『約束ひとつ』(3) 西森編

~~西森編2~~

「大丈夫なの?」
 道場の倉庫。川嶋から見えない場所に来た時、不意に仲田先輩らしくない真剣(かなり失礼だけど)な声で訊かれた。
「何がですか?」
「しらばっくれてもダメだよ? あのコが夕希ちゃんが前に言ってた……」
「はい、中学の…後輩です」
 言葉を引き継ぐようにして先輩の質問に答える。
 淡々と言葉を返すオレをどう思ったのか、仲田先輩はさらに質問を続けてきた。
「ばらしちゃってもいいの? せめてもっと別のタイミングで……。そう! もっとみんながいる所で言った方のが……」
「すいません」
 また、先輩の言葉を遮ってオレはそれだけ告げる。
 そんなオレを仲田先輩はじっと見て、そして本当に小さく息を吐いた。
「ごめんね。そういや言われてたのを思い出したよ。うん! でも、もしなんかあったら一番に相談してよね?」
 仲田先輩は腰を折り、わざとオレを下から見上げるような体勢になった。そしていたずらっぽい口調でのそれにオレは頷く。
 ……やっぱり仲田先輩はすごい。
 たったこれだけのやり取りしかしてないのに、オレの考えをわかってくれて、それ以上何も言ってこないんだから。
「そうと決まったら、ここは私がやっとくからもう行きなっ」
「えっ、でも……」
「いいの! 昨日は私帰っちゃったから、それのお返し。ほらっ、待たせてたら悪いよ!」
 断ることなんかできない強引さに、だけどオレはそれに頷き倉庫から出て、川嶋の方に歩み寄った。
「あっ、もういいんですか?」
 あくまでも礼儀正しく聞いてくる川嶋。それに心苦しさを覚えながら、オレは準備してあった言葉を吐き出す。
「うん。大丈夫だから、行こうか」
 そうして昨日のように靴を履き替え、同じ帰り道をいっしょに歩き出す。
 昨日に比べて少し早い時間だから、モロに下校時刻と重なってて同じ方向に歩いていく生徒も何人かいた。
「そういえば、先輩って俺と同じマンションだったんですね」
「へ……?」
 いつ切り出そうかとタイミングを計ってるうちに、川嶋がこともなげに言い放った内容にオレは固まってしまう。
「え、なに……なんで……?」
 川嶋のうちは家族で住んでいたはずで。ちゃんとした一軒家にみんなで住んでいたんだし、マンションに越してくる理由なんかないはずだ。
「俺、一人暮らしなんですよ。うちの親父が海外に栄転になったおかげで」
 オレが心の中で張り巡らせた疑問に、川嶋は答えてくれた。
「あ、そう…なんだ」
「はい。こんな良い立地のマンションに住めるなんて思ってもなかったですけどね」
 また『ん?』と思わされる。その言い方だとまるで……。
「なんか、偶然あそこに住むことになったみたい」
「ま、偶然といえば偶然ですね。西森先輩のお父さんが助けてくれなければ、俺も海外に連れてかれてたかもしれませんし」
 聞き捨てならない部分が川嶋の言葉に含まれていた。
 川嶋がうちのマンションに来た理由は、父さんが関わっている。
 ――そんなこと、オレは一言も聞いてない! 川嶋が、同じマンションに来るなら、どうして父さんはオレに知らせるなりなんなりしてくれなかったんだ!?
 どこぞの赴任先にいる父さんに対する恨み言がいっきに湧き上がってくる。
 どういう経緯か知らないけど、あのマンションは父さんの持ち物。だから別にどうしようと勝手だけど、それでも…っ。
 詳しく川嶋に理由を聞きたかったけど、これ以上質問をするのはためらわれた。
 そうやって葛藤しているうちに、川嶋は更に言葉を続ける。
「あと、西森先輩もあそこには住んでるんです。……知ってました?」
 その質問に首を縦に動かして答える。知らない方がおかしい。
「なんで、そんなこと訊くの?」
「いや……はっきり言えば昨日話してる時、西森先輩の名前が出ただけでかなり顔色が変わってたので、気になって…」
 こうやって変に誤魔化さないでちゃんと伝えてくれるのは川嶋の良いところだ。
 どこまでも変わっていない川嶋にほっとして、そして同時にじくじくとした痛みが胸に広がってくる。
 その痛みの理由は自分が今からやろうとしていることを怖がってるからかもしれない……。
「もしかして西森先輩のこと苦手だったりするんですか?」
 今度は首を横に振る。そして口を開こうとして、自分の唇が震えているのに気づいた。
 ――言わ…ないと。
 怖い。
 川嶋がどんな反応を返してくるのかわからないから。
 本当に、怖くて仕方ない
 だけど部活の人たちは認めてくれた。クラスの奴らも。
 ――川嶋も…たぶんわかってくれる。
「…レ…………から…」
 決心したつもりで吐き出した声は呟くような細さで。しかも掠れていて自分ですらよく聞こえなかった。
 それでも川嶋はそれを聞きつけて、こちらの方を向く。
「なんですか?」
 立ち止まりまっすぐオレを見てくる川嶋。
 目を見て言いたかったのに、それができないまま俯き加減でオレは言葉を紡いだ。
「…苦手なはず、ないんだ。オレが…西森だから」
「………え…?」
「黙っててごめん。言いにくくて……すぐに言わなきゃって思ってたのに。でも……いつ言えばいいのかわからなくて、それに…」
 うまく言葉がまとまらない。
 でもちゃんと伝えたくて、下手なそれを続けるうちに、黙って聞いていた川嶋が口を開いた。
「……んで…………」
 聞いたことのない声だった。
「なんで女になってるんだっ!!?」


 息が止まる。
 ただの一言。怒鳴られた声に含まれていたのは拒絶だけだった。
 この期に及んで、オレはどこまで甘いことを考えていたんだ。
 川嶋も許してくれるなんて、どうしてそんなふうに思い込むことができたのかもうわからない。
 ぎくしゃくとしか動かない首を川嶋の方に向ける。
『裏切られた』
 複雑な色をした目の中に、その感情がはっきりと浮かび上がっていた。
「かわし……」
 バチッ、と乾いた音がして、オレが伸ばしかけた手は弾かれていた。
 一瞬ワケがわからなくて、でもすぐに手に届いた痛みで、川嶋に手を払われたんだとわかる。
 それは、オレに触られたくない、から。
「……ごめん」
 謝っても意味のないことかもしれない。だけど謝ることしかできないんだ。
「本当に…ごめん」
 謝るのに相手の目を見ないなんて筋が通ってないはずなのに、川嶋の顔を見ることがどうしてもできない。
 そこに浮かんでいる感情に向き合うことが、怖くて仕方がないんだ。
「なんの、ために……」
 呟かれた声はオレに向けられたものではなかった。
「くそ…っ!」
 もう、川嶋はオレを見ていなかった。視界にすら入れたくないとばかりに川嶋はオレに背を向けて早足で歩き出す。
「川嶋…っ」
 名前を呼んでも、振り返ってくれない。
 その背中を追いかけて、ちゃんと謝りたかった。…約束を守れなかったことを許してほしかった。
 でも追いかけることはできない。今のオレはそんなこともできない。
「川嶋……」
 あっという間に見えなくなってしまった後輩の名前を呼ぶ。
 一番、わかってほしかった相手。中学校時代の一番の思い出。
 そいつからオレは拒絶されてしまった。
「………いたい……」
 大したことないはずの手の痛みは、いつまでも残り続けていた。



 眠っては目が覚めるということを何回か繰り返しているうちに、窓の外が明るくなり始めてるのがわかった。
『なんで女になってるんだっ!!?』
「――――……っ」
 眠りかけるたび、オレのことを否定する言葉を吐いた時の川嶋の顔が、声が勝手に思い出されてびくっと身体が跳ねる。
 ――………オレ、どうすればいんだろう……?
 いや、そんなの決まってる。川嶋に謝らなきゃ…。
 女になってしまったこと、もっと早く伝えるべきだったということ、……約束を、守れなかったことを。
 ――もう嫌われてるのに? 視界に入られるのも、触られるのも嫌がられるほどなのに?
「……っ…」
 不意によぎった考えに胸が詰まる。
 昨日、川嶋は言葉でも態度でも、オレを拒絶、していた。
 だったらもう、オレが近づくことさえ川嶋を不愉快にさせてしまうんじゃないのか?
 ベッドの上を転がりながら、まとまらない思考をもてあます。
 そして、もう寝れそうもなく、オレは身体を起こした。
 ――………オレは…どうしたいんだ? 川嶋と、どうなりたいんだ…?
 またどこからか湧いてきた疑問で頭がいっぱいになってしまう。
 客観的に見れば、中学のただの後輩。付き合いが終わりになることはしょうがない、と諦めてそこで終わりだと思う。
 だけどオレは、そんなのは嫌だった。
 剣道はいっしょに出来ないけれど、気軽に話せる、あの心地良い距離にまた戻りたかった。
 でも、それはオレの身勝手な希望に過ぎないってこともわかってる。
 昨日の…川嶋の言葉。
『あれ』だけで川嶋がオレに何を求めていたのか、わかってしまった。
 川嶋が必要としてくれているのは、『いっしょに剣道が出来て同じチームで戦うことが出来る、男の西森夕希』。
 女になってしまって、約束一つ満足に守れない今のオレは……いらないんだ。
「かわしま……」
 こんなふうに否定されたことなんか、今までなくてどうすればいいのかわからない。
 叩かれた手の痛みは家に帰るころには消えていた。
 代わりに、その痛みがそのまま移動してきたかのように、胸がちくちくと痛む。
「……はぁー」
 それを誤魔化すように深呼吸をする。ただの溜息にも聞こえる息を吐ききって、オレはベッドを下りた。
 いつも起きる時間よりもかなり早い。
 でもじっとしているより、少しでも動いていた方がまだましだった。
 昨日のあの後のことは、まともに覚えてない。
 夕御飯を食べたことと、風呂に入ったことだけは記憶にあるけど、それ以外の時間は何をしていたんだろう……。
 そのせいかキッチンには、いつも朝御飯用に買ってあるパンはなかった。
 ――……昨日の残り物……やっぱ、いいや。
 食欲はほとんどない。お腹も減っている感じがない。
 最近はまっている粒入りのオレンジジュースだけで朝御飯を済ませ、オレは昨日残してしまった家事に取り掛かる。
 父さんは仕事であちこち飛び回ってるから、まともに帰ってくるのは年末年始くらい。それ以外にもまとまった休暇があれば帰ってくるけど、それもごく稀だから、計算すると年に三週間くらいここにいないことになる。
 ここに越してきたのはオレが高校に入るのと同時。
 さすがにオレが事故にあったときは帰ってきてくれたけど、その時も続けて休んでいられるのは二週間が限界で、必要な手続きを全て済ませて父さんはまた地方に行ってしまった。
 そしてそれからずっとオレは半一人暮らし状態だ。
 薄情、と父さんのことを言う人もいるかもしれないけど、オレは納得している。
 オレがリハビリが必要だった時も、ちゃんと人を付けてくれたし。
 父さんは、人を助ける仕事をしてるんだ。オレは一応それを尊敬してるし、オレよりもずっと辛い状況にいる人がいるのに、それをないがしろにするのは許せなかったから。
 ……だけどこういう時、独りでいるのは…やっぱりつらいかもしれない。
洗濯物をたたむ手が止まっているのに気づく。
「…もう学校に行くかな」
 呟いてから、けっこう良い案だと思った。
 ぼんやりとしているうちに時間は経っていて、それでもいつも出る時間より三十分くらい早いけど構うもんか。
 自分の部屋に戻って制服に着替える。
 ハンガーにかかってる、女子の制服。
 一年も着ていると、もう目をつぶって着替えるくらい楽勝だと思う。そんなことしないけど。
 こんなふうにぼんやりとしていても、身体は染み付いた習慣をこなしていく。
 五分もしないうちに着替え終わり、最後に……黒のハイソックスを履く。
 そして荷物の確認。昨日とほとんど変わらない時間割だから、生物を入れるだけでいいはずだ。
 準備が終わって、洗面台で歯を磨き髪をとかす。
 それでもいつも出る時間より、十五分は早い。
 だけどそれでいい。こうやって誰もいない場所でうだうだしてるよりかは何倍もマシだと思うから。
「よし」
 気分を入れ替えるつもりで呟いてから部屋を出る。
天気は晴れ。それだけなのに鬱々としていた気分は少し楽になった。
 だけどそれが続いたのはエレベーターホールに着くまで。
 なぜなら、そこに川嶋が立っていたからだ。


『ああ、早いな。どうしたんだ? 学校で何かあるのか?』
 …オレが男だったらこんなふうに気楽に話しかけることも出来たかもしれない。
 でも、無理だった。
「お、はよう……」
 この短い挨拶が精一杯だった。
「…………おはようございます」
 礼儀正しい川嶋は、先輩の挨拶を無視したりはしない。
 だけどそれだけ返してから、すぐにどうでもよさそうに視線を外されてしまう。
 いっそ逃げ出したくなったけど、エレベーターが来てしまってしょうがなくそれに乗る。
 最初にホールにいたはずの川嶋は、先にオレのことを乗せる。その行動の意味がわからず、でも一瞬後にすぐわかった。
 目の前にある川嶋の背中。
 先に川嶋が乗っていたら、その視界にオレが入ってしまう。
「川嶋……」
 扉が閉まり、エレベーターが動き出す。
 動く狭い部屋の中で、オレは背中に話しかけていた。
「………………」
 反応のないことに馬鹿みたいに傷つきながら、言葉を続ける。
「オレ……約束、守れなかったけど……川嶋には、剣道を続けてほしい……」
 正直な気持ちだった。
 オレは二度とすることが出来ないから。
 二度と川嶋と一緒に剣道が出来ないから。
 だから、せめて川嶋の剣道を、また見ていたかったんだ。
 ……返事がないまま、エレベーターは一階に着き、扉が開く。
「別に、あなたのためにやっているわけじゃありませんから」
 不意に投げかけられた言葉。
 え、と思っているうちに川嶋の背中は消えてしまう。オレもそれを追うようにエレベーターを下りて。
「あ………」
 そこで言葉の意味にようやく気がついた。
 ――オレは……何を思い上がってたんだろう…?
 川嶋がうちの高校に来たのが、オレが理由だなんて……。
 学力もそれなりに高く、かなり強い剣道部がある高校。剣道を続けるつもりの川嶋がここを選ぶのには十分な理由だ。
 仮にその理由の一つにオレが含まれていたのだとしても、それは男の オレがいると川嶋は思っていたから。でも……今となってはその一つは消えている。
 なのに、オレは『自分がいなくても剣道部に入ってくれ』などと思い上がった発言をしてしまったんだ。
 川嶋にとって、何一つ価値などありはしない今のオレに言われたって不快なだけだったろう……。
「………っ…」
 酷くなる一方の痛みに、思わず胸を押さえる。
 せめて女になっても剣道を続けることが出来ていたら、もっと川嶋の対応は違っていたかもしれない。
 無駄な妄想が浮かんできて、自分を嘲る。
 わかっているのに、どうしてオレは馬鹿なことしか考えられないんだろう……。
 川嶋が普通に歩けば、学校まで五分くらいだと思う。でもオレはその倍近くかかってしまう。それはもう川嶋に近くにいることさえできないことを象徴しているようで、気分が沈んでゆく。
オレが剣道を続けられなかった理由。
 消えない傷跡の残る右足が、ひどく厭わしかった。



 オレが女体化したあの日の事故。飛び出しとわき見運転が重なったわりには、オレは軽傷だったのかもしれない。……右足以外は。
 あんなに早く家を出たはずなのに、結局学校に着いたのはいつもより少し遅い時間だった。
「お、西森。めずらしく遅いな」
 教室の扉を開けると、体操服に着替えてる途中の先崎が声をかけてきた。
「…あっ!?」「ちょっ!」「うわっ!?」
 なんか外野がうるさい。男なんだから半裸見られるくらい平気だろう。
「アレだよな。二日続けて体育があるって生徒泣かせだよ。体育着どうしろってんだ」
 そしてオレの態度に慣れている先崎は平然とパンツ一丁で話を続ける。
 それに適当な相づちを打ちつつ、オレは机の脇に掛けっぱなしだった体操服の袋を手に取る。見学者も着替えなきゃいけないからだ。
 バッグの代わりに体操着袋を持って隣の教室に移動する。そこは女子の着替える場所で一応女のオレもここで着替える。
 もう一年も経ってるから、別に新鮮さもドキドキも感じることもない。
 だけど今日はどこか憂鬱だった。
 いや、どこかも何もないな。さっき川嶋に言われたことが……さっきの限りなく正解に近いだろう自分の想像が、ずっと頭に残っているから……。
 自分が女であるという証拠を見たくなかった。
 女にならなければ、事故に遭うこともなくて……。
 五十メートルすらまとも走れない身体になることもなくて……、川嶋に嫌われることもなかったはずなのに…。
「顔色悪いけど平気?」
 不意に話しかけられて、いつの間にか俯き加減になっていた顔を上げる。
 同じクラスの女の子。たしかクラス委員に選ばれてた親切そうな人だ。
「大丈夫。…ありがとう」
 絞り出すようにそれだけ伝える。それ以上質問してくるのも憚られたのか、心配そうな顔をオレに向けつつ教室から出て行く。
 それを見送った直後、予鈴が鳴った。こんなふうにぼんやりしてる暇はない。
 漏れそうになる溜息を我慢しながら、オレは制服に手を掛けた。



 放課後。重い足取りで辿りついた道場にはまだまばらにしか人が居なかった。いや、オレと仲田さん以外は道着に着替えるんだから多少遅いのは当たり前だけど。
 そして道場の中には前に見学に来てた一年生の顔もあった。
「あ、これ入部届です。お願いします」
 そのうちの一人がふらりとオレの前に来て、突然渡してきた紙に面食らってしまう。
 入部届け、と太字で書かれた用紙。
 ――なんでオレに渡すんだ?
 だからといって突っ返すことなんかできずに、がんばってね、とありがちな言葉をそいつにかけて、オレはいつもの位置に移動する。剣道部の備品を置いてある倉庫の前、そこがマネージャーの定位置だ。
「なんて罪作りなお人……ッ!」
「気持ち悪い芝居はやめろ」
 あの小さなタンクと粉状のスポーツドリンクの素を倉庫から出したきたところで、道着に着替えた先崎が変なシナを作って話しかけてきた。
「一年の入部届けな。最後に部長が集めるから、持ってくる奴がいたら預かっといてくれだってよ」
 ばっさり切り捨てられたのに、気にした様子もなく先崎は続ける。
「ま、それはともかく? あの一年、おまえにホレたかもな~」
「ふ~ん……」
 素直な感想だったのに、先崎は驚いたように作業を進めるオレを見てきた。
「あの~……もうちょっと他に、何かないんですかい?」
「何が?」
 ――何か言わなきゃいけないことでもあったのか?
 真面目にわからなくて、疑問の目を先崎に向ける。すると先崎は大げさに頭を抱えて横に振った。
「ええい、俺が馬鹿みたいじゃねえか! もう知らん、防具着けてくる!」
 なぜか鼻息荒く、先崎はまだ着けていなかった垂と胴がある道場の逆側に行ってしまった。
 ――なんだったんだ?
 一瞬考えたけど、全然思い当たることはない。……どうでもいいか。
「やー、ごめんね遅くなっちゃって!」
「あ、仲田さん。こんにちは」
 先崎が去っていくのと同時に仲田さんがいつもみたいに元気に現れた。
 仲田さんが来たあたりからぞろぞろと道着の一団が入ってきて、そろそろ部活が始まる時間が近づいてくる。
「夕希ちゃん、もしかして何かあった?」
「…別に、何にもないです」
「……そっか」
 仲田さんの親切を無駄にしてしまったことに少し心苦しさを感じる。
 でも言いたくなかった。……言えるわけ、なかった。
 昨日の帰り道からの川嶋とのやり取りを、知られたくないんだ。
 どれだけ自分がずるくて、おくびょうで、思い上がってたかなんて……。
「あっ、あのコ来たよ」
 小声での仲田さんの呟きに一気に背中がこわばってしまった。
 だんだんと、ほとんど足音のない歩みが近づいてくるのがわかる。
「こんにちは! もしかして今日は…」
「はい、入部届け持ってきました」
 驚いて思わず振り向く。そして後悔した。
 オレがいるのは仲田先輩のすぐ後ろの床。
 なのに川嶋の目は、まったくこちらに向けられてなかった。
「一年生はどれくらいから練習に参加しても良いんですか?」
「え? あっと……」
 仲田さんがこっちを見る。でも、川嶋の視線は動かない。
「別に今日から参加してもらっても構わないけど……」
 川嶋は、仲田さんとは普通に話しているのに……オレには……。
 いや……わかってた。わかってたはずだったのに、いざこうなってみると馬鹿みたいに傷ついてる自分がいる。
 ――ほんとに、馬鹿だ……。
 川嶋がオレを見ないのは、話しかけないのはオレのせいだ。
 それだけのことを、川嶋にしてしまったんだから……。
 オレには、こんなふうに傷つく権利なんかないんだ……。



 川嶋が入部して一ヶ月。その間、とくに何も起こることはなかった。
 今までの生活が淡々と続いていくだけの、何も、変わらない日々……。
 川嶋とオレの関わりは極端に薄れたまま、何一つ変化することなくついに五月の連休は終わった。
 他の武道の中でもとくに剣道は礼儀を重んじる。だからだろう。川嶋はオレが挨拶しても無視するようなことだけはなかった。
『おはようございます』『おつかれさまでした』
 あの日から、川嶋がオレに向けた言葉はこれだけ。
 その他大勢にかけるものと全く変わらないほとんど価値のない言葉。
 せめてもう一度ちゃんと謝りたかった。でもタイミングがなくて……それ以前に川嶋に話しかけることが怖くて……ずるずると時間だけが流れていった。
「マネージャー志望の子はとうとう来なかったねー」
 連休後半はほとんど稽古もなかったから久しぶりの道場。ほんの少しだけ残念そうに仲田さんが呟いた。
「このまんまだとマネージャーが夕希ちゃん一人になっちゃう」
結局、剣道部に入った一年生は八人。男子五人、女子三人で経験者はその両方で一人ずつだった。
「でも仲田さんもオレがなるまでは一人だったんですよね?」
 だったら大丈夫なんじゃないかというオレの疑問はブンブンと首を振られることで否定されてしまった。
「いや、これがねー。夕希ちゃんが一緒にやってくれるようになってから、もう楽で楽で! ほんとに助かってんだから!」
 仲田さんは湿り気のない笑顔でバンバンと背中を叩いてくる。その言葉はありがたかった。……そんな気がした。
 それからそろそろ氷当番作った方がいいかどうかを話してるうちに、どやどやと剣道着集団が道場に入ってくる。
 その中には……川嶋の姿もあった。去年のオレと先崎と同じで、経験者は最初の三週間くらいで基礎から道場組になるから。
 最初は川嶋が剣道をやっている姿を見るのが嬉しくて、辛かった。
 でも…そんなこと言っても、もうどうにもならない。
 いつものように稽古が始まり、いつものように準備運動、素振りを経て、面をつける。
 そこから面、小手、その他連続技などの基本打ちがある程度終わってから、稽古の締めの地稽古が始まる。
 好きな相手と組んでいい地稽古は下手をするとキリがなくなることがある。でもできるだけ色んな相手と練習した方がいいので、ある程度の時間で区切りの笛を鳴らす。
 それはマネージャーの仕事だ。
「三分×十五で」
 部長はそうオレに言って、元の場所に戻っていった。そして全員がそれぞれ組んでいるのを確認して。
「始めッ!」
 地稽古が始まると全員が一斉に打ち込みあったりするため、道場の床に直に座っているとかなりの振動が伝わってくる。
 ストップウォッチ片手に三分ごとに笛を吹きながら、ぼんやりと地稽古の光景を――川嶋の姿を眺める。
 川嶋が道場に来るようになってまだ数回目だけど、最初の稽古を見ただけで強くなってるのがわかった。身長もかなり伸びたのに、それに見合った動きをちゃんと身につけている。
 ――でも……。
「あ~、やれやれ」
 不意に耳に届いた声に横を向けば、そこには壁がそびえ立っていた。
「さぼるなよ」
「違うって! コールドスプレーあるか?」
 面をつけたままの先崎は右小手を外して、ぶんぶんと振っている。
「いや~、突きって怖いデスネ」
 聞けば、面を打ったところ相手が少し立て気味にしていた竹刀に右腕が刺さったそうだ。
 スプレーを渡して、ちょうど三分経ったので笛を吹く。
 ちなみに仲田さんは足の裏の怪我した奴にテーピングの仕方を教えている。
「なぁ、俺、どっか直した方がいい所あるか?」
「左足が少しベタ足気味。あと相手を見過ぎ。そのせいで先に打ち込まれるし、先崎ならあんなに見なくても別に大丈夫だろ」
 スプレーを腕にかけながら、先崎が聞いてきたので答える。
「わかった。アドバイスどうも」
 スプレーを置いて、手を開閉する先崎。
「うし。じゃ、試してみるかね」
 そうして小手をつけて戻ろうとする先崎の袴を掴んで引き止める。
「あのさ……川嶋のこと、だけど」
「ああ、あいつ強いよな。入ったばっかの奴なのに危うく負けそうだわ」
「次に地稽古で当たった時でいいから、『リズム取る癖、直せ』って言ってくれないか?」
「あ? あいつってそんな癖あるか? ……ま、わかった。一応言っとく」
 面の中からの不思議そうな、それでも了承する声にほっとする。
 そしてまた、オレは笛を吹いた。



 最後の礼も終わり、久しぶりの稽古はやっぱり短い時間で終わった。
 うちの学校には定時制もあって、五時半には一般の生徒は帰らないといけない。だけど守らない部活が多いので最近は生徒会と職員で完全下校の取締りをしている。
 下校時刻でも活動していたところは厳重注意。それでも改善しないようなら、練習日を減らされたり、悪ければ部費縮小、活動停止を食らうらしい。
 そして剣道部は、道着だけならまだしも防具や竹刀もあるので片付けに手間がかかる。そのせいで実質の練習が終わるのは五時十五分だ。
「もったいないよね~。もーっとちゃんと時間取れたら、うちの人たちもっと上のほうに行けると思うのに」
 タンクとコップを洗いながら、仲田さんが声を上げる。
 オレもその言葉の通りだと思う。
実際、去年の部長ももうちょっとで県大会に行けるところだったし、団体戦も本数差で負けるという惜敗だった。
 ――団体戦……。
「……夕希ちゃん…?」
 名前を呼ばれてまた知らないうちに手が止まってしまってたのに気がついた。
「…あ……すいませんでした」
「や、そういうことじゃな……」
 こちらを向いた仲田さんの言葉が不自然に途切れる。それだけで何が起きているのかわかった。更衣室から玄関に行くにはこの洗い場の前を通るしかないから。
 仲田さんの視線を追って後ろを振り向く。予想していた通り、着替えと片付けを終えた川嶋がこちら――いや、玄関の方に歩いていた。
「おつかれ」
「……おつかれさまでした」
 いつもどおり一瞬の間が空いた挨拶。そして……視線が合うことのない挨拶。
 そして義務を果たしたとばかりに川嶋は背を向けて帰っていった。
 同じマンションに住んでいるのに、いっしょに帰ることはもうない。たぶん、二度と…。
「…夕希ちゃん?」
「……大丈夫です」
 何も変わってなんかいない。ただいつもどおりだっただけだ。
 ――オレは……何も、感じてなんかいない……。
 そう、自分に言い聞かせる。
「まだ、どうにもならなくなってない?」
 心配げな仲田さんの声に頷く。対面式の日にオレが言ったことを覚えてくれていて、その上でオレのことを気遣ってくれている。
「大丈夫、ですから…」
 同じことしか言わないオレに、仲田さんは溜息をついて、でも軽く背中を叩いてくれた。
 それからとくに会話もなく洗い終わり、帰ることになる。
 仲田さんといっしょに帰れるのは校門まで。そこからはそれぞれ逆の方向に帰ることになる。
 ただただぼんやりと歩いて、マンションに到着する。
 この後は部屋に戻って、着替えてから買い物に出る。学校とは逆の方に大きめのスーパーがあるからここら辺の人はみんなそこを利用している。
 オートロックの共用玄関を開けるために鍵を取り出し、エントランスに入……。
「…ぇ……?」
『人は、有り得ないこと、理解しがたいことがあると、頭がそれに対応するのに一生懸命になって身体のほうは固まってしまうんだよ』
 父さんが昔、そんな話をしていた気がする。その続きがあった気がするけど、今はどうでもいい。
 エントランスの壁。鍵を使うのとは逆の壁際に、荷物を持ったまま、制服姿のままの川嶋が立っていたんだ。
 ――え…なに……なん…?
 考えがまとまらない。
「え、と……どう、したの?」
 でも必死に考えて、ようやく振り絞っての言葉に川嶋は目を眇めた。
「あ、ごめ…」
「…鍵を……失くしたんです」
 思わず謝りかけて、だけど川嶋の言葉に驚かされる。
 目が合うと、川嶋に目を逸らされる。だけど川嶋が困ってるのだけは伝わってきた。
 とりあえず川嶋と中に入り、管理人さんのところに行く。
「ああ、西森さん。どうしたんですか?」
 管理人さんに事情を話して、マスターキーを貸してもらえませんか、と訊いた。 
「たぶん部屋に行けば、鍵のスペアが…」
 そこまで言ったところで黙って話を聞いていた川嶋が口を開いた。
「…ないです」
「え?」
 管理人さんが不審げな顔になる。
「……三本、まとめて持ち歩いてたせいで……同時に失くしました」
 その言葉に管理人さんが呆れた顔になる。
「あんた……予備までいっしょに持って歩いてたら意味がないでしょうが」
「いやもう、ほんとに、その通りです…」
「もうしょうがないことだけどね。とりあえず、今日のところはマスターで鍵開けるけど、ここの鍵って特殊なやつだからちょっと専門の業者さんに頼まないとね~」
 川嶋の部屋がある階(オレの部屋も同じ階だ)に移動しながら管理人さんが川嶋に説明する。川嶋はそれに恐縮しっぱなしだった。
「あの、どれくらいで新しい鍵が来るんですか?」
「一週間から十日くらいかなぁ?」
「そんなにかかるんですか!?」
 とても驚いたらしい川嶋。こんな姿を見るのは中学以来だ。
「毎回マスターで開けるわけにも、マスターを貸すわけにもいかないからねぇ。ちょっと必要な荷物だけ今出してもらって、それで一時的に違うとこにいてもらうしかないかなぁ」
 それだけ言い残して、管理人さんはオレにマスターキーを渡してきた。
「じゃ、管理人室に戻ってますんで、終わったら持ってきてください」
 ――こんな物を預けられるってことは信用されてるってことなのかな…?
 そんなことを思いながら、オレの部屋の二つ隣のドア、川嶋の部屋の鍵を開ける。
 がっくりと肩を落としている川嶋に続いて、オレも部屋に入った。
 それから、すぐに気を取り直したらしい川嶋が部屋に入っていって何かの準備をしているのを、オレは玄関で待つことになった。
 でも、そんなオレを川嶋は目障りに思ったのかもしれない。
「なんでそんな所にいるんですか?」
 不意に顔を覗かせて、切りつけるような言葉を投げつけられる。
「……最後にここの鍵、閉めなきゃいけないから。……もし、邪魔だったら外で待ってるけど…」
「………別に、いいです」
『どうでも』
 勝手に川嶋の言葉に続いてきた幻聴に、一瞬だけ視界が揺れた。
 それだけ会話を交わしてから、また川嶋はがさがさと何をまとめる作業に戻っていった。
「あの、さ……アテは、あるのか?」
 ある程度持ち出す荷物がまとまってきて、それを玄関近くに持ってきた川嶋に問いかける。
「……………………」
 無視だけはしないはずの川嶋から、言葉は返ってこなかった。その理由は、答えがないから。
「仮に友達の家に行くにしても、いきなり、しかもこんなに長く泊めてくれるような所はないんじゃないか?」
 むっとしたように川嶋が顔を上げる。
 こんなことは川嶋もわかってるはずなのに……。
「ホテルとかは…この辺にないし……。あっても一週間も泊まれば金が馬鹿みたいにかかるし…」
どうしてか川嶋の選択肢を削るような言葉ばかりが口から出てきた。
「それに、川嶋の両親は今、海外に行ってるんだろ?」
「あの、何が言いたいんですか?」
 かなりイラついた口調での川嶋の質問。
 いつもなら、怖くて仕方のないはずのそれが今はどうとも感じなかった。
 それがどうしてかわからないまま、オレは言いたかったことを口にする。
「オレの部屋に、来ないか?」

『現行シリーズ』(4) 川嶋編2

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