「ちょっと翔太! さっさと起きなさい!」
階下の母親の声に、ベッドの上の門倉翔太は顔をしかめた。てこでも動いてなるものかと、さらにきつく布団にくるまった。
昨日は野球部の練習が長引いたせいで、いつも以上に目覚めが悪かった。一時間目は糞つまらない物理。遅刻も悪くないな――
「あら、どちら様――え! 二宮君なの!」
母の声。隣に住む同級生の名前を馬鹿みたいに叫んでいる。二宮? あの地味な男か。小学校から一緒だったが、翔太にとっては至極どうでもいい存在だった。
「え! そうだったの!? ごめんなさいね。すぐに叩き起して……あら、そう?」
どすどすど階段を踏み鳴らす音。肥満気味の母親にしては、やや震動が弱い。別の人間が来る……?
それでも翔太は動こうとしなかった。どうでもいい。今は寝ていたい。
ドアが開く音。その直後、布団の上に何かがのしかかってきた。
「う!」
呻き声を上げて、翔太は布団の上部だけめくった。母親だったら殺す――!
「何のつもりだコラ……人の安眠妨害してんじゃ……」
「何のつもりですって!? それはこっちの台詞よ!」
翔太のわずか十五センチ前には、パジャマに収まりきらない程の、柔らかそうな胸の谷間が迫っていた。
「んな!?」
相手の体ごと、掛け布団を力の限り吹っ飛ばす。
「きゃ!」
ごん、と壁に固いものが激突する音と共に、謎の人物の悲鳴も聞こえた。
「なん、だんだよ……」
舌をもつれさせながら、翔太はベッドの上に立ち上がった。これまでの人生で、母親との寝起きバトルは数えきれないくらいやってきたが、
この状況は明らかに異常だ――!
部屋中にさまよわせていた視線が、異物の存在を捉える。布団の下敷きになった、青地の上にゾウの絵柄がぽつぽつ描かれたパジャマ。
その格好に身を包んで目を回しているのは、やたらと胸のでかい少女だった。恐らく年はこちらと同じくらいか、少し下だろう。
「お、おい。大丈夫? か?」
とりあえず、俺が加害者なのか? いやでもこいつ人の部屋に勝手に、っていうか人の家に勝手に上がってくるなんて何者?
と頭の収拾がつかないまま少女を助け起こそうとした翔太はしかし――
「んな、わけないでしょ!」
少女の右ストレートを顔面にもらった。
「がはぁ!」
二、三歩後方によろめいて尻もちをついた翔太の前に、少女は仁王立ちする。よくよく見れば、ずいぶん幼い顔立ちだった。怒気に満ちてはいたが。
「あんた、昨日私の家にプリント持って来なかったでしょ」
腹の底から出しているような声が、少女から出てくる。
「んあ、ってまずお前誰だよ……?」
「二宮よ! 隣の! 玄関のおばさんの声、聞こえてたでしょ!」
「んな馬鹿な……」
言いながら、翔太は昨日の出来事をざっと振り返る。二宮とは同じクラスだが、確か欠席理由は女体化だとか担任が言っていた。
そして翌日の小テスト対策のプリントを、二宮と家が近い自分が届けておけとも。
「分かった。お前が二宮だとしよう。でもどうしてパジャマで俺の部屋に押し掛けてきてんだよ?」
「あたしも今朝になって思い出して、慌ててここまで走ってきたのよ、悪い?
物理のテストなんてヤマ張らなきゃどうしようもないのよ! さっさと渡しなさい!」
部屋着の襟をつかまれ前後に揺すられながら、翔太は答える。
「分かったから離せ」
思いのほか華奢な二宮の手をがしっと握り返し、引き離す。そして窓際の勉強机の上に乗せておいた鞄から、問題の紙を取り出した。
ごく簡単な問題ばかり。適当に授業を受けているだけの翔太でもそこそこ解けそうなレベルだ。
「忘れてたのは悪かったけど、こんなもんなくたってどうにかなるだろ。いつも真面目に先生の話聞いてるし、ノートもちゃんと取ってんだろ?」
ぼんやりした印象しかないが、二宮の授業態度は良かったはずだ。
しかしその問いに対する二宮の返答には、それまでの勢いが感じられなかった。
「どんなに真剣にやったって、できないもんはできないのよ……」
「はぁ」
割と要領が良いほうなので、翔太には彼女の苦悩は理解しかねた。まあいるよな。頑張っても空回りして、全然うまくいかない奴。
部屋の隅に立っていた二宮が、ぽつりと聞いてきた。
「あんた、悪いと思ってるんなら、今日の放課後、私に勉強教えてよ」
無茶言うなよ、こっちには部活とか友達付き合いとかが――という翔太の言葉は、彼女の哀願するような目に抑え込まれた。
「ねえ、お願い」
同情なのか異性に対する点数稼ぎなのかは判別しかねたが、翔太は首を縦に振っていた。
最終更新:2008年10月24日 21:59