『保守代わりに投下。暗いです。』

 西田が武田のもとに訪れたのは、夏の盛りの頃だった。だが、西田の心臓は冷え切ったような気分だったし、武田の肌は外出せずに家にひきこもりっきりのためか、真っ白だった。その肌の全てに皺が寄り、奇妙な気持ちがした。
「病気ですか」
 そう西田が問えば、武田が顔面の筋肉を歪めるように笑った。醜い笑みだった。
「そうかもしれないね」
「じゃあ、早く死んで欲しいものです」
「君、西田君とかいったかね。こんな老いぼれに、そんなことを言うもんじゃないよ。もうお迎えは来る準備を始めているんだからね」
 ぜこぜこと咳き込み、武田は腰掛けた椅子の上で体を丸めた。書斎らしき部屋は明かりが射さず、陰気で、目の前の老人が一層、おぞましいものに見えた。
 咳き込み終わり、ハンカチで口元を拭い去った武田は笑った。歯が、欠けていた。
「ヨハンナについて、話をしに来たんだっけね」
「ヨハンナじゃありません。半村れい。貴方の友人の孫です」
「いや、ヨハンナは、友人の孫というだけではなかった」
 老いた男は目を細め、ここにありもしない「何か」を見つめ、陶酔する。
「美しい少年だった、ヨハン。そして、美しい少女になったヨハンナ。あんなに美しい人間はもう生まれやしないだろう。姿だけでなく、魂も美しかった。何よりも高潔だった。誰もヨハンナには勝てやしない」
「妄信の上になりたつ賞賛はどうでもいい!」
 西田は激高した。もう十分だった。

 俺はヨハンナなんて人物の話を聞くためにここに来たわけじゃない!俺は、半村れいという人物を知るために来たんだ!
「いいですか、武田さん!私は、いや、俺は!ヨハンナなんてふざけた名前を勝手につけられた人間のためにこんな場所へ来たわけじゃない!こんな、こんな」
 武田が笑った。若く、それゆえに激高する西田を嘲笑しているように思えた。
「こんな、大麻を栽培しているような部屋に、かね?それとも、薬物に溢れかえり、そんな匂いが充満したこの部屋が嫌なのかね?ああ、私が嫌なのかな。薬物に手を染めすぎてこんな有様になった私」
 武田が手を広げる。
「老いぼれても薬物を手放せないとは思わなかったよ。ふふふ、私はねえ、薬物は軍で覚えた。君たちはいい時代に育った。お国が薬物を取り締まる国で生まれた。同じ土地なのに、別の国のようだねぇ」
 西田は武田をにらみつけた。
「半村のことを、教えてください」
「私は君がいくらあの人を半村と呼ぼうと、ヨハンナと呼ぶよ。美しいヨハンナ、高潔で、おお、ヨハンナ。かわいそうに、あんな亡くなり方をして」
 武田の顔が怒りに歪んだ。くぼみ落ちた目にはっきりと怒りが表れ、西田はぞっとした。
「ヨハンナ!ヨハンナ!ああ、美しい私の天使!地上に降り立った天使がなぜあのような殺され方をしなければならない!」
 武田が叫んだ。
「美しいヨハンナ!ヨハンナ!おお、美しき魂を持った、唯一の存在、ヨハンナ!」
 西田は顔を顰めた。もう駄目だと思った。この老人が薬物中毒なのはとっくの昔に知っていたが、ここまで壊れているとは。少しでも正常ならばと賭けて訪れたが、意味はなかった。
 自分が見たかったのは、聞きたかったのは、こんな異常で醜いものではなかった。

 武田は今も叫んでいる。ヨハンナ!と。現実をその瞳に映さず、叫び続ける男は醜悪を超えて、愚かだった。
「帰ります。お邪魔しました」
 胸が悪かった。心臓の辺りを撫で、ドアに向かう西田の背中に武田の声がかかった。
「西田君、ヨハンナは、君を大切な友人だと言っていたよ」
 思わず振り返ると武田が寂しそうに笑った。
「君や、あの高校に通っていた間に出来た友人全てを、ヨハンナは、大切な友人だと」
 骨に皮が張り付いたような細い腕が伸びてきた。
「西田君、ヨハンナは君を大切に思っていた。それだけは、変わらぬ事実だよ。君が何を思うか、何をするか知らないし興味もないがね……それだけは君に知って
欲しかった。いや、君に伝えることは、それだけだ。それ以上話すことはないよ」
 武田の目が涙でうっすらと曇った。それを期に、また武田は「あちら側」に行ってしまった。
「ヨハンナ、ヨハンナ、ああ、美しい天使。ヨハンナ、君ほど高潔な存在はもう」
 西田はその声を振り切るように部屋を飛び出した。大きな屋敷の広い廊下を駆け抜け、屋敷を飛び出し、庭を突っ切った。国道に飛び出し、タクシーを夢中で捕まえた。
「すみません、すぐにここから連れ出して!」
 そう怒鳴るようにしてある場所を告げ、震えながら西田はある携帯電話番号に電話をかけた。自分の持っている携帯電話は始終、震えていた。

 御手洗が西田から電話を受けたのは、御手洗が布団を抜け出して十五分したときのことだった。
 御手洗は生活が不規則で、まともには生きていない。だが、それでも生きている自分が不思議な気がする。
「どうしたんだ、西田」
「半村、半村のパトロンの男に会ってきたんだ。あいつ、おかしいよ。やっぱり、もう壊れていた」
 御手洗は自分の机においてあるボールペンを見た。自分たちが高校生のときに流行っていたキャラクターの商品で、皆でおそろいで買ったものだった。
 今となれば、馬鹿みたいで、それでも愛おしいもの。
「壊れていたか、あのジジイ」
 壊れていた?そんなの、とっくの昔に分かっていたことじゃないか。
 薬物中毒のジジイ。そのことを知りながら会いにいったのは君だ。そう思ったが、言わなかった。
「過去にしがみついて、馬鹿みたいだ。何が美しいヨハンナだ、何が」
「過去にしがみついているのは、僕らも一緒だろう。なんで半村の過去を探っている」
「じゃあ、俺たちもあいつみたいに壊れる?」
「薬物をやっている人間と一緒にするなよ。帰っておいで、とりあえずは。君は混乱しすぎている」
 宥める言葉をいくつかかけると、西田は自分から電話をきった。御手洗は暫く携帯電話を手にし、ぼんやりしていた。

「みたらいちゃーん」
 後ろから抱きつかれ、服の裾から男の手が侵入し、御手洗の乳房を揉みしだいた。御手洗はため息をついた。人がアンニュイ気分になっていたときに。
「なんだよ」
「なんだよとは色気ないねー。元男だからって、みたらいちゃんはもっと可愛くしてよ」
「可愛く?媚を売れって?馬鹿らしい」
 後ろで男は笑う。そんな声を聞いていると、なんだか全てが馬鹿らしくなってくる。
 死に物狂いで走ったあの日のことも、冷たい友人の手を握ろうとして手を伸ばしたことも、全て。
「みたらいちゃん」
「ん?」
「好きだよー」
「うそつけ」
「ほんとだってー」
 男の無骨な手が慰めるように、御手洗の胸から腹を撫でた。
「好きなんだってば。だから、俺の胸で泣いていいんだよ」
「ばか」
 笑いながら、御手洗は自分の服の中に手を入れ、男の掌に手を乗せた。
「僕も好きだよなんて言ったら泣くくせに」
 後ろで男の体が震えたのが分かった。笑いながら、体温を感じていた。泣かないよ。そう言った男の声は震えていた。
 人を殴ることや酷いことをすることに慣れているはずなのに、こんなとき、この男は子どもみたいだ。

 ファーストフード店の片隅で、妹尾は待っていた。「友人」と呼べるべき存在を。
 落ち着かなくて、喫煙コーナーであることを確かめてから煙草をふかした。ライターで火をつけるとき、みっともなく手が震えていた。ほどなくして現れたのは、御手洗と見知らぬ男だった。
 御手洗はジャケットに皮のパンツ、安全靴という攻撃的で理解不能の格好で、その隣にいた男はライダースジャケットに皮のパンツという、御手洗と同じ印象を持った。お似合いだが、普段なら近寄りたくないようなカップルに見える。
 御手洗が片手をあげる。
「悪かったな」
「いや、平気だ、俺は」
 男がにこにこ笑う。
「なんだぁ、みたらいちゃんのお友達とか言うから女の子かと思ってたー。あはは、よかったー、ついてきて。あ、みたらいちゃんに手を出したら海の藻屑となる覚悟はしておいてくださいねー」
「どこのおかしな方か存じませんが、口にチャック縫い付けますよ?」
 妹尾は微笑み、灰皿を投げつけようかと思った。御手洗は肩をすくめ「勘弁」と男のみぞおちの辺りを殴りつけた。
 男は呻き、それ以降、「少しの間だけ」おとなしくなった。
 聞けば、男は御手洗の同棲相手なのだという。(しかし、「同棲」と言ったのは男のほうで、御手洗は「勝手に住みついていた」と害虫扱いをしたが)
「この男はちょっと裏稼業に手を染めていたときがあってな、役に立つ」
 ああ、うん。そうおざなりに妹尾は頷いた。そんなの、どうでもよかった。
 俺はそんなことを聞くためにここに来たわけじゃない。
「御手洗は、西田のことをどう思っている?」
「亡霊」
 御手洗は妹尾の向かい側の椅子に腰掛け、テーブルに肘をついた。男も御手洗の隣に座った。
「それ以外なんと言えばいい?亡霊。あんなの、生きているなんて言わない」
「きついな」
「それ以外なんて言えばいい?」
「さあ」
 半村れいという存在に囚われ続けて疾走する西田。現実なんて見ているふりをして、本当は見ていない。

 亡霊。いつだって未来を見ない西田は、確かにそう言えるかも知れない。だが、自分たちは西田を「亡霊」と呼べる立場にいるのだろうか?
 いまだ、過去を忘れられない自分たちは。
 妹尾は目を閉じた。そして、半村れいという人物を脳裏に描く。
 誰よりも綺麗な瞳をした、美しいひと。十代半ばでその命を散らせた、美しいひと。
「半村」
 君はあのとき、何を思って生きていたのだろう?

 セーラー服にその身を包んだ半村の姿は、学校という空間のなかで当たり前の存在であるはずなのに、浮いて見えた。白い肌も、艶やかな美しい黒髪も、その小作りの顔もあまりに美しすぎたためだったのか。
それとも、その瞳が綺麗で、それなのに退廃的な色があったためか。
 高校一年生のとき、半村は男子だったが、二年生になって女子となった。女体化現象と呼ばれるそれはごく当たり前のことで、どの生徒も受け入れていたが、半村が女子となったとき、大半がざわめいた。
 少女となった半村は美しく、言いようのない毒気も持っていたのだ。その毒気は、多感な少年少女たちの心を揺さぶった。
 半村は男女関係なくもてた。だが、誰の告白にもなびくことなく、いつも一人で教室にいた。半村は「人間関係を面倒だと思っていたから、人に近寄らなかっただけだった」と言っていた。
 半村とは別の意味で、西田は教室の片隅に居た。
 西田は他人が嫌いだった。
 だから、いつも俯いて本を読んでいた。どれも宗教色の強い本で、眼鏡をかけて背を丸め、「根暗」と呼ぶにふさわしいその姿に、周囲は関わりたがらなかった。
 その西田に声をかけたのは、半村だった。
「スカートの裾がほどけたから、テープ貸して」
 常に糊だのセロハンテープだのを持ち歩いていた西田は、そのとき「本当に驚いた」とその当時を振り返った。
 西田は「テープで止めるよりも波縫いでいいから縫ったほうがいい」と当時の西田としては最大の勇気を振り絞った発言をしたが、半村は「出来ない」と言い切った。
 西田は冗談のつもりで「縫ってあげようか」と言った。半村はその発言を受け取るとすぐにジャージに着替え、スカートを西田に放ってよこしたらしい。
 スカートを受け取った西田は「もう後にひけないと思った」ようで(このエピソードを聞いた誰もが「いやそこはひいてもよかったんじゃ」と突っ込むが)、結局、職員室に行って裁縫道具を借り、半村のスカートを縫ってやったらしい。
 それが、この二人の「本当の出会い」だった。

 半村はいつもスカートをほつれさせることが多かった。理由は本当に馬鹿らしい。
「猫を追いかけて、鉄条網を果敢にくぐるからスカートの裾が駄目になる」
 そう言われ、西田はまじまじと半村を見つめたのだという。そして実際にその光景を目にし、「ああもう駄目だ」と思ったらしい。
 あまりに馬鹿すぎて、止める気もなくしたと彼は言っていた。
 半村と西田は不釣合いのように見えたが、それなりに友好関係を築いていったらしい。
 全て、御手洗と妹尾が後から聞いた話だ。

 高校三年生のときに妹尾、西田、半村、御手洗は同じクラスとなった。半村が出席番号順で御手洗とペアで授業を受けることになったが、それに半村が「西田のほうが……」
と呟いたことで、御手洗は西田に興味をもった。
 もともと御手洗と幼馴染であった妹尾は御手洗に引き摺られる形で「半村、西田ペア」と仲良くするようになり、四人でつるむことが多くなった。
 正直、当時、妹尾はあまりこの三人と関わりあいを持ちたくなかった。半村と御手洗はその見た目で人目をひき、西田は人嫌いの陰惨な目をしており、悪目立ちしていた。
 だから、ことなかれ主義の妹尾はこの三人が苦手だった。
 ぼんやりと生きてきた自分にはない、強烈な「何か」を三人が持っていた。それが羨ましく、同時に妬ましくもあったのだ。
 それでも、引き摺られるように三人と、残り少ない高校生活を過ごしていた。
 そんなとき、事件が起きた。
 それをきっかけに西田は迷走をし、御手洗は日常生活を捨てた。
 妹尾はただ、普通の人間の範疇を出ないように、二人に協力している。だが、いつも逃げたいと思う。
 だが、逃げないと決めた。誰よりも「普通」であることが、自分の義務であるような気がしたから。

 西田は震えながら、珍しくなった公衆電話のボックスに入った。慌てて硬貨を入れ、覚えた電話番号を押し、受話器を耳に押し当てて待った。
「はい」
「俺は、やっぱり戻れないよ、御手洗。すぐ近くまで来ているけど、いけないよ」
「おい、どうしたんだ、御手洗」
 吐き気がした。全身、鳥肌がたっていた。
「調べなおさなくても、あいつの人生を辿らなくても、俺は知ってた。でも知らないふりをした。違う事実を探そうとして、あがいて、でももう駄目だ。気づいてしまった、もう、もう」
 西田は叫んだ。
「自分自身を騙しきれないよ!」
 電話の向こうの御手洗は沈黙していた。
 足が震え、崩れ落ちそうだった。涙が後から後から流れ落ちた。
 愚かだった。武田も愚かで、自分も愚かだった。
「俺は復讐したかったんだ、俺の親友を殺したあいつを。でもあれは」
 真っ白な掌。空中に落ちていった。
「言うな!」
「半村は」
「言うな!」
 受話器越しに御手洗の荒い息遣いが聞こえた。言うな、とかすれた声が聞こえた。
「自殺したんだ、俺のために」
 そう言い、西田は受話器を叩きつけるようにして電話を切った。電話ボックスのなかにうずくまり、嗚咽をあげて泣いた。
 大切に思っていた。そうあの男は言っていた。
 大切に思っていたから、俺のために君は落下したんだろう?違うかい、半村。
「死にたい」
 君の元へ行きたい。友よ、君に会いたい。
 携帯電話をへし折り、世界と関係を断ち切りたい気がした。でも、ズボンのポケットのなかには携帯電話があった。
 電話ボックスを使ったのは、ささやかな抵抗だった。自分でも分からない、誰かへの、反抗だった。

 西田にとって半村は、唯一無二の友人だった。ともに同じものを見、笑い、時には手を繋いでダンスを真似てくるくると踊った。
 二人で、子ども時代をやり直していた友人関係だった。
 半村は母親が育児放棄をし、それから祖父に預けられた。どこにも居場所がなかった子ども時代だった。祖父の友人である武田に気に入られた半村は、「ヨハン」と呼ばれ、
彼に連れまわされる日々を送り始めた。そして、「ヨハン」は「ヨハンナ」に変わったが、武田との関係は変わらなかった。
 裏の仕事に手を染めていた武田に連れまわされた結果、半村は、人間の愚かさ、汚さを早くから知っていた。だから、麻薬の類は一切手にしなかった。それの愚かさを知っていたからだった。
 西田も似たような子ども時代を送っていた。
 西田の母親はだらしなかった。小学校は母親が入学させるのを忘れていたため、三ヶ月遅れで入学した。西田はいつも、母の男に殴られたり蹴られたりした。「ひとの怖さ」を
知ってしまったため、友人は作れなかった。作ることが怖かった。
 そんな傷をさらけ出し、それでも、互いに同情することなく、肩が触れ合うような距離を保ち続ける友人関係が続いた。
 ある日のことだった。
 冬の日だった。
 学校に錯乱状態の男がナイフを振り回してやってきた。騒ぎを聞きつけ、半村が机を男に向かって投げつけた。西田はがくがく震えながら、その場にいた女子を鍵のかかる
部屋に押し込み、理科室に駆け込んだ。
 知識があった。
 いつか、親殺しをするためにと備えていた知識が。
 薬品棚の硝子を椅子で割り、男を重症に陥らせるような薬品を引っつかんだ。
 男が、自分を殴った男に見えた。半村を捨てた母親のように見えた。西田も錯乱していたのだ。
 殺したいと思った。

 薬品をかけようとして、西田ともみ合いになった。
「殺してはならない」
 そう、半村は言った。だが、嫌だった。
「嫌だ」
 もみ合いをしているうちに、男が西田の背中を殴りつけ、二人、廊下に倒れた。
 先に立ち上がったのは半村だった。西田は薬品を割れないようにしっかりと握っていたが、半村の目を見た瞬間手が震え、簡単に薬品をもぎ取られた。
「来い、狂犬」
 割れなかった薬品を手に、半村は言った。
「俺が止めてやる」
 半村が薬品を掲げ、男に向かって振りまいた。
 男の家畜のような悲鳴が聞こえた。
 そして、狂乱した男は、半村に向かっていった。半村は、ひらりと廊下の窓に移った。
 西田の足は、がくがくと震え立ち上がれず――。それでも時間は動き、西田が笑った。
「おいで」
 その言葉に導かれるように男は窓に突っ込み、落下し、半村もともに落下した。
 誰かが絶叫した。西田は呆然と半村が消えた窓を眺めていた。

 年配の警察官に交番で保護された西田は、迷子の子どものように所在なさそうな顔をしていた。連絡を受けた御手洗たちはファーストフード店からすぐさま駆けつけ、
西田を見つめた。
 やつれた、と御手洗は思った。
 元々痩せていたのに、もっと痩せた。
 なんだか無性に愛おしくなって、可哀想で、御手洗は西田を抱きしめた。骨と、薄いけれど柔らかな肉。
「西田、辛かったな、辛かった」
 何度もその背中を撫でた。
「なんで」
 西田の細い声は震えていた。
「生きるのは辛いの?」
 まるで子どものような問いかけ方だった。御手洗は目を閉じた。
「命の代償なんだ。辛いってのは」
 御手洗は西田の背中を撫で続けた。
「半村は、女体化して女になった。それはお前も同じで、お前たちの過去は似たり寄ったりで、だからこそ、半村はきっと、お前を誰よりも大事に思っていた。
きっと、家族のように」
 御手洗は西田の頭をかき抱いた。
「お前に誰も殺させたくなかったんだよ、あいつは。そして、お前が望んでいた親殺しなんか、させたくなかったんだ」
 今なら分かる。宗教に関する本を西田が読んでいたのは、西田も自分の感情に歯止めをかけたかったから。
 それを、半村は知っていた。
 何よりもこの友人の傍にいたから。
「半村は恐れていた。お前が親殺しをすることを」
 その柔らかな掌が、血に汚れることを、彼女は恐れていた。
「ひとを、ころしてほしくなかったんだ」
 西田が大声をあげて泣き、御手洗を抱き返した。その体をよりいっそう強く抱きしめた。
 人はなんて愚かなのだろう?そして、それでも生きていく人々は、弱くても美しい。

 御手洗は囁いた。帰ろう、と。
 全てを忘れることなんか出来ないし、俺たちはそれぞれ、十字架を背負っていくだろう。傷の痛みに顔をしかめるだろう。
 だけれど、歩き出そう。それは家路でもいい。とにかく、歩こう。
 そう、御手洗が耳元で言うと、西田は「うん、うん」と泣きながら頷いた。
「歩く」
 御手洗の背中に妹尾の手が触れた。驚いて振り向けば、「ごめんな」と彼は言った。御手洗は首を横に振った。
 謝ることなど、何一つなかった。
「さあ、立ち上がって」
 御手洗の言葉に従い、西田は立ち上がった。よろけ、それでも己の足で立った。
 御手洗は彼女の手を強く握った。
 友人を失った穴は埋められない。それでも、生きていこう。


「さあ、歩こう」


 美しい友人が歩けなかった道を、俺たちは、歩いていこう。

終わり。


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最終更新:2008年10月30日 02:33
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