『名前を呼んで』(下)

「遊びに…?」

「そ、明日行くぞ」

 あまりに唐突な昌俊からの誘いに僕は首を傾げた。

 付き合いが始まって二週間。その間に変わったことと言ったら昼休みを昌俊と過ごすようになったくらい。

 でも大体尋海もいっしょだから特に変わったことはないと言ってもいい。

「どこに行くつもりなんだ?」

「映画館。『タイム・ラグ』の続編がもう始まってたんだよ」

「ああ、それ。そういえばなんかCMやってたな」

 正しい名前は『タイム・ラグ セカンド』。二年位前に昌俊がおもしろいとみんなに触れ回ってたアメリカの映画だ。

 僕も実際見てみて、けっこうおもしろいと思ったけど、続編が作られるくらい好評だったんだ、アレって。

「試験のせいで少し出遅れたけど、明日こそ見に行くからな」

 異存はなかった。昌俊から誘ってくれるなんて、それこそ何年ぶりかのことだし、その映画も嫌いなものじゃないから。

「じゃあ、尋海も誘ったほうが…」

 たしか尋海もあの映画が好きだったはずだ。

 そう思ってお弁当を一生懸命頬張っている尋海に話を向ける。

「もう聞いたよ。でもぼく、明日はちょっと用があるんだ」

 それだけ言って、尋海はお弁当の続きに取り掛かる。そんなことに今更ショックを受けている自分に気づいて嫌になった。

「だってよ。だから明日は二人で行くぞ」

 わかった、と頷きながらも、ひどい虚しさに襲われる。

 僕より先に尋海のことを誘ったという事実に。

 けれど、それを昌俊に指摘せずに、僕は気づかれないように深呼吸をする。

 昌俊と尋海は同じクラスなんだから自然と先に聞いただけだから。それにそれでも僕のことを誘ってくれたんだからいいじゃないか。

 少しでも幸いな所、希望が持てる所を見つけ出して、自分を落ち着かせる。

「じゃあ明日、何時ごろ、どこで待ち合わせにする?」

「俺が迎えに行くから家で待ってろ」

「うん。わかった」

 そうして僕は笑ってみせた。

 もうそんな笑顔は慣れっこだった。




 次の日。僕はリビングで昌俊を待っていた。

 尋海は言っていた通りに僕より早く出かけていった。母さんもまた修羅場になっている職場に朝から呼び出されていって、今はいない。

 もちろん父さんはまだまだ赴任中だから、今家に居るのは僕だけだ。

「…やっぱり、時間だけでも決めておけばよかったな……」

 ポツリと呟いた声が誰に届くことなく消えていった。

 もうお昼前だけど、昌俊はまだ迎えに来ない。

 いつ来るのかわからずに、準備が終わってからずっと待ってるんだけど…。

――――ピンポーン――――

 呼び鈴が聞こえて、昌俊じゃないことに溜息を吐きたい気分でゆっくりと腰を上げた。

 昌俊なら呼び鈴なんか鳴らさずに、勝手に入ってくるか玄関で人のことを呼び出すかするのが普通だから。

 誰が来たのかと思いながら玄関を開けて。

「準備、出来てるか?」

 そこにいた昌俊を認めて、僕は一瞬立ちすくんでしまった。

「あ…、出来てる、から…ちょっと待ってて」

 訝しげに僕を見下ろしてる昌俊の視線に気づいて、そう告げて一旦家の中に戻る。

 ――……びっくりした。

 昌俊が呼び鈴を鳴らすなんて思ってなかったから。…なにか心情の変化でもあったのか?

 少し考えてみても見当も付かない。そしてすぐに昌俊が待っていることを思い出して、僕は慌てて荷物を持って玄関に戻る。

「ごめん、ちょっと手間取った」

「…じゃあ、ちゃっちゃと行くか」

 鍵をかけている僕に言って昌俊は僕に背中を向けて先に歩き出す。ただその後ろ姿を追いかけることしかできない自分が心底嫌だった。

 …もし、今ここにいるのが――僕が尋海だったら、昌俊はどんなふうに扱うのかな…? もう少しくらい…何か、言葉をくれるのかな?

 有り得ない『もし』を振り切るように頭をゆるゆると振る。

 今は僕が昌俊の近くにいるんだから、考えるだけ無駄だ、と。




 バスで駅の近くの大きな映画館に移動する。

 日曜日のせいかけっこう人は多かったけど、それでも僕たちが見る映画はまだ空席があった。

「あいよ。オレンジジュースで良かったよな」

 差し出された紙コップを受け取る。

「うん、ありがと」

 そうして昌俊が横に座ったところで、ちょうど開始のベルが場内に鳴り響いた。暗くなっていくのに連れて周りが静かになっていくことに心の中でほっと息を吐く。

 映画が始まったんだから昌俊と話さなくてもまったく不自然じゃない。

 男だったころは好き放題な言葉をぶつけることができていたのに、今はそんなこと怖くてできない。

 だから言葉がぎこちなくなってしまっているのはわかってる。昌俊もそのことには気づいてないはずないのに何も言ってこない。

 以前の僕のような言葉はいらないってことの証拠だと勝手に思ってるけど、あながち間違いじゃないはずだ。

 自分を否定する奴と付き合うなんておかしい。こんなに不安になってまで付き合うなんておかしいと思う。

 それでも…昌俊の隣に二時間もいられることは純粋に嬉しかった。


 

 映画はとてもおもしろかった。こう、登場人物の掛け合いがテンポ良くて、アクションシーンもただ派手なだけじゃなくて、最後に黒幕と対峙した時の緊迫感なんて他の映画の比じゃなかった。

「っあ~! 今回も満足な出来だった!」

 明るくなった場内で、伸びをしながらけっこうな大声をあげる昌俊。

 言葉の通り、その顔には満面の笑みが浮かべられていて、久しぶりに見るその表情に胸が高鳴るのを感じてなんとく恥ずかしくなる。

 けれど僕と付き合い始めてから、昌俊が一度もこの笑顔になっていなかったことにも同時に気づいて、昌俊の中の自分の存在がどの程度かわかってしまった…。

「うん、前のよりおもしろかったよね」

 負の感情を押し込めて、僕も笑顔を作って素直な感想を言う。

「やっぱ…!」

 そのまま昌俊がこっちを見て。

「…そうだよな」

 気のせいと思えないほど昌俊の表情が強張っていた。僕の顔を見た瞬間に…。

 不自然なほどにゆっくりと目を逸らされて、だけど昌俊は言葉を続ける。

「そういや、飯まだだったよな。今から軽くでも食うか」

 もう二時過ぎだったけど、なぜかおなかは空いてなかった。でもその言葉に頷いて、僕たちは映画館を出てファーストフード店に来た。

「チョコのシェイク2つ」

 昌俊の注文に首を傾げる。昌俊が2つも食べるのか?

 そう思っていながら店を出るとそのうちの一個を渡された。

「ほら、好きだったよな」

「……うん」

 ……やっぱり…って言うべきなのかもしれない…。昌俊なら尚更、この顔をしていたらチョコが好きだってイメージに繋がるはずだから。

 ――あのね…、チョコが好きなのは尋海なんだよ…。

 昔、少し食べただけで戻してしまってから、僕はチョコが苦手になってる。その時も近くに昌俊はいたはずなのに、『やっぱり』…覚えてくれてなかった。

 ――こいつからしたら、どこまでも僕との思い出、とかは必要ないんだな……?

 もう、少しでも良かった所を見つけられない…。

 だけどせっかく昌俊がくれた物を否定したくなくて、ストローに口を付けた。眉をしかめないように注意しながら、その甘い液体を飲み込む。

「…………………」

 頭の横に何かを感じて、視線を移動させると昌俊と思い切り目が合った。けれどすぐに逸らされる。

 なんで昌俊がそんなふうに口を引き結んで不機嫌そうな顔になってるのかわからない。何か、僕は間違ったことをしたのだろうか…。

 先を歩く彼の後を追いながら、うっすらと終わりが近づいてきているような気がした。

 自分なんかじゃ…何もかも駄目なんだとわかっていたのに……、それでもこの状況を選んでしまったのは自分だ。

 ……だから。

「ま………」

「おまえさ~…」

 同時に声を被せられて、僕の言葉は途中で消える。

「俺といる時、なんでそんな暗い顔してるんだ?」

「え………」

 なに、言ってるんだ……?

「嫌そうな、つまんなそうな顔、ずっとしてるよな」

 そんなこと…ない。

 ずっと、僕は笑ってたじゃないか…。昌俊の前では嫌な顔なんてしないように頑張ってたじゃないか…っ。

「なに? そこまで俺と付き合うのは嫌だったわけ?」

 全く言葉を返せないでいるうちにさらにそう問われて、首を横に振って否定する。

「だったら…俺の前でもっと笑えよ」

 切りつけられた気分だった。

 どうやって…? これ以上…どうやって笑顔を作ればいいんだ…?

 もうそばには居られない…。僕には尋海みたいな笑顔になることはできない…。

 俯いてしまった僕に舌打ちをして、昌俊はまた歩き出した。

 僕が追いかけなければ、昌俊の近くにはいられない。だけど僕はそれとは逆の方に逃げ出していた。

 後ろを振り向かない昌俊は気づいてくれなかった。たとえ気づいていたとしても、昌俊は追いかけてくれないだろう。

 初めて、女として昌俊と会った時がそうだったから…。



 そのまま僕は家に帰ってきた。…まだ誰もいない。

 不意に込み上げてきたものを抑えられずに、僕はトイレで戻してしまっていた。

 嘔吐の苦しさから来る生理的な涙よりも、心の苦しみから来る涙が流れ出てくる…。昌俊がくれた物すら満足に受け止め切れない自分が情けない。

 ……やっぱり、僕なんかは昌俊と付き合うべきじゃなかったんだ………。

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 ああ、これは夢なんだ、とあっという間に気が付いた。

 まず…昌俊がこっちを見ているから。

『大丈夫か?』

 夢の中でなぜか転んでいる僕に、昌俊が呆れたような、それでいてとても優しい笑顔で手を差し出してくれる。

『うん。ありがとう』

 照れながらも素直にその手を取る夢の中の僕。

 夢だと自覚しているのに…現実ではありえないそのやり取りがすごくうらやましい…。

 そう思った途端、今までの第三者視点から夢の中の僕視点に、視界が切り替わる。

 目の前に昌俊が立っている。じっと僕のことを見て、僕が何かを言うのを待っているみたいだった。

 これは夢……。

 だからこそ、現実では言えないことをぶつけてみた。

『僕のこと、名前で呼んでみて…?』

 夢の中の昌俊は笑顔のまま頷いて、そしてどこか困ったような顔になって僕に訊いてきた。

『ナマエ、ナンダッケ?』




 ビクリと体が震えて、ベッドの上で僕は目を覚ました。

 時計を見て、今がお昼だということを知る。…僕は学校を休んだ。

 尋海やまだ修羅場の最中の母さんに僕が吐いたということを伝えると、いいから休んでじっとしてろと半ば無理やり休まされてしまったんだ。

 でも、それはありがたかった…。

 こんなにぎすぎすとした気持ちのまま、人と会うなんてできないから。

 昌俊と会うのが、怖かったから……。

 あの後、昌俊からの連絡は一切無かった。僕がいなくなったことに気づかないはずないのに、携帯にも…家の電話にも全く…。

 それほどまでにどうでもいいんだ、と自分で再確認するだけになってしまって……また、心が凍りついた。

 今の夢はその表れかもしれない…。

 現実を認めたくない僕の願望。

 けど、その願望の中ですら……昌俊は僕の名前を呼んでくれなかった…。

 でもそれは当たり前なんだ。もう何年もずっと呼ばれてないから、忘れてしまっている。

 昌俊はどんなふうに僕の名前を呼んでいたんだっけ…?



 ベッドの中でまんじりともしないまま、僕はただ天井を眺めていた。

 何かをするような気力もなかった。だけど重い体起こして、ベッドから降りて…僕は床に転がっていた携帯を拾い上げる。

 いつか、昌俊が尋海に教えていた番号を一桁ずつ思い出しながら押す。

 最後に通話ボタンを押して、僕は携帯電話を耳に当てた。

『おかけになった電話番号は現在使われておりませ…』

「――――――ッ!」

 通話を切って携帯を投げ捨てる。ガッと耳障りな音が壁の方から聞こえた。

 一回聞こえただけだったから僕がちゃんと記憶できてなかったのかもしれない。昌俊が携帯を変えて番号が変わったのかもしれない。

 でもどっちの場合でも、僕は昌俊の電話番号もメールアドレスも知らないという事実は変わらない。

 尋海に言っていたように僕にも教えてくれるのを待ってたけど、結局今日に至るまで教えられることはなかった。

『昌俊の番号教えて』

 こんなに短い言葉を自分から言えなかったことを今更後悔した…。



 あれからまたベッドの上に戻って、僕はぼんやりとしていた。…ああ、もう授業が終わった時間だ。

 お昼は食べなかった。おなかは空いてないから。

 のどは渇いたけど、別に気にならない。

 ――あ、そうだ…。

 そこで膝を抱えて座ってると、良い事を思いついた。

 尋海と同じ顔のせいでこんなに苦しいんだったら…、何か『印』を付ければ見分けてもらえる。僕自身を見てもらえるんじゃないかな。

 何か…と部屋の中を見回して…、学校用のバッグの中にある筆箱を思い出した。

 そしてそこから先の尖ったボールペンを取り出してキャップを外す。

 ――これでほっぺたをガリッ、ってやったら傷とか残るかな…?

 キャップを外した黒のペンで自分の指先をつつきながら思う。力を込めたら、インクは付かないで指先はただ真っ赤になっていた。…もうインクないな……。

 新しいのを買っておかないと…。

 同時に色んなことを考えながら、でも手だけは勝手に動く。

『印』があれば、みんな僕と尋海を見分けてくれる。綺麗な顔のままが尋海、…そうでないのが僕だと。

 ペンを持っている手を上げる。これを振り下ろして思い切りひっかけばいい。

 ――やっぱり、痛いかな…?

 少しだけ怖くなる。でもそれは一時的なものだ。痕さえ残れば…それで、これからずっと…楽になれる。

 秤にかけるまでもなかった。

 決心が固まって、上げた手が動き出す。

『だけど、あんまり変わってないな、可愛いまんまだ』

 耳の奥に声が響いて、僕の腕は止まってしまった。

 一番大切な奴の声。

 僕に向けられた言葉じゃないのに、今更過ぎるとわかってるのに……。

『やっぱこんなに可愛い顔がしおらしく言うとクルな』

 また違う言葉が浮かんできて、ようやく僕は思い出した。

 昌俊が唯一、僕の中に価値を見出してるのが…この顔だ……。

 もしこれが台無しになってしまったら…、昌俊にとって今よりもっと、僕はどうでもいい存在になってしまう。

 もう手遅れだと……もう意味の無いことなのだとわかっていても、それ以上腕を動かすことはできなかった。

 力が抜けた手からボールペンが落ちる。それが僕の膝に当たって…、さっきまでは感じなかった痛みが残った。

 だけど……また、涙は流れてくれなかった。



 不意に玄関が開く気配がした。時計を見るとさっき見たときから30分近く経っている。

 その間ずっと僕は部屋の床に座りこんだままでいたらしい。その音に反応してのろのろと部屋の外に出た。

 尋海が帰ってきたんだから、少しでも顔を見せないと心配するから。

「ひろみ…?」

 階段を下りながら、玄関の方に声をかける。けれど返事がなくて、不思議に思いながらも僕はさらに歩みを進める。

 思えば、いつもいっしょに家に帰ってきてて、いっしょに住んでるんだから…、この時点で気づかない方のがおかしかったんだ。

 尋海は外から帰ってきたとき、家に誰かいるのがわかってる場合は絶対にただいまって言ってることに。

 今日僕は学校を休んでそしてずっと家にいることを、もちろん尋海は知っている。というか半ば尋海と母さんが休ませたようなものだから知っていなきゃおかしい。

 なら…、なんで尋海はただいまって言わなかったんだろう。

 その疑問を疑問と認識する前に、目の前に答えは突きつけられた。

 一階に下りた僕は玄関の方を見て動けなくなる。

 結論を言えば尋海は帰ってきてなかった。だからただいまって声が聞こえるはずがない。

 じゃあ、なんで玄関が開いたのか音がしたのか? それは誰かに開けられたからに決まってる。じゃあ誰に…?

 その答えも目の前にあった。

「ど…うして……?」

 思わず出てしまった声は混乱で震えてしまっていた。

 絶対に来るはずがない……僕の一番好きな人。

 昌俊が、僕を見つめていた…。

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 頭の中で、疑問符が飛び交っている。

 尋海がいないのに…、何の用もないのに……、なんで昌俊がここに来るんだ……?

 ――何か、言わなきゃ…。

 玄関に立っている昌俊は黙ったまま、ずっとこっちを見ている。

 重い沈黙に耐え切れず、空回りする頭で言葉を探す。

「尋海は……いっしょじゃなかったの?」

 そしてようやく声が出せて……、けれども昌俊は答えてくれない。ただ無感情に向けられるその目を見て、昨日の出来事が頭に蘇ってきた。

『俺といる時、なんでそんな暗い顔してるんだ?』『もっと笑えよ』

 投げつけられた言葉を思い出して、不意に走った胸の痛みに俯く。

 ――笑わないと………。

 笑顔でいないと、昌俊が不快な気分になってしまう。…そんなのは、嫌だった。

「帰りにうちに寄るなんて珍しいね」

 少し時間が掛かってしまったけど、ちゃんと笑顔を作れた。その表情のまま顔を上げて、なるべく普通に聞こえる声で昌俊に話しかける。

 だけど昌俊は無言のまま僕から目を逸らして、明らかに怒りを含んだ溜息をついた。

 ……自分の顔が凍りついたのがわかった。

 何がいけなかったのか、わからない…。ただ再び僕を見た昌俊の目はさっきまでとは違っていた。

 長い間、いっしょにいたから、わかる。

 昌俊がこんな目をする時は、ただ一つのことしか考えていないんだ。

『気に食わない』……と。

 それ…が、僕に向けられている…。僕のことを気に食わない、と昌俊の目がはっきりと語っている…。ここまで強くその感情を隠さずにいるのなんか見たことがない。

 目を見開いたまま固まってしまっていた僕は、昌俊が動き出したことでその金縛りから解放された。

 靴を脱いで、何も言わないまま……、とても厳しい顔をしたまま昌俊は近づいてくる。

「………!」

 それがどうしようもなく怖くて、僕はたった今下りてきた階段の方に身を翻した。けれど一段目に足をかけることすらできずに、痛みを感じるほどの強い力で引き戻される。

 ぎりぎりと昌俊の指が手首に食い込んでくる。

「昨日吐いたんだってな」

 確認するような口調で昌俊が訊いてきて、それに僕はかぶりを振った。

「なんで嘘つくんだ!?」

 至近距離で怒鳴られて体が竦み上がった。

 怖くて昌俊の顔が見られない。けど、僕はただ頭を横に振り続ける。

 せっかく…昌俊がくれた物を台無しにしてしまったなんて知られたくない。

「おまえが吐いたの、俺のせいだろ?」

「ちがう…!」

 僕が勝手に戻してしまっただけなんだから、昌俊のせいじゃない…。

 僕が……悪いんだ………。



「…………なんで、そこまで……」

 あまりにも違う声色の言葉。でもその続きはなく、忌々しげな舌打ちだけが、この空間に響いた。

 昌俊は…まだ放してくれない。

「どうして……うちに来たの…?」

 また黙り込んでしまった昌俊に、今更なことを聞いてみる。

「……おまえが吐いた、って尋海に言われた。………だから『お見舞いに行け』だと」

 ―――…っ。

 聞かなければ、良かった。

 昌俊が今、ここにいる理由は『尋海に言われたから』。こんなに不機嫌になってるのに尋海に言われたから我慢して、まだ、ここにいる…。

 それは……僕のためじゃないんだ…。

「そっか…」

 わかってる…。ずっと前から理解してた。

 昌俊が大事にしてるのは尋海。僕のことはどうでも……っ。

「ごめんね」

 ――…もう、むり……だ…。

 僕が、昌俊の心の中に入ることなんか出来ない。

 これ以上、いっしょにいることなんか…出来ない。

「わざわざ来てくれてありがとう。でももう大丈夫だから」

 にっこりと笑ってそう言うことができた。こんなに心は痛がってるのに……笑顔を作れるなんて不思議だけど、もう何でもいいや…。

 最後に、昌俊に見せる顔は笑顔でいたかったから…。

「あのさ、付き合うの、終わりにしようか?」

 自分でも驚くほどすんなりと最後の言葉が口から出た。もう自分を誤魔化すことは無理だった…。

 どうしようもないくらい好きで……好きだから、すごく苦しい…。

 事あるごとに、昌俊の目が誰に向いているか思い知らされてしまう。その度に、つらくて悲しくて…、それでも負の感情を隠して笑う…。そんなことはもう限界だった。

 ――でも、これでおしまい。

 さすがに目を見ては言えなかったけど、昌俊の反応はとくにない。

 ……やっぱり、そうだよね。

 別に終わりでも昌俊は……。

「……の………めろ」

「え?」

 ぼそりと呟かれて、聞き取れなかった。

「なに…?」

「その気持ち悪い笑顔、やめろ」




 何もかもが凍りつく…。今度こそ……完全に壊れてしまった。

 痛い、いたい…イタイイタイイタイ…。

 心から、血が噴出す。今まで付けられた小さな傷全部から、止めることができないほどに…。

「おまえ、俺と付き合いだしてから……」

 きもちわるい……僕はキモチワルイ…。尋海と、同じ顔なのに、僕は……僕だから、気持ち悪いんだ…。

「……………」

 何か、言われてる気がしたけど、何も耳に入らない。

 気づけば、昌俊は僕の腕を放していた。それは、僕に……もう触りたくないから…?

「………っ…」

 全身の力を使って、目の前の人を突き飛ばす。そして僕は階段を駆け上った。

 ――早くしなきゃ……。

 自分の部屋に入って、さっき出しっぱなしにしていたボールペンを拾う。キャップはどこかに行ってしまったみたいだった。

 座ったままそれを順手に握って、持った右手を振り上げる。

 そして、肘から先を思い切り顔に向かって振り下ろし…。

「なにやってんだ!!!?」

 突然響いた怒声に驚いて、軌道がずれてすかしてしまった。

 ――もう一回、やらなきゃ。

 そう思って、また右手を持ち上げようとしたところで、とても強い力に腕を止められる。

「放して」

「放したら、どうするつもりなんだっ?」

 決まってる。こんな顔いらないんだから。

「いいからっ。こんなもん持ってんじゃねぇ!!」

 ぎゅっと握っていたのに、無理やり手からペンが奪い取られる。

「返してっ!!」

 それがないと、傷を付けられない。

 届かない高い場所にペンを掲げられて、それを取り戻そうとやっきになる。

「なんだって、こんなことするんだ!?」

 おまえが…それを言うのか…?

「ったく、いきなりこんな馬鹿な真似しやがって…」

「………昌俊は、いらないんだろ…?」

「あ?」

「僕の…中身なんか、どうでもいいんだろ? …僕、なんか……、気持ち…悪いんだろ? だったら放っといてよっ!!」

 好きなのに、そいつは僕の存在を全部否定した。

 だったらいっそ…何をどうしてしまおうと、もうどうでもいいじゃないか。

「気持ち悪い…って、そういう意味じゃない」

「でも、気持ち悪いんだろう? 僕の顔なんか見ていたくないんだろ…っ?」

「違うって言ってるだろ!」

「…………っ!?」

 本気で怒鳴られて、抵抗とか反論が押し込められてしまった。

 そのまま呆然としてるうちにベッドに座らされて、そして正面に昌俊が膝立ちになった。

「おまえ…正直に言って俺のことどう思ってる?」

 静かな声で訊かれて、ぎゅっと胸が引き絞られる。

 そんなことも伝わってなかったんだ…。

 ただ悲しくて、思わず叫んでしまいそうになる。…けど、気づいたんだ。

 昌俊がこんなふうに僕の考えを訊いてくるのは、付き合いだしてから初めてのことだった。…そんなのは今更過ぎて……でも初めてのそれに…、胸が痛くなった。

 ――いい、よね…?

 もう、最後なんだから……少しくらい本音を言っても、許されるよね…?

 そう考えた瞬間には、すでに口が動き出していた。

「…好き………だった…よ」

「な………」

 昌俊が絶句する。

 そんな顔を見ていたくなかったけど……、これが最後だと思うと、目を逸らすことなんか、できなかった。

「絶対に振り向いてくれなくて、不機嫌な顔しか向けてくれなくても」

 一言で終わりたかったのに、勝手に言葉が出てきてしまって…止められなかった。

「僕のこと何にも覚えてなくても……、絶対に、名前を呼んでくれなくても………」

 頬を、水が伝っていった。

「昌俊のことが…好き、だったよ…」

 そして僕は最後の言葉を告げた…。

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 好き『だった』、と、初めて告げられた言葉に、俺は簡単に動揺した。

 こいつが女になってしまった日に、俺はちょうどこの家に来て、そして尋海そっくりになってしまったこいつと会った。

 最初こそわからなかったけれどすぐに悟った。昔に見た、泣きそうな辛い顔をしていたからわかったんだ。

 なんでそんな顔してるのか真面目にわからなくて、それを聞こうとして泣き出されて、それでついキスしていた。

 なんでそうしてしまったかわからずに、単なる勢いだった、とその時は自分を納得させたけれど、結局それは意味のないことだった。

 幼馴染の双子が女体化してから少しした頃、昼休みにこいつが告白されてる現場を見て、殺意を覚えるほどもの凄く不愉快だった。

『てめぇがこいつの何を知ってるんだ?』

 俺の横を気まずげに抜けていった野郎に、マジにそういった考えを抱いた。そしてもう一つ再確認させられた。

 そうか、こいつはもう女なのか、と。

「別に全校生徒に誤解されてもいいけどな、俺は」

 なぜ、こんなことを言ってしまったのか。

 一番好き勝手言い合える友人を無くしたくないという独占欲か、それとも……。

 いっそどっちでも良かった。ただ、俺とこいつの間に尋海以外の奴が入ってくるのが我慢できなかった。

「だから、俺と付き合え」

 その日の放課後にそう言った。

 自分でも答えの出ていない感情に振り回されてのその会話は、後で思い出したらかなり支離滅裂で、てっきり断られるものだと思っていた。

「……………わかった」

 それなのにこいつは承諾して、俺はかなり舞い上がっていた。けれどおまえはいきなり泣き出した。俺には…その理由がわからなかった。

 それからだ。こいつの表情がどんどん無くなっていったのは。

 俺といる時は、ずっと諦めたように笑ってて、でもふとした瞬間に不安げに顔を曇らせる。たったそれだけの顔しか見せなくなった。

 俺が好きな、怒ってるような顔も、呆れたようなそれでも笑ってる顔は見せなくなった。

 そこでようやく自分の気持ちに気づいた。

 こいつのことが本気で好きだと…。

 それから余計にこいつの顔を見るのがつらくなった。こいつらしくない暗い表情で、それで無理して笑ってるのを見ていられなかった。

 俺と付き合うのなんか嫌なんじゃないかと思ったのと合わさって、俺はこいつの先を歩くようになった。

 そうすれば辛そうな顔を見なくて済む。そしてついてきてくれることで、俺といっしょにいたいと思ってくれているんだ、と確認も出来た。

 いっそそれに文句でも言ってくれれば――――。

 でも映画を見に行った日――昨日、俺自身がそれを崩してしまった。

「もっと、俺の前で笑えよ」

 あまりにも自分勝手なセリフに、こいつは反論もせずにただ俯いた。

 いっそ死んでしまえ、と心の中で自分に吐き捨てる。どこまでも腹が立った。自分がつらいからといって、その責任を全部こいつにぶつけてしまった俺は最低だった。

 舌打ちをして踵を返す。頭を冷やすように歩き続けて、気づいたときには俺は一人で歩いていた。

 後ろからついてくる奴は、誰もいなかった……。


 
「アキちゃん…、昨日、吐いたんだって…」

 今日になって尋海にそう言われた。自分の愚かさに眩暈すら感じた瞬間だった。

 どうしたのかな……と心配げに眉を寄せる尋海には何も感じなかった。ただ一つのことが頭の中を回っている。

 あいつは……まだチョコが苦手だったんだ…。

 昨日俺が渡したシェイクのせいだというのは明白だった。怒ってでもくれればと思って、わざとあいつが苦手な物を渡して反応を見ていた。

 だけど一見普通に飲んでいたから、もう克服したのかと勝手に解釈していた。

 でもそれは単なる勘違いに過ぎなかったんだ。

 同じ事を延々と考えてるうちに学校が終わった。用があるという尋海を置いて、俺は早足でこの家まで来た。何も言わずに玄関を開ける。

 そこで待っていると、青い顔をしたままのこいつが現れて、そして俺の姿を認めると瞬時に目を泳がせる。

 そしてあの…俺を拒絶しているかのような笑みを向けられて、かっとなってまた酷い言葉をぶつけてしまった。

 こいつは押し黙った。その隙にいろんなことを話そうとして、話す前に突き飛ばされた。二階に走っていくのを追いかけて、いざ見つけてみれば、こいつは自分の顔をペンで傷つけようとしていた。

 とっさにそんなことができないように腕を掴んでペンを奪い取る。

「中身なんかどうでもいいんだろ?」

 そうこいつは言った。俺が吐いてしまった言葉に、初めて傷ついたという顔を見せた。

 俺のせいでこんなことになってしまった…。ずん、と腹の底が重くなる。

 こいつが俺のせいでだめになるのをもう見ていられなかった。俺を切り捨てられるきっかけを作る。

 それがこいつのために俺が出来ることだった……。

「おまえ…正直に言って俺のことどう思ってる?」

 そう訊くと、こいつは一旦顔を伏せて、それでも何かを決意した目を俺に向けた。

 久しぶりに見るその目に見惚れているうちに、こいつはさっきの言葉を言ったんだ。

「絶対に振り向いてくれなくて、不機嫌な顔しか向けてくれなくても…。僕のこと何にも覚えてなくても……、絶対に、名前を呼んでくれなくても………」

 その目から雫が流れ出す。

「昌俊のことが…好き、だったよ…」

 胸が痛かった。

 こいつは本当に辛い時ほど、何も言わない。そんなこと、とっくの昔にわかっていたことなのに……俺はそれをずっと見落としていた。ただ自分のことしか考えられずにいた自分が心底情けない。

 だがそれよりも、大事なことが目の前にある。

「もう『過去形』なのか…?」

 何よりも大事な奴に、俺はそう声をかけた。

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 ぼろぼろと流れ続ける涙が、すごく嫌だった。

 言葉の途中から我慢できなくなってしまったそれに、自己嫌悪が強くなる。

 泣いたからって、何も解決なんかしない。そんなことは、わかってる……。昌俊の前で泣きたくなんかなかったのに、溢れる涙を止めることはできない……。

 昌俊にこんな顔を見せたくない。

 こんな…っ、気持ち悪い、顔なんか見せたくないから。

 お願いだから、もう帰って……っ。

「……もう、過去形なのか?」

 不意に、とても静かな声が僕の部屋に落とされた。

 真剣な顔をした昌俊がまっすぐ僕を見ていて、一瞬息が止まる。こんな時なのに、それに見惚れてしまって、僕は黙ってしまっていた。

「俺のこと…………だっていうのは、過去形なのか…?」

 途中が聞こえなかったけど、その問いはさっきの僕の言葉に対してのもので……。

 ――答えられない……。

 過去のはずなんかない。だって今もこんなに胸が痛くて…、それ以上に昌俊のことが…。

 けどそんなの正直に言えるわけない。正直に言ったって昌俊にはどうでもいいこと。それどころかただの迷惑にしかならないんだから。

「嘘なら嘘って、今ここで…」

「っ、そんなことない!!」

 それだけは、言って欲しくなかった。

 僕の全部を否定しても……この気持ちだけは贋物だなんて、思ってほしくなかった。

「じゃあ、今は俺のことどう思ってるんだ?」

 それも、訊いてほしくなかった。

 もしここで、拒絶されたら……本当に僕は壊れる、立ち直れなくなる…。

 目を彷徨わせて、僕は何も言えずにじっと床を見つめるしかできなかった。

「俺は……」

 昌俊が声を出す。

「俺は、おまえのことが好きだ」



 驚きに顔が跳ね上がった

「な……に?」

 喉が詰まって、奇妙に枯れた声が出る。

 耳に届いた言葉が信じられない。

「誰が……誰を…?」

 自分に向けられるはずのないその言葉。

「一回で聞き取れよ。……俺が、おまえのことを、だ」

「おまえ…って、尋海のこと…?」

 そんな都合の良いことがあるわけがない…。

 そう思うのに言葉を止めることはできなくて…。更に問いかけると、昌俊は顔を曇らせた。

「なんでここで尋海が出てくる? 今ここでおまえって言ったら、おまえしかいないだろ!?」

 腹立たしげに言いながら顔を背けられて、また哀しさが膨らんでくる。

 やっぱり、僕だけ言ってくれなかった……。

「『おまえ』…じゃ、わかんない……」

 凄い勢いで昌俊がこっちを見た。その目は怒ってるようで……けれど僕の顔を見た瞬間にその色は消え去った。

「なに…泣いて…」

「昌俊はさ…」

 決して言うまいとしてた言葉。言えばそれだけ自分が惨めで、どこまでも滑稽になってしまうから。

「僕の『名前』……知ってるの?」



 一瞬、え、と口を開けた昌俊は、すぐに言い返してきた。

「んなの、当たり前だろ…!」

「だったら!」

 また昌俊の声を遮って、僕はさらに問いを重ねる。

「どうして今まで、一回も…僕の名前っ……呼んでくれなかったんだっ!」

 ずっと、昌俊にだけは呼ばれなかった僕の名前。昌俊がどんなふうに呼ぶのかさえ忘れてしまうほど、ずっと長い間……。

 半分叫び声になってしまった僕に、昌俊はぐっと言葉を詰まらせた。

「それは……恥ずかしかったからだ…」

 信じられないセリフに、くらりと視界が揺れた。

「……恥ずかしいんだ…?」

 この人は、どこまで僕を傷つければ気が済むんだろう…?

「昌俊は、僕の名前なんか、恥ずかしくて呼べないんだ……?」

 はっと息を飲むような気配が伝わってくる。

「そこまで……呼びたくなかったんだ……?」

 口に出すのも嫌なほどだったんだ…?

 もう涙を我慢する方法がわからなかった。昌俊が目の前にいるのに……目からの水を止めることができない。

 それでも見られないように顔を手で覆ったところで、その手は両方とも掬い取られた。

「そういう意味じゃない」

 じゃあ、どういう意味なんだ、と言いたかったのに、僕の口からはしゃくり上げるような息しか出なかった。

「ただ、照れくさかっただけだ…」

 ふざけた答えにかっと頭に血が上る。

「そんな理由…って」

 色んな感情が一気に湧き上がって。でもそれを口にする前に、昌俊が更に言葉を続ける。

「なんかまだ俺らが小さいころ急に名前で呼ぶのが、妙に気恥ずかしくなって……。それでそのうちに、呼ぶタイミングが無くなった」

「そんなの…っ」

「ああ。納得できないよな? でもこれしか理由が見当たらなかったんだ」

 ごめんな、…と。

 心が込められてるとわかる謝罪が、浸み込んでいく。

「でも、尋海のことは名前で…」

「別に言っても照れないからな」

 こともなくそう言い放って、昌俊は僕に手を差し出した。

「俺が照れくさくて名前も満足に呼んでやれないほど好きなのは……。明、おまえだけだ」

 初めて悲しみからじゃない涙が流れた。

 ――この手は、本当に僕のものなの…?

 もう、この手を諦めなくてもいいの?

 自問して答えが出ないまま、僕はその手を取らなかった。

 でも代わりに、昌俊の胸に抱きついていく。

 いきなりの僕の動きに…、昌俊はそれをちゃんと受け止めてくれた。

「昌俊の……馬鹿」

「わかってる」

「さいてい…」

「まったくもってその通りだ」

 もっと言ってやりたかったのに、罵る言葉はあっという間に底をついてしまった。

 胸がいっぱいになって、何も言えなかった。

 だから精一杯の力で昌俊に抱き付く。言葉で伝えられない分を伝えたくて。

「俺、無神経で…今までずっと、本当にごめんな」

 ぎゅっと抱きしめ返してくれながらの言葉に、僕は首を横に振る。

 欲しい言葉はそんなのじゃなかった。

 それがわかったのか……昌俊は僕が一番欲しい言葉をくれた。

 どこまでもぶっきらぼうだったけど、どこまでも優しくて幸せになれるその言葉を……。

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 次の日、僕は学校に来ていた。

 今日の授業もHRも全部終わって、いつものように立ち上がる。尋海の教室に行くためだ。

 いつものように教室の扉を開けて、そして僕は自然と笑顔になった。

 笑顔は作るものじゃない。

 嬉しい時に、勝手に顔が動くものだって、ようやくわかった。

「明、迎えにきたぞ」

 少しだけ恥ずかしいけれど、その言葉がとても嬉しい。

 今まであまりにも言葉が足りなすぎた僕たち。

 だから昨日、いっぱい話し合って誤解を解き合った後に、二人で決めたんだ。

『これからは、思ったことを口に出していこう』と。

 だから、僕はそれに従った。

「ありがと。昌俊が来てくれて、うれしい」

 すごくびっくりした顔をされて心外だったけど、そんな顔が見れるのも楽しかった。

「あ、いたいた。…って、ふ~ん?」

 そこに尋海がやってきて、そして突然にやけた顔になる。

「なんだよ…?」

 それに居心地悪そうに答えたのは昌俊だった。

「ん~ん、別に~? ただ僕のことをアキちゃんと話すためのダシにし続けたわりには時間かかったな~って思っただけ」

「なっ!?」

 昌俊が絶句する。そんなのは気にせずに尋海は今日も用事があるから先に帰っててと言い残して去っていった。

「ダシって何?」

 わざと冷たい声を出してやると、昌俊は目を泳がせた。

「それは、な……」

 明らかに動揺している昌俊。

 ――…まぁ、いいか。

 これからは時間もある。また機会があった時に訊いてやろう。

「行こっか?」

 そう言って僕は昌俊の手を引いて歩き出す。もう、昌俊の背中を見ることなんてない。



 僕と昌俊はいっしょに、横に並んで歩き出したんだ。

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最終更新:2008年06月14日 10:05
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