リビングにある二人掛けのソファで新聞を読んでいると、階段をどんどん踏み鳴らす音が聞こえた。そして二階から下りてきたパジャマ姿の弟、律は、
頭頂部に髪をまとめたパイナップルヘアーを揺らしながら私に近付いてきた。
「女の子になっちゃったどうしよう」
ああだからそんな髪型になっているのかと、一人納得した。女体化すると一気に髪が伸びる。
「ちょっと兄貴、聞いてる?」
「聞いてるよ」
そばにあったガラステーブルの上に新聞を放って、隣のキッチンに向かった。そのすぐ後を弟は甲高い声を上げながら付いてくる。
「聞いてないじゃん。何だよ、弟の異変より昼飯のほうが大事なのか、おい?」
天井近くの壁に掛かっている時計は、正午前を示していた。私が起きた時には両親揃って姿を消していたので、
朝食を食べ損ねていた。どうせ兄弟揃って昼前まで寝てると思ったのだろう。実際その通りになった。
やかんにたっぷり水を入れて火にかける。何か温かい物でも飲ませてやろうと思っていたのだが流しの上のスペースからココアの粉末が入った瓶を取り出し、
ついでにカップめんも一つ手に取った。
「やばいってこれ」
ぶつくさと洩らしながら、律は家じゅうをうろつき出していた。洗面所に行って少しして、うわぁ、という情けない声が聞こえた。
鏡を見て落胆しているのだろう。まじまじと見たわけではないが、結構な変わりぶりだったから。洗面所から質問が飛んでくる。
「そういや親父とお袋は?」
「買物に出掛けてる。昨日から言ってただろ。帰ってくるのは夜だって」
「くっそ、肝心な時に……」
湯が沸くまで暇なので、リビングに戻って新聞を読み直すことにする。大学一年生。経済学部。所属サークルなし。学内の友人、ゼロ。
平日は往復三時間掛けて目一杯講義を受け、休日にはこうして年末のレポート課題のネタ探しに、興味のない記事に目を通すのが日課。クリスマスも差し迫った時期に、
こんな生活を送るのが大学生なのかと、よく自問する。校内を我が物顔でうろつく着飾った連中が妬ましいこと、この上ない。
「あぁ、どうしよ」
などと言いながらキッチンに戻ってきた弟は、沸騰していたやかんに気づいたらしく火を止めてくれた。結構便利だな。
「おい、なんとかしてくれよ」
哀願するような口調で、律はソファの脇、フローリングの上で正座した。
「今日俺、彼女と遊ぶ約束してんだよ」
「キャンセル入れればいいじゃん。理由が理由だ。相手も気を悪くするほど子供じゃないだろ」
「連絡取れないんだって。昨日俺が携帯電話を便器の中に落として駄目にしたの、知ってるだろ」
そういえば昨夜寝る直前、弟はそんな事を言っていた。胸ポケットは危ないと一度携帯を流した父が常々注意してたのに、一向に改めなかったためだろう。
私は携帯電話を持ってないので何とも言えないが、よく便器に落下するものらしい。
「彼女の携帯の番号は?」
「覚えてない。普通そうなんだよ。兄貴携帯持ってないから分かんないかもしんないけど」
「へえ、そうなんだ」
高校一年生に学ぶことは多い。
「じゃあ家の電話は?」
「知らないよそんなもん。第一恥ずかしくてかけられないって」
もじもじしながら律は応えた。痺れているらしい。なぜ足を崩さないのだろうと思ったが、そんなことにも頭が回らなくなるくらい混乱しているかもしれない。
とりあえず腰を上げ、キッチンに立った。
「じゃあ、待ち合わせ場所まで俺が行って事情を説明してくるよ」
カップめんに湯を注ぎながら弟に提案したが、納得していない様子だった。
「ちょっと待ってくれよ、事情って……どう説明すんの?」
「そりゃあ、『弟は女体化しました』としか言えないでしょ」
「だめだ、それは勘弁して」
弾かれたように立ち上がり、律はぎこちない足取りでこちらに近づいてきた。
「そんなこと言ったって、いつかは明かすことになるんだぞ。つうか腕掴むな。お湯がこぼれるって!」
長いまつ毛に縁取られた大きな目から涙を流して、弟は私の腕にしがみつく。
「頼むよぉ、今はまだやめてくれよぉ。『デートに行ったら彼氏が女体化しててぇ~』なんて感じで、クラス中に言いふらされちまうよぉ」
「彼女って同じクラスなのか」
「そうだよ。そんなネタキャラにされたくねぇんだよぉ」
「分かった、分かったから! これ飲んで落ち着け!」
湯気を立てているマグカップを突きだすと、ようやく弟は私から手を離し、こくりと頷くのだった。女性の姿になっているせいか、なかなか可愛らしい仕草に見えた。
ソファに座ってホットココアを飲んでいる弟に尋ねる。
「結局どうすんの。俺はさっさと知らせてやったほうがいいと思うけど」
「今は……ちょっと無理。なんていうか、気持ちの整理がついてない」
まだ少し固いカップめんを啜りながら、テーブルの前で腰を下ろした。
「じゃあ、適当に理由考えろ。俺が伝えてくるから。待ち合わせ場所は?」
「この家」
口に含んでいた麺を盛大にぶちまけた。
「汚いな、何やってんだよ」
弟はカップをテーブルに置き、キッチンから慌てて台布巾を持ってきた。
「何だお前、兄貴がいる家に彼女呼ぶ気だったのか?」
「親が明日いないって聞いて、すぐ連絡したんだよ。滅多にないチャンスじゃん。兄貴には昼から外に出てもらって、とか考えてたんだ。
まあ普段からいるのかいないのか分かんないくらいだから、最悪部屋で大人しくしてくれるだけでも良かったし」
勝手なことを言う。こっちはそんなの御免だ。年少者の男女の悩ましげな声をBGMにして休日を過ごすなんて。
あちこちに飛び散った残骸を処理しながら、そう思った。
「彼女の家はアパートだから、声が隣の部屋に洩れるんだって。あの女、ラブホは嫌だとか妙なわがまま言うし。となるとこっちしかないじゃん」
「やる気まんまんだな。彼女は準備できてんのか?」
「もう付き合って4か月近いんだぞ。むしろ準備期間が長すぎるくらいだ」
なるほど。四か月で長いのか。覚えておこう。頭の中に書き留めていると、律は沈んだ表情でソファに身を沈めた。
「まあ、その辺のことで知った口は利けないよな。兄貴は童貞じゃないんだし」
「いや、そうとも……」
口の中で私はもごもご呟いた。いまさら言えるわけがない。男装して皆の目をごまかしているなんて。
高校三年の冬という時期も悪かったんだと、自分に言い聞かせる。もともと痩せ形の童顔、音も高かったせいで、外見的変化は微々たるものだったし、
体育も学校行事もほとんど残ってなかった。隠し通してみなさいと神の啓示があったに等しかったんだ。
女体化した去年の冬。休日だったその日のうちに、家族の目を盗んで床屋に駆け込み生理用品と下着を買い漁った。
何しろ女体化童貞などという不名誉な称号は一生付いて回る。履歴書にも『女(女体化)』などという欄が用意されているのだ。
「おや、君は……」と面接官に白い目で見られたという女体化男子たちの悲しい報告を、私は去年の受験シーズンに嫌というほど耳にした。
おっさんたちにさえ暗に「童貞かよ」と馬鹿にされる世の中なんて、狂ってる。童貞の何が悪いんだ。そして非童貞の何が偉いというんだ?
私たちは異性との健全な交際を望んでいただけだ。実際にお付き合いした経験はないが。
とにかく、いつになったら女体化童貞の社会的地位が上がってくれるのだろう。溜息が洩れる。
「兄貴、いつまで床拭いてんの?」
「は? ああ」
物思いに耽っていたせいで、いつの間にかフローリングを磨き上げていた。布巾とカップめんの容器を入れ替えて、食事を再開する。
「いつ来るんだよ、その彼女は」
「予定だと一時」
あと一時間もない。
「結構近所に住んでるから、家の前まで来たことがあるんだ。直接インターフォン鳴らすように言っちまったから、応対は兄貴に任せる」
「その間、お前はどうすんの? どうせ顔が出せないなら、髪切ってくるなり必要なもの買ってくるなりしてくれば?」
「いや、聞き耳立てる」
「何でそうなんだよ」
「何でって……」
そこまで言って弟は押し黙った。私と視線を合わせないようにして、小声で続ける。
「一応兄貴だって男じゃん。自慢みたいだけど、俺の彼女結構男子から人気あるし……間違いが起きないとも……」
「俺が弟の彼女を家の中に引っ張り込んであれこれしそう、ってか」
相手の言いたい事を口にしているうちに、笑いがこみ上げてきた。それに気づいた律は、顔を赤らめて不機嫌そうに言う。
「なんだよ、悪いか! これでもあれだぞ、ちゃんと恋愛してんだよ! 心配なんだ!」
微笑ましいな。ちょっと意地悪をしたくなった。
「もう男女の仲になれなくても?」
うっ、と返答に窮していた弟だが、ややあって決然とした表情を私に向けてきた。
「そんなの関係ない。こんな体になっちまったけど、俺はまだあいつの彼氏なんだからな。悪い虫が付きそうになったら、おっ払うのが務めだ」
彼氏というより父親みたいだ。そして私は悪い虫か。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。弟と顔を見合わせる。
「もう来たのか? まだ四十五分だぞ」
弟は肩をすくめて返してくる。
「割と時間をきっちり守るタイプだからな。にしても早いけど」
「そういうことは先に言えよ」
玄関に通じる廊下に出た。少し後ろを歩いていた律は、明かりの点いていない洗面所の隅にうずくまった。
「じゃあ頼むぜ」
弟に頷き返して、玄関のドアを開けた。今日初めて外気に触れた。寒い。
「あ、えっと、こんにちは。律君のクラスメイトの、篠崎という者です」
他の人間が出てくると思ってなかったのだろう。明らかに狼狽した様子で、少女は長い黒髪を揺らしながらお辞儀した。
ガードの堅そうな美人タイプだった。切れ長の理知的な目や、黒のコートにブラウンのロングスカートという、やや地味な服装のせいかもしれない。
学校の男子に人気があると弟は言っていたが、最近はこういう雰囲気の女子が票を集めるのか。
「律の兄です。申し訳ありませんが今、弟は外出していまして」
「え、そうなんですか? 今日家に来るって伝えたはずなんですけど」
篠崎はさらに困惑する。
「実は昨日、弟の奴がトイレに携帯電話を落としてしまったんです。それで今朝、携帯ショップの開店時間になったら突然外に出ていっちゃって。
いつも一緒にいるわけではないんですけど、結構依存してるみたいです」
「私のことは、何か言ってましたか?」
「なるべく急いで帰ってくるつもりだけど、休みの日は混んでるから手続きに時間がかかるかもしれない。
もしも先に彼女が来たら、連絡先だけ聞いて帰るように伝えてくれ。と」
「そう……ですか」
「『本当にごめん。この埋め合わせは必ずするから、許してほしい』」
「え?」
「伝言です。一字一句間違えるなと念を押されました」
「あ……そうですか。突然口調が変わったから、驚きました」
微笑を浮かべた後、篠崎は遠慮がちに私を見た。
「あの、ここで待っていたら駄目でしょうか?」
今度はこちらが「え?」と言わされた。相手の機嫌がともかく、相手は早々に引き取ってくれるだろうと思っていた。
「いや、でもお客様を待たせるのも悪いし……何より、篠崎さんも気分が悪いでしょう。多分弟も気まずいはずです」
「でも、どうしても今日会っておきたいんです」
大人しそうな物腰と裏腹に、頑なな態度だった。
「そうですか。……それじゃあ、ちょっと部屋を片づけてきます」
ゆっくりとドアを閉める。
「おい、何でそうなるんだよ」
足音を忍ばせながら律が出てきた。
「こっちが聞きたい。お前の彼女、何であんなに思いつめてんだよ。あの様子だと、てこでも動かないぞ。無理に追い返そうとしても、家の前の道路に陣取りそうだ」
「はぁ? 何で」
「だからそれは俺が聞きたいんだって。 とりあえず二階に上がってろ」
「どうすんだよ。いつまでも俺が帰ってこなかったら、篠崎だって怪しむだろ」
「知るか。決心がついたらさっさと出てこい。こっちが限界だと思ったら、俺が女体化について話すからな」
「ちょっと、待ってくれよ」
「いいから、もう行け」
強引に背中を押して、洗面所の向かいにある階段に弟を押す。姿が隠れたのを確認して、玄関のドアを再び開けた。
「すいません、お待たせして」
室内に手の平を向け、篠崎を迎え入れた。
「お邪魔します」
靴を脱ぎながら、彼女はドアを閉めている私に尋ねてきた。
「あの、他にも誰かいらっしゃるんですか? さっき話し声が聞こえた気がしたんですけど」
「テレビを点けっぱなしにしてたので」
「そうですか。すいません。休日の邪魔をして」
「いえ、気になさらず。どうせごろごろするだけですから」
そう言って、私は鍵を閉めた。
「何か飲みますか」
客人をソファに座らせてそう聞いてから、じゃあ私は~と言える人間もあまり多くないことに気づいた。とりあえず弟に出したものと同じでいいか。
「私のことは、お構いなく」
「そういう訳にもいきませんよ。弟が帰ってくるまで、くつろいで下さい」
初めて入る他人の家でくつろげる人なんているのだろうか。いや待て、初めてとも限らないか。母ならばこの子を見かけた事くらいあるかもしれない。
「あの、ここは何かあったんですか?」
新聞紙を敷かれた一角を見た篠崎が質問してきた。
「弟がさっき、ラーメンを派手にこぼしたんです。汚い部屋にお通ししてすいません」
客間などという洒落たものは、この家にはない。
「そうなんですか。そういえば、食事の時に良くものをこぼしますよね、律君」
弟と本当に親密な仲らしい。母が注意する場面によく居合わせるが、私は律の食事マナーを気に留めたことなどほとんどない。
やかんに残っていたお湯でもう一杯ココアを作って、テーブルの上に置いた。
「どうぞ」
「はあ、ありがとうございます」
何ともぼんやりした感じで篠崎は小さく頭を下げ、
「あの……律君がいつ頃帰ってくるか、分かりますか」
「それはちょっと僕にも……」
「すいません」
彼女はもう一度頭を下げて、カップに口をつけた。
「あの、お名前を窺ってもいいでしょうか」
そういえば、自分の名前を明かしていなかった。ジュースの入ったコップを持って、テーブルを挟んでソファと向かい合う位置に腰を下ろした私は答えた。
「申し遅れました。兄の翔太です」
「男の人っぽい名前ですね。可愛い顔をしてらしたから、もしかしてお姉さんかと思いました」
コップを取り落としそうになった。女体化して以来、その評は誰からも言われたことがないものだった。人との新しい出会いが皆無だったためだ。
私は平静を装うため、ぐいと飲み物を呷った。
「男の人に『可愛い』を使う時は注意したほうがいいですよ。意外とコンプレックスを持っている奴もいますから」
「もしかして、お気に障りましたか?」
「まさか」
努めて自然な笑いを作る。
「昔から母親似だと言われてましたから」
「そうなんですか」
そこで会話が止まった。時計の秒針が動く音だけが部屋に流れる。視線を向けると、時刻は一時になるかならないかというあたりだった。
「……突然、不躾な質問をしますが」
沈黙を破ったのは篠崎のほうだった。
「翔太さんの初体験は、いつごろでしたか」
がたん、と廊下から物音がした。律が下りてきて聞き耳を立てていたに違いない。
「もしかして、他にも誰か――」
彼女の問いに、私は言葉をかぶせる。
「いや室内犬を飼っていまして。普段は二階の律の部屋で大人しくしてるんですけど、たまにふらふら歩いたりして」
「律君、犬を飼っていたんですか」
「ごく最近」
「へえ……」
彼女の注意を反らすために、私は話を戻した。
「ええと、初体験でしたっけ。なんで突然そんな事を?」
効果はあった。両手で押し包むようにして持っていたカップを置くと、彼女は両手を膝の上に乗せて俯く。
「律、童貞なんですよね」
彼女の弟の呼称が、律君から呼び捨てに変わった。
「基本的に兄弟でそういう話はしませんから、初耳です」
「でも律、童貞だって言ってたんです。嘘をついてるとは思えませんでした」
誰も疑ってはいないって。私は話を合わせる。
「ええ、多分その通りなんでしょう。でもどうしてそこから、僕の話に?」
「あの、相手の女の人はその……処女、でしたか」
存在しない相手のことを尋ねられても困る。しかし彼女が何に懸念を抱いていて、どういう返答を望んでいるのかは大体掴めた。
「僕が童貞を卒業したのは高校一年の冬です。相手は非処女でしたよ」
恐らく完璧だろう。答え合わせをするつもりで篠崎のリアクションを待つ。
「そうですか。少し、安心しました。でも……」
一度区切ると、彼女は若干語調を強めてこう言い放った。
「やっぱり男の人って、処女のほうが好きなんですよね?」
「そんな事を聞いてくるってことは、篠崎さんは……」
「非処女です」
きっぱりとしたその声が響くと、またしても廊下から物音が聞こえた。ただし先ほどと違い、今度は拳を打ち付けるような鈍い音だ。
「犬が何か倒した音だと思いますよ。続けて下さい」
そんな事を言わずとも、彼女は気に留めていないようだった。
「中学二、三年の時に同じクラスだった男子なんです。元から仲が良いほうだったんですけど、受験シーズンに入って、お互い異性として
意識するようになっていったんです。お互い将来への不安とか受験勉強のストレスが溜まっていたんだと思います。いつの間にか公認のカップルになってました。
その男子と、その、済ませたのは、九月の終わりごろでしたその時は、私はこの人と一生寄り添って生きていくんだろうな、
なんて甘ったるいことも考えていたんですけど、お互いの進路が決まって緊迫感が薄らいでいくと、段々共有する時間も減っていって、
その必要性さえ感じなくなって……結局、大きなぶつかり合いもないまま、二月の頭に別れました」
弟が廊下で卒倒してるかもしれない。物音が聞こえなくなった。
「そのことについて後悔してるかどうかは自分でも分からないんです。でも今は、律に申し訳ないっていう気持ちが、頭から離れないんです」
「その話を弟にはしたんですか?」
「してません。律はきっと、そんなこと気にしないって言うと思います。優しい人だから。でも本心では、きっと失望するはずです。
大して好きでもなかった相手と、それと気づかずに男女の関係になる女なんて」
自己批判が過ぎるだろうと私は言いたかった。そんな甘ったるい学生生活は今に至るまで送った経験がないが、考え方が重すぎると思う。
「で、律が童貞だっていうのは関係あるんですか? 女体化を予防するために、童貞を捨てるまで甘い顔をしてるだけかもしれないと?」
「いえ、逆です。学校でもいるんですが、俺は何人と寝たことがあるんだ、とか自慢げに喋っている男子を見ると、嫌悪感を覚えます。
だから余計、律に対して罪悪感を覚えるんです。本当に好きな相手を待てる人なんて、私には勿体ないって」
この人ロマンチストだな。そんな事を考えていると、リビングに罵声が飛びこんできた。
「バッカじゃないの!」
律の物である。肩を怒らせて廊下から現れたこのパジャマ姿の女は、篠崎の目にどう映っているのだろう。
「あの、この人は……?」
「妹よ、律の!」
私に向けられた篠崎の問いに、女体化彼氏が怒鳴り声で答える。
「初めて知りました、妹さんがいたなんて……」
「妹とは犬猿の仲だから、律の奴、隠しておきたかったんだと思いますよ」
フォローになるかは分からないが、一応私も口を挟んでおいた。
「そんなこと本人に言えばいいじゃない。何でこんな兄貴にアドバイス求めてんのよ!」
「だって、律には言えないじゃない……こんなこと」
篠崎の控え目な反論を、弟は一蹴する。
「あんた何様? 自分じゃ彼氏に尽くしている健気な女気分なのかもしれないけど、周りからすりゃあうざったいことこの上ないわよ、そうでしょ兄貴!」
突然矛先を向けられた私は、唸りながら言った。
「まぁ……外野にあれこれ聞くよりは、当事者同士で話し合うのが一番健全かな」
「でしょ!」
そうして律はリビングの中央に仁王立ちし、篠崎を睨み据えた。
「あんた、頭のどこかで律のことを軽く見てるんでしょ。まともな恋愛をしたことがないお子様だって」
「そんなことは――」
「あるわよ。今あんたが、こんな場所でこんなこと言われてるのが何よりの証拠じゃん」
そこまで言うと律は深いため息をつき、がっくりとうなだれた。
「……信じらんない。辛い時の為にいるんじゃないの? 恋人って」
「でも、私は律を傷つけるのが嫌で――」
「だからそれが自惚れだって言ってんでしょ。あんたの中で、彼氏の存在価値ってなんなのよ……あぁ、なんかすげえ疲れてきた。
あたし部屋に帰るから。そこの非童貞の頼れる男に何だって相談してればいいじゃない」
最後の一文に、弟のコンプレックスが垣間見えた。せめて勘違いくらい正してやりたい。のろのろ廊下に消えていった弟の背中を見て、
私はふとそう思った。
「すいません。癇癪持ちの妹なんです。戻ってくる前に、今日は帰られたほうが……」
少し感じの悪い言いかたになってしまったが、彼女は私の提案に逆らわなかった。
玄関外に出て篠崎を見送り、家の中に帰ってくると、キッチンで律が二人分のホットココアを作っていた。
「お疲れ」
差し出されたカップを受け取ってリビングのソファに腰かけた。テーブルから篠崎の使ったカップが消えている。律が流しに持って行ったのだろう。
「隣、いいか?」
遅れて入ってきた律がそう言ってきたので、無言で横に移動してスペースを作ってやった。悄然とした横顔に、私は尋ねる。
「さっき突然出てきたけど、大人しくしてられなかったのか?」
「無理だった。そこまでクールになれないって。つうか俺とあんたで何が違うってんだよ。全然理解できねえ」
怒りがぶり返してきたのか、弟は手に持っていたココアをごくごくと飲み干した。そして私に眼差しを向ける。
「今日ほど自分が童貞だってことを呪った日はないね。くそ。どいつもこいつも馬鹿にしやがって」
「篠崎さんだっけ? あの子はあの子なりに真剣だったよ」
「んなことは分かってるけどさぁ」
不平そうに言いながら、弟は私の肩に寄りかかってきた。パイナップル頭の先端部がくすぐったい。今も男だったら、さぞテンションが上がったことだろうが……。
弟の私のカップを指さし、
「それ、飲むの?」
「欲しければあげるけど」
「頂戴」
それぞれ持っていた容器を取り換えた。私はテーブルに置き、弟は結構なペースで飲みはじめた。それを見た私は、聞かずにはいられなかった。
「お前、そんなに甘いもの好きだったか?」
「さあ? 何となく体が欲しがってるというか……」
すっかり甘いもの好きの女になっている。弟が呟いた。
「今だけ、泣いてもいいかな?」
「いいんじゃない」
甘ったるい匂いが漂う部屋の中、秒針の音に混じって、耳元で啜り泣きが聞こえ始めた。
終わり
最終更新:2008年12月04日 22:21