだ」

 何が『そう』なんだ?

 僕がそれを質問する前に…。

「うん、別に僕は反対しないよ。…へぇ~。じゃ、ぼくはこの後約束あるからっ」 

 意味深な言葉を残して、跳ねるようにして尋海は走っていった。

 やっぱり尋海は性格も良いと、こういう時に思わされる。

 さっぱりしてて、人が踏み込まれたくない所をぎりぎりで察してくれる。それを多分自覚なしでやってるんだから、到底僕が敵うものではない。

 あまりの違いに落胆の溜息を吐きそうになって、それを飲み込む。

 そして僕はゆっくりと深呼吸をして肩の力を抜いた。…ほんの少しだけ気分が浮上した気がした。

 誰がどう思ってようと、これで昌俊と付き合うことを口に出して反対する人がいなくなってしまった。

 だから、昌俊と付き合ってもいいんだと、ようやく自分を納得させられる。

『好きな奴と付き合えるんだから、何も求める必要はない』

 これが昨日ベッドの中で辿り着いた結論。

 昌俊がどう思ってるかなんてわからない。だからこそ僕からは何も求めない。

 そうとでも思わないと…壊れてしまいそうだったから。

 自分だけが相手を好きで……なのに相手の気持ちは全く見えない。いや……下手をすれば……。

 ――やめよ…。

 わかりきってることを再確認して傷つくなんて馬鹿らしい。昔からの癖になっている深呼吸をもう一度する。と。

「またこんな変なとこにいんのか?」

 前と同じように声をかけられた。なんで僕がいる場所がこいつにはわかるんだ?

「昌俊…こそ、なんでここにいるんだ?」

「さあな~」

 中途半端な笑みではぐらかされて、それでも一応探してくれたんだろうと思うと、嬉しさが胸に込み上げてくる。

 こんなに幸せなんだから、と自分を誤魔化す材料がまた増えた。

 ――僕は昌俊に何も求めちゃいけないんだ…。

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最終更新:2008年06月14日 10:04
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