懐かしいパン屋さん

 一体この町に帰ってくるのは、何年ぶりだろうか。小学4年の時に引っ越したのだから、もう8年か。気分はまだ2、3年しか経っていない気でいたんだけども。
 いやしかし、こうやって久しぶりにこの街並みを見て散歩をしていると、心の奥から「懐かしい」という気持ちが湧き上がって来るということは、やはり相応の年月が経過した証拠なのだろう。
「ん? あー、あー、あー! あったなあ、そう言えば!」
 目の前には、懐かしいお店が昔と変わらずに佇んでいた。店の中からは、8年間何も変わらなかったかのように、あの頃のおいしそうな焼き立てパンの匂いがしている。
「子供の時はおこづかいなんてタカが知れてたしなあ、全然買えなかったんだよなあ〜」
 それでも足繁くこのパン屋に通っていたのは、同じクラスの友達がこの店の一人息子だったからだ。そして息子の友人って事で、俺はよくタダでパンを御馳走になっていた。
「なっつかしい〜」
 よし、今ならあのころとは違って手持ちも大分ある。挨拶ついでに何か買って行こう。

「いらっしゃいませー!」
 店に入ると同時に、カウンターから元気な女の子の声がする。
「あれ?」
 そこで俺は不思議に思う。この店はアルバイトなんて雇わないって方針じゃなかったっけ? まあ、今考えればそれを聞いた時は店の懐事情が芳しくなかったからなのかも知れない。今は繁盛して、バイトを雇う余裕ができたのだろう。
 現に、店の中はなかなか混雑している。
 俺も他人の邪魔にならないように、さっさと商品を選んでレジに持って行く。
「こちら3点で……」
 手際よく俺の選んだパンの値段をレジに打ち込んでいた女の子の手が、急に止まった。
「……………」
 そして、まじまじと俺の顔を覗いてくる。照れるぞ。
「もしかして………、ショウくん?」
「え? あ、ああ、そうです……けど?」
 なんで俺の名前を知ってるんだ? 自分で気付かない内に、指名手配犯にでもなっていたのか俺は。
「ひ………………っっ」
「———『ひ』?」
 火? 日? 秘? 否?
「っっさしぶりいいい!!」
 さしぶり? …………ひさしぶり? ……久し振り。 …久し振り??
「うーわー! 何年ぶりだよ、ホント! どうしてたー!? ってか、先に声掛けろー! 普通に客っぽくレジ並ぶなあ! 気付かねーよー!」
 あらあら、この子ってば何を言っているのかしら。頭が可哀そうな子なのかしら?
「父さーん! 母さーん! ほら、ショウ! ショウが来てるー!」
 っつか、なんだ? 男言葉?
 しかもこの女の子の呼びかけで店の奥からやって来た夫婦は、俺も見覚えのあるノムラパン屋の、あの夫婦。その夫婦を父母と呼ぶこの子はつまりこの夫婦の子供であってそれはつまり………。
「はあ!? ええっ?! ヒロミぃ??!!」
「あれ、気づいてなかったの?」
 はは……、気軽に言ってくれちゃって。

結局店番を母親に任せて、俺はヒロミに連れられて店の奥にあるヒロミの家にやってきた。ここも、懐かしい。
「いや〜、驚いたよ。だってショウくんてば急に出てくるんだもん」
「人を幽霊みたく言うな。ていうか驚いてんのは俺もだっつーの。なに、お前女体化したの?」
「んー? そうだよ。ま、よくある事だろ」
 ヒロミは8年前と変わらず、にへらと笑う。って、女になってその笑い方されると、なんつーか、その、カワイイな。
「ってアブねーーー!! ヒロミ相手に!!」
「な、何だよ。『ヒロミ相手に』ってー」
 戻れ、戻るんだショウ! お前はそっち側の人間じゃないだろう! いたってノーマル指向な人間のはずだ!
「で、今日はどしたのさ」
「いや、今日は。じゃなくてだな……」
 俺は今年からこの近くの大学に通うこと、それに伴って一人暮らしをすること、それが少年時代を過ごしたこの町だということを説明した。
「へえ! じゃあまたこの町に住むんだね! また一緒に遊べるじゃん!」
「近い近い! 近いよ! そんなに顔を近づけるんじゃありません!」
 ちくしょう、イイ匂いがしやがる……って、違う違う! これはパンの匂いだ! 決して女の子なヒロミの匂いじゃねえ!

「へへ、ショウくんはやっぱ面白いなあ」
「あのなヒロミ、もう俺も小学生じゃないんだから、“くん”づけは止せよ」
「んー? じゃあ、ショウ?」
 むむ、女の子に呼び捨てにされると、なんだかそういう関係に見えてしまう気がしたけど、気のせいにしておこう。
「ってか、ヒロミはよく俺だって分かったな。女体化こそしてないけど、8年だぜ? そりゃ、年賀状のやり取りはしてたけど、写真なんて送ったこと無いだろ?」
「分かるよ」
 にへら、とヒロミは笑う。
 その後に説明があるものと思って黙っていたが、ヒロミはそれっきりだった。堪らずこちらから訊く。
「なんで分かるんだよ」
「なんでもー」
「教えろよ」
「んー? うん…………………、分かんねー」
「分かんねーって、お前なあ」
 少しずっこける。
「説明できないんだけどさ、分かるんだよ」
「なんだそりゃ」
「分かるんだよ」

「美味っ」
「だろー」
 ヒロミはにへっと笑う。やっぱ、こいつ、そんじょそこらの女よりカワイイぞ。
「揚げパンは結構得意なんだよね、俺」
 そう言ってヒロミは、次のパンを取り出す。
「はい、じゃ次はこれ。『ドデカメロンパンΩ(オメガ)』」
「これも試食しろ、と?」
「まあまあ、きっとおいしいと思うよ?」
 いやいや、味の心配してるんじゃないんだよ。デカすぎだろ、それ。なんでスイカぐらいあるんだよ。
 てな感じで俺はあの後、ぼくの考えた超人よりもバリエーション豊かなヒロミの試作パンを試食させられていた。
 まあ、美味しいからいいんだけどね。
 ………それに、パンを褒めるとあの顔でヒロミが笑うし。なんて事は俺の深層心理の考えなので表層意識には届いていませんよ? 多分。

 気がつくと、陽はすっかり沈みかけていた。
「ショウくん、こんなに長々とヒロミの相手してくれて悪いねえ」
 少しも悪いとは思ってなさそうな顔で、おじさんが言ってきた。
「まったくですよ。何で俺がコイツの面倒を見なきゃいけないんですか」
 と、俺も少しもそんな事は思ってなさそうな顔で返しておいた。
「さあてと、じゃ、帰りますか」
 立ち上がると、慌てた様子でヒロミも立ち上がった。
「な、なあ! もう帰るのかよ!」
「いや、そりゃあまあ、これ以上の長居は迷惑だしねえ?」
「じゃ、じゃあさ! ショウの引っ越し先教えてよ! 今度行くからさ!」
「いや、まだ住所覚えてないんだよね。前住んでた所に引っ越せればよかったんだけど……」
 頭の上に「ガーン」って出そうなほどに落ち込むヒロミ。ていうか、なにその必死さ。
「それじゃあ、今度はいつ会える?」
 きみきみ、それは友達相手に送る言葉じゃないと思うぞ、おぢさんは。
「いや、住所は覚えてないけど、場所は分かるからさ。ほら、あのスーパーの横の集合団地の三号棟。部屋番号は………」
「ま、ま、待って! 今メモするから!」
 ドタドタと派手にそこら辺のモノを蹴散らして、というかつまづいて一旦奥に下がったヒロミが、紙とペンを持って戻ってきた。あ、転んだ。
「それで部屋番号は!?」
「ヒロミ、とりあえず立ち上がってから聞いたらどうさ」
 向こうでヒロミのおばさんが声を殺して笑っていた。


 店から出て数歩もないうちに、後ろからヒロミが走ってきた。
「これ」
 受け取った紙袋の中には、パンが入っていた。
「おいおい、あんなにタダで食わせてもらったのに、更に受け取るのは悪いって」
「いや、これは来た時ショウが買ってたやつ」
 ああそう。
「じゃ、改めてさいなら」
 行こうとしたら、後ろから服をつかまれた。
「……まだ何か?」
「んー………」
 聞いたのに、なぜだか煮え切らない様子。
「また、会えるよな?」
「おう、また店には寄らせてもらうさ」
「すぐ会えるよなっ?」
「おうおう、明日にでも行くよ」
「………約束だからな」
 分かったから手を離してもらえないだろうか。往来でこの状態は少し、いやかなり恥ずかしいものがあるんだが。
 「約束を守る」を6通りの言葉で表現したら、やっと離してくれた。
 そんな、帰り道。
 いつからあそこまで甘えん坊になったのか、などと考えながら。
「あーあ、あのヤロウ……」
 ひとりぶつくさと文句を言う。
 さっきから胸の動悸が収まらない。顔も熱をもってしまったようで、今は絶対鏡をみたくない。きっとだらしない表情をしているにきまっているから。
「これはもう……完全に………」
 認めたくないんだがなあ、ちくしょう。

 桜がちらほらと咲いている。
 春が来たのだ。


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最終更新:2008年12月14日 00:33
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