1.春の海沿いの道は、さわやかで、どこまでも続いて行くようだった。
時折強い海風が吹き、俺の気分も何処か遠くに吹き飛ばしてくれる。
2.俺の隣で車を運転する親父は、やはりどこか楽しそうだった。
俺の名前は佐々木康太。
中学まで住んでいた東京を離れ、地方の高校に4月から通うことになった。
親父から離れて一人暮らしとなる。いや、一人暮らしでは無いか。
横を見ると、親父がタバコに火をつけるところだった。
3.「なぁ。」
「ん?なんだ。」
「俺にも一本くれ。」
「構わんが・・・。身長伸びなくなるぞ。」
「別にこれ以上大きくなろうとは思わん。」
「お前には向上心てものがないのか。」
「使い方違うだろう・・・。170あれば充分だ。却ってでかすぎると面倒臭い。」
そういいつつタバコを取り出し火をつける。
窓から煙が抜け出す。車内にいるのを嫌がって、逃げていくようだ。
俺と一緒だな。
4.「康太。」
「なに?」
「今更だが、本当に良かったのか?」
「・・・。本当に今更だな。」
「まぁ、そうなんだが。なんというか、俺が無理矢理行かせることにしちまったみたいでな・・・。」
「何度も言ってるだろ。俺だってこっちの高校の方が良いんだよ。」
「なら、良いんだが・・・。」
俺はその話は終わりだと言う様にタバコをもみ消した。丁度信号で車が止まり、親父もそれに習う。
5.お前も、俺の通ってた高校に行かないか?
そんなことを親父が突然言い出したのは去年の11月頃だったか。
聞くところによると、親父の旧友が今度海外に転勤になったそうな。
息子は日本に置いて行くつもりだが、一人にしておくのも不安だと、ルームシェアの相手を探していたらしい。
その話に乗ったのが親父だ。
そう、俺はこれから高校生活3年間、親父の旧友の息子と2人暮らしになるのだ。
6.名前は相原五月(さつき)。五月に生まれたからという、何のひねりもない名前だ。
小さいころは親父に連れられて相原さん家に行ったときはよく一緒に遊んだものだ。
確か、妹もいたような気がする。
最後に会ったのは小学3、4年の時か。
おとなしくて、室内遊びを好むやつだった。
逆に外で大暴れするのが日常だった俺とは180度性格が違うような気がしたが、不思議と馬が合った。
良くも知らないやつと二人暮らしはごめんだが、五月とならばまあ、いっか、ってところだ。
男二人なら気楽なもんだし。
7.「着いたぞ。」
「おっ、結構いいアパートじゃん。」
「まぁ、男二人住まいだからな。それなりに広いところを用意した。」
「そりゃどうも。早速中に入ろうぜ。」
「そうだな。とりあえず、持てるだけの荷物持て。」
「おう。宅配便は何時着くんだっけか?」
「明日には着くはずだ。」
そんな会話をしながら階段を上がっていく。
部屋は3階。階段の奥の少々死角になった場所にエレベーターもあるが使う必要はないな。
8.303号室。名札はまだ入っていない。
親父の言うとおりなかなかの広さだ。
二部屋。ダイニングキッチン。トイレ、バス別。
まだテレビや、冷蔵庫、レンジすらない状態だが、
明日荷物がくればそれらの問題もなし。
そして、なにより窓からは綺麗な海が見えた。
逃亡者の潜伏場所としては十分過ぎる
9.「五月・・・相原さん達も今日来るんだよな?」
「あぁ、そうだ。入学式まで一週間。丁度いいぐらいだろ?」
「まぁね。」
「五月君はタバコ嫌いだったっけか?」
「親父の煙から逃げてたような気はする。」
「なら、お前も吸うときは気を使えよ。」
「分かってるよ。部屋を黄色くするわけにもいかないし。」
そういいながらも遠慮無く二人してタバコに火をつける。
まだ、暫くは来ないだろう。二人して意味も無くそう考えていたが・・・。
10.ピンポーン!
「チャイム?相原の奴、もうきやがったのか。」
「そうみたいだな。」
ガチャッ。
ドアが開く。そこには俺の記憶と変わらない相原さんがいた。
11.「よっ、佐々木。久しぶり!」
「相原ぁ!元気だったか。」
「おうよ。お前も元気そうだな。」
「当たり前だ。それだけが取り柄だからな。」
「はっは。確かにな。あがるぞ。」
「おう。あれ?五月君は?」
「・・・。すぐに上がってくる。」
「そうか。」
「なぁ、相原。実はちょっと今回の件に問題が起きてな。」
「仕事の話か?」
「違う。・・・まぁ、康太君なら大丈夫だと俺は思っているんだが。
いかんせん理由が理由だからな・・・。」
「歯切れが悪いな?どうした?」
「実は・・・。」
そんな相原さんの言葉はドアが開く音と、明快な声に遮られる。
「あっ、康ちゃん!お久しぶり!」
12.うん・・・。なんだ、ちょっと待て。
俺を“康ちゃん”などと、可愛らしい呼び方をするのはこの人生で一人しか出会っていない。
でも、今俺を“康ちゃん”と呼んだのは明らかにそいつではない。
セミロングの黒髪にロングのスカートを来た美少女。
俺の人生でこんな子と出会ったことは断じてない。
「相は・・・ら?」
「佐々木、すまん。五月は、・・・女になっちまった。」
15、16まで童貞だった男は一部女になる。
どうやら、今、その不思議な現象を俺は目の当たりにしているようだ。
13.「康ちゃん久しぶりだね〜。康ちゃん全然変わってない♪」
「そりゃ、ね。・・・お前は随分大げさに変わったな・・・。」
「うん。どう?可愛くなったかな?」
「そういう話ではなくて、もっとちゃんと最初から説明しろ。」
「う〜ん。私的には、康ちゃんが男で嬉しいの半分、切ないの半分ってとこかな?」
「何を言っているんだ?」
「だって、康ちゃん、女にならない行為をしているってことでしょ?」
「・・・。まだ、16前だ。分からんだろ、そんなことは。」
不意に触れられたくないものに触れられ心に黒いものが広がる。
それを打ち消すように、そっぽを向いて、タバコに火をつけた。
奥の部屋では親父と相原さんがなにか話しているようだ。
14.確かに、五月は女々しい所が存分に有った。
それでも何処か強い意志を持ち、自分が決めたらガンとして譲らない、立派な男だった。
それが今や、どう見ても女にしか見えない。
聞いたところ、変わったのはつい一週間前の話だそうだ。
誕生日の2ヶ月前だったため、本人、家族含めて大いに驚いたとのこと。
女体化するとそれに伴い、精神的というか考え方も女性化するという話しは聞いたことがある。
事実、中学の早いうちに女体化した奴の中にはすでに彼氏がいる奴すら存在する。
だから、変わるのもそうおかしくは無いはずだが、たった一週間でこれっておかしくないか?
15.「康太。ちょっと来い。」
「何?」
「おまえさ、これ、どうする?」
「親父がうろたえるな。みっともない。」
「そうだが・・・。まぁ、可能性としては有り得たよな。考えて無かった。」
「奇遇だな。俺も全然考えてなかった。相原さんはなんて?」
「相原は、お前を信じていないわけではないが、やはり二人っきりにするのには抵抗があると。」
「そりゃ、そうだ。じゃ、どうする?どちらかが別に家探すか?」
「それが筋なんだろうが、今から探すのは厳しいだろう。」
「確かにね。」
「なにより、五月く・・・いや、五月ちゃんはお前と一緒に暮らすのを楽しみにしているそうだ。」
「ちょっと、待て・・・。それって・・・。」
「取り敢えず、予定通りに行く。学校には俺がなんとか説明しておく。」
「待て。俺の意見は?」
「ウチだって裕福じゃない。お前の言いたいことは十二分に分かるが。」
金の話しを出されるとつらいが、良いのか、これ?
16.何かあればすぐに連絡をよこせ。そう言葉を残し、親父と相原さんは帰っていった。
部屋には五月と俺だけが残されている。
楽しそうに鼻歌を唄いながら荷物を片付けている五月を横に取り敢えず、ベランダでタバコをふかす。
どうしろと、言うのよ、これ。
吐き出した紫煙はまるで俺の思考のようにまとわりついて離れない。
春の日差しは暖かく、風すら吹いていなかった。
17.学校の制服を取り出した五月はそれを持ったまま俺に近づいてくる。
「どう?康ちゃん。セーラー服だよ。」
「・・・そうだな。見れば解る。」
「そうじゃなくて。似合う?」
「辞めろ。こちらはまだ、色々と混乱してる。」
「う〜ん、当ててるだけじゃ解らないね?」
「そうじゃなくて・・・。」
ガサゴソ。
「何してる。」
「いや、着てみようと。」
「俺の目の前で脱ぐ気か?」
「いや〜。康ちゃん赤くなってる〜。今更そんなの気にする仲じゃないじゃない。」
「誤解を生むような発言は止めろ。わかった。タバコは終わりにするから。」
「ヘっヘ〜。さすが康ちゃん。判ってるう!」
携帯灰皿に放り込む。今度足つきの灰皿を買ってベランダにつけよう。
完全に室内で吸う事が出来なくなった俺はそう考えた。
18.学校が始まるまでの一週間は天国であり地獄であった。
完全に女性化したと思っていた五月だが、やはり、まだ男だった頃の名残が消えないようだ。
- 俺がわざわざノックしているのに着替え中でも平気で俺を招きいれようとする。
- 最初の2〜3日は一緒に風呂に入ろうと言い出す始末。
- こちらが照れていると、『康ちゃん可愛い〜!!可愛すぎる!!』と抱きついてくる。
などなど・・・。挙げれば切りが無い。
確かに昔っからの付き合いとはいえ、
5年近く会っていなかったのだから、俺にとっては女にしか見えない。
そして、今日からの学生生活を考えるとまた気が重くなる。
ベランダでのタバコも増えた気がする。
今日も煙は俺からまとわりついて離れないのだった。
19.「康ちゃん〜。準備できた?もうそろそろ時間だよ〜。」
「とっくに出来てるよ。」
ガラッ
「お前も準備万端だな。」
「まぁね♪どう?セーラー似合うかな?」
「いいんじゃないの。」
「へっへ〜。ありがとう。康ちゃんもようやく素直になってきたね。」
「違うな。慣れただけだ。」
「ふ〜ん。つまんないの。学校どうかな〜?楽しみ!」
「そうだな。」
「一緒のクラスになれるといいね!」
そう笑う五月の顔をまともに見ることが出来ない。
親父以外で、俺に好意のこもった顔をくれる奴はここ3年ぐらいずっといなかったからだ。
どうしたの?と心配そうな五月に、何でもないと返すと二人で家を出る。
20.「そういやさっ、五月。」
「なに?」
「おまえん所、妹さんがいたよな。確か・・・淳ちゃん。」
「・・・うん。」
「元気にしてるか?」
学校へと行く道すがら。なんでこんなことを聞いてしまったのか。
いや、いつかは聞いていたことなのだが。何故このタイミングで聞いてしまったのか。
21.「淳はね・・・。」
「・・・どうした・・・?」
「淳、死んじゃった。」
五月はうつむくと小さく呟いた。
22.俺の記憶の淳ちゃんは明るく、優しい子だった。
確か、誕生日は五月の1週間後だったはず。まとめてお祝いされると、二人して文句を言ってたな。
俺らの2つ下。小学校時代の2つ差は大きい。
その為、そんなにいつもつるんでいた訳ではないが、たまに三人で遊んだものだ。
今思い返しても元気な笑顔が蘇る。
死んだ・・・?
23.「一年前の話。交通事故で。」
「そう・・・、だったのか・・・。」
「うん。いつまでも引きずるわけには行かないんだけどね・・・。」
「ごめん。」
「謝らないで。大丈夫だから。」
行こう?という声。つらそうな笑顔の五月に付いて初めて高校の門をくぐるのだった。
24.その日の五月はずっと落ち込んでいた。
俺が淳ちゃんのことを思い出させてしまったからであろう。
せっかくの入学式だというのに、五月の笑顔を校内で見ることはついに無かった。
五月の笑顔。それはこの一週間であっという間に俺の日常になっていたようだ。
あんなに楽しみにしてたのにな。友達とか出来るかな、五月。
幸運にも同じクラスになった五月の座った後ろ姿をずっと見つめていた。
25.そうか。解った気がする。
何故五月がああも、女の子になりきろうとしたか。
俺と一緒だったのだ。
26.大事なものを無くし。逃げ出したくって。
俺にとってはココに来たこと。
五月にとって女になったこと。
27.それでも一人になりたくなくって。誰かに必要とされたくて。
俺にとって、それが五月であったように。
五月にとってそれが俺で。
28.なんだかんだで、俺も五月も楽しく学生生活を送っている。
慣れない地方生活の俺。
慣れない女性生活の五月。
それでも友達は出来て。
笑顔も浮かべ。
それが例え偽りでも、いつか本物になるはずだから。
29.五月の誕生日を一週間後に控え、誕生日どうしようかなと放課後の教室で考える。
五月は今や俺の一部だ。あの笑顔は俺の一部だ。
まとまらない考えに、俺の身体はニコチンを欲し、学校を後にする。
30.ニコチン補給と、夕飯の食材補給のために一度家で着替え、近くのスーパーに繰り出す。
その前に駅前の喫煙所で一服。
夕陽は澄み切ってとても綺麗だった。
31.すいません。の声に振り返る。
黒髪ポニテの可愛いお姉さんがいた。
火、貸してもらえませんか?
うなずいてライターを渡す。
ありがとう。と火をつけて旨そうに紫煙をくゆらす。
しばらく見とれていると、いつの間にかお姉さんの近くにひょろっとした男があらわれた。
先輩、タバコいつやめるんですか。
いや、これは・・・。ちょっと・・・あの・・・。シュウ!ちょっと待って!
あきれ顔の男の後を追って、お姉さんは吸殻を灰皿に捨てて走っていった。
吸殻は灰皿から外れて地面に落ちる。
俺はそれを拾って灰皿に捨てる。
うらやましいなと、思い。
それを自分がまだ望んでいるのに驚き。
そして、その思いに五月がいるのにも驚いた。
32.いつものように階段を上がり、ドアを開ける。
お帰り〜。の声。
誰かがいる幸せ。
まだセーラー服の五月が部屋から出てくる。
荷物を抱えて部屋に上がろうとすると、
五月が手伝おうと近づいてくる。
ドサッ。
33.「いててて・・・。」
「何故、俺にタックルをかます?恨みでもあるのか?」
「足がもつれただけだよ。」
「いいからどけ。重い・・・。」
「シツレイな。よっと・・・。あっ!」
ドフッ!
「いててて・・・。」
「それはこっちの台詞・・・。」
言葉が止まる。五月の声が近くて、俺の声も近かったから。
34.夕陽を浴びた五月の顔は一面真っ赤だった。
俺の顔も真っ赤だろう。
それを夕陽のせいにするのは、少々卑怯だろうか。
ごめん。と退こうとする五月を引き寄せる。
かたわらで見れば影のシルエットが、英語の時間に習っただまし絵のようかもしれない。
35.「康ちゃん・・・。」
「嫌か?」
「えっと・・・。」
「横、向くな。」
「だって、恥ずかし・・・」
五月の言葉は俺の口によって途切れた
36.12時間ずれてなった目覚し時計により、俺と五月はそこまでで止まった。
ご飯作ろっ!と慌てた五月に、おうっ、旨いの作るぞ!と慌てた俺。
今日ばかりは、台所でタバコをふかす俺にお咎めは無しのようだ。
換気扇に消える紫煙を見つめた後、
もう太陽沈んでるよな?っと五月と自分が写る鏡に心の中で問い掛けてみた。
37.五月の誕生日。
五月より一足早く帰宅した俺は帰り道で購入したケーキとクラッカーを準備する。
金もないし、大したプレゼントも買えないけど、五月ならきっと喜んでくれるはずだ。
暫くしてドアの空く音。
それが五月であることを確認すると、クラッカーを鳴らす。
38.パ〜ン!!
「うわっ!」
「よっ。誕生日おめでとう。」
「びっくりした〜。康ちゃん、どうしたの?」
「だから、誕生日。」
「!ケーキまで用意してくれたの?」
「おう。」
「ありがとう!」
五月が俺に抱きついてくる。
39.ボフッと五月を抱きかかえる。
えへっ、と笑いこちらを見上げる五月。
優しい笑顔で五月を見る俺。
自然に顔が近づき・・・。そして・・・。
40.ぴたっと、五月の顔が止まる。
「どうした?」
何も言わない五月。
「えっと、ごめん。嫌だったか?」
五月の両目からは、つっと涙が流れていた。
「・・・どうし・・・た?」
ドンっと俺を突き飛ばすと、五月はドアを開け、外へと飛び出していった。
41.あまりの事態に驚き、取り敢えず、五月を追い、外へ出た。
五月はすでにいなかった。
一通り、近所も探したが、見つけることは出来ず。
もしかすると、もう帰っているかもと、願いをかけて家にもどる。
しかし、出迎えてくれたのは五月ではなくて、電話のベルだった。
42.「もしもし・・・。」
「やぁ、康太君か?」
「相原さん!・・・お久しぶりです。」
「五月はいるか?誕生日のお祝い。電話ぐらいしか出来ないからな。」
「えっと・・・すみません。今ちょっと出かけてて。」
「そうか・・・。それは残念だ。仕方ない、また夜にでもかけ直すよ。」
そういう相原さんに、待ってください!と続ける。
いい機会だ。ヒントを少しでも集めておきたかった。
43.「どうした?」
「・・・五月から聞きました。」
「ん?何をだい?」
「淳ちゃんのこと・・・。」
「そうか・・・。」
「はい。なんと言っていいか・・・。」
「・・・辛いことだったよ。俺にも、家内にも、五月にも、そして淳にも。」
暫く、相原さんと淳ちゃんの思い出を語る。
44.「五月はね、康太君には自分が言うからって言ってな。黙っていてすまなかった。」
「そうなんですか・・・。」
「あぁ。五月と淳は仲良かったからな。五月は淳のことを何でも知っていた。」
「確かに、仲の良い兄妹でした。」
「・・・。俺が言うことではないかもしれないが、淳のために言っても良いかい?」
「何をですか?」
「淳はな、康太君のことが好きだったんだ。」
45.あぁ、そうか。なんとなく解った。
本当に仲の良い兄妹だったもんな。
お互いの幸せの為なら、お互いを犠牲にしてしまいそうな。
なにも起こらない、平凡な人生ならそれは大した形を持たないだろうが。
五月はそれを形にしてしまったのか?
どうやって、相原さんの電話を切ったかは覚えていない。
ベランダでタバコふかしているウチに五月は帰ってきたようだ。
それを確認する気は無い。
連休中に五月と買いに行った足つき灰皿を汚すのが嫌で、
親父からもらった携帯灰皿に入れた吸殻はもう満タンで、今にもこぼれ落ちそうだった。
トイレに行くために通ったダイニングには、食べたあとも無いのにケーキが無くなっていた。
46.入学式前の一週間とは、まるで質の違う一週間が過ぎていく。
いつの間にかエレベーターを使って3階までを往復する俺。
また、何か大切なものを失くしてしまったようで。
次はどこへ逃げればいいのだろうか。
五月のことを勝手に解った気になった自分に呆れる。
もう何本目になるかわからないタバコに火をつけた所でベランダの窓をノックする音が聞こえる。
47.「康ちゃん・・・。」
あぁ、五月の声をちゃんと聞くのはいつ以来だろうか。
「ちょっといいかな?」
いや、五月は“声”は出してたか。俺が認識していなかっただけだ。
「今日、放課後、ちょっと付き合ってくれる?」
どこに?なんで?今更俺と?聞きたいことはたくさんあった。
それでも、それが嬉しくって、俺の口からはにごった煙と肯定の言葉がもれていた。
48.2週間前と同じく今日も夕陽は綺麗だった。
俺の心とは違うな、と思いつつ、
五月が向かっていく場所に検討がついた時から夕陽が綺麗なのも当然だと思い始めた。
彼女のそばに行くのに、曇り空は似合わないから。
いつの間にか、俺と五月の目の前には“相原”と書かれた無機質な石が存在していた。
49.「お誕生日おめでとう。」
淳ちゃんにケーキを差し出す五月。それは俺がお前にあげたケーキだよ、五月。
「今日は康ちゃんと一緒に来たよ。」
淳ちゃん、お前の兄貴は大バカヤロウだよ。
「康ちゃんのおかげで、今年は一緒にお祝いできたね。」
君のことしか考えていないから。
「でもね、淳。ゴメンネ。お兄ちゃん、もう我慢できない。」
何をだよ。何を我慢しているんだよ。
50.五月は淳ちゃんから振り返り、俺の顔をじっと見る。
あぁ、五月がいる。俺が好きになった二人目の女の子。
そして、今は一番好きな女の子。
夕陽を逆光にした五月の顔は何か決意に満ちたものだった。
51.「康ちゃん、ごめんなさい。」
なにを謝るの?
「私の勝手に康ちゃんを振り回して。」
やめてくれ。
「お父さんに聞いたでしょ?淳、康ちゃんのことが大好きだったんだ。」
言葉にしないでくれ。
「淳が死んだって聞いて暫くなんにも出来なかった。」
ヤメロ。
「私は淳のためになにか出来たかな?って、ずっと考えてた。」
行かないでくれ。
「でね、思いついたんだよ。淳のために出来ること。」
五月。
「私ね、彼女いなかった。淳のこと大好きだったし。」
俺の心からいなくならないでくれ。
「だから、都合が良かった。」
耐え切れず、タバコに火をつける。
「入学前に女体化したのも好都合だったよ。」
俺は動けないのに、風に吹かれ、紫煙は逃げ出す。
「康ちゃんがね、誰か他の人のものにならないようにしようって。」
聞きたくないよ、五月。
康ちゃんがね、女になることは無いって言うのはうすうす気づいてた。」
俺の過去もえぐるのかい?
「最初はね、上手くいってて、それがすごい嬉しかった。」
「康ちゃんが、私に惹かれてくれて。私を大事にしてくれて。」
「すごい、嬉しかった。」
もう、いいよ・・・。灰を落とすのを忘れたタバコはいつの間にか根元まで燃え尽きていた。
52.「でもね。私の誕生日の一週間前。私、ちょっと気付いっちゃった。でね、それを必死に否定した。」
「いつの間にかね、嬉しい理由が変わってたの。」
「康ちゃんが私を大切にしてくれる。いつの間にかね、それが嬉しくなってた。」
五月の誕生日に見た涙。それと同じものが五月の両目に浮かんでいる。
53.「誕生日の日、康ちゃんが“私”のために準備してくれて。」
「“私”のことを見てくれて。」
「なんで、私は“私”として康ちゃんを見れないんだろうって。」
五月は淳ちゃんのほうへ振り返る。
「ゴメンネ。駄目なお兄ちゃんで。五月の願い一つ叶えられなかった。」
「しかも、それを奪うのが“私”かもしれない。」
気付くと俺は五月を後ろから抱きしめていた。
54.泣きながら五月が続ける。
「康ちゃん。大好きです。」
「俺もだ。」
「ちゃんと、言葉にして。」
「五月、俺もおまえが大好きだ。」
もう口にすることはないと思っていた言葉。
気付けば俺はそれをとどめていくことが出来なかった。
いまだ、嗚咽を続ける五月の口を優しくふさいでやった。
55.ライター貸してという、五月から逆に線香を奪うと火をつける。
五月にも火をつけたことなんて無かったから、これは淳ちゃんに対してだけの特別な行為だ。
五月はずっと淳ちゃんに謝っていた。
でも、そんなことを気にする必要は無いと思う。
淳ちゃんは優しい子だったから。
淳ちゃんの願いはきっと、五月と俺が幸せになること。
それは、淳ちゃんのおかげで叶ったんだと思う。
帰り道、右手に感じる五月のやわらかい左手の感触が、なんだかすごく照れくさくって、
五月の言葉に「それは夕陽のせいさ。」と答えていた。
おしまい。
最終更新:2008年12月14日 00:29