シチュエーション安価『海辺にて』

 海は、嫌いだ。
 こんなふうに言うくらいだから、もちろん頭に『大』がつくくらいに。
 海が好きな奴がわりと多いせいで、こんなことを公言してると飽きるほど「気持ちいいのに、楽しいのになんで?」と聞かれるのももうめんどうくさい。
 そのお決まりの流れのせいで、自分の好みに他人を合わせようとしやがる輩もだいっきらいだ。
 肌を焼いても真っ赤になって痛いだけ。
 海が嫌いな理由の一つに、俺が女になっても変わらなかったそんな体質のせいもあるけど、もっと大きな理由はちゃんとある。
 小さい頃に俺は一人で沖まで流された。 
 だけど誰も気づいてくれず、誰も助けに来てくれなかった。
 まだろくに泳げなくて浮き輪をしていたのが不幸中の幸いで、浮き輪を頼りに下手糞なバタ足でずっとずっと頑張って、すごい時間をかけて浜まで戻ってきたら、俺は何一つ悪くないのに引っ叩かれた。
『こんな時間まで一人でどこに行ってたんだ!』
 生まれて初めて知った大きな理不尽だったな……。
 その後、俺が大泣きして親が事情をわかって、そんでもって一応の和解をしたわけだが、そのときのアレコレのおかげで完全にトラウマになってしまったわけだ。
 思い出してイライラして、でもそんな益体もないことを考えてたことに溜息が漏れる。
 そしてこんなことをわざわざ思い返すことになった元凶に、かなりじとっとした視線を向けてしまう俺を誰が責められようか。
 その対象――相沢悟郎はまったく気づいてなかったけど。
 まぁ気づかれてないのをいいことに『波打ち際』ではしゃいでる悟郎を、浜のところから好きなだけ眺めることができたからいいや。
 …………なんて言ってみても、こうやって放っておかれるのはけっこう寂しい。
『今日は南のほうへ走るぜ!』
 ついこないだ免許を取ったらしい悟郎の原付の後ろに乗せられて(道交法違反だけど構ってられるか)、こうして海まで来てしまった。
 俺が海嫌いだと公言してるのにも関わらずこうして連れてきて、しかも放っておいてる理由はよくわからない。
 でも悟郎に誘いを断りきれなかったのは――海に向かってるって気づいても何も言わなかったのは俺だ。
 嫌いなはずの海に行くのと、悟郎と出かけるのだったら……後者を選ぶに決まってるじゃないか。
 ――……なんか俺、サムいこと考えてるなぁ。
 こんなこと考えてるって気づかれたら、こんなふうに誘われることもなくなるんだろうな……。
 男から女になって。ただ身体だけが世界の二分の一からもう半分に変わっただけ、そう思っていたのに気づいたときには心の中までも変わっていた。
 ただの仲の良い友達だったはずの悟郎に、こんな感情を持つようになってしまってたんだ。
 ――あ、波が……あ~あ。
 すっかり油断してたらしい悟郎がひときわ大きな波に不意打ちを食らって、膝くらいまで一気に濡れてしまった。
 この時期はもう遊泳禁止だから、服のまま遊んでたのが仇になったな。というか裾をちゃんと捲くらないで遊ぶ奴が悪い。
「何やってるんだか……」
 近づいてつい呆れた声をかけると、ちょっとむっとした感じに悟郎が見返してきた。
「人が失敗したとこばっか見てんなよ」
「失敗って……逆に何すれば成功なんだ」
 ちょっとした揚げ足取りのつもりだったけど、ぐっと詰まった悟郎から言葉が返ってこない。
「……そろそろ帰らないか? 初心者で暗くなってからの二人乗りは危ないだろ?」
 出る時間が遅かったせいでもう少ししたら夕方になってしまう。
 それに、これ以上放っておかれるのももう嫌だった。
「え~、せっかく来たのにもう帰るのか?」
 不満たっぷりとわかる顔と声にちりっとしたものが胸に走る。
「……じゃあ、一人で来れば良かっただろ」
「ん? 飛悠、なんか言っ――」
「また、あそこらへんに座ってるから」
 顔を逸らして、適当に指を差したほうに歩き出す。
 イライラする。
 イライラする。
 俺の忠告も意見も聞いてくれない悟郎に。
 俺がここにいる必要性がわからないことに。
 それ以上に、また、独りで放っておかれるのかと考えると、とてつもなく嫌な気分になってくる。
 たしかに好きな奴が楽しそうにしてるのを見るのは、嬉しい。
 けどそれは、俺がいない場所で、俺が関わってないところでのことで……しかもそれを端から眺めるなんて面白くないに決まってる。
「はぁ……」
 女になって日が浅いから、俺のこれはすごく幼稚な感情なのかもしれない。
 悟郎の楽しみを奪ってまで、自分に構ってほしいと言ってるのと同じこと。
 小さな子供と同じような、どこまでも小さくてくだらない嫉妬だとは自覚している。
 それがわかっているのに自制が出来ないんだから余計に情けなくなってくる。
「はぁ……」
 色んなものを込めた溜息をまた吐いて、気分を変えようとする。
 そうしてまた悟郎のほうを見ながら座ろうと振り向いて。
「……なんでこっち来てるんだよ」
 すぐ後ろをついてきていた悟郎に内心ものすごく驚く。
「いや、飛悠の言うことももっともだと思ってさ」
「暗くても安全運転できるなら、もっと遊んでてもいいんじゃない?」
 可愛げのかけらもない突き放すような言い方に自己嫌悪が積み重なる。
「いやな、一人ならまだしも後ろに人乗せるのにさすがにこれ以上遅くなれないと思ったから……」
「……やっぱり一人でくれば良かったじゃないか」
 恨み言じみたものが口から漏れてしまって、いけないと思うのに、口からはずっと我慢してたものが滑り出してしまう。
「俺が海嫌いだって知ってるのにわざわざ連れてきて、それで放っておくなら最初から一人で来れば良かっただろ? ……そうすれば、悟郎はもっと時間を気にしないで遊べたし」
 俺だって、こんな嫌な気分にならなかった。
「………………」
 溜め込んだ、隠そうとしてた本音を悟郎にぶつけてしまって……やっぱりと言うか、悟郎からは反応が返ってこない。
 当然だ。事実だとしても、こんなふうに当てこするような湿っぽい言い方をされて、いい気分なはずがない。楽しんでいたのを邪魔されて、それでもいつものように能天気に笑ってくれるなんてあるはずないんだから。
「………………」
 依然として続く沈黙。
 悪いことをしたという自覚はあるのに、ごめん、とただそれだけ謝ることもできない。
 俺が折れてすぐに謝れば悟郎だってそんなに後を引くような性格じゃない。だけどそれがうまくできない。
 本当に、可愛げなんて全くなくて。
 ――元男ってだけでも面倒くさいのに、そのうえこれじゃ……。
「一人で来れば……ねぇ。まあ、それもそうだよな」
 ぽつりと呟かれた、俺の恨み言を肯定する悟郎の言葉に、息が止まった。
 自分が言ったこと。なのに、その通りだと頷かれて、馬鹿みたいに心が痛がってる。
「――――――っ」
 ぐっとせり上がるものを堪えられずに、少しだけ息を吐き出す。
 自分でそう持っていったんだから……例え悟郎から『おまえなんか連れてくるんじゃなかった』と言われたって、こんなにショックを受ける資格なんか、ないはずなのに。
「ちょっと考えてみれば、けっこうその通りだよな」
 うんうんと頷きながらの独り言も、追い討ちのように胸に突き刺さる。
 けれどその言葉も、歯を食いしばって俯いて耐えるしかなかった。そうでもしないと何かが、また口から漏れてしまいそうだったから。
絶対に言っちゃいけない、取り返しのつかなくなってしまう何かが。
「…………もう、帰ろう?」
 これ以上、聞いていたくなんかない。
 悟郎に悪気がないとわかってるからこその、ストレートに刺さってくる言葉からもう逃げてしまいたい。
「そういやそうだな」
 やっぱりというか、もう気にもしていないように軽い調子で悟郎が返してくる。
 それを聞いて俺は駐車場の方へ踵を返した。
 歩くたび靴が沈む感覚。靴の中に入り込んでくる砂。
 それが両方とも鬱陶しくて、でもそれに構わずに足を動かし続ける。
「おまえが海嫌いなのに連れてきたのはさ」
 一歩後ろから聞こえてきた声に足が止まる。
「やっぱり一人だとつまらないからなんだよ」
「……あんなに一人で遊んでおいてか?」
「一人じゃなくて、近くにおまえがいただろ?」
 何が言いたいのかがわからない。
 俺は遊んでなんかない。ただ座って、悟郎がはしゃいでるのを眺めてただけだ。
「……なんだ? その言い方だと俺がいないと面白くないって言ってるみたいだな」
 ふと思いついてしまった期待。
 ただただ俺の存在を必要としてくれてるような、何気ない悟郎の言葉。
 だけど、そんなはずがない。
 普通の友達。一番仲の良いクラスメイト。
 それが悟郎から見た俺の立ち位置。
 わかってるのにこれ以上期待してしまう自分が嫌で、あえて先に混ぜ返すように聞き返した。……どうせ、これは悟郎の冗談なんだから。
「ああ。だからおまえが海嫌いって知ってたけどここまで連れてきた。どこに向かってるかおまえが気づいてないのを良いことにな」
「…………え?」
「俺は好きな場所におまえと来れただけで楽しかったんだよ。……やっぱり飛悠はつまんなそうにしてたけどさ」
 悪かったな、と頭に手を置かれて、それでもそれを諾々と受け入れてしまうくらいに、まったく頭が働かない。
「なに、言ってるんだよ……?」
 うまく回らない口からようやく出たのは、停止してしまった思考そのままの掠れた声。
 ――期待しちゃ、いけない。
 この気持ちを自覚してから、ずっと言い聞かせてきた言葉をまた自分に向ける。
 理由なんかないから。
『友達だから』
 話しかけてくれるのも、いっしょにいるのも、笑いかけてくれるのも、俺が友達だから。
 それ以上の理由なんか、悟郎の方にはあるわけないんだから。
 傷つきたくないから、ずっとずっとそういう予防線を張ってきた。
 そうすれば『当たり前』を痛がらなくても済むんだから……。
「あー……やっぱりわからないか?」
 どこか嫌そうに眇められた目が怖い。
 だけど、どうしてもわからなくてその言葉に頷く。
「……そりゃあさ、我ながら遠まわし過ぎるとも思うけどさ、ちょっとくらいはわからねーか?」
 重ねられた問いに、今度は首を横に振ると大きな溜息が降ってくる。
「ほんと、鈍いよな」
「なんだよいきなり」
 呆れきったように唐突に言われて流石にムッとする。
「俺はちゃんと気づいたけど、飛悠はまだ気づいてないんだろ?」
「? 何かあったりしたのか?」
 何か間違い探しのようなことが起きたのかと周りを見回したら、また溜息を吐かれた。
「……俺、報われてないよな~」
「だからさっきからなんだよ」
「ん~? 簡単に言えばおまえに告白しようと思ったけど、また今度にするかって話」
「…………………………は……?」
 ――いま、悟郎、何言った……?
「俺も大概口下手だけどな、おまえはニブすぎるんだよ」
 帰るぞ、と俺の手首を掴んで、そのまま悟郎が歩き出す。
 喜ぶべき言葉を、貰ったはずだけど、実感が湧いてこない。
 そうしてされるがままスクーターに乗せられて、気がつけばうちの前にいて。
「また今度改めて申し込むから、楽しみにしておけよ」
 別れ際の悟郎の、似合わないキザっぽいセリフ。
 それにようやく実感が湧いてきたのは風呂に入った後で。
 風呂上りも相まって、完全にゆでだこになってしまう俺だった。


                         シチュエーション安価『海辺にて』 完


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最終更新:2008年10月24日 22:11
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