安価『混浴』

ここはまほろば秘境の湯。
そんな看板に目をやってから、僕は中に入った。少し緊張しつつも――緊張している自分をおかしく思いつつも――辺りを眺めてみる。
早くも目には湯気でもやがかかって視界をぼやかし、耳には湯の流れる音が心地いい。そして、温泉ならではの妙な匂いが鼻を刺激する。
空に目を向ければ、そこには月が見える。
満月と半月の間の中途半端な時期ではあったが、湯気と雲とで綺麗に化粧をして、湯気には月光が反射してキラキラとかがやいていた。
さらに、秋の雲は長くたなびいていて、その裂け目からは月がのぞく。暫くすれば完全に雲に隠れてしまいそうだけれど、今は冴えた光をもらしている。
その様はまるで藤原顕輔の歌を空に貼り付けた見たいで現実味がなく、誰かが僕のためにつくってくれたのかもしれない……なんて、馬鹿げた事を考えてしまうような景色。
そして、そんな馬鹿げた事を考えることで、自分の緊張をごまかしている。
案外効果はあったようで、僕の緊張は湯気にとけて、思ったより落ち着いて羽山の姿を探すことができた。だからだろう、妙に広い風呂の奥の方、体から湯気をくゆらせながら風呂につかっている阿呆の姿はすぐに見つかった。
緊張どころか少し楽しくも思えてきた僕は、ゆっくりと羽山の方へ向かう。――さて、どんな反応をしてくれるのだろうか。
僕としては、慌てた阿呆が湯から飛び出して、慌てている上に阿呆な羽山はこけて、当然のようにタオルもはだけて、「野州ちゃんみたいな乙女にそんな汚いもの見せるなんて最低」とかいいつ羽山の頭を蹴り飛ばしてやるのが理想だ。
いや嘘だけれど。だって流石にない、特に最後の台詞なんて無さすぎる。
というよりこんな風情のある露天風呂で、そんな風情のないことはしたくない。
うん、さっきは緊張がほぐれたように感じたけれど、こんな馬鹿な考えばかりよぎる僕は、まだ相当に緊張しているようだ。
気付けば、羽山の背中ももう近い。まるで義務であるかのようにタオルを頭にのせているこいつに、わざと聞こえるように足音を立てて近づいてみる。
羽山はどうやら気付いたようで、こちらに体を向けようとして。
「こっち見ちゃ駄目……」
思わず声が出た。ああ駄目だやっぱ駄目。ていうかそもそも、何で僕は水着すら来てこなかったんだ、ロッカーまでは持ってきていたってのに。
いやでもこう風呂場に着衣で入るなんて禁忌はおかせない。
いやだって羽山以外誰もいないみたいだったしタオルだけでいいやって思ったから。って誰に言い訳してるんだ僕は。くそうせっかく男だった頃っぽく考えて、照れをごまかしてたってのに。
いや駄目ださっきまでの僕に戻らなくては。
「隣入るよ」
「お、おう」
「もうこっち見てもいいよ」
そうは言ったもののやっぱり少し恥ずかしい。羽山は羽山で照れているようで、こっちを見ようともしない。
「なあ、一つ聞いてもいいか」
馬鹿みたいに僕から視線をそらしながら羽山が言った。
「ここはいつから楽園になったんだ? 俺が入った時には男湯という名の現実だったんだが」
そう、そうなのだ。ここはもともと男湯で、混浴なんていう天国ではなかった。
けれども僕たちが泊まっている――ちなみに互いの親同伴。僕らの付き合いを加速させようと棹をさしてばかりいる――旅館には秘密があり、夜の一時を過ぎると経費削減とかの理由で女湯が閉まり、男湯の方が混浴に変わってしまうのだ。
ちなみに、男湯の方にはなんの表示もなく、女湯のほうに夜一時以降は男湯の方を混浴とさせていただいておりますので、そちらをお使いください。なんて書かれた看板がたっているだけという妙に不親切な仕様になっている。
こんなことだから客が少なくて、ちょうど混浴になったばかりの時間だというのに他に人が誰もいないのだろう。変態の一匹や二匹いそうなものなのに。
「――てなわけらしい」
「まじでか」
「勿論大マジだ、でもなければ親にお前と一緒に風呂に入ってこいと言われても断ったさ」
「うちのオカンが臭いから風呂入ってこいって、なんだか妙に嬉しそうに言ってきたのはこんな理由でか」
「僕みたいな美少女と一緒に風呂に入れるのを、こんな理由とは言ってくれるね」
「うるせえ臭いって言われるのがどれだけショックだと思ってやがる、お前みたいなのは女湯入って楽園見て喜んでりゃいいんだ。もったいない」
たしかに女湯に入れば前の僕には見れなかった、あれやらこれやらが見れたのだろうけれど。哀しいことに、とても哀しいことに、だ。
「……この旅館の平均年齢は母親に十を足したぐらいだ。それなら一人で風呂に入って自分の裸でも見た方がましってものだろう」
さらに言うなら最年少は俺と赤ん坊をのぞげば母親。本当にどうしようもない。
「そいつはひどい有り様だ。ここにはお前にとっての楽園は無かったようだな」
「そういうことだ、そうして僕は甲斐甲斐しくお前の楽園の為にここに来てあげたんだからな。感謝しろ」
といっても羽山は一度も僕の方を見ていないのだから、楽園とは言えないかもしれないが。
「ああ感謝するよ、本当に。けど、そうはいってもこんなに雰囲気のいい温泉だし、野州だって嫌じゃないだろ? ほら、暗くて山の化粧は見えないけど、月とか雲とか、すごく綺麗だろ」
ふと、思い付く。うまく行けば僕にとっても楽園、羽山にとっても楽園になる。そんな展開。
「ああ、そうだな……月が、綺麗だな」
「だろう、綺麗だよな」
おいおい羽山、お前は僕と名言、格言しりとりなんて馬鹿な遊びをした仲だろうに。何で気付かないんだ。
「うん。月が綺麗だ」
「どうした野州。そんなにこの月が気に入ったか。けど、分かるよ。なんか藤原顕輔の歌を思わせるような綺麗さだよな」
おお、妙なところで感性が一致してくれてなかなか嬉しい、嬉しいんだが。そこじゃないんだいまは。
「……月が綺麗ですね」
これで最後と直球勝負。元の言葉をそのまま言っているのだから、気付かなければ困ってしまう。
「……それはあれか、日本語にあるんだけど言えない言葉か」
どうやら伝わったらしい。今まで一度もこちらを見なかった羽山が、顔を赤くしながらも僕を見ていた。
少しのしじま。
心地よい静けさではあったのだけれど、僕はそんな静けさで余計に恥ずかしくなる気がして
「まあ、そんな感じだな」
なんて言いながらうつむいてしまった。
羽山の顔を見たら間違いなく赤面すると分かっていたし。
「野州さんや、ちょっと顔をあげとくれ」
けれど、その変な言い方がおかしくいからか、恥ずかしさがなくなって、自然に顔を向けられた。
「よしよし、風呂で初めてまともに野州の顔が見れたな」
「お前がこっちを見なかったからだろうに」
「野州だって照れてるだろ」
たしかにそれは否定できないだろうけど。どんなに取り繕ってみても、好きな人と一緒にお風呂なんて状況じゃあ照れるなってほうが無理なんだから。
「野州は可憐な乙女だってしってるからな、さっきから野州が男だった頃っぽく振る舞っているのが、照れ隠しってのが分かる」
「……っ」
図星をつかれて、顔が赤くなる。いやちがう顔が赤いのはお湯が熱すぎるからだ。そうにちがいない。ぜったいにそうだ。そうにきまっている。
「うーん、あんな変な照れ隠しして、顔を真っ赤にする野州は、やっぱり乙女だね。可愛いよ」
そうして、気付いた。僕の恥ずかしさを減らすには羽山も恥ずかしがらせてしまえばいい。僕だけが恥ずかしがっているからいけないんだ。羽山も恥ずかしがっていれば、羽山だってこう、恥ずかしい事ばかり言ってられないはず。
「なあ、羽山」
「おう、どした」
「見たい?」
僕はタオルの裾にそっと指を入れて、小さな声でそう尋ねる。
羽山の頬が赤くなるのが見えて、少し嬉しくなる。これでおあいこだ。
けれどもこの先は想定外。
「……見たい」
あれ、もしかしてこれ見せなくちゃ駄目? 嘘、全然おあいこじゃないよ。どうしよう。
というか羽山、正直すぎるだろう。そこは断れよ。
というか僕、安易すぎるだろう。もっと考えようよ。

……いやまあ、拒否しましたよ。当然ね。見せてそのまま失うには早すぎるあれを、こんな人に見られるかもしれないような場所で、喪失したりはしませんでした。
せいぜい月の綺麗さを語り合うくらいでのことをしただけなんです。


なくしてなんかないんだってば!


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最終更新:2008年12月04日 22:13
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