『犬のてのひら』(6) ☆

「…っは、……ぁん」

 浅見の唇が離れて、熱っぽい息が漏れてしまった。

 ベッドの上。俺に覆いかぶさっている浅見の顔をじっと眺める。

「片岡、先輩」

「やっ……もっと」

 切羽詰った声で俺を呼ぶ浅見にキスをせがむ。俺も元は男だから、浅見はとっくにこれだけじゃ足りなくなってるのに気づいてる。だけど今はもっとしていたかったんだ。

 また浅見の顔が寄せられて、俺はうっとりと目を閉じる。

 さっきからずっとキスばかりしている。

 気持ちをちゃんと伝え合っての初めてのそれは、今までしたやつよりずっと気持ちよくて……。

 最初は俺から仕掛けたキスだったのに、すぐに浅見にイニシアチブを取られてしまって好き勝手に口の中をかき混ぜられる。

「んぅ……ちゅ………あっ!」

 口蓋をくすぐられたり、舌の裏側をゆっくりとなぞられたりして、一気に身体の熱が高ぶってくる。

 浅見の手が動いて俺の耳を塞ぐ。コレは苦手だ。

 舌のぐちゅぐちゅっていう音が、頭の中に響いて……っ。

「や、あっ、あぁっ……!」

 身体の奥から湧き上がってくる何かを止めることはできなかった。

 口を塞がれたまま、腰がびくびく跳ねてしまう。

「やっぱり、キスが好きみたいですね?」

 すぐ近くでからかうような声で訊いてくる浅見。なんだか悔しくて何か言い返したいのに、俺の口から出たのは荒い息だけだった。

「続き、していいですか」

 まっすぐ見つめてくる浅見の目は、すごく強くて……。問いかけるものではない口調のそれに俺はただ頷いた……んだけど。

「…っ、ちょっと、待て」

 シャツの中に大きな手が忍び込もうしてきたところで、堪らず俺はそう言っていた。

「やっぱり嫌ですか?」

 不安げに眉を寄せる浅見に、俺は身体を起こしてから首を横に振る。

「自分で、脱ぐから」

 このままだと、全部浅見にされるきりになってしまいそうで。年上の意地というのも少しだけ混ざった俺の発言に、返ってくる言葉は無かった。

 目を見開いて、ついでに口までポカンと開けている浅見をじぃっと睨んでやる。俺が言うのはそんなに意外か。

「俺の身体じゃ、浅見はおもしろくないかもしれないけど…」

 男の時の俺に告白してきたことを当てこすった卑屈な考えが漏らして、俺はシャツを勢いよく脱ぎ捨てた。

 汗ばんだ肌にさっきつけたクーラーの冷気をひんやりと感じる。

 本当なら指も動かせないくらいに恥ずかしくて堪らないのに、あの薬の影響なのか浅見の視線を肌に感じることが、とても…気持ちいい。

 今度は下を脱ぐ。ジーンズのボタンに指をかけたところで、浅見が喉を鳴らす音が聞こえてきたけど、構わずにそれを脱ぎ去った。

 もうここで止めるつもりだったのに、何かに取り付かれたように腕が勝手に動く。手を自分の背中に回して、ほんの二ヶ月前までは必要の無かったもののホックを外した。

「あさみ……」

 呼ばれて、はっとしたように顔を上げた浅見の目はすごく興奮してるみたいで、欲情してくれてるんだと認めた瞬間、かあっと身体がまた熱くなった。

「つづき、してもいいぞ」

 また返事は無かった。かわりに俺は優しく押し倒される。

 まず触わられたのは腹。そこから探るように――這うような速度で俺の身体の上を指が滑ってゆく。

「ん…っ」

 初めてじかに触れられるその大きな手は、少し乱暴なのに、どこまでも俺の興奮を煽る。少しでも反応したところを執拗に撫でられて、あっという間に俺の息は上がった。

 腹から腰、背中に回った手がついに二つの膨らみに辿り着く。

「は…ぁ、やっ…んん」

 やや乱暴なのに優しく揉まれて、声が抑えられなくなってくる。瞬間、ビクンッと身体が跳ねて、俺は浅見の手を押さえていた。

「先輩?」

 怪訝な表情で覗き込んでくる浅見に俺は。

「今の…っ、やだっ」

「今の、ってちく…」

「言うなっ!」

 言葉を遮って、自分の身体を抱くようにそこを隠す。

 浅見の指がそこに引っかかった途端、どうしようもないほどに強い刺激――快感が襲ってきて怖くなったんだ。

 不意に落ちた微妙な沈黙。

 覆いかぶさっている浅見の顔をうかがえば、困った顔をして、俺をじっと見つめる視線にぶつかった。

 ――……もしかすれば、浅見はこのままやめてしまうかもしれない。

 そんな考えが浮かんできて、俺の口は自然に「ごめん」と動いていた。

「え?」

「俺がやだって言うのは…恥ずかしいだけだから……ほんとは気持ちよくて怖いだけだから。だから真に受けないでいいから」

 ……たぶん今の俺は真っ赤になってると思う。だけど恥ずかしいことより、つまらないことで浅見が引いてしまうほうのが俺は嫌だった。

 羞恥に押し潰されそうになりながら、やめないでほしいと伝えたのに、浅見は手で顔を手で押さえて固まってしまった。

 長かったのか、短かったのか。俺がうっすらと不安になりかけたときに、ようやく浅見がポツリと何かを漏らした。

「なに?」

「そんなふうに煽って……。もう止められませんよ?」

 興奮を隠し切れないというような掠れた声と、すごく強い視線。

 それをどこまでも嬉しく感じてる今の俺は、どこかおかしくなってるのかもしれなかった。


 自分で言ったことを早くも後悔し始めてる。

「そこ…、も、やぁっ…!」

 俺の胸に顔を伏せている浅見の髪を引っ張る。だけど、全然力が入らなくて、髪に絡めているだけになってしまう。

 さっきからずうっと浅見に乳首だけを弄られ続けている。手……だけじゃなくて口ででも。

 片方を指で、逆の方を舌で弄ばれるのは気持ちよすぎてっ。どうにかなりそうなほどの快感で頭がいっぱいになってる。

「ふあっ…!? やああぁぁ!」

 きゅう、と吸われた途端、胸から生まれた快感が一気に駆け巡って、痙攣したように身体が跳ねた。

「ここ、真っ赤ですね」

 そこから口を離して、だけどまだ指で撫でながら浅見が言ってくる。

「お、まえが……ゃっ、やったく、せに…」

「はい。そうですね」

 途切れ途切れになってしまう俺の言葉に、軽い返事をして、再び指を動かし始める。

「……ぅあんっ!」

 両方の乳首をこりこりと優しく挟み込まれて、ぞわぞわとした、そのくせ甘い感覚が襲ってきて、まともに息もつけない。

「先輩って、すごく敏感だったんですね」

 笑いを含んだような声にかっと血が上る。

「ちが…っ、…れはっ、クスリ、飲んじゃったからで」

「薬……?」

「ひあっ!? やっ、それ…やだぁ!」

 力が込められた指先で、両方の乳首を押しつぶされて…っ。

「これ、ですか?」

「っぁん!? ゃだ…って言ってる、のに」

「先輩の『やだ』は『気持ちいい』ってことなんですよね?」

「~~~~っっ!」

 言質を取られてしまっているから、これ以上何も言えなくなってしまう。なんでさっきの俺はあんなこと……。

「やっ! んぁ!」

 何かが腰の辺りで渦巻いてる。今までの比じゃない大きさのそれが怖くて、ぎゅっと浅見にしがみつくのに浅見は手を止めてくれない。

 それを勘違いした浅見がキスをしてきて、ギリギリだったダムが決壊する。

「やっ、あぁぁぁぁっ!!」

 言葉に出来ない痺れみたいなのが体中に伝わって、足まで勝手に動いた。

 ――気持ち、いい……。

 今のが女の絶頂らしい、と本能的に悟った。

「っは、はぁ……はっ」

 力が抜けて、浅見にしがみついていた手がぱたりと落ちる。

 たしかにイッたはずなのに、快感の波はいつまでも去ってくれない。男だったらとっくに興奮は納まってるはずなのに、ずっとジンジンしている。

 ――クスリ…のせいか? 胸だけでイッてしまったのもそのせ……。

 思考を中断。弛緩した身体に鞭打ち、上に覆いかぶさっている浅見を思いっきり押す。

 また浅見が指を動かし始めようとしていたからだ。

「うわっ!」

 いきなりな俺の動きをもちろん予想していなかった浅見は、無様に後ろに仰け反って、更にはしりもちをついた。つまり浅見は足を開いた状態になり…。

「ぁ…!」

 俺は小さな声を漏らしてしまった。

 浅見の中心は、それはもうこれ以上ないくらいにジーンズを押し上げていて……。

 浅見の下半身の状況を認めてしまった瞬間、ある行動が頭に浮かんだ。理性はそんなのはおかしいと喚いているのに、身体はふらふらと浅見に吸い寄せられる。

「あ、あの、先輩?」

 上擦った声を出す浅見に俺は。

「おまえ…ばっか、服着ててずるい」

 と言いつけて、浅見のジーンズをくつろげる。そして現れたパンツも無理やりずり下げて、俺は息を飲んだ。

「なに、コレ…?」

 俺だって元は男だ。どんなモノが付いてるか、どんなふうになるかなんてよく知っている。だけどこれは…っ。 「『これ』扱いはちょっと酷いです」

 苦笑しながら、やんわりと俺の肩に浅見の手が添えられる。息がかかりそうな距離にあるそれから離そうという意図に気づいて、俺はとっさに手を伸ばして……。

「いっ…、せ、先輩っ?」

 握って、改めてその大きさを理解する。

 ――これ、って身体の大きさに比例するんだっけ?

 ゆるゆると中ほどをこすりながら、ぼんやりと考える。逆の手で先っぽに触れるとびくんっと大きな反応が返ってきて、不思議な感情が湧いてくる。

 ――かわいい。

 ありえない感情に自分で驚かされた。

 男のころなら、少しでも触ろうものなら気持ち悪くてしょうがないはずのモノに向かって、こんな気持ちを抱くなんておかしいかもしれない。

 でも、大きいくせにピンク色で……あんまりグロテスクに感じない。

 ――クスリのせい、だから。

 自分に言い訳をする。さっき思いついて、そしてやってみたくてたまらない行動の理由はクスリのせいだ、と。

「ん…っ」

 ――あ。あんまり味しない…。

 口に含んだ途端に浅見のはまた大きくなった気がした。

「せ、せっ、せんぱっ……!」

 動揺の余り、まともな言葉になっていない。さっきまで俺のことを好き勝手してくれた浅見をこんなふうに慌てさせられて胸がすくような思いだ。

 浅見のを咥えてみたはいいけど、それ以上どうすればいいのかわからなくて、一旦口から出す。

 男だったころの記憶を辿ってどこをどうすれば気持ち良いのかを思い出しながら、舌を尖らせて刺激すると、ビクビクとした反応が返ってくる。

 なのに、ぐっと肩を掴まれて引き離されて。

「なんだよ」

 つい非難がましい目を向けてしまう。せっかくノってきたところだったのに…。

「先輩」

「なっ、なんだよ…」

 あまりにも強い目で見つめてくる浅見の迫力に、思わずたじろいでしまう。

「まだするつもりだったのに…。気持ちよくなかったのか?」

「…はい、気持ちよかったですよ。……だから、先輩にも同じことしてあげます」

 場に似つかわしくない爽やかな笑み。でも目だけは笑っていないという初めて見る浅見の表情にぞくっとした。

 この浅見が本気でどこかキレてしまっている状態らしいと気づいたのはもう少し後になってからだった。



「あっ、あぁ…、や、だっ…。もっ、やぁ!」

 自分で出してるとは思えないほどの甘ったるい声。

 くちゅくちゅ…と聞こえてくるいやらしい音に神経が焼ききれそうになってる。

「ね…っ、あさ…」

 さっきから何度も懇願しているのに、浅見はやめてくれない。

「やぁっ!? 吸、うなよぉ…!」

 浅見の口で、指で刺激され続けたそこは、自分でもわかるほどにびしょびしょになっている。

 下半身全部が快感に支配されたように痺れていて、まともに動かせない。なのに、浅見が送りこんでくる刺激はずっと鋭敏なままで…っ。

「気持ちいいですか?」

 俺の…そこから口を離して、浅見が訊いてくる。

「…………………っ」

 わかってるはずだろうと、涙目で睨むのに浅見は素知らぬ顔でいる。

「先輩のここってすごい綺麗な色してますね。それに…こう、すると俺の指を締め付けてきて」

「あぁん!」

「ほら、こんなにとろとろなのにきゅうってしてくるんです。先輩、気持ちいいんですよね?」

「――――っ、もぉっ、やだぁ!」

 わざと俺の羞恥心を煽るやり方でばかり追い詰められて、堪えていた涙がついに零れてしまった。

「えっ! せっ、先輩?」

 一度零れてしまったら止まってくれなくて、ぼろぼろと涙が溢れてくる。

 浅見とこういうことができるのは嬉しくて。浅見に触られるのはすごく気持ちいい。

 だけどこんなふうに遊ばれるように、おもしろがってされるのは怖くて、すごく悲しくて…やだった。

「ごめんなさい……。先輩、すいませんでした…」

 目元にキスされた後、ぎゅうと抱きしめられてくらくらしてくる。

 やっぱり俺はこうやって抱きしめられるのが好きみたいだ。

「もう、いいから。……浅見?」

「はい」

 後から考えれば恥ずかしいセリフだった。

「入れて?」


 浅見の熱がそこにあてがわれたのが、見なくても伝わってきた。

「力、抜いてください」

「ああ」

 精一杯息を吐いて、なるべく身体の力を抜こうと努力するけど、緊張のあまりどうしても身構えてしまう。

 ゆっくりと浅見が動き出して…。

「ひゃっ!?」

 ――今っ、ぬるん…って!

 浅見のが表面全部を擦っていって、じーんと痺れるような感覚が走った。

「あれ?」

「あれ、じゃな…! やっ、ちゃんと入れろよぉ!」

 ほんの少しだけ埋めた所で、くちくちと出し入れされて、もう恥ずかしいとか思ってる余裕もなくなった。

「……し。せんぱい、いいですか…?」

「いいからっ、早く!」

 掠れた声に答えた次の瞬間。

「――――――ぁあああっっ!!!」

「……っ」

 ――いた、痛い、痛い!

 まるで身体を真っ二つに引き裂かれた錯覚を感じた。

 乱暴にされたわけでもないのに、浅見の大きなものが一気に入ってきて。そのものすごい衝撃をどう逃がせばいいのかわからない…っ。

「うご…くな」

 腹に力を入れないように、ほとんど息でしかない声で浅見に訴える。それを浅見は聞いてくれた。

 そうしてるうちに俺の中が大きさに慣れてきたのか、だんだんと痛みがマシになってきて……。

「…ごめんなさい。もう、我慢できそうにないです」

「ひぁ!?」

 えっ、と思う間もなく、浅見が動き出した。

「あ、あぁ…!」

 ゆっくりと引き抜かれて、ぞわぞわと背筋が震える。それに耐えてるうちにまたゆっくりと入ってきて…。

「んっ、あっ、ぁさみ…!」

 何度か繰り返してるうちにどんどん動きがスムーズになっていって。

 最初あんなに痛いだけだったのに、今は、浅見が俺の中を擦りあげていくたびに、じっとしていられなくて身体がぶるぶる震える。

「あっ! くぅ…! や、きもちい…っ!」

 何も考えられなくて、思ったことが口から出てしまう。

「せんぱい…っ、かわいいです」

「やっ、見るな! やぁ…おなか、撫でるな…ぁ!」

 浅見が入ってる所の上から、そこを撫でられると余計に意識がそこに集まって、すごい感じる…。

「キス、して…」

 そう言おうとしたのとほぼ同時に口を塞がれる。浅見も同じことを考えてたんだ。

「んむっ、はっ、あ…!」

 上も、下もぐちゅぐちゅに絡まりあって、どこまでが自分なのかわからなくなってくる。

「…さみ、すき…」

 口の隙間から漏れた声は浅見に届いたみたいだった。

 浅見の動きが余裕のないものになっていって。俺も、もう…っ。

「せ…ぱいっ、俺も…!」

「あぁぁぁ……!」

 頭の中が真っ白になって、浅見の声は最後まで聞こえなかった。だけど何を言いたいのかは不思議と伝わってくる。

 もう、ぐちゃぐちゃになった感覚の中、浅見も俺でちゃんとイッてくれたのをどこかで感じながら、俺も昇りつめていた……。





『……………………』

 気恥ずかしい沈黙が流れる。だけどそれも嫌なものに感じない。一応、ちゃんとわかりあえているから。

 お互いに身支度を済ませて……というか、事が終わってからまともに動けなかった俺は、浅見に身支度を整えられてしまった。

 気だるいまま、浅見に背を預けてだっこされるように座っているこの状況はかなり居心地がいい。

「あの、先輩…?」

 不意に浅見が話しかけてきて、俺は視線を後ろに向けて応える。

「その……最中の時なんですけど…」

「……んだよ…?」

 ――あ、俺の声掠れてる。

 それはどれだけ声を出してしまったかの証明に思えて、一人で勝手に恥ずかしくなってくる。

「薬を飲んだ、って…なんなんですか?」

「えっ!?」

 ――なんで浅見がそれを…って、あ! そういえば……言っちゃってたかも……。

 どう誤魔化そうかと思案するうちに、浅見がさらに信じられないことを言った。

「俺たちまだ未成年なんですから。お酒は駄目ですよ?」

「…さ、さけ?」

 どういうことだ、と浅見に訊く。

「キスしたときに、なんか先輩の口から少しだけお酒の匂いがしたっていうか…。台所で倒れもしてたし、何か間違えて飲んだりしたんですか?」

 心配げに訊いてくる浅見の声に答えることができない。不意に母さんのニヤニヤ顔が頭に浮かんだ。

 ――あの、薬の正体って、まさか…!? だったら、俺が薬のせいだと言い訳してたアレコレは……っ!?

「先輩? 顔がすごい真っ赤になってますけど…?」

「ううううるさい!!」

 動揺のあまり、まったく悪くない浅見に怒鳴ってしまった。

 恥ずかしくて、だけどうまく身体が動かなくて、もう顔を押さえて丸まるしかない。

「先輩、もうお酒は飲まないで下さいね?」

 浅見があまりにしつこく追求してこないから、実は何もかもわかってるんじゃないかと疑ってしまいそうになる。

 だけど浅見はそんな奴じゃない。そうじゃなきゃ、ここまで俺が好きになるはずがない。

「……わかった」

 浅見のお願いに、俺はぶっきらぼうに頷いたのだった。








 ~エピローグ~

「クッキー、一袋百円、二つで百五十円でーす。よろしかったらどうぞー!」

 文化祭当日。

 予定通り作られたクッキーの出張売り子を俺は押し付けられていた。まあ、適材適所なんだろう。他の女子に任せたら、全然はけそうにないし。

「一階調理室でカップケーキの販売もしておりまーす! どうぞご来店ください!」

 今の声は浅見のもの。荷物持ち兼ボディガードという名目で引っ張ってきた。

 女体化者の多いうちの学校は、こういうときに不審者が寄ってくることがあるらしい。

 武道系の部活の奴らが見回りをしてるけど、やっぱり手が回らない所もあるだろうから……、とそれっぽいことを並べてみたが、ただ単に俺が浅見と歩いて回りたかっただけだ。

 実際仕事中なわけだから何ができるってことでもないんだけど、やっぱり好きな奴といっしょにいれるんだったら、そっちを選ぶのが普通だろ?

「人、多いですね~」

 立地条件が良いのか、うちの文化祭には毎年かなりの人が来る。

 例に漏れず、人が溢れている廊下を荷物があるだけに苦心しながら歩……。

「谷屋!!!」

 いきなり廊下に響き渡った大声に肝を冷やされた。

 驚いてそちらの方を見ると、かなり可愛い女の子にたぶん彼氏だろう奴が近づいてきて、そして手を繋いで歩き出した。

「………………」

 それを見届けてから、同じく立ち止まっていた浅見に無言で手を差し出す。

 何も言わなかったのに、浅見は俺が求めていることはすぐに察してくれた。

「行きましょうか」

「ああ」

 しっかりと浅見は手を握ってくれて、あったかい気持ちになる。

 この大きな、優しい手はどこまでも俺のことを幸せにしてくれる。

 わかっていたことを、また、再確認した俺だった。


                 P90小説  『犬のてのひら』 完

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最終更新:2008年06月14日 22:23
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