安価『一人称』

今俺……は少し困っている。
どうも今の俺には「俺」という一人称があまりにも似合わないみたいだからだ。
前の俺はどこにでもいるような平凡な男子学生だったのが、今の俺は見た目だけはどうしようもないくらい可愛らしい女の子になってしまったからだ。
つり目できつい印象を与える美人だとかそういう見た目なら「俺」という一人称でもまだ大丈夫なのだけれど、
今の俺見た目は、身長も低く、目は大きくて顔は小さい、瞳はなんだか光を宿しているように眩しくて、唇も小さくて愛らしい
髪は腰に届くほどの長い黒髪(あまりに邪魔だし、風呂に入ったときに水を吸って重かったので、切ってろうとしたのだけれど、家族友人全員そろって止めにかかってきた。今は俺もそこそこ気に入っているので、切ろうとも思わない)で、
全体としてどこかのお嬢様のような印象を与えるので、間違っても「俺」だなんていいそうにない姿になってしまっている。
とはいっても以前までは、自分に似合わなかろうと気にせずに俺という一人称を使っていたのだけど、今は少し事象が違うのだ。

一昨日、俺は部活などに入っていないのに、なんとなく学校に残って友達──一応親友といってもいいだろう大橋と、将棋をして遊んでいた。
実力は拮抗しているのでなかなかに楽しくて、いつの間にか部活組ですら帰る時間になっていた。
じゃあ最後に一勝負。というところで、大橋が賭けを持ちかけてきた。
「俺が負けたら一万くれてやる。その代りお前が負けたら明後日、一日俺の言うことに従う。
 もちろん流石にそんなのは無理ってなレベルの命令は無視してくれてかまわない。ある程度でいい。
 まあ、直接手を出すような命令はしないし、そこまでひどい命令もしないつもりだし、どうよ?」
正直いって俺も悩んだ(何せ前は俺がこの将棋に負けたことで、髪を切れなくなったのだ)けれども一万円は魅力的だし、
負けたとしても、大橋がそこまでひどい命令はしないと言っているのだから、真実大した命令はしないだろうと思ったので、この勝負を受けてしまった。

──負けた。
これ以上ないくらいに完璧な負け。
俺の居飛車棒銀はほとんど大橋の陣を崩すこともなく、俺はまともに穴熊を組む前に銀を二枚とも落とし、俺の陣地には大橋の角がとと金が入り込んでいた。
そんなぼろ負けで逆に何か納得のいかないものを感じたのだけれど、負けは負け。
俺は今日一日大橋と、所謂でぇとをしなくてはならなくなったのである。
そんなわけで今日(ちなみに日曜。賭けをしたのは金曜の午後だ)俺は、わざわざ早起きして弁当を作り、かわいらしい服を着て、予定の時間の十分前に待ち合わせの場所について大橋を待つと(当然二つとも命令だ)、
しばらくして大橋が現れるなり
「まった?」
と声をかけてきたので、俺は
「ううん、俺も今着いたとこ」
と、答えてやったわけだ(当然これも朝にメールで指示されていた)。
するとなぜか大橋はいやな顔をして、こう言ってきた。
「……一人称は私にしてくれ」
それで今までの意味のない思考に陥ったのだ。
これが「無理」なんて言えるレベルの命令じゃないことは分かるのだけど、今の俺の精神状態には非常に厳しい命令だ。
朝から弁当を作ったり、なれないない可愛らしい少女趣味なワンピースを着たりして俺の精神は疲弊しているので、限界が近い。
けれども目の前の大橋は、めちゃくちゃ期待した表情をしていて、とても無理といえる空気じゃないし、俺だって勝負に負けた以上は、
なるべく「無理」とは言いたくないのだ。
仕方がない。
──覚悟を決めろ、お……私!
「わ、わ……わわわたっ」
……これは緊張とかそういうんじゃない、ただちょっと今のおれは舌が短いから、噛みやすいだけで、緊張も、大橋の表情が嬉しそうになって動揺したとかそういうのじゃない!
絶対にだ!
だから、緊張しないように一度深呼吸して……
「わっ、私も、今来た、とこ」
よし! 言えた!
なんだか嬉しいのは達成感であって、大橋の表情がさらに喜色に染まったことは関係がない
本当に、絶対に。



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最終更新:2009年02月08日 23:33
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