『放っておいて触れないで』(3)

  ~~結編~~


『おまえさえ、いなければ……っ』
『ぁ……っ!?』
 ――息が…っ。
 首に指が食い込んでくる。
 苦しくて、怖くて、でも何の抵抗もできなくて、視界が真っ赤になってくる。
 ――ぼく、しんじゃうんだ
『何してるのっ!?』
 そう思ったとき、お母さんの声がして、首にまとわりついていた苦しさは消える。
『大丈夫。もう、怖いのはなくなったからね』
 優しげな声。
 ぼくを包むように抱きながら、お母さんはそう言ってくる。けれどこの後にどうなるか、『僕』はもう知っているんだ。
『お姉ちゃんがあんなことするなんてね』
 膝立ちになって僕の顔を覗きこむようにしながら母さんはしゃべる。
『でもね? あの子があんなことをしたのは、あなたのせいでしょう……?』
 いつの間にか、お母さんの手がぼくの首に回されていた。
『どうして、あの子じゃなくて、あなたが残ってるの?』
 ゆっくりと力が込められていく手。
 叫ぶ余裕はあったはずなのに、目の前の狂ってしまった双眸が怖くて、ほんの少しも声が出せなかった。
 ――助けて……。
 息より先に血管が押さえられて、だんだんと意識が遠ざかっていってたその時だった。
『おまえ…っ! 何をやっているんだ!!?』
 今度はお父さんの声がして、また苦しいのが消えていく。
『今度こそ、大丈夫だからな』
 咳き込むぼくから少し離れた所で、お父さんが言ってくれる。
 だけどぼくの咳が止まったときには、お父さんはもうそこにはいなかった。
『一人暮らし、してみないか?』
 決して目を合わせないまま、お父さんはそう言ってぼくの手を引いて、大きな箱の前に連れてきた。
『たまには帰ってくるから』
 それを真に受けて、ぼくは仕事に行くお父さんを箱の中から見送った。
 待つ意味なんかないって『僕』は知っている。
 けれど、ずっとぼくは待っていた。
 一ヶ月、三ヶ月、半年……一年。
 ただぼくは独りでずっと待っていた。
 待つ意味なんかないって理解できるようになるその日まで……。



「……!」
 バチッと目が開いて、一瞬だけ自分がいる場所が分からなかった。
 けど、すぐにマンションの自分の部屋にいるってわかる。
 この夢を見るのは、本当に久しぶりだった。
 まるで、忘れることを許さないというように、あの夢は何度も襲ってくる。
 だけどここ最近は一度も見ることがなくて、やっと忘れられたと思っていた。
 見たくないのに、また見てしまったのは自分のせい。
 自分で、この記憶を掘り出してしまったから……。


 定期試験が終わった土曜日に北村くんが、僕の家に遊びに来た。
 北村くんはうちに来るのは初めてだったから、学校からいっしょに来たんだ。
 その道の途中で、北村くんの元カットモデルで……元彼女という人に会った。
『なんでこんな暗い子といっしょにいるわけ?』
 あの人の言葉が胸に刺さった。北村くんは怒ってくれて、それはとても嬉しかった。
 でも同時にすごく怖くなった。
 北村くんが、あの人に言った内容はいくつか、僕にも当てはまったから……。
 あの人がまるで未来の自分のようで、怖かった。
 そして気づかされてしまった。
 知らず知らずのうちに、かなりの部分を北村くんに依存してしまっている自分に……。
 家族にすら見捨てられてしまった僕が、いつまでもこんなふうに北村くんといっしょにいられるわけがない。
 いつか……嫌われるに決まってる。
 だったら、これ以上依存してしまう前にどうにかしたかった。
 もっと北村くんに寄りかかってしまう前に、離れてほしかった。
 だから、自分でも触れたくない、あの話をすることに決めたんだ。
 そう決めたのに、話すタイミングはなくて……、北村くんが途中で買ったお酒を飲んだら、話せるんじゃないかと思って……。
 ――だけど興味本位でお酒なんか飲むんじゃなかった。
 後悔ばかりが襲ってくる。
 お酒のせいで、ブレーキが効かなくなってしまった。
 本当ならあんなに、全部、話すつもりじゃなかった……。
 あんなふうに、北村くんに当り散らすようなマネをするつもりなんかなかった。
 もっと当たり障りのないところだけ話して、それで少しずつ離れていくはずだった。
 普通に挨拶をして、たまに話すくらいの関係でいたかった。
『もう、わかってるくせに…どうしてそんなこと言えるの!? 家族全員に嫌われて! みんな僕のこと大切になんかじゃなかったって、もう知ってるのに、どうして!?』
 ――けど、そんなのはもう無理。
 こんな過去を持ってる奴なんか嫌われるだけだし、こんなふうに喚き散らす奴なんか始末に終えないと思われて当然だから……。

 そのはずだったのに……。

『僕を大切だと、大事だと思ってる人なんかいるわけない!』
 ――願っていてもそんな人がいるわけがない。だから期待をさせるようなことを言わないで。
 僕がこの言葉を叫んだ瞬間、それまで困惑したような顔だった北村くんの雰囲気が一気に変わった。
 見たことがない怖い顔で、北村くんは僕のことを床に転ばせた。
『きたむら、くん?』
 あんまりいきなりだったから、本当にワケがわからなくて。
 僕はただただ北村くんの顔を見上げるしかできなかった。
 すぐ近くにある北村くんの目がすごく怖いのに……それから目を逸らすことなんか思いつきもしなかった。
『俺は結の顔が好きだな』
 言われた意味をろくに理解できないまま、ほっぺたを触られてびくっと身体が竦んでしまう。
 その次の瞬間だった。
 僕は……北村くんに、キスされていた。
 ――っっ!!???
 なんで、どうして?
 どうしてこんなことになってるのか、なんで僕が北村くんにキスをされているのか全然わからなかった。
 しかも触れ合わせるものじゃなくて、それ以上のことをされて……頭の中がもうぐちゃぐちゃになってしまった。
 自分の許容範囲を超えすぎた行為に、勝手に涙まで出てきて……。
 それに気づいた北村くんは、謝りながら身体を引いてくれた。
 どうして、と訊きたかったのに、口を開いたら自分でも何を言ってしまうのか分からなくて……。
 声を殺して泣くことしかできない自分が嫌だった。
 泣き顔も見られたくなくて背を向けた僕に、北村くんはまた謝って、そして部屋から出て行ってしまった。



 待って、とただの一言も言えずに、僕は部屋の扉が閉まる音をただ聞いていたんだ……。



 これが、土曜日にあったこと。
 日曜日はぼんやりと何も考えられずに過ごして、今日は月曜日。
 そろそろ学校が終わった時間なのに、僕はずっと家にいる。
 ズル休みをしたのなんてこれが初めてだ。
 でもこんな気持ちのまま、学校に……北村くんに会うことなんかできないから、行かなくて良かったのかも……。
 ――どうして、北村くんは……僕なんかに……。
 その疑問がぐるぐると回り続けている。
 それと、あともう一つの疑問。
 ――どうして、僕は……。
――――ピンポーン――――
 一回だけのチャイムが部屋の中に鳴り響く。これは、共用玄関からの呼び出し音。
「……はい」
『……あ~……俺、だけど……』
 何も考えずに受話器を取って、そして固まってしまった。
 ――北村くん…?
 もう二度とここには来ることがないはずの人。
 もう僕とは普通に接することがなかったはずの人。
――――ピンポーン、ピンポーン――――
 またチャイムが鳴る。二回。うちの部屋の呼び出し音。
 共用玄関のロックさえ外してないのになんで、と思って、自分の指が無意識のうちにロックを解除していたのに気づく。
「あ……」
 つまりもう、北村くんがこの部屋の前にいる……。
 今まで漠然としてだった怖さが、一気に這い上がってくる。
 やっぱり僕はすっかりお酒で酔ってたのかもしれない。
 土曜日の出来事を……どこか現実味のないものに思えていたんだから。
 ……けど、いざ北村くんが来てみたら、どこかぼんやりとしていた輪郭が急速にはっきりしてくる。
 自分が何を話してしまったのか、どんな言葉をぶつけたのか、どんなことをされたのか……そしてそれに対して何を思ったか。
――――ピンポーン、ピンポーン――――
 またチャイムが鳴らされて、はっとさせられた。今さら居留守なんかできるはずない。
 動きの悪い身体を引きずるようにして玄関に行って、僕は扉を開けた。
「……よっ、今日、休んでたけど、風邪とかじゃないのか?」
「うん……別に、大丈夫」
 お互いに目を合わせないまま、微妙な間が空いてしまう。
「上がって……?」
「……おじゃまします」
 明らかにぎくしゃくとしてるのに、お互いにそこに触れず、僕たちはリビングに移動する。
 二日前と同じ部屋……。
 せめてのつもりで北村くんにはいっしょに御飯を食べたテーブルの椅子ではなく、カーペットの上に座ってもらった。
「これ、修学旅行についてのプリント。明後日が提出の締め切りだってさ」
「うん……」
 北村くんはこれを届けに来ただけ。だから、もう話すことが見つけられない。
『……………………』
 二人分の気まずい沈黙が落ちる。
 ――どうすればいいんだろう…。
 二日前、僕はこの人に嫌われたかった。これ以上、寄りかかってしまう前に、離れていってほしかった。
 だけど、今は……こんなふうになってしまうのが、すごく嫌だ。
 どこまでも身勝手な考えでしかないのはわかってるけど…。
 僕は、北村くんに嫌われたく、ないんだ……。
「結……」
 名前を呼ばれただけで、勝手に肩が跳ねてしまう。
 どうやっても視線を合わせることができない。そこに浮かんでいる感情を見てしまうのは、怖いから……。
「………悪かった!!」
 いきなり北村くんが頭を下げる。
 正座をして、その前に両手を着いて……えとこれって、土下座……?
「や、やめて…っ」
 頭を下げられる理由なんかわからなくて、慌てて止めるのに、北村くんは頭を上げてくれない。
 むしろ、謝らなきゃいけないのは僕のほうなのに……。
「俺は最悪なこと結にしたんだっ! 本当に悪かった!!」
 ――北村くんが僕にしたこと……?
 一瞬考えて、次の瞬間には顔に熱が集まってきた。
 そうだった。僕はされてしまっていたんだ。
 いきなり、北村くんに、キスを。
 ――………っ…!
 あの時の出来事全てを、どこか遠くのものに感じていたけど、北村くんがまたここに来たことでそれら全部が急にリアルに感じられてきて。
 より一層、僕は何も言えなくなってしまう。
 けれど、それでもこんなふうに土下座される覚えなんかない。

 だって僕は――――。

「結があんなふうに考えるのはしょうがないことだと、少し考えてみて思った」
 頭は上げたけど、手は着いたまま、俯きがちに北村くんが話し出す。
「家族に否定される苦しさは、正直に言って俺にはわからない」
 押し殺したような口調で。
「だけどな、結をその苦しさの中に置いておくことなんか、我慢できない」
 それなのに力強さを感じさせる声で、北村くんが話しかけてくる。
「結はあの時、自分を大事に思ってくれてる人なんかいない、って言ったろ?」
 半分は勢いだったけど、それが僕の本心。
 何もしてないのに嫌われる……そんな僕を誰も大切に思ってくれるはずがないから……。
「でもな結。……俺は結のことをすごく大事に思ってる」
 ――……え?
 耳を疑った。
 この人から……誰よりも一番迷惑をかけてしまった、この人からこんな言葉を聞けるはずないから。

「俺は、結のことを本気で好きだと思ってる」

 ――………………。
 驚きすぎて、この後に北村くんが何を言っているのか、わからなかった。
 北村くんが、僕を……?
「…れ、じょうだ……?」
「冗談であんなことできるほど、俺は腐っちゃいないぞ」
 言いかけた声は、先回りされてしまう。
「いや……結が言ったことに勝手キレて、それでいきなり手だしたんだから、狂っていると言えばそうか」
 独り言のようなことを呟いて、北村くんはまた頭を下げた。
「本当にすまなかった。結は元々男で……なのに男にあんなことされて、こんなこと言われても気持ち悪いだけだよな?」
 ――違う……。
 首を振っても、北村くんには見えていない。
「ぶっちゃけ、自分でもめちゃくちゃ言ってるのはわかってる。仮に俺が女になってたとしても、野郎からこんなことされたりしたら嫌に決まってる」
 自分がされて嫌なことを結にしてしまっている、と北村くん。
「だけどどうしても言わずにいられなかった。このまま、少しずつよそよそしくなるくらいだったら、全部伝えておきたかったんだ」
 身勝手で悪いと北村くんはまた謝る。
 それを僕は不思議な気持ちで見ていた。
「お願いだから、頭、上げて……?」
 ゆっくりと北村くんが顔を上げる。
 そして、今日初めてその顔をまっすぐ見つめた。
「北村くんが謝ることなんか、ない」
「いや、そんなこと……」
「だって僕のほうが身勝手で、北村くんのことを困らせたもん」
 嫌われたくてあんな話をしたくせに、いまになって嫌われたくないと思っているのがいい証拠だ。
「それに僕……北村くんに……されて嫌じゃなかった」
 告げると、北村くんはポカンとした顔になった。
 自分でも理由なんかわからない。
 男のころも、女の子になってからも一度だって経験なんかない。だけどあの時、ほんの少しの嫌悪感も僕の中には湧いてこなかった。
「結、それって……」
「うん。……もしかしたらね、北村くんと同じ理由だからかもしれない。でも、違うかもしれない……」
 なんだそれは、と北村くんの視線が訴えてくる。
 それから逃げるように、僕は俯いて、でも言葉を続ける。
「わからないんだ……」
 自分の声が震えてるのに気づいた。
「え……?」
「北村くんに、嫌われたくない。いっしょにいたい。たしかにそう思ってるのに、すごく怖くて…」
 もしかしたら、また嫌われてしまうかもしれない。
 いらないと、切り捨てられてしまうかもしれない。
「だったらいっそ何も始めたくないって思うのに、このまま北村くんと離れてくのは、やだ……」
 完全に相反する気持ちが渦巻いていて、それ以前に北村くんへの気持ちが彼と同じものなのか、行き過ぎた依存なのかもわからないまま、一つも答えが出てこない。
 そんな自分が情けなくて、何も言えなくなってしまう。
 また、沈黙が落ちる。
 北村くんは何も言ってくれなくて、不安ばかりが募っていく。
「あのな、結…」
 何か言わなきゃ、と焦り始めた時、北村くんがゆっくりと話し出した。
「人の感情に絶対なんかない」
 なんの迷いもなく言い切られた言葉に、胸が凍ったような気がした。
「俺は、永遠の愛とか……そんなのは有り得ないと思ってる」
「……そっか」
 ひどく落ち着いたような声が出た。
 心の中はこんなにも痛がってるのに……。
「絶対に嫌いにならない。一生そばにいる。そんなことを言い切ったりは、俺は出来ない」
「やっぱり、そうだよね……」
「でもそれは逆のことも同じだろ?」
 不意に声の質が変わって、僕はおそるおそる顔を上げた。そこにあったのは。
「絶対に嫌いになる。必ず離れていく。そういうふうになるとも言い切れないだろ?」
 北村くんの優しげな微笑がすぐ近くにある。
「まだ来てない問題のことを考えて、それで現在をないがしろにするなんて俺はしたくないんだ」
 じっとまっすぐ僕を見ている。
「そりゃ遠い先のことまで考えてるわけじゃないけどさ。俺としては当分結といっしょにいるつもりだ」
 仮に恋愛感情がなくなったとしても、友達としてはずっと。
「い、いの……?」
 自分でも何に対して言ってるのかわからないのに、北村くんはそれでわかってくれた。
「結が気持ち悪がってないなら、俺は諦める必要なんかない。ずっと近くにいて、それで結の気持ちがこっちに向くのを待つさ」
 それでも僕の気持ちが北村くんに向かなかったら、諦めて友達でいるつもりだと言ってくれた。
「よく言うだろ? 友達は一生もんだって」
 わざと軽い口調での言葉に、胸がいっぱいになった。
 この人は僕の事を見てくれている。
 僕のことを大切に思っていてくれる。
 初めての実感に、涙ばかりが溢れてきて、言葉は出てこなかった。
 だから僕は北村くんに手を伸ばす。
『行かないで。いっしょにいて』
 そんな気持ちをこめた、初めて僕から伸ばした手を、北村くんはしっかりと掴んでくれた。




「あのね、一つだけ、お願いしていい…?」
 ようやく涙が落ち着いてきて、僕はさっき思いついたことを言おうとしていた。
「俺が聞ける範囲ならな」
 了承の言葉をもらえて、僕はそのお願いを北村くんにしていた。
「僕の前髪、切って?」
 僕の顔を好きだと言ってくれた彼に、ちゃんと顔を見せたいから。
 そして、ちゃんと北村くんと向き合いたいから……。

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最終更新:2009年01月15日 00:49
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