『約束ひとつ』(1) 西森編1

~~西森編1~~

 まだ十数年の短い人生だけど、その中で最高の記憶がある。
 思い出すだけで不思議なほどに気分が高揚してくるその記憶は、恥ずかしい話だけど、いざという時に力をくれる感じがした。

『あいつ』との、一番の思い出。

『男』だったオレの……最高の記憶。


 四月上旬。
「よっ、西森、同じクラスだな」
 オレは無事に二年生に進級していた。いや、まあ、別に問題を起こしたわけじゃないんだから当たり前なんだけどな。
 学校に着いて毎年あるクラス替えの掲示を見ると、新しいクラスはつい二週間前まで使っていた場所のちょうど一階下の教室と判明。
 それでそこに移動、到着したところで“壁”に話しかけられた。
 この“壁”こと先崎隼人とは去年同じクラスではなかった。なのに、なんでお互いを知っているかといえば、なんのことはない、ただ同じ部活だからだ。
 そう、同じ……剣道部。
 オレが先崎を壁と評するのにはもちろんワケがあり、オレとの身長差が四十センチ近くあるせいだ。
「やっぱ美人を見ると心が洗われるのぅ…」
「なんだそれ」
 やけに年寄りぶった言い方をする新しいクラスメイトに冷たく突っ込む。ちなみにオレたちは『席はどうする』『適当でいいだろ』という会話を挟んでそこらの椅子に腰掛けている。
 まぁ、だけど美人と言われるのは悪い気はしない。仮にお世辞だとしてもな。
 この先崎という男、顔はそれほどでもないけど、裏表のないさっぱりした性格とどこか憎めないキャラのおかげで女子にまあまあの人気があるらしい。
 ――わかるような、わからないような……。
「言ってなかったと思うけど、俺んち姉ちゃんがいるんだよ。しかも俺に似たのが二人も!」
 言われて、このクマのような容姿の先崎が女装している姿が浮かび、失礼ながらも吹きだしてしまった。
「は…っ、そりゃあ、おまえの口癖がああなるのも納得だな」
 笑いながらのオレの言葉に先崎は深々と頷いた。その先崎の口癖というのは『俺の好みは俺より力の弱い女の子全員だ!』
 剣道部で一番力があるくせに何言ってるんだ、とずっと思ってたけどようやく得心がいった。その姉ちゃんというのはこいつよりも力が強いんだな。
「そろそろ始業式だから移動しろ~」
 大して実にならない会話を交わしていると廊下から先生の声が聞こえてきて、やれやれといった感じにみんなが腰を上げる。
 オレも同じく腰を上げて、椅子が異様なほど埃っぽかったのに気づいて『スカート』をはたいた。


 特筆すべき点は何もない退屈な始業式が終わり、続いて対面式が行われる。
 この対面式というのは昨日入学式を迎えた新一年生と新二、三年生とが顔を合わせるための式のことで、大体の流れは生徒会長と一年代表の挨拶。そして学校紹介のスライド上映といった感じだ。
 二、三年がそれぞれの固まりに分かれながら体育館の後ろの方に移動する。
 すぐに吹奏楽部の演奏が始まり、入場してきた一年生たちが今出来たばかりの道を歩いていく。
 最初は熱心に、徐々におざなりになっていく拍手に迎えられながら、一年生は体育館の前方にこちら向きに並び終わり、さっき言ったとおりのかったるい挨拶が始まる。
 だけどオレの意識はまったく違う方に向いていた。
 ――いない……?
 二年と三年の間の道を通っていった時に一通り見ていたのに見つからなくて。今もきょろきょろと一年生の顔を見回しているのに見つけられない。
 ここにいるはずの『あいつ』を。
 そんなふうにしてるうちに、両方の挨拶は終わってしまい……。
「そろそろ行くぞ」
「……ああ」
 近くに座っていた先崎に促されて、渋々腰を上げた。
 これからスライド上映が始まるはずなのに、オレたちが体育館を出て行くのにはもちろんワケがある。
 このスライド上映が終わったら、体育館の舞台上で一五秒部活紹介というものがあって。現にその部活紹介のためにオレたち以外の奴らも体育館外に出てきている。
「じゃあ、俺は防具取ってくるから」
 言い残して、先崎は走り去ってしまった。それを見計らったかのようなタイミングで背中を軽くつつかれる。
「やっ! 緊張してないっ!?」
 振り向いた途端、オレには到底真似できないとても明るい笑顔にぶつかった。
「あ、仲田さん」
「おや、緊張してるみたいだね。や~、私もだよ。私は去年もやったことなのに! っていうか、回数で言ったらまだ二回目なんだから当たり前か!」
 あっはは~、と陽気に笑う仲田さんは、剣道部の先輩でマネージャーをやっている。剣道部に在籍して一年間近く、もうお世話になりっぱなしだ。
「部長のほうも防具取りに行ったんですか?」
 今年の剣道部の紹介の仕方は、オレと仲田さんがマイクで活動してる曜日やらを説明する後ろの方で、部長と先崎がかかり稽古をするというもの。
 なんで先崎が選ばれたかといえば、でかくて、気合いもけっこうな迫力だから印象に残るだろうとの部長命令のためだ。
「そう! 駄目だよね~。こーんなかよわい美女たちを置いて二人して道場に行っちゃうなんて」
 オレの緊張を解そうとしてくれてるのか、それとも本気でそう言っているのかはわからなかったけど、おかげで多少マシにはなってきた気がした。
「あ、そうそう」
 仲田さんは、ポン、と手を打つと珍しいひそひそ声で。
「夕希ちゃんは、今年はどういうスタンスで行くのかな?」
 部活内で唯一オレのことをファーストネームで呼ぶこの先輩は、かなり心配してくれてるらしい。
 部活の奴らはオレが女体化者だというのは知っている。だけど新しく入ってくるだろう一年生はもちろん知らない。
 仲田さんは、もし隠したいのであれば、オレが元男だっていうことに部活内で緘口令を敷いてもいいと言外に言ってくれている。
 部活の奴らはいい奴ばかりだから、そう約束したら絶対に守ってくれるだろうけど……。
「ちゃんと、言うつもりです。……すいません」
 気遣いを無駄にしてしまった申し訳なさを感じて声が小さくなってしまう。
 ……だけど、自分で言わなきゃいけないんだ。
 ここまできて、隠したり、逃げたりは……もうしたくないから。
「そっかそっか」
 軽い感じで。でも仲田さんはちゃんとオレの真意をわかってくれたみたいだった。
「あっ、やぁっと来た!」
 ちょうどいいタイミングで道着と胴と垂を身につけた部長と先崎がやってきて(面と小手は抱えて持っている)、オレたち四人は部活紹介のために体育館わきの舞台袖に向かうことになった。


 始業式の日が金曜日だったから、土・日曜を挟んでの月曜日。今日。一年生の仮入部期間が始まる。
「はぁ…………っ!」
 軽く息を吐いただけだったのに、思いのほか深い溜息が出てしまって慌てて手で口を押さえる。
 結局対面式の時の出番中にあいつを見つけることができなかった。十五秒って時間を考えれば当然かもしれないけど。
 その後もそれとなく見回してたけど大して広い校内ってわけでもないのに、まるで避けられてるが如くあいつの姿を一度も見つけられなかった。
 だけど、あいつ――川嶋哲宏がこの学校に入ったことと……、剣道部に入ってくるだろうことは確実だ。
 ――『約束』したから。
 今度は溜息にならないように慎重に息を吐く。
 ――緊張……してるのかな、やっぱり。
 仲田さんはオレの緊張を対面式の出番のせいだと思ってたけど、本当は違う。川嶋に会うこと、そして話さなければならないことに、緊張……いっそ恐怖と言ってもいいかもしれない、そんな感情を抱き続けている。
「ゆ・う・きちゃ~んっ!!」
「ぅわぁっ!!?」 
 いきなり後ろから肩を叩かれて、思いっきり飛び上がってしまった。すぐさま後ろを振り向いて抗議する。
「仲田さん! 驚かさないで下さいっ!」
「あっはは~、ごめんね!」
 茶目っ気たっぷりの笑顔で謝られて、それ以上文句を言ったりできなくなる。なんか……少しずるい。
 新しい学年になっての二日目を終えて、今は放課後。剣道場で部活動が始まる時間を待っているうちに今のいたずらをされたんだ。
「だけどね、そーんな暗い顔してたら、みんな心配がるぞ」
 指摘されて思わず顔に手が行ってしまう。オレ、そんな顔してたのか?
「…なんてね! 男連中はだーれも気づいてないみたいだから、安心していいよ! でも、もしアレだったら、なんでもおねーさんに言ってごらん?」
 どこまでも明るく仲田さんはフォローを入れてくれた。
 ほんと、仲田さんには敵わないと思う。
 オレが抱いてる不安を見通して、だけど興味津々に突っ込んで訊いたりせず、相手が重くならないような言い回しをしてくれる。
 しかもそれで本当に事態を解決に導く能力まで持ってるんだから、頭が下がるばかりだ。
 でも……、オレはそれを断った。
「一人で、どうにもならなくなったら……お願いしていいですか?」
 オレの婉曲な言い方に、それでも仲田さんは気分を悪くしたふうもなく、「待ってるよっ」と笑って肩を叩いてくれた。
 すぐに部活が始まる。
 部長の掛け声のもと部員の奴らが準備運動を始めるのを、オレは仲田さんと出入り口の近くに座って眺める。オレはもう選手じゃないから。
 オレはもうただのマネージャーだから。
「あの、すいません。見学…したいんですけど」
「…あっ、はいはい! えっと、一年生…」
「はい、そうです」
 そいつを皮切りに一年生がぞろぞろとやって来て、オレと仲田さんは対応に追われることになった。


「面つけ!」
「はい!!」
 準備体操、素振り、そして礼が終わって、部員のみんなは防具を身に着け始める。
 このころにはまあまあな人数が見学に来ていて、素人の人には竹刀を持たせて試しに振らせてあげたりしてたりしてた。その指導をしてるのは副部長だけど。
 とりあえず現在見学に来ているのは七人。その中の三人は中学からの経験者で初段を持ってるそうだ。
「………………」
 だけどオレはずっと出入口の方を気にしてばかりいた。いつになっても川嶋が来ないせいだ。
 川嶋がこの高校に来たという事実だけはわかってる。一年の学年主任になった顧問の先生に頼み込んで、新一年生の名簿に『川嶋哲宏』の名前があるのを確認してもらったから。
 ……なのに、川嶋は来ない。
『絶対に、またいっしょのチームでやりましょうね』
 オレの引退試合のときに、川嶋は風邪を引いていていっしょの団体戦に出れなかった。その試合は負けて、次に繋がることなく、本当に中学最後の試合になってしまったんだ。
 川嶋はそれを気にしていて、なんで風邪を引いてんだ、どうして俺は出れなかったんだとものすごい後悔していた。(実際川嶋は剣道部内でずば抜けて強かった)
 だから風邪から回復してきた川嶋がわざわざオレの教室までやって来て、あのセリフを言ってくれたときはすごく嬉しかった。
 少しわかりにくいところがある川嶋だったけど、絶対に嘘や適当なことだけは言わない。
『俺も、先輩が行く高校目指しますから』
 卒業式の日。すれ違いざまに何気なく言われてかなり驚かされた。それでもそこまで慕ってくれている後輩の好意はとてもありがたいものだった。
 だから……だからこそ……。
「お互いに! 礼!」
「ありがとうございましたッ!!」
 最後の礼が終わってハッと我に返る。今の今までオレはずっとボーっとしてたらしい。
 でも上の空ながら一応仕事はこなせてたみたいで、どこからも文句は出なかった。セーフだ。
 稽古が終わったことで見学の一年生はみんな帰ってっていって、防具の片づけを済ませた部員も更衣室の方に引き上げていく。
「ちょっとこれだけ任せていいかな?」
 そんな時、急ぎの用事があるという仲田さんが頼み込んできた。
「あ、大丈夫です。いつものとこに片しておけばいいんですよね?」
「ごめんね! またどっかで私も代わるから!」
 言うなり荷物を引っつかんで、慌しく仲田さんが走り去っていった。
「さてと……」
 選手の人の給水用の小さなタンクとコップを洗い場に道場前の水道に持っていく。これくらいの量だったら一人でもすぐに終わるかな?
 さっきのぼんやりがまだ続いてるかのように黙々と洗い続けて、そのせいか予想していたよりも時間が掛かってしまった。
 道場には倉庫みたいな所があって、そこに剣道部の備品は置かれている。だからオレは洗い終わったものをそこに片付ける。
 あ、もちろんコップはそのままじゃなくて、チャックみたいなのが付いてる大きなビニール袋に入れてある。
「はぁ…」
 我知らずまた溜息が出てしまって。だけどそれを隠すようなことはもうしなかった。
 ――結局来なかったな~……。
 部活がやっているうちに、ついに姿を見せなかった川嶋のことを考える。
 オレのことをとても慕ってくれていた後輩。
 違う学年なのに、下手をすれば同じクラスの奴より仲が良かったかもしれない。
 会いたい、話をしたい。だけどそれ以上に怖いんだ…。
「はぁ……」
 また溜息を吐いてしまう。だけどもうみんな帰ってしまったみたいだから聞かれる心配なんてない。
「あ~あ…」
「すいません」
 ――っっっ!!??
 突然、至近距離からの声に、もう肩が跳ねるとかそれどころじゃないほどに驚いてしまう。……具体的に言えば、慌ててそっちを向こうとして足がもつれて転んだんだ。
 ――ううっ、情けない…。
「大丈夫ですか?」
 道場の床にうつぶせに倒れたオレに手が差し伸ばされる。大きな、だけどどこか見たことのある手。
「ありが……っ!」
 金縛りとか凍ったように動けなくなるとかいう現象をオレは馬鹿にしていた。そんなのちゃんと覚悟してたりとか、すぐに自分を取り戻したりとか出来るだろうとか思ってたんだ。
 今の今までは。
「か……」
 目の前にいる奴を認めて、口を開けたまま固まってしまう。
 ずっと探していたのに見つからなかった奴。オレの中学の後輩で、一番会いたくて、会いたくなかった川嶋が、現実に目の前に立っていた。
「『か』?」
 不自然に途切れたオレの言葉を訝ったらしい川嶋が首を傾げる。
「か……かっこいい声ですね」
 ……何言ってんだオレ。
 焦ったからってこんなこと言い出すなんて余計怪しまれるだけじゃないか!
「ああ、やっぱり変に聞こえますか?」
 ――は……?
 あっけらかんと聞き返してくる川嶋に思わずあっけに取られてしまう。
「いや、別に変ってわけじゃ……」
「あ、そうですか? だったら良かった。いや、俺って声変わりがものすごく遅くて、自分でもまだ違和感があったりするんですよ」
 言われて気がついた。じかに姿を見るまで川嶋に気づかなかった理由を。
 姿こそ一年前の川嶋をけっこう残している(かなり身長伸びてないか?)が、オレの記憶にあった川嶋の声とはかなり違っている。
 高くもなく低くもなく、だけどよく通る声だったのに、今の川嶋の声は低い。っていうか、声変わりってこんな時期に起こるもんなのか?
「あの、剣道部の先輩ですか?」
「あっ? ああ、そう、だけど」
「やっぱり、今日はもう終わってますよね?」
 当たり前のことだけど、川嶋はオレに他人行儀な話し方をし続けてる。
 ――言わなきゃ…。
「あ、っと……、なんでこんな時間に…?」
 考えてることとは裏腹な言葉が口から滑り出てしまう。
「いや、まあちょっと色々とありまして」
 どこか照れくさそうな曖昧な笑みを浮かべてお茶を濁す。
 そんな川嶋の表情は見たことがなくて、それ以上にこんなに近くでまともに話すのが一年ぶりで。
「今日は、終わりだから。見学ならまた明日に」
「そうですね」
 なら帰ろうかということにもちろんなって、不思議なことにオレと川嶋はいっしょに帰ることになってしまった。
 全学年共用の玄関まで行って靴を履き替える。
 その間は何となく会話がないまま、だけどゆっくりとした歩みで。玄関に着いたときには『ようやくか』と思ってしまった。
 だけどこんな息が詰まりそうなのももう終わり。
 中学まではオレと川嶋はわりと近くの家だったけど、高校入ってからオレは引っ越したから、玄関出たら逆方向に別れるはずだ。
 ――いや、その前に。
 言わなきゃいけないことがあるくせに、こうやって引き伸ばしてしまうのはオレの悪い癖だとわかってる。トントンと真新しい靴を履いている川嶋を横目で確認して、ばれないように深呼吸をする。
 ――……よし。
「か……」
「そういえば、先輩って駅の方に行きますか?」
「えっ? あ…い、家は逆の方だけど……」
「あっ、じゃあ俺と同じ方向ですね」
 出鼻をくじかれてしまってまた言うタイミングが……って、今川嶋何て言った?
 ――なんで川嶋も同じ方向に?
 だけどそんなことを言えるはずもない。だって『今日初めて会ったばかりの相手』がそんなことを知っているはずないんだから。
 もやもやする疑問を抱えたまま学校を後にする。
「剣道部って週何回くらいやってるんですか?」
 その道すがらに不意に川嶋が質問してきた。
 つーか、よく川嶋は『会ったばかりの相手』とこんなふうに帰ろうと思えるな。中学校時代はよく言えば個人主義というか、他人にあんまり興味がなさそうだったくせに……。
「土曜日も入れて週五回。けど卓球部との折り合いもあるから大体週四回かな。大体週によって違うから、そのうちスケジュール表作るけど」
 っていうか、金曜日に舞台上でこのこと言ったんだけどな……。
 そのことをそれとなく川嶋に伝えてみると、「すいません、周りがうるさくてよく聞こえなかったんです」とよくわかる説明が返ってきた。
 剣道部の前の奴らが馬鹿みたいに会場を盛り上げてくれたおかげで、マイクを使ってたのに伝わりきってないかなっていうのは舞台上からでもわかったし。
 でも川嶋は、あの時ちゃんといたんだ……。
 もしかしたら風邪でも引いてたんじゃ…という疑問が晴れて少しだけ気分が浮上する。
 その後も何くれとなく剣道部に対する質問とその答えという会話を続けているうちに、徐々にオレの家が近づいてきた。
 オレの家はマンションで、学校まで徒歩十分。けっこう良い立地だ。
 そしてふっと気づく。『小柄な女の子』になってしまったオレの足で徒歩十分なわけだから、かなり成長した川嶋にとっては遅い歩調だったはずだ。
 なのに、そんなことはおくびも見せずに、自然とオレのペースに合わせてくれていて……。
 どこまでも川嶋らしい気遣いに、どこか、息苦しくなってくる。
「なんで、剣道部に入ろうと思ったの…?」
 意識せずに、そんな質問が口から滑り出ていた。
 だけど川嶋はまるでその答えを用意していたかのように、すぐに言葉を返してくる。
「中学のころ、すごい尊敬してた先輩がいるんすよ」
 端的で恥ずかしげに、そしてどこか誇らしげに話す川嶋。
「西森先輩…っていうんですけどね、その人。今日は色々やってたせいで遅くなっちゃったんですけど、今日来てました?」
 オレが剣道部に入ってるだろう、と。
「西森くん……ね。今日は、参加できなかったみたいだよ」
「あ、そうなんですか。でも明日はたぶん来ますよね?」
「うん。……たぶん」
 ――何が、『今日は』だ。何が、『たぶん』だ。
 どこまでも卑怯で臆病な自分に嫌気が差す。
 そんなこと出来ないくせに。
 ……もう二度と約束を果たせないくせに、と。
「ぁ…、うち、ここだから」
 結局、何も打ち明けることをしないまま、まともな別れの挨拶すら告げずに、オレはマンションの入り口に逃げ込んでしまった。
 こんなに慕ってくれている後輩を、この期に及んでまで裏切り続けている事実だけが胸の奥に澱のようになって積み重なっていく。
「……ごめん」
 自分の部屋の玄関に入ったところで、ポツリと口から漏れた言葉に笑みがこぼれる。
 あまりに安っぽいそれが、オレ自身の情けなさの象徴に思えて。
「…………っ」
 なんで……っ、なんでオレは女になっちゃったんだろう…。









 最初に感じたのは、ただの眩暈だった。


 いつもと同じ剣道部の活動。
 入学して一ヶ月半。そして剣道部に入部して一ヵ月半。
 一年生が全員しなければならない基礎練習期間(という名の体力向上期間)を終えて、ようやく先輩たちと混じって本格的な練習が出来るようになってから一週間が経った。
『うっし! うっし!』
 ――そういえば最近牛丼食ってないな~……
 ついそんなことを思ってしまって、自分の想像力のなさに愕然とする。
『なに牛牛言ってんだ?』
 その愕然を、変な掛け声をあげていた先崎への憤慨へと変換して、先崎に冷たい声でツッコミを入れる。
 今年入部した一年の中では以前から剣道をしていた経験者はオレと、このまるで熊のようなガタイを持った同級生だけだった。
 必然的にその他の一年がする基礎メニュー(面以外の防具を着けての素振りや打ち込み)を免れて、いち早く先輩たちの練習に混ざることが出来たわけである。
『今日こそ部長から一本取ってやろうと思ってな!』
 オレのツッコミに対する先崎の答え。
 剣道の練習の中には地稽古という試合形式の練習があり、好きな相手と組んで行うものだ。
 こうやって本格的な練習が始まってから、先崎は毎回部長に相手をお願いして……もちろん負けるわけだ。
 部長の剣道はある程度やってる奴ならすぐわかるだろうけど、『強い』っていうより『巧い』。だから相手との実力差がどんなにあっても、相手に合わせて、それでいて悪いところを教えてくれるような戦い方をしてくれてるんだけど。
 ちなみに先崎は『手加減なしで、本気でお願いします!』などとすっかりおなじみのセリフを吐き、いつものように己の望み通り部長にボコボコにされていた。
 そんないつもどおりの中に、眩暈だけが、違和感として在り続けていた。


 次に感じたのは、奇妙なほどの寒気。


『あ~……ちょっと休んだほうがいいな』
 たった今まで地稽古の相手をしてくれていた三年の先輩が、面の中のオレの顔を覗きこんでそう言ってきた。
 今日は朝から多少具合が悪いとは認めていたけど、それが人に悟られるほどになるとは思ってなかった。
『わかり、ました』
 本当ならまだ自分では動けるつもりだったけど、顔を見られてその上で判断されたんだから相当顔色が悪くなってるのかもしれない。何よりここで無駄な意地を張って、もし倒れでもしたら余計周りに迷惑だ。
 道場の端に寄って、面を取る。
『がんばってるね~。だけどケガなんかしたらもったいないよ!』
 二年生で、剣道部唯一のマネージャーさんの仲田さん。いつの間に後ろに来たんだ?
『ん~? これはいっそのこと横になったほうがいいかも』
 仲田さんにまでそう言われて、だけどほんの少しの寒気があるだけで部活中にねっころがることなんか……。
『保健室で寝てきなさい! 先輩命令!』
 オレが渋ってるうちに仲田さんは持ち前の行動力で、部長と顧問の先生に話をつけて、オレは本当に寝かされることになってしまった。
『失礼します』
 付き添うという仲田さんの申し出を断って、保健室の戸を叩く。だけど返事はなかった。というわけで勝手に戸を開けて中に入る。実際誰もいなかったから返事が無いのも当たり前だ。
 もちろん二つしかない保健室のベッドは両方空いていて。それを見た途端、ものすごい倦怠感というか、ねっころがりたい衝動に駆られる。 ――いや、だめだめ。
 防具は全部取ったけど道着と袴という格好。もちろんついさっきまで剣道をやってたわけだから汗まみれだ。
 こんなんで許可も取らずに寝て、それでもし怒られでもしたらなんとなく負けた気がする。
 というわけで、保健室にある長椅子に腰掛けて。そしてオレはすぐに意識を飛ばしてしまった。


 肩を揺すられて目が覚める。そこにいたのは仲田さん。んでもって外はもうすっかり紅くなっていた。
『あ……!? すいませんでしたっ! オレ、すっかり寝込んじゃって…!』
『西森、くん…?』
 オレの言葉を遮った仲田さんの声は、今までドラマの中でしか聞いた事のないような緊張したものだった。
『あの……どうしたんですか?』
 馬鹿みたいに熟睡してたから、まだぼんやりと霞んでいる思考をなんとか振り絞ってそう訊いてみる。
『…立てる?』
 いまだ緊張した面持ちでの質問に頷いて立ち上がる。
 ――あれ……?
 道着が妙にゆるい。それになんか視界が……?
 立ち上がったことで、自分の身に降りかかっている違和感に気がつく。その違和感の正体を探ろうとしたところで、仲田さんが口を開いた。
『西森くん。キミ、女の子になっちゃってる』
 後で考えれば、かなり言いにくいことだったはずなのに、仲田さんは誤魔化したりせずに事実だけを伝えてくれた。
 だけどこの時のオレは信じられないそのセリフを、拒絶した。
『……あ、はは。仲田さん、そんな、悪い冗談は…』
『ごめんね。冗談じゃ、ないだよ』
 痛ましい、という表情でオレの腕を掴んで、仲田さんは保健室に付いている洗面台にオレを引っ張っていく。
 ――イヤだ…っ!
 踏ん張ってそこから動かないようにしているのに…、仲田さんとはかなりの体格差があるはずなのに、ずるずると鏡のほうに連れて行かれる。
 本当は……わかってたんだと思う。仲田さんが言った事は本当だと。だって仲田さんが嘘をつく理由も必要も、どこにもないから。
『西森くん!?』
 だけど……いや、だから、オレは仲田さんの手を振りほどいて、保健室から飛び出していた。
 ――そんなことない。いやだ。信じたくない。いやだ…!
 それだけのことしか考えられなかった。
 明らかに低い視界。自分のもののはずなのに勝手の違う手足。それを無茶苦茶に動かして、なんの目的もなく、ただ走ることしか出来なかった。
 認めたくなかった。逃げ出したかった。
 そして……オレは裸足のまま玄関から外に出て、校門を出たところで長くなっていた袴に引っかかり勢いよく転んでしまった。
 学校の前の道路の真ん中で。起き上がろうとして、周囲から悲鳴が聞こえた。
え、と思う間もなかった。迫ってくる白い物体を視界の端に捉えた次の瞬間。
――――ドンッ――――
 嫌な衝撃とともに、身体が宙に浮かんで…………次に目が覚めた時、オレは知らないベッドから白い天井を見上げていた。
『…ぇ? ……ッ!?』
 身体を起こそうとして、不意に走った痛みにベッドに逆戻りしてしまう。
 体中が痛い。
 ベッドの上でまともに動かせない身体の部分を一つずつ確認していって、手も背中も頭まで痛くて……その中で右足は少しも動かせなかった。
『あっ、目が覚めましたか? 先生を呼んできますね』
 なぜオレはこんな所に、と考え始めたときに不意に声がかけられる。ゆっくりと首だけを動かして声がしたほうをみると、もうそこには誰もいなかった。
 でもすぐに見るからに医者ですという風貌のおじさんが部屋に入ってきた。
『こんにちは。今、話せそうかな?』
 営業スマイル的な、でも人を不快にさせない笑顔で医者らしい先生が尋ねてくる。正直声を出すのも辛いけどそれに頷いた。
『今日の夕方、君は学校の前で車に撥ねられた。わき見運転だったらしい。そっちの処理の手続きは君のお父さんがしてくれてるらしい。法律関係のお仕事をなさってるんだね』
 今の状況を簡単にオレに伝えて、先生は『本当はいけないんだけど』と言いつつ、携帯電話を手渡してきた。
『お父さんに連絡してあげなさい。とても心配なさっていたようだから』
 オレの親は、父さんしかいない。母さんは、オレが小六のときに事故で死んでしまった。
 だからだろう。電話口での父さんは普段では有り得ないほどにうろたえていて、何度も何度も大丈夫かと訊いてきた。
 それにいちいち応えて、大丈夫だと伝える。
 最後には涙声になった父さんが『明日には病院に行くから』と言ってきて通話はさっさと切れる。子供の前で泣くのが照れくさかったらしい。
『それで、君の怪我の具合なんだが…』
 通話を終えたオレに先生が言いにくそうに口を開く。
『……え…………』
伝えられたことは、絶望的なことだった。


 女になってしまったオレは、その日のうちに、女としても二度と剣道が出来なくなってしまったんだ。









「………っ…!」
 真夜中に目が覚める。まだ暑くなる季節でもないのに、じっとりと汗をかいている。
 思い出したくないのに……忘れてしまいたいのに、不意に夢としてあのときの記憶が蘇ってくる。まるで責めるように、何かあるたびに……。
「……っ、ごめ……」
 今ここにいない後輩への謝罪が漏れる。
 どこまでも薄いそれが、余計自分の情けなさを煽って、泣きたいほどに胸が痛くなってくる。
 ――言わないと…。
 ちゃんと川嶋に伝えないと…。
 オレは川嶋との約束を裏切ったしまった。だからせめてこれ以上騙すような真似だけはしちゃいけない。
「あした…言わなきゃ……」
 決心をして、眠ろうと無理やり目をつぶる。


 この時のオレはどこかで高をくくっていたのかもしれない。
 部活の他の人たちは、オレが女になってしまったのに肯定的だったから、川嶋もたぶんそうしてくれる。そんな甘えがあったと思う。


 だけど、そんなオレの甘えは、粉々に砕かれることになってしまった……。


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最終更新:2008年06月14日 22:36
ツールボックス

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