顔の半分を隠す髪は、人に顔を見られないように。
いつも下を向くようにしてるのは、人に顔を見せないようにするため。
女の子になれば、全部忘れられると思った。
女の子になれば……何も、なかったことにできると思っていたんだ。
帰りのHRが終わって、一気に騒がしくなった教室。
ガタガタと席を立つ音やこの後の予定を話し合う人の声が瞬く間に広がって、それに紛れるように僕も立ち上がろうとした時だった。
「なぁ、安岡ちょっといいか?」
「――――え……?」
クラスメイトの北村くんに急に話しかけられたんだ。
二年生に上がってからもうまるまる二ヶ月は経つ。その間ずっとクラスメイトということ以外、何も関わりがなかっただけに、急に話しかけられたことが少しだけ怖い。
「あの……な、に?」
僕よりもずっとずっと大きな体の北村くんからは、それだけで押さえつけられるようなものを感じてしまう。
僕の席は一番廊下側の真ん中。そのせいで席の左側――北村くんがいる所に立たれてしまうと身動きが取れないせいかもしれない。
「ああ、安岡、俺のカットモデルになってくれないか?」
「か……?」
「俺将来美容師になりたくてさ、これでもけっこう練習してんだぜ。でも前のカットモデル頼んでたヤツが事情があってやめちまったんだ。んで、どーすっかなーって思ってたらびっくり。すげー上質の髪を持ってる奴がクラスにいるじゃねーか!」
大きな体を大げさに動かしながら事情を説明する北村くん。だけど僕にはちっともわからないことがあった。
「それって、誰?」
北村くんが言い出したことが本当にわからなくて。
理解しようにも、他のクラスの皆から好奇の目を向けられているこの状況が辛くて、知らないうちに突き放すような言い方をしてしまった。
「あぁ? おまえだよ、お・ま・え! 話の流れで分かれってーの」
途端に不機嫌そうになった声に体が竦む。
「ま、いいか。それよりも頼む! 引き受けてくれ!」
けれどすぐさま真剣なものになった声が、僕の上のほうから降りてくる。
――……カットモデルってことは……髪をいじられる?
だったら、断らないと。
「な? 頼む、いいだろ?」
顔を合わせることなんかできずに下を向いていたから気づいた。北村くんの両手が僕の肩のほうに動いて……。
――――パシンッ――――
「あ――――」
ほとんど無意識のうちに、僕は肩へと伸びてきた北村くんの手を叩き落としていた。
叩いてしまった時に思いのほか鋭い音が響いて、北村くんが息を飲んだような気配が伝わってくる。
――逃げないと……。
その思いに駆られて、机と北村くんの間に無理に体をねじ込ませる。
だけどその動きは北村くんのバランスを崩させてしまったみたいで。
一歩後ずさった北村くんは隣の席の椅子に引っかかって、背中のほうから盛大に倒れこんでしまった。
「っ…てぇ~」
「ぁ………ごめんなさい」
しん、となってしまった教室の中、僕のかすれた声が妙に響く。
そして僕はそれ以上の謝罪も、北村くんを助け起こすことも出来ず、教室から逃げ出してしまったんだ。
次の日の学校、恐る恐る教室を覗き込んだけど北村くんはまだ来てなかった。
そのことにほっとして……安堵の息を漏らしてしまったことに自己嫌悪しながら自分の席に着く。
昨日、かなり最低なことをしてしまったという自覚はある。
人を突き飛ばして転ばせて、しかもろくに謝りもしないまま逃げ出してしまったんだから。
でも……混乱してたんだ。
人を突き飛ばしてしまった経験なんて全くなかったし、ほとんど無関係に近かった人にいきなり話しかけられて…………。
――ううん、違う。
自分への言い訳を断ち切るように首を振る。
たぶん僕は、認めたくないんだ。まだ、立ち直れてないだなんて認めたくなくて……だから逃げてしまった。
肩と首は違う場所。
そんなこと当たり前のこともわからなくなるほど、まだ人の手があんなに怖いなんて……。
不意に席の横を誰かが通って、思いっきり身体が跳ねる。北村くんが来たのかと身構えたけど違う人だった。
――……ちゃんと謝らなきゃ。
謝って、そして断らないと。髪を切るつもりはないから、って。
決意してずっと入り口のほうを様子を伺い続ける。
だけど予鈴が鳴っても、一限目が始まっても、いつまでも北村くんは教室に現れないまま、とうとう放課後になってしまった。
どうしたんだろうという疑問と、顔を合わせなくて済んだという安堵と、けれど謝罪が先延ばしになったことへの憂鬱。
色んな感情の中、だけどやっぱり憂鬱を強く感じながら僕は帰り支度に取り掛かる。
「安岡さん、何帰ろうとしてるの?」
「え……?」
声をしたほうを見れば、スカートの端が視界に入る。
「今週、私たち教室の掃除当番でしょ? 昨日安岡さんったら先に帰っちゃうんだから」
はい、と僕の分の箒を差し出されて、今更ながらのことを思い出して、ざっと血の気が引いていく。
「ぁ……の、ごめん、なさい……」
「いーよ。でも今日のごみ捨てはお願いね」
それだけ言って、その子は机を後ろにどかす作業に入っていった。
こういう時に、ここは本当に良いクラスだと思う。
たったそれくらいのことで、昨日のことをまったく追及もせずに済ませてくれた。
皆、どうすれば人が嫌な気持ちになるのかわかってくれてるんだと思う。だから僕みたいなのでも、クラスから極端に浮かずにいられるんだ。
僕とその子と、あと男子三人で掃き掃除を手早く済ませて、四人は思い思いの場所に向かっていった。
残った僕もごみ箱の中身を、校舎裏のごみ置き場に持っていったらそれで仕事はおしまいだ。
あまり入ってない軽いごみ箱を抱えて校舎裏まで行って、でもこの時間はごみ置き場が混むから、思ったよりも時間がかかってしまった。
だけど、それは別にどうでもいいんだ。
ごみを捨てて、ゆっくりと歩いて教室の前まで戻ってきた僕は、教室の中から響いてきた会話に凍りつかされる。
「ね~、私のことカットモデルにしない?」
「その誘いはありがたいけど、もう決めちゃったからな~。ゴメン!」
隣のクラスの女の子の甘えるような声に答えたのは、今日はついに学校に来なかったはずの人。
――どう…して……?
ごみ捨てに行く前はいなかったのに。
「なーんだ、残念!」
言葉とは全然違う、あんまり残念がってない声で女の子は笑ってる。
「悪いな。もう俺あいつにするって決めちゃったから。な!」
な、の所で唐突に北村くんに視線を合わされて、廊下で僕は息を飲んだ。
――気づかれてた。
そうわかった瞬間、このまま逃げようと身体が動きかけて、だけど足が固まってしまったみたいに動かなくて。
ゆっくりと北村くんが近づいてくるのを、僕はただその場で待ってしまうことになった。
「昨日はドーモ」
妙に優しげな声の北村くんが逆に怖い。
「あ、あのっ……」
「いや~、いきなりあんなこと言い出した俺も悪かったけどさ、まっさか安岡が人を突き飛ばすなんて思ってなかったんだよな~」
「それはっ……」
「でな、間抜けな話、俺さ油断してたせいで受身取り損なって腰痛めたんだわ」
北村くんのその言葉に僕は自分の顔が青くなるのがわかった。
「ま、そういうわけだから。お詫びにカットモデルくらいなってくれるよな?」
北村くんは普通に問いかける口調なのに、僕のほうにやましい所があるせいで脅されてるように感じてしまう。
「なってくれるよな?」
もう一度聞かれて思わず身体が竦んでしまう。自分より大きな人からはどうしても威圧感を感じてしまって、怖い。
耐え切れなくなった僕が頷くと、それまで北村くんから感じてた威圧感がふっと消える。
「サンキュ」
信じられないほど優しい、安心できる声が聞こえて、それに驚いて顔を上げる。だけどすでに北村くんは女の子たちの方を向いていてどんな顔をしてるのかわからなかった。
「じゃ、俺たち帰るから」
「じゃーねー」
「安岡さんのこと、あんまりいじめちゃだめだよ~?」
女の子たちの口々の声に見送られながら、僕は北村くんにつれられて教室を出た。
「あの……どこに…?」
「ん? ああ、俺んち」
学校から歩いて十分と自慢げに話す北村くん。
「北村くんの、家?」
「おう、道具とか全部家に置いてあるからな」
すぐに僕の質問に答えてくれて、だけどそれきり話すことがなくなってしまって、無言で北村くんの後をついていく。
「あの……ごめんなさい」
だけど校門に来たあたりで思い出してそう口にすると、北村くんは不審そうに僕の方を振り向いた。
「なんだ? あ、もしかして今日は他に予定でもあんのか?」
「そうじゃなくて……昨日北村くんのこと転ばせちゃって、しかも怪我までさせちゃって……」
もう一度ごめんなさいと小さくなってしまった声で言うと、なぜか北村くんが息を飲んだような気配が伝わってきた。
「……?」
「あ、いや、別に大したことないから。だからそんな気にすんなよ、なっ?」
焦ったように言う北村くんが不思議だったけど、すぐに許してもらえてほっとした僕だった。
そのやり取りが終わった後、さっきよりもゆっくりと歩く北村くんについて行って、本当に十分くらいで北村くんの家に着いた。
「ここ、って……」
「ああ、駅から近くて便利だろ」
そう、北村くんの家は僕がいつも登下校で使ってる駅の近くだったんだ。
美容師になりたいって北村くんが言ってたからてっきり家が美容院なのかなと思ってたんだけど、北村くんの家は普通の二階建て一軒家だった。
「どうした、上がれよ?」
「…おじゃまします」
一瞬躊躇ったけど、そんなことしてても何にもならないからおとなしく北村くんに従って中に入る。
玄関からまっすぐ入ったリビングに通されて、僕にソファに座るように言って北村くんは隣のキッチンに消えていった。
僕の家よりけっこう広くて、なんだか温かい感じがするリビング。だけどもちろんくつろげるわけなくて、じっと待っているとすぐに北村くんは何かを持って戻ってきた。
「あいよ、お待たせ」
麦茶の入ったグラスを手渡される。
「ありがとう……」
一口飲んで、自分がどれだけ緊張して喉が渇いてたのかやっと自覚した。
――おいしい。
麦茶のおかげでそれも少し和らいだみたいだ。
「それでカットモデルのことなんだけど…」
本題を切り出されて、身体が硬くなったのが自分でもわかった。
だけど幸い北村くんは気づかなかったみたいで、そのまま言葉を続ける。
「まず髪触ってもいいか?」
「え…?」
「髪が今どんな状態なのか、触ればけっこうわかるもんなんだ。いいか?」
真剣な声。どれだけ北村くんが真面目に美容師を目指してるのか、それだけで伝わってきて、僕は嫌だなんて言えずに頷いた。
すると北村くんはソファに座ってる僕の正面に膝を着いて、向かい合う形になる。
「じゃ、触るぞ」
言葉とほぼ同時に北村くんの指が頭に触れて、大げさに身体が動いてしまった。
「っと、悪い。なんかしちゃったか?」
慌てて聞いてくる北村くんの声に、僕は首を横に振って否定した。
――大丈夫……。ただ、髪を触られるだけ。
そう自分に言い聞かせる。
「触るぞ?」
さっきよりもゆっくりと僕の頭に指が触れて、今度は僕も拒絶しなかった。
「あー、やっぱ髪やわらかいな~」
横の髪を梳くようにしたり、髪の流れに逆らって撫でてみたり、たまにひと房持ち上げてみたり…。
――なんか……。
すごく心地いい。
最初はあんなに嫌だと思ってたのに、昨日あんなに僕を怯えさせたこの大きな手が、今はすごく安心できる。
「でも思ってたよりわりと毛先以外は痛んでないな。なんかケアとかしてるのか?」
話してる間も北村くんは手を止めない。
「シャンプーと……リンスだけ」
ぼんやりと答えながら、いつの間にか僕は目を閉じてしまっていた。
「本当にそれだけで、この傷み方で済んでるのか?」
少し驚いたような北村くんの声に目を閉じたまま頷く。
髪のごく表面を触られてるだけなのに、まるで僕自身を撫でられてるように感じてしまって、すごく安心できる。
『この不思議な感じがずっと続いてほしい』
そうさえ思ってしまって、僕は自分のあまりの心境の変化に内心驚いた。
――…でも、いいや。
今はこの心地の良い状況が続いてるんだから。
「まぁ~、でも……」
突然、北村くんの声が不自然に途切れる。しかも声だけじゃなく手の動きまでも。
不思議に思って目を開けると、目を見開いて僕を見ている北村くんの顔が映る。
――え……?
景色がさっきまでより明るい?
「あ…ぁ……」
頭が理解するより、身体が勝手に反応してしまう。
『おまえさえ、いなければ…!』
やだ……思い出したくない…っ。
「安岡? おい、どうし…」
「いやだっ!!!」
目一杯の力で抵抗して、目の前にいる人を押しのけて僕は廊下の方に逃げ出す。
――助けて、たすけて、タスケテ…!
「安岡っ!?」
後ろから誰かが追ってきて手首を掴まれる。どんなに振りほどこうとしても離れなくて、それが恐怖に拍車を掛ける。
「やめて、放してっ!」
息が苦しい。冷や汗が止まらない。
お願いだから、誰か僕を助けて…っ。
「いい加減にしろっ!!!」
とても近くからの怒鳴り声に僕は息を飲んだ。その拍子に抵抗することも忘れてしまう。
「ったく、なんなんだよ」
嫌われる。いらないって言われる。また、見捨てられる…!
ぐるぐると頭の中にそれだけが回っていて他に何も考えられない。
ガタガタと身体が震えだして、まだ僕の手首を掴んでる人にもそれが伝わってしまった。
「安岡、おまえどうしたんだよ…?」
考えたくない、絶対に。もうあの事なんて…。
答えない僕に痺れを切らしたのか、目の前の人が忌々しげにため息を吐く。それにさえ身体がビクつく。
「大丈夫だ」
ふっと温かい何かに身体が包まれて、震えが収まっていく。
それが北村くんの腕の中だとわかってからもなぜかすごく安心できて。僕はそこでそのままじっとしていた。
「もう平気か?」
しばらくしてそう聞かれて、頷くと北村くんはゆっくりと僕から腕を外した。
いきなりあんなふうになってしまって居たたまれないのと恥ずかしいのでまともに北村くんを見れない。
「じゃ、続けても平気だな?」
驚いて顔を上げると、北村くんが意外そうに聞いてきた。
「どうした、もう嫌か?」
「…訊かないの?」
僕がこんなふうに錯乱してしまった理由を。
「聞いたら教えてくれるのか?」
ごく普通に聞き返されて、僕は返答に困ってしまった。
北村くんには迷惑を掛けてしまったけれど、出来ればその話をあまりしたくない。
黙ってしまった僕に北村くんは苦笑してこう言ってくれる。
「人には聞かれたくないことの一つや二つ誰にだってあるだろ? 安岡が話したいならいくらでも聞くけど、そうじゃないなら無理に聞くようなマネはしねーよ」
だからこの話は終わりだと言ってくれる北村くんの存在がすごく嬉しかった。
「ま、それに? カットモデルのこと断られてもあれだしな~」
けっこうひどい言い草だったけど、それがただの冗談だって今の僕ならわかる。
「いまさら断らないよ。だけど……」
「わかってる」
最低限の言葉だけで僕が言おうとしてたことを察してくれる北村くん。
『前髪にはあまり触らないで』
まだ吹っ切れてないから。
せめて、もう少し時間がほしいから……。
「で、安岡。いま自分で断らないって言ったよな?」
「? うん」
頷くと北村くんは口の中でごにょごにょ言って、やおら頭を下げてきた。
「え、えっ?」
「悪い、嘘ついてた! 俺、腰痛めてなんてない!」
突然大声でそう告白されて、だけど別にそれはもうどうでも良かった。
「どうしてだ?」
その北村くんの言葉にはわざと答えなかった。こんな答えを言うのは恥ずかしかったから。
北村くんといれば、僕は変われる気がするからだなんて。
安らぎを与えてくれる彼のそばに、ずっといたかったからだなんて。
~~北村編~~
本音を言えば、初めは変な奴だなとしか思ってなかった。
いつも下を向いていて、たまに何かを言いたげにしてても、すぐにそのまま口を閉ざす。
カットモデルを頼んだのだって、ただ髪が魅力的だったからでそれ以上の理由は全く無かった。
……そのはずだった。
「結、今日も俺んち寄ってくか?」
帰りのHRが終わり、俺は二つ前の席の小さな頭に声を掛ける。
「うん」
コクンと頷きながら小さな声で返事をする結。
やべぇ、可愛い。
「……北村くん?」
「あ…っと、駅の方には今日は行かなくていいよな?」
動揺を隠すための俺の質問にもう一度首を縦に振って、異議がないことを伝えてくる結。
――あーもーっ、ほんとにこいつは…っ。
思考がループしかけてるのに自分で気づいて、ゲフンと一つ奇妙な咳払いをする。
「うし。じゃあ行くか」
そうして先に歩き出してから、いつものように何気なさを装って後ろを振り返る。そして結が少し早足でついて来てるのを確認して、少し速いかと俺は歩調を緩める。
こうやって二人で、ゆっくりとした歩調で歩いていく時間は、俺の中でかなり居心地の良いものになっていた。
結――安岡結と個人的に付き合うようになって大体一ヵ月半。ああ、付き合うって言ってもただの友達付き合いだからな。
俺が結に話しかけたのは二年に進級して少し経ったころ、ゴールデンウィーク明け。
いつも猫背で下を向いていて、その上ぼさぼさの長い髪でよく顔が見えないクラスメイトを、周りは不気味がってるというか、とにかく敬遠してるかのように積極的に関わろうとする奴はいなかった。御多分に漏れず俺もそうだった。
だけど最初に話しかけたのは俺。
まったく話したこともなかったから、俺が声をかけると結はかなり驚いたふうだった。前髪で表情はわからなかったけど、雰囲気でわかった。
……さて、なんで俺が急に結に話しかけたかといえば、もちろん理由がある。
俺はたまにチンピラに見られるような外見をしているけど、これでも美容師を目指している。なんでか……は、どうでもいいか。別に興味もないだろうし。
ともかく、目指してるだけあってちゃんと練習も積んでいる。
それでその練習台を最近まで彼女に頼んでいたんだが……。
『私の何処が好きなの?』
『髪だけ』
……まあ、フられるのは当たり前だよな。
そんな理由があって、俺はそれまで大して気に留めてなかったクラスメイトに目を付けたわけだ。
無造作に伸ばしっぱなしっぽいぼさぼさの髪は、切るにしてもケアするのにも絶好の腕の見せ所という感じだったし、後で聞いたところ今まで一度も染めたこともなく真っ黒な髪は俺の好みというのもあったからな。
「な? 頼む、良いだろ?」
カットモデルの依頼とその理由を簡単に伝えてから、ふざけ半分もあって結の肩に手を置こうとしたところで、バシンという音とともに俺の手ははじかれていた。
――……あ?
思わずはじかれた手を見て、動きが止まってしまった。自分よりもかなり小さい体の、その細い腕に思いっきり振り払われる。
自分で思うよりそのことに驚いていたらしい。気づけば俺は、結に押されて完璧に転ばされていた。
「っ…てぇ~」
周囲の椅子や机にぶつかりまくりながら、しかも背中から倒れこんだせいで、やたら派手な音とかなりの痛みが襲い掛かってくる。
「ぁ………ごめんなさい」
短い、聞き逃してしまいそうな謝罪の言葉だけを残して、結は静まり返ってしまった教室から走り去っていく。
こんな感じが結とのファーストコンタクトだった。
「北村くん……?」
結の顔を見ながらあの時のことを思い出していたら、怪訝そうに名前を呼ばれてハッとさせられた。なんでもない、とお茶を濁しながら、でもつい笑いが漏れてしまう。
――そうそう、これだよ。
結にすっ転ばされた次の日。俺は寝坊して大遅刻をかました。つか、授業は一個も出れなかったんだからもう欠席だな。
いやもう、真面目にあんな寝坊やらかすなんて思ってもみなかったぜ。何でかと言えば、どうやったら結に承諾させられるかを考えてるうちに深夜になっていたというまるでアホな理由だ。
ま、そのおかげというか、『転ばされたせいで腰を痛めたから、そのお詫びとして引き受けろ』という半ば脅しのような要求の仕方を思いついたんだ。
…………ぶっちゃけ成功するとは思ってなかったけどな。
俺よりこんなに小さい結に転ばされたなんて誰も信じないし、一応目撃してたクラスメイトにさえ『安岡に何したんだ?』と非難の目を向けられたくらいだった。いや、それはともかく。
今の結の見上げてくる感じから、俺の脅しに怖々と頷いたあの時の結の様子を思い出しての笑いだったんだが、結はそう思わなかったらしい。
どうやら俺にからかわれたと取ったらしい結は。
「………………」
静かに拗ねているようだった。
「どうしたんだ?」
「……なんでもない」
「なんでもないのに、こんな膨れてるのか?」
言いつつ、気づかれないように結の顔に指を近づけ……。
「っ!」
しっかりガードされてしまった。ちっ。
結にカットモデルを頼んで一ヶ月ちょい。その間俺は髪のケアばかりしていて、カット自体はそれほどしていない。せいぜい毛先を整えるくらいだ。それだけで ボサボサだった髪はかなりマシなったが。
だけどその間、スキンシップは欠かさずにしてきたわけで。
そのおかげかクラスで唯一俺だけが結に懐かれている。(実際こうやって名前で呼ぶことを嫌がられてないし)
何より最近気づいたことだけど、いつの間にか結が俺に話しかけるときにどもることが無くなったんだ。
他のクラスメイト相手だとまだまだ怯えた感じを残している結がこうやって俺だけを信頼してくれるのは、誰にも懐かない動物が自分にだけ心を開いたようで優越感のような、どこか気分の良いものを感じている。
「やっぱり……」
「ん? どした、なんかあったか?」
不意に呟かれた聞き逃してしまいそうな声に質問をすると、結は「なんでもない」と首を振って言葉を引っ込めてしまう。
「そっか」
正直もどかしいと思わないわけではない。結以外の奴だったら言いたいことくらいちゃんと言えと怒鳴りつけてるかもしれん。
……だけど気になってるからな。
『いやだっ!!!』
初めて結の髪を触った日の、あの悲痛なまでの叫び。
『やめて、放してっ!』
普通前髪を上げられただけで、人はあそこまで取り乱したり、怖がったりはしない。そう、以前に滅多なことがない限り。
何があった、なんて訊くことはしない。せっかく笑えるようになってる奴の傷を自分の好奇心でえぐるような最低な真似だけはやっちゃいけない。
……ま、なんのかんの言って、結局は結が嫌がるようなことができないだけだけどな。
だからアレ以来、髪を触るとき勝手に前髪をいじることはしないし、触るときもちゃんと前置きをしてからにしてる。
「…………けどなぁ」
また結の素顔を見たいというのもこれまた本音だ。
ほんの短い間しか見れなかったけど、前髪に隠された結の顔は……めちゃくちゃ可愛かった。いやもう本当に自分の語彙の少なさを痛感するほどに。
そこらのアイドルとかがイモに見えるほどに、結の顔立ちは中性的で綺麗で……見ているうちに吸い寄せられるような錯覚すら受けて実は相当やばかった。あの時、叫ばれてセーフだと思うくらいには。
――あの顔のせいか…?
顔を見られただけで結が恐慌状態に陥ってしまったのは……。
結が元男であることはどこかから聞こえてきた噂で知っていたが、中学のころに女体化したということはつい最近本人から聞いた。
もしかしたら結がこんなふうになってしまったのはそのころに何か…………。
そこまで考えて、今まで考えていたことを散らすように俺は頭を振る。
友達の過去を勝手に詮索するような真似をして、それでいったい何になるって言うんだ。
「おじゃまします」
「はい、いらっしゃい」
そうしていつものようにきちんと礼儀正しい結に答えて、俺たちはいっしょに部屋に入った。
だけどやっぱりもう一度くらいは顔を見てみたいなんて思いながら。
最終更新:2009年01月15日 00:41