一時限目の授業が間もなく始まろうとしている。だが、席に座ろうという気の者は誰一人としていない。
連休明けという環境も相重なってしまっているからだろう。そんな他の人たちを後目に、ボクは淡々と授業の用意をする。
ボクが女体化してから2ヶ月が経とうとしている。
最初のうちは、鳥山とか大前とかがびっくりしていたけれど、今は平気。
前と変わらない付き合いが今でも続いているよ。
「おうい、水月ぃ」
バシッ、と力強くボクの背中を叩く。次第にジンジンとした痛みが背中全体に伝わってくる。
「全く、相変わらず手加減してくれないな、大前は」
「ん? お前が女になったからって、接し方は昔と変わらんよ」
野球で鍛えた太い腕を組みながら、ニコッと満面の笑みをボクに見せてくれる。
女体化してしまい、ボクと接するのを遠慮がちになってしまう人がいる中、大前と鳥山だけは男の頃と変わらずの付き合いをしてくれている。
本当に、感謝してもし足りないくらい、二人には頭が上がらない気持でいっぱいだ。
「そう言えばさ、今日鳥山はどうしたの?」
いまさらだが、大前の傍らにいつもいるはずの鳥山がいない。
「あいつ? 珍しく風邪引いちゃったみたいでさ、今日休みだよ」
「風邪? 鳥山が風邪かい?」
「ああ、そうみたいだ。 恋の病でも患ったんじゃないか?」
ガハハハ、と下品な笑い声を響かせながら、またボクの背中を叩く。
鳥山が風邪かあ、なんか意外だな。
俺は自己管理が徹底しているから、風邪を引くことなんてないぜ、ってこの前豪語していたのに。
「大丈夫でしょ、あいつなら」
ボクの後ろから透き通った綺麗な声が聞こえた。
「なんでそう思うの?」
「まあ、あいつのことだし、風邪なんて引いてないはずよ」
短く整えられた髪を掻き上げながら、妙に自信あり気に言う。
「ズル休み、ってことか」
「まったく、部活がきつくなったのか? どうしようもないなあ」
いや、部活がきついなんてことはないだろう。言い方が悪いかもしれないが、大前なんかよりも野球に対する情熱は、彼の方が数倍も上だ。
「ほらほら、そろそろ授業始まるわよ」
つつじが席に座るように促す。彼女が立ち去る間際に、フフッと口元が微笑んでいたように見えたが、ボクは気に留めず席に着いた。
「水月ぃ~、一緒にご飯食べよ~」
四時限目の終了を告げるチャイムが鳴ると同時に、勢いよくボクたちのクラスに乗り込む女子が一人。
ボクたちのクラスは、まだ授業が終わっていないのだが、そんなのお構いなしにボクの席に向かってくる。
「ほらほら、早く教科書しまって、ご飯食べようよ」
「いや・・・ あきら・・・」
「ん? なに? どした?」
早速弁当の包みを解くあきら。ていうか、勝手に傍らにあった椅子を持ってきて座ってるし。
クラス全員の視線がボクのところに集まる。
ボク自身のことではないのに、何故か顔が真っ赤になってくる。体もどんどん熱くなってきているし。
「どうした? 顔が赤いぞ?」
「ん・・・ いや・・・」
少し心配そうな顔をしながらボクのことを見つめてくる。
ボクは軽く目でサインを送るが、彼女にそんなものが届く訳がなかった。
これほどまでに天然、いや、阿呆なヤツはいないだろう。
改めて、あきらの大物っぷりには底がないということを確認した。
長く感じた授業もようやく終わり、帰りのホームルームが行われる。
大前たち野球部員は、すぐに部室へ行ける用意ができており、まだ終わらないのかと地団駄を踏んでいた。
「よし、今日はこれでお終い。 気をつけて帰れよ」
先生がお決まりの言葉を放つ。それと同時にボクのクラスの野球部員たちは一斉に教室の外へ飛び出していく。
いつもの見慣れた光景だが、改めてこいつらは野球が好きなんだなと認識させられる。
ボクも野球は好きなんだけど、あんまり体が強くないし、上手でもないから、高校ではやろうと考えもしなかった。
でも大前たちの姿を見ていると、無性にやりたくなってくるんだよなあ。
「水月ぃ~、一緒に帰ろうよ」
教卓横の扉から、あきらが軽快にこちらに向かってくる。
つい数時間前に見た光景と同じようだが、あまり気にしないことにする。
「うん、一緒に帰ろう」
「早く帰らないと、陽が暮れちゃうよ」
そう言われ、ボクは窓の外を見る。青々としていた空が、どんどん朱色に染まっていく。
つい先日までは、この時間でもお天道様は燦々と輝いていたのに、そそくさと隠れようとしている。
何だか風も吹いてきたみたいだし、このままだと結構冷えそうだ。
「そうだね、早く帰ろう」
ボクはそそくさと鞄に教科書やらノートやらを入れる。
今一度机の中や鞄の中を見て、忘れものがないか確認する。
「全く、水月は偉いなぁ」
「偉くないって。 てか、あきらちゃんが何も持ち帰らなすぎるんだよ」
「持ち帰らないのが普通だよ。 教科書とかノートなんて、学校に置いておくのが所定でしょ」
弁当箱とお菓子しか入っていない鞄の中を見せつけながら、きっぱりと言い切る。
ボクはどう答えていいのか分からず、少々困惑気味。
「まあ、テスト前とかになったらちゃんと持ち帰るから安心してよ」
アハハハと笑いながら、バシッとボクの背中を強く叩く。大前より痛いのはいつものことだ。
「ホラホラ、こんなことしてると本当に真っ暗になっちゃうよ」
「うん、そうだね。 陽が照っているウチに早く帰ろう」
教室に残っていたクラスメイトたちに声を掛け、ボクたちは学校を後にした。
太陽はすっかり落ち、バックネットに備え付けられている照明設備を使っての練習。
内野だけを使ったノックや、ネットに向かってのティーバッティングなど、軽めに行っている。
秋季大会も終わり、後は冬を越え、春夏を待つシーズンとなった。
先輩たちの代までは、あまり強くはなかったが、俺たちの新しい代は、結構期待できる。
大黒柱の鳥山、それを支える俺、そして中学時代に都下三本指に入っていたと言われているスラッガー中河原、その他突出してはいないが、一定以上の力を持っている選手ばかり。
うまくいけば・・・ふふふふふ。
「おい、大前、どうした?」
顧問の高幡先生に、軽く頭を叩かれる。
気を抜いていたところを思いっきり見られてしまった。
「ああ、先生。 少し考え事をしていて・・・」
「お前がキャプテンなんだから、ぽけーっとしてないで気を引き締めろよ」
「はい、すいませんでした」
平謝りでこの場をしのぐ。先生の言うことはごもっともなのだが、俺は人から叱られると急激にやる気がなくなるタイプ。
やる気のない表情で練習を続けていたら、今度はチームメイトに怒られる。
「おい大前、やる気がないなら帰れよ」
「ああ? うるせぇな」
「うるせえじゃねえだろうよ。 お前キャプテンだろ? チームの士気を殺ぐようなことしてどうすんだよ」
「だから、分かってるっての。 俺だって大変なんだよ」
「大変なのは分かってるけど、それを周りに見せるのはどうかと思うぜ?」
「あーあーあー、うるさいなぁ。 分かったから俺を一人にしてくれ」
「ったく、本当にガキだな、お前は」
そいつは舌打ちをして俺の目の前から立ち去る。
全く、頭では分かっていてもこういう言動、行動をしてしまうんだから、本当に自分が嫌になってくるよ。
「あーあ、こんな時に慰めてくれる女の子がいてくれればいいのになぁ・・・」
一人ぼっちになった俺。寂しく隅っこで素振りをしている自分が、何だか痛々しくなってきた。
翌日、ボクはいつもより遅めに学校に行った。と言っても、十分程度。
あきらちゃんみたいに、一時間とか、お昼過ぎてからとか、そんなに遅いことはまずないだろうけどね。
教室に着くと、すぐに今日の授業のスケジュールを確認する。
「一時限目は現代文、二時限目は数学Ⅱ・・・」
「お、今日も勉強熱心だね」
野球鞄を持った少年が、横から声を掛けてくる。
昨日は聞かなかったその声の主。ボクは声のする方へ体を向ける。
おやおや、昨日ズル休みをした鳥山翼くんじゃありませんか。
「なんだ、ズル休みでもしたんだろうって顔してるぞ?」
「あれ? ばれてた?」
「俺は人の心まで読める力を持ってるからな」
「またまた御冗談を」
「それはいいとして、俺は昨日はいろいろ訳あってな」
「訳?」
「まあ、風邪ってことにしておいて」
誰かの声がすると同時に、鳥山はそそくさと自分の席へ向かっていった。
聞き覚えのある透き通った声だが、その声の主が誰なのかは確認できなかった。
妙に焦っていたというか、顔が赤くなっていたというか、何だかその声が聞こえた途端にいつもの冷静な鳥山ではなくなっていた。
何がどうなっているのかよく分からない。
まあ、分かった時点でボクがどうこうできるってものでもないのだろうけどね。
自由気ままに流れる雲を眺めながら、朝のホームルールが始まるのを待っていた。
「よーし、皆よーく聞けよー」
朝のホームルームが始まる。
いつもは面倒くさそうに話しはじめる先生だが、今日は何かが違った。
妙にテンションが高く、クラスメイト全員が怪訝な目で先生を見ている。
「なんだお前らー、そんな目で先生を見ないでくれよー」
(なんだ・・・ 今日は先生がおかしいぞ・・・)
おかしいのはいつものことなのだが、今日は特別おかしい。
どれぐらいおかしいのかっていうと、めざましテレビが日曜日にやっているってくらいにおかしい。
「先生、何でそんなにテンション高いんですか?」
どの学校でも必ず一人はいるであろう、空気を読まないヤツ。いてもたってもいられなくなり、先生に質問をする。
「おお、よく聞いてくれたな! なんでこんなにテンションが高いのかって・・・」
しーんと教室が静まりかえる。ごくりと唾を飲む音が教室中に響きそうなくらい静かだ。
「修学旅行の行先が変更になったからだよ!」
ほえ?と気の抜けた声が至る所から聞こえてくる。
たかだか修学旅行の行先が変更になるだけで、こんなにテンションって高くなるものなのか?
まあそれはいいとして、今度はボクが先生に質問をする。
「それで、行先はどこになったんですか?」
「京都、奈良方面だったのが、なんとなんと沖縄だよ!」
沖縄!?
その二文字を聞いた瞬間、教室が瞬時にざわめく。
「うみんちゅだぜ、うみんちゅ!」
「シーサー! シーサー!!」
「青い海青い空青いおっぱいやっふー!」
教室全体がカオス空間となる。ちなみにボクは至って冷静。
「そうだ! もっと喜べ喜べ!」
うおー、と教室がクラスメイトの叫び声で揺れる。
何事かと隣のクラスの先生が見に来るが、どうにもしようがない状態。
近くの席の大前のことを見ると、ボクと似たような状態。神妙な顔つきで一点を見つめている。
鳥山にしろ、大前にしろ、何だか野球部員もおかしいなあ。
この騒ぎは、朝のホームルームが終わる十分後まで続いた。
三時限目が終わり、疲れも軽く出てきた頃の休み時間。
次の授業の用意を済ませ、自分の机でのんびりしていたら、大前がゆっくりとボクの傍に近づいてくる。
「なあ水月。 ちょっと話があるんだけど・・・」
「どうしたの?」
キョロキョロと辺りを見回し、その人物がいないことを確認すると、ボクの耳元で囁く。
「なあ、あきらさんの携帯のメールアドレス知ってるか?」
「知ってるけど、どうして?」
ギクッ、と体が硬直する。それに関しては突っ込まれてほしくなかったのだろう。
「いや、あきらさんと前々から喋ったりしているんだけど、なかなか携帯の番号を交換する機会がなくてね」
「ふうん、それじゃああきらちゃんに聞いてみるよ」
「よろしく頼むな」
バシッ、と背中を叩くのかと思いきや、両手を合わせながらお願い、と懇願している。
ボクもそこまで馬鹿ではない。理由は深く聞きはしない。
その辺りの事情はくみ取って、言葉にしないというのが優しさというものだろうか。
「まったく、大前も大変な女の子好きになっちゃったな」
早速携帯を開き、あきらちゃんに確認のメールを送った。
カチンと携帯を閉まった瞬間、メール受信を知らせるバイブレーターが振動する。
早いな、と思いながら、再びそれを開く。
『全然構わないよ♪ むしろあたしも大前くんの知りたかったしね』
ふんふん、思ったより大前とあきらちゃんの仲はよかったみたいだね。
にやにやとしながら、この文面を大前に見せると、すんごく喜んだ。
「ありがと水月! 本当にありがとうな!」
喜んでいて力加減を忘れているみたいで、精一杯の力でボクの手を握ってくる。うん、ものすごく痛いです。
でも、親友にいいことをしてあげるっていうのは、何だか気持がいいもの。
頑張れ大前。ボクは君のことを応援してあげるよ。
温かい目で大前のことを見ていると、鋭い殺気を感じた。
どこからかは分からないが、この教室の中からというのは間違いない。
背中に悪寒を感じたボクは、ゆっくりと教室を見渡す。
だけど先ほどのような殺気は消えている。気のせいだったのだろうか。
気のせいであることを願いながら、ボクは授業が始まるのを大人しく待った。
最終更新:2008年12月01日 23:51