『犬のてのひら』後日談

 いらいらいらいらいらいらいらいら…………。
「? 先輩、どうかしたんですか?」
 ――いや、ちがうな……。
 心の中で渦巻いてる何かを自分で否定する。
 いやまあ実際いらいらしてる部分もあるけど、大部分は違うものだ。
「片岡先輩?」
 俺がこんなふうに微妙な気持ちを抱いてる理由は、もちろんコイツだ。
 浅見桐一(漢字覚えた)。学校の一つ下の後輩で、同じホームメイキング部で……。
 俺の、彼氏だ。
「片――」
「聞こえてるぞ、さっきからなんだよ?」
 色々ゴタゴタしてた文化祭・中間テストも終わって二学期の中弛みの時期。女子の冬服にも最近やっと慣れてきて……いやこれは関係ないな。
 夏休みの終わりごろに浅見となるようになって、もうすぐちょうど二ヶ月。
 ちまちまと溜まってきた不満が最近限界に達しようとしている。
「いえ、なんかずっとぼうっとしてるな、って思って」
「べつに、なんでもない」
 そうですか、と浅見は広げていた雑誌に目を戻していく。
 ――って、俺、『ずっと』見られてたのか…っ?
 なんでもない言葉の中に入っていた単語に、顔に血が集まってきそうになって慌てて頭を振って散らす。
 五日間の試験休み。このご時世でなんでうちの学校はあるのかわからないけど生徒側としては願ったり叶ったりの休みの、今日は二日目。
 今日も今日とて俺は浅見のうちに遊びに来ている。
「なあ」
 ――どうして……。
「え、なんですか?」
「ん……やっぱいいや」
 俺がそう言った時の、浅見のハテナマークを浮かべたきょとんとした顔が妙に可愛く見えて、俺は思わず吹き出してしまった。
 そのことに浅見はちょっとすねたみたいだったけど。



「ここまででいいから」
 断っても聞いてくれないから、俺はよく浅見に送られて家に帰る。
 地元でそんな危険があるとは思えないんだけど、浅見の気遣いが嬉しくて甘えさせてもらってるんだ。
「あ、そういえば先輩?」
「なに――」
――――ちゅ――――
 触れ合わせるだけの軽いキス。
「……っ、おまっ、家の近くなのにっ」
 たぶん、真っ赤になってしまった顔で腰を曲げた浅見に文句を言うと、浅見はすごく優しい笑顔を見せて「じゃあまた明日」と一言残して帰っていった。
 ――いつのまにあんなキザになったんだよっ…?
 たった今掠め取られた唇を押さえながら、言えなかった文句を心の中で呟く。
 幸いなことに人通りはゼロ。浅見はそれを知っててやったらしい。
 ――そんなふうに気配りが出来て、あんなキザなマネが出来るくせにっ!!!
 最近感じてるいらいらの正体なんてとっくに気づいてる。
 いらいら、じゃなくて、もやもや。
 浅見となるようになった夏休みのあの日からこれまで、身体的な接触……平たく言えばえっちぃことは何一つしていない。
 たまーに今みたいにキスしてくることはあるけど、それだけだ。
 ――いやまあ、それはそれで嬉しいんだけどさ……。
 もっとこう、なんだ、俺は…浅見の彼女、なんだから……なんて言うかその…。
「ふー……」
 一つ息を吐いて頭を冷やして、家のほうに歩き出す。
 今の状況はアレだ、浅見と初めて……ぇっち、する前の状況によく似てる。
 ――なんで手を出してこないんだあのアホウはっ!
 そう、浅見と経験した回数は最初の一回きり。
 あれから今日まで、見事なほどに何もなし!
 ………………これは、一般的に見てどうなんだろう? よそのみなさんはいったいどんな感じなんだ?
『よそはよそ、うちはうちって、けっこう真理だと思わない?』
 不意に母さんの声が頭の中に響く。それはかなり頷けるものだけど、この場合はあえてそれを無視した。
 他の人たちがどれくらいの頻度でいたしてるのかは知らない。そんなことを話題にすることなんか考えられないし。
 かなり感覚が抜けてきたといっても俺も元男。男の性欲というものを多少はわかってる。
 ――だからこそいらいらしてるわけだ!
 なんで浅見はあそこまで手を出してこないんだ!?
 そりゃまあ、色々忙しかったのもあるし……俺はあんまり色気がないかもしれないけど、一度もそういう空気にならないのは……いや、ちがうな。
 浅見がそういう空気になりそうな時にうまくはぐらかしてることになんか、いい加減気づいてる。
 ――嫌、なのかな…?
 俺と、そういうことをするのは……。
 そんなことはない、だってたまにするキスはほとんど浅見の方から仕掛けてくるんだから。
 だから嫌がられてる、とかじゃないと……思う。そうでも思わないと、苦しいから……。
「あーあ……」
 思わず口から変な声が出てしまう。
 はしたなくて、恥ずかしい話だけど、俺はまた浅見と――――。
 けど、浅見は手を出してこない。前は理由があったから自分から動けたけど、今度はただ自分の一方的な要求だ。
 浅見と付き合うようになった今も『抱いてくれ』とか『Hしろ』なんてセリフは恥ずかしくて言えるわけがない。
 それに……浅見が望んでなかったら? キスはいいけど、それ以上のことは嫌だったら?
 そう考えれば、怖くて自分から動くことなんか出来ずにいたんだ。
 …………………………今日の今日まではな。







 試験休み三日目、俺は今日も午前中から浅見のうちにお邪魔していた。
「お昼は焼きそばとかでもいいですか?」
「……………………」
 でも昨日までとは比じゃないくらいに緊張している。なぜか、と言えば……。
「片岡先輩?」
「うあ!?」
 ひょっこりと浅見の顔が視界に現れてびっくりさせられる。
「いいきなりなんだよ!?」
「…あ、いえ、お昼御飯は焼きそばでいいですか?」
 頷くと浅見はキッチンの方へ消えてった。
 言い忘れてたけど浅見のご両親も共働きで夕方まではいない。というか今は日本にすらいないけど。
 聞くところによれば、テレビのプレゼントコーナーに当選したらしく、現在はヴェネチア(だったっけ?)に旅行中だそうだ。
『俺は日本の温泉のが好きですし、そっちのが落ち着けませんか?』
 同行しなかった浅見の言い分はこうだったが、俺は真の理由を知っている。
 ただ単に『言葉が通じない所に行くのが怖い』というへたれた理由だ。まあ俺も日本から出る気はないから特に何も言わなかったけどさ。
「…………はあ……」
 そんな関係のないことを考えてみても、やっぱり緊張が消えることはなかった。
 ――やっぱり、やめたほうがいいのか……?
 消極的な考えも浮かんできて……「でもやっぱり」と何度も自分の中で考えが反転する。
 悪い癖だと思う。
 いきおいばかりが先に立って……そのくせいざという時になってからぐだぐだと悩んでばかりいる。
「やめよ……」
 頭を振って、答えが出ない堂々巡りな思考を切り捨てる。後から悔やむから後悔であって、何もしてないうちにこんなこと考えるのは無駄なんだから。
 持ってきたバッグを引き寄せて、確認するように中を覗く。栄養ドリンクのものと同じくらいの大きさの茶色い瓶。
 それがちゃんと入ってるのを確認して覚悟を決める俺だった。







 この瓶の中身は『媚薬』。
 誕生日近いくせに手を出してこない浅見の女体化を防ごうとして、母さんに貰ったものだ。…………なんか、改めて言い直すとおかしいところだらけだな。
 なんで母さんがそんなものを、とか、それ以前にこれは本当に薬なのか、とかいう疑問はいまだ晴れないままだけど、これを使えば今のこの状況は変わると思う。
 前に浅見に使おうとして、自爆して自分で飲んでしまって……あの時の俺は自分のうちに隠してた気持ちとか言葉とかを全部浅見にぶつけてしまっていた。
 絶対に自分から言ってやるもんかと思ってた言葉も、絶対に恥ずかしくて取れない態度とかも……。
「だ-ッ!!!!」
 それはともかくっ、そのことを踏まえて思ったわけだ。この『薬』はどっかしら理性の働きを鈍くするものだろうとな。
 だからこれを浅見に使えば、少なからず浅見の本音が聞けるかもしれない。
 本当のところは俺のことを、どう思ってるんだと。
 なんでキス以上のことはしてくれないんだ、と……。
「……卑怯だよな~」
 こんなふうに理由を並べてみたとしても、俺が最低なのはわかってる。
 恥ずかしいから。怖いから。だから浅見に直接聞かずに、こんな手段を取ろうとしているんだ……。
 浅見のことを信じてないのか、と責められても何も言えない。こんなことをしようとしている時点で、そう言われるのはしょうがないと、わかってる。
 わかってるのに……これ以外の方法が思いつかなかったんだ。
 ……浅見に好きだと言われても、両想いになっても、キスをしても……いつまでも怖くてしょうがない。
 浅見は優しいから、優しすぎるから、人のことを嫌な気分にさせないように自分のことを押し殺すことくらい普通にしてしまう。誰に対しても。
 ――もしかしたら俺に対しても……。
 そんなことあるはずない。そう思うのに、どうしても否定しきれないのは……自分に自信がないからだ。
 浅見のことが好きなのに、それをうまく伝えることができない。
 何も浅見に返すことができない俺なんかを、いつまでも好きだと思ってくれるなんて限らない。
 だから今のうちに、浅見の本音を聞きたいんだ。
 なんで手を出してこないのか。
 浅見は…俺のどこを好きなのか、を……。
「片岡先輩、やきそばできましたよ」
 キッチンから戻ってきた浅見の声。
 その声に答えながら、俺は瓶をポケットに忍ばせて立ち上がった。









「浅見、これ多すぎ…」
 さて浅見がお昼御飯にと作ってくれた焼きそばだけど、皿に盛られたそれを見ていきなり苦情を漏らしてしまった。
「あれ? そうでしたか?」
「そうでしたか、じゃないだろっ。どう見たって浅見の皿と同じくらいあるし!」
 大型犬のような体格をしてる浅見は、もちろんその体の大きさに見合った分だけよく食べる。昔ならまだしも今の俺が同じ量を食えるはずないだろう。
 そういうわけで食えない分を浅見の皿に移動。
「……それだけで足りるんですか?」
 信じがたいと目と声で訴えてくる浅見にうなずきを返す。俺の皿に残った焼きそばは最初の半分以下。これでもけっこう多いほうかもしれない。
「それじゃ、いただ……」
「あっ!」
 いただきますと言おうとしたところで思いっきり浅見に遮られる。
「どうしたんだよ?」
「飲み物、持ってくるの忘れてました…」
 ――それぐらいであんな声だすな。
 だけどこれは俺にとって好都合だった。
「じゃ、俺が取ってくる」
「え、いいですよっ、先輩は座ってて…」
「結局焼きそば作るのなんにも手伝えなかったんだからそれぐらいさせろ」
 少しだけ威丈高に言えば、「それじゃお願いします」と浅見は思ったとおりに折れてくれた。
 そんな感じでキッチンに来てみれば、浅見の言ってた通りに流しのところにグラスが二つ取り残されてた。
 ――中身は、ブドウジュースか。
 偶然かどうかはわからないけど、それは俺の好きなやつで少し嬉しくなる。









「さてと…」
 おもむろにポケットから瓶を取り出す俺。
 ここは単純に飲み物に混ぜて浅見にコレを飲まそうと思ったんだけど……。
 ――どれくらい入れればいいんだ?
 前に俺はスプーン一杯くらいで効果が出たけど、それは『媚薬』だと知ってたせいでサブリミナル効果があったかもだし、
 それに浅見のが体が大きいんだから、効果が出るにはもっと量が必要かもしれないし……。
『キスしたときに、なんか先輩の口から少しだけお酒の匂いがしたっていうか…。台所で倒れもしてたし、何か間違えて飲んだりしたんですか?』
 あの時の浅見の言うことを信じるなら、コレにはアルコールが入ってるっぽい。
 俺はまったく飲んだことがなかったお酒の味を浅見がわかったというなら、浅見は味がわかるくらいにはお酒を飲んだことがあるということになる。
 つまり、やっぱり俺より量が必要ってことで……。
「う~……?」
 ひとしきり悩んだところで結局わかるものではなく。
 とりあえず薬を入れる分だけ片方のジュースを飲んで減らす。
 そうしてからまた考えるけど、これ以上時間がかかると浅見が不審に思ってこっちに来てしまうかも知れない。
「…まぁ、いいか」
 あんな図体してるんだから俺よりもっと抵抗力あるだろ。
 そんな軽い気持ちで、減ったジュースの分だけグラスに注いだら瓶の中身はほとんど空になってしまった。
「…………平気、だよな…?」
 自分に言い聞かしてグラスの中身をかき回す。
 ――出すの、間違えないようにしないと。
 そんなことを思いつつ、俺は二つのグラスを持って浅見のいる部屋へと戻っていった。


 ……まあ、わかってると思うけど、結論から言おう。
 ぜんぜん平気じゃなかった。








 とりあえず言い訳をさせてくれ。
 もう言ったけど浅見はその体格に見合うだけ量を食う。もちろん飲み物も方もけっこう豪快に飲んだりすることがある。
 でも、いま浅見が喉の渇きを訴えてるとは知らなかったんだ。
 まさか一気飲みするなんて思ってなかったんだっ!
「浅見っ!? 浅見っっ!!」
 返事がない、ただの――ってそんなこと考えてる暇はないっ。
 薬入りジュースを一気飲みした瞬間、浅見は少しだけ眉をしかめて、味がおかしいから、と俺のグラスを取って、キッチンに行ってしまった。
 そしてすぐに戻ってきた浅見の手には麦茶入りのグラス。
『ジュース、悪くなってみたいです』
 へらりとした笑みを見せて、浅見は俺にグラスを手渡してきた。
 薬は効かなかったのか、とこの時に抱いた俺の疑問はすぐ後に否定されることになる。
――――ガタン!!――――
 浅見が作ってくれた焼きそばに夢中になってた時だった。
 目の前からでかい音が聞こえてきて、びっくりして浅見のことを見ればテーブルの上に突っ伏してる浅見。
 息が荒くて、眉間にしわも寄せた苦しげな表情。
 それを見て一気に顔から血の気が引いていくのを自覚した。
 どんな物かもわかってないくせに、俺が気軽にあんなに薬を入れたから。だからこんなことになってしまった……っ。
「浅見ぃ…!」
 近くにいって揺すっても返事はなくて、浅見は不明瞭なうめきを漏らすだけだった。
 恐怖が、這い上がってくる。このまま浅見がどうにかなってしまうじゃないか、と。
 ――救急車…っ!
 混乱した頭でようやくその存在を思い出して、電話のもとで向かうべく俺は走り出した。
 いや、そうしようとしたところで、何かに手首を掴まれて止められてしまった。

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最終更新:2008年06月14日 22:23
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