無題 2008 > 11 > 24(月) ナガ

「明日なんて、要らなかった」
 それでも、生きたいと思った。誰かと笑いあったり、肌に触れたり、そんなことが、幸福だと気づくのが遅すぎた。

 窓辺でその男は立っていた。四十半ばだろう男の目は疲れきり、しかし肉を噛み千切るような凶暴さが奥にあるような気がした。
 日を浴び、その肌に陰影が浮かび上がり、やせこけて見えた。四十年以上生きていけば自分もこのような姿になるのだろうかと千田は思った。
 千田はまだ二十代後半で、四十過ぎの男が背負ったものを理解することは困難だと思っていた。しかし、それでも、千田は西と対峙しなければならなかった。
 生きていくうえでは避けてはいけないことがある。千田は、長い話を聞かなければならなかった。
 それが後に千田の血と肉になるものだと、本能で分かっていたからだった。
 千田が音声レコーダーのスイッチを入れると同時に、男が口を開いた。
「千田くん」
「はい」
「僕の告白は、罪だ。君はその罪を裁くことが出来るかもしれない」
「罪を裁くのは司法です。僕個人ではない」
 千田は、男の顔をじっと見た。
 その顔は能面のような無機質さと人形特有の怖気を漂わせ、生身の人間ではない気がした。そして、ふと思った。この男は人間をとうの昔にやめてしまったのではないかと。
「話をしよう。僕が犯した罪を……」
 そして長い告白が始まった。静かな、告白だった。
「あれは僕が十になるか、ならないかのことだった。当時僕が住んでいた家の近所に古い家があった。洋館だった。
しかしそこはとうの昔に売りに出されていて、薄気味悪かった。近所の悪がきも来ないような陰気な場所でね。
しかし、僕はそこが好きだったよ。暗く、冷たく、じめりとしていて、まるで僕の母のようだった。精神を病んだ
僕の母は常に空虚で冷たく、その手は僕に触れることさえなかった。
 愛さなかった、愛されなかった、そんな言葉で僕たち親子は語ってはいけなかった。母はそういうひとだったから。
不満はなかった。僕は、自分の母はそんなものだと分かっていたから。
 母の精神が安定し、母性を取り戻しつつあるとき、僕は耐え切れず、洋館に逃げ込んだ。あまりにも僕は空虚で
冷たい母になれすぎ、母性と正気を取り戻した母は他人だった。
 母を求め、僕は洋館に上がりこんだ。そしてある日、僕は美しい人に出会った。
 頬に傷がある、美しい女性だった。僕の母のように虚ろな目で、ひびの入った窓ガラスを眺めていた。彼女は僕に
気づいても何も言わなかった。
 世界に興味がない。そんな女性だった。病んだときの母と同じだった。僕を見ながら、見ていなかった。僕は彼女に
惹き付けられて行った。僕は病気だったのかもしれない。僕は、四六時中、彼女のことを考えていた。
 そしていつのまにか、彼女を殺したいと考え始めていた。彼女は、空虚でいてほしかった。僕の母のように健康的な
精神を取り戻して欲しくないと思っていた。傲慢で、愚かだった。だが、僕は愚かだから、自分の愚かさに気付くことが出来なかった。



 雪の降る夕方だった。僕は洋館にこっそりと忍び込んだ。そこには、生気のない彼女がいた。寒いのにシャツにスカート、裸足という
格好でね……。ああ、あの足の白さは忘れられないだろうなぁ……。
 冷え切った空気の中、僕はゆっくりと彼女に近づいていった。僕は包丁を家から持ち出していた。そして僕は彼女に突きつけた。
 すっと手をあげてね、彼女の喉もとにゆっくりと刃先を突きつけていった。彼女は僕の目を見た。ぞっとするくらい綺麗で、
からっぽの目だったよ。僕は冷静だった。まるで、いつも同じことをしているような冷静さでね。気味が悪いよ、自分自身が。
 そこで彼女が口を開いた。初めて聞く声だった。かすれていてね、殆ど誰とも喋らない生活を送っていたんだろうね。
 彼女は僕に言った。
 あなたは、明日が必要?
 僕はわからない、と答えた。すると彼女はうっすらと笑った。
 まだ貴方には分からないでしょうけれど、これから殺したい人間は生きていくうちに増えていくわよ。貴方、明日を生き続けて、
誰かを憎むことを覚えたほうがいいわ。人を殺すことはそれからでも遅くない。
 一字一句間違いない、彼女の発言だ。僕は彼女に魅入った。生とは程遠いような彼女が、そんなことを言うとは思わなかった。
 僕は包丁を降ろした。そして聞いた。
 あなたは誰かを殺したいと思わないのですか。
 彼女は軽く首を横に振った。長い髪が揺れて、ああなんて美しいんだろうと思った。
彼女は、何も要らないと言った。己の命も何も要らないが他人と関わるのはごめんだと言った。殺されることは厭わないが、
こうして目と目を合わせることは「関わる」ということだから、嫌だと言った――。
 それから、僕は彼女を殺せなくなった。
 僕は彼女に背を向けて走った。興奮と恐怖があったんだ。
 僕は殺人を犯さなかった。だが、踏み入れてはいけない場所にいってしまった。
 僕は翌日から洋館に行かなくなった。平穏な日常にかえろうと思ったんだ。慣れ親しんだ空虚に身をおかず、嘘っぽく見える
温かな日常で呼吸をしようと思った。
 辛かったよ。笑うことさえ、僕は、苦しかった。
 三十を過ぎたある日のことだった。ぼくはふと、朝の電車の通勤ラッシュのなかで思ってしまったんだよ。
 僕は誰も憎まずに生きてしまったんだ、と。
 急に馬鹿らしくなってね、それからおかしくなってね、大声で笑ってしまった。ああ、なんと馬鹿なんだろう、と。こどもの
ときに出会った彼女は憎めと言ったけれど、僕は全て受け流して生きてしまい、誰も愛さず憎むことなくただぼんやりと生きて
いく。なんて馬鹿だろう、と。
 笑いながら電車を降り、スーツの上着を脱ぎ捨て、ネクタイをむしりとって、それから駅のホームで笑った。
 太陽が明るくて、空はすかっと晴れたいい天気の日でね。
 僕は、そこで空虚な人間だと気づいた。
 本当に空っぽなのは母でも彼女でもなく、僕自身だった、と。
 帰りたいと思った――。
 それから、僕は失踪したんだ。あてもなく放浪し、道路で眠り、山の中を歩いた。新村君に出会ったのはそんなときだった。
 十代半ばのやせっぽちの子ども、という第一印象だったよ。目は暗く、しかし僕や母、彼女よりはまっとうに見えた。
 僕は新村君と会話しなかった。ただ、彼は僕を見ていた。僕はそうと知りながら、山の奥深くへわざと入り、生活した。罠を
仕掛けて野ウサギをし止め、食べられそうな果実をもいだ。しかし、僕は殆ど食事をしなくても生命を維持できるようになって
しまってね、殆どの食料は新村君にあげたよ。彼は成長期だったから、いつも僕に向かって両手を合わせて、それから食料を
もってどこかへ消えていった。そしていつも、そんな繰り返しで夜が来て眠って朝が来て起きてまた山を歩く。そんな生活が続き――。
 おや、と思ったんだよ。新村君は、女体化が始まっていた。突然女体化する「突発変形型」ではなく、徐々に変わっていく
「進行変形型」だったんだね。彼は僕と会うたび、その体の変化した部分を指差した。
 最初は喉仏、それから手、腕、足、腹、あご、胸、そして、下半身。
 完全に女性となった新村君は僕に言ったよ。
 変化するということは、自己の喪失に繋がると思った、と。だから家を捨て、家族を捨て、逃げるようにここへ来た、と。
 喪失したかい?そう聞くと、新村君は否定した。
 自分はどこまでも自分だと、言ったよ。変わる変わらないは所詮、他人が決めるものだと。自分は変わりたくても何かが変っても、
自分の根っこは変わらない。そう言って泣いたよ。美しいと思った。人間の顔だった。
 だから、失望してしまった。
 新村君は、僕と同じようにがらんと空いた穴のようなものを持て余していると思っていた。仲間だと、思っていた。しかし、新村君は
人間だった。
 帰ったほうがいいと言った。説得し、僕は少女となった新村君を背負い、山を降りた。女体化の影響で疲弊していたからね、歩くのは
危険だと判断し山を降り、山道まで新村君を運んだ。
背中で泣いていてね、しとしとと雨のように僕の背中を濡らしていた。
 呼吸をしている温かな人間。それを僕は全身で感じ取った。そして、山道に降りると新村君は僕の頬をその掌で挟み、泣いた。それは、
祈りのように思えた。
 空虚な僕は、がらんどうな僕は、その祈りも飲み込んで、消化できない。歯痒いと思った。
 そして、通りかかった車を僕は無理矢理停車させ、新村君を乗せた。
 僕を憐れんだ優しい瞳は、泣き崩れ、僕を見なかった。それでいいとおもった。
 僕は、孤独でしか生きられないから。
 僕は世界を見捨てたから、世界も僕に見切りをつけたんだ。それは仕方ないよ。
 だけど、新村君には、生きて欲しいと思った。
 誰かと笑いあい、恋をし、絶望を味わって、それでも立ち直って、少しずつ強くなって、そんなふうに日常に帰って欲しかったんだ。
 僕はそれから、また一人になった。
 自殺者の死体を見つけ、丁重に埋葬したときもあった。山に下りたのは、猪と間違えられて狩猟愛好会の人間にライフルで撃たれ、
病院に搬送されたからだ。



 新村君と出会ってから、四回、冬を越したときだった。
 入院中、僕は君をテレビで見た。
 君は代表だったんだね。女体化し、それを苦に自殺した十代の子どもたちの声を聞けと、君は戦っていた。傷だらけに見えたよ。
実際、ネットでの激しい中傷にあったと聞いた。
 その姿が、新村くんに見えたんだよ。僕は君と新村君を重ね合わせた。
 病院に入院中、沢山のことがあった。警察から連絡を受けて両親と弟夫婦が飛んできて、騒ぎになって。それでも僕はがらんどうだった。
 がらんどうだからこそ、僕は生きてこれたのだと思った。
 僕は中傷も罵声も心の奥に響かない人間だから。
 新村君は、逆に、感受性が強すぎたんだね。罵声を受け止めすぎて決壊してしまった。彼女が自殺したのは、僕に原因があると思う。
彼女に帰れと言ったのは僕だったからね。
 千田くん。
 殺せばいい。ここにはナイフがあるから」
 長い独白だった。
 千田は音声レコーダーを手にしたまま、固まっていた。男の顔は正常に見えた。
「正気ですか」
「さあ。僕は昔からまっとうではなかった気がする。だが、道を誤ったつもりはない。僕は、君の正義に裁かれたい」
「新村は……」
 声が震えた。
「貴方を愛していた。山の中で出会った貴方を。恋をしていたんです。彼女は日常にいた。それを非日常に変え、追い詰めたのは当事者
ではない俺たちだったんです」
 どくどくと、血が。
 ああ、あの赤い血が。
 あの子の体から。
 体が、破片になって、ああ、血が。
 千田の耳には、新村の母の声が響いた。混乱し、子どもを思い泣き叫んだ女の声が。
「自殺するなんて思わなかったんです」
 千田の体が震えた。
「線路に飛び込むなんて、思わなかったんです」
 千田の目から涙が零れ落ちた。
「俺は、友人の死を止めることが出来なかった。なのに裁けなんて、それはおかしい。裁かれるのは、俺なんです」
 いつも隣にいた、友人。肉片になるなんて、思わなかった。
「肉として千切れて、それから骨になって、あれが新村だなんて認めたくなかった。悪あがきのために俺は、ボランティアに身を投じた。
許して欲しかったんです。新村に」
 傍にいたのに、気づいてやれなかった。その無力さと俺は戦うから、どうか、新村、俺を許して。
「浅ましいんです。俺は、俺は、新村を殺したようなもんだ」
 泣きながら、窓を見た。光が射して、眩しくて目を細めた。そうすると余計に泣けてきて、涙が頬を伝った。
「許して欲しかったんです」
 許されるはずはないと分かっていたのに。
「怖かったんです」
 のうのうと生きることが許されるとは思わなかった。ぼろぼろに傷ついて生きていくことが贖罪になるのではないか。そう思って
始めた活動だった。
 正義ではなく、使命感でもなく、自分を駆り立てたのは、恐怖。
「この世界が怖かった」
 嗚咽が洩れ、千田は床に膝をついた。音声レコーダーを放り出し、体を丸めて嗚咽しながら泣いた。
「こわいんです」
 全てが。この世界が。他人が。自分自身が。全て。
「こわいんです。だから、戦ってきた。早く死にたかった」
 新村のいる場所に行きたかった。自死は選ぶ権利はないと思っていたから、殺されることを望んだ。
「千田君」
 温かな光が背中に降り注いだ。
「顔をあげてごらん。いい天気だよ」
 千田は泣きながら顔をあげた。男は窓の隣に立っていた。その窓から見える空は青く、綺麗だった。
「君も新村君も、泣くことが出来るいい子たちだよ。僕は泣けなかった。いつだって、泣くことなんかしなかったんだ。
出来なかったんだ。ねえ、千田君」
 光が眩しかった。目が潰れてしまいそうなほど、綺麗だった。
「君は生きればいい。光を浴びて、誰かと笑いあって。僕が出来ないことを君は出来る。それは奇跡だよ」
 涙が止まらなかった。男の声は優しかった。
「新村君のことは一生、理解不能のまま終わってしまうかもしれない。でも、それを君自身が責めることではないんだよ。
そして、新村君の自殺は君のせいではないんだよ。そう思って生きればいい。きっと新村君も君を憎んではいないだろうから」
「なんでそんなことが言えるんですか」
「新村君は全て捨てて山へ来たからだよ。多分、自殺するときも、あの子は何も持っていなかったのではないかと思う。憎しみも、
愛情も、希望も。持っていたのは」
「持っていたのは?」
「己のなかにがらんと開いた穴」
 男が自分の心臓を叩いた。
「僕と同じ穴が、開いた気がする」
男の声はあくまでも淡々としていた。激高などとは無縁のように感じる声と口調だった。
「あくまで僕の推測だ。新村君は、自分の喪失を恐れていたんだ。世界から隔離し場所に身を置くことは、喪失を防ぐ唯一の手段
だと思っていたんじゃないかな。
 帰すべきではなかった。日常に帰ることが彼女を追い詰め、穴を開けるなんて思わなかった。もしかしたら自己を喪失しかけて
いたのかもしれない。僕は全く分かっていなかった。彼女はどこかで幸福に暮らしていると思った」
 幸福。それを奪ったのは、俺たちだね、新村。
「千田君、君は生きなさい。君はちゃんと気づいている。大切なこと、人間としてのありかたを。だから君は傷ついてきたんだろう」
 千田は首を横に振った。自分はそんな言葉をかけてもらえるほど立派な人間ではない。
「俺は、俺は、新村を」
 呼吸をするのが苦しかった。
 目を閉じれば、新村の横顔が浮かんできた。凛とした少女だった、新村。
「苦しめたんです。不用意な言葉で」
「それが君の罪なら、やはり新村君は君のせいで死んだわけではないね。彼女はね、ちゃんと感謝出来る子だったんだよ。君を苦しめる
ために自殺なんてしない子のように思えるんだよ。彼女は突然、そんな気分に襲われたんだ。僕が子どものころ、洋館で女性に包丁を
つきつけたように」
   突風。男がそう言った。
「彼女は揺らいでいた。そこに突風が吹き、彼女が守っていたものを倒してしまった。そんな気がするんだよ」
「でも、もう戻れないんです。戦い続けていると、もう、休むことなんか出来ないんです」
「そうだね、そうかもしれない。ごめんね、僕はからっぽだから分かってあげられないけれど」
 男の手が千田に向かって伸ばされた。
「罵声も愚痴も全部僕に向ければいい。僕はがらんどうだから。自殺を考えられないほどの大穴を持っているから。君の言葉を受け止める
ことぐらい、容易いことだよ」
「俺にそんな権利があるのでしょうか」
「あるさ。君はいい子だよ。他人に全てをなすりつけたほうが楽なのにそうしなかった。わざと辛い道を歩んできた。君は新村君に憎まれて
なんかいない。あの子がそんな風に思うわけ無いよ」
 千田は男の手を掴み、それから幼子のように大声をあげて泣いた。
 ごめんなさいと何度も謝り、苦しかったと何度も訴えた。
 男の掌から体温が伝わってきた。それが、生きろといってきた。
 生きて、生き抜けと、言っていた。

終わり。


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最終更新:2008年12月05日 00:13
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