『約束ひとつ』(4) 川嶋編2

~~川嶋編2~~

 昨日に引き続いて、あの先輩と一緒の帰り道。
『もしかしたら西森先輩のことが苦手なのか?』という前日からの疑問をぶつけた、その後のことだった。
「…レ…………から…」
 今にも消えそうな、本当にか細い声。……それに乗って俺の耳に届いてきた言葉は、信じられないものだった。
「なんですか?」
 ――そんなことはない。聞き間違いだ。
 心に生まれたほんの少し動揺を押し込めて、よく聞こえなかったとあの先輩のほうへ向き直る。
 だけど俺と目が合うなり先輩は、視線を彷徨わせ、俯いてしまった。
「…苦手なはず、ないんだ」
 途切れがちで、だけども今度は聞き取れなかったとは言えない声で先輩は話し出した。
 俺の心を一気に冷えさせた、あの言葉を。
「オレが…西森だから」
「………え…?」
 いっさいの思考が停止した気がした。
「黙っててごめん。言いにくくて……」
 ――この、小さな人が、……西森先輩?
 俯き目を逸らしたまま、俺の前で気まずそうにしている、この人が?
 まだ何か喋りかけられているはずなのに、それは頭の中に入ってこない。
 ――そんなはずはない! ただ騙されているだけだ!
 頭のどこかでそう叫ぶ声が聞こえる。だけどその声を、非常に冷静に打ち消す声も同時に聞こえた。
 ――どこにそんな必要がある? 俺の事を騙して、誰が得をする?
 無い。
『西森くんは、今日遅れてくるから。そういうことになってるから』
 もう一人のマネージャーさんがそう言っていた。それなのに今日も西森先輩は道場に現ず不思議に思っていた。
だけどあの人が『この人』のことを言っていたのなら?
 ……たしかにそうだ。一つも間違ってない。あの言葉を聞いた後に道場に来たのは一人。
 今日、遅れて道場に来たのは……この人――西森先輩だけだ。
 わかりたくもないのにわかってしまった事実。
 知りたくなかった現実。
 それを突きつけられ理解した瞬間、今まで虚ろだった心が一気に自分でもわからない感情に支配される。
「……んで…………」
 平常心、自制心……剣道をしている者として非常に大事なものを、この時の俺はまったく欠いていた。
「なんで女になってるんだっ!!?」
 何も考えられず吐き出した声は、その場に響いた。しかし俺はそんなことも構うことは出来なかった。
 女になられてしまったら、もう二度と西森先輩と同じチームになることは出来ない。
それどころか、あの西森先輩とはもう一生、戦うことさえ出来ないんだ……っ。
「かわし……」
 不意に伸びてきた手を、とても小さな手を俺は反射的に弾いていた。
 自分でも驚いた。女子に手をあげるような真似はしたことがなかったのに。
「……ごめん」
 絞り出すような声が痛々しくてしょうがなかった。
「本当に…ごめん」
 また俯いてしまったその姿は見ているだけで可哀想に思うほどだった。
 でも俺は、この人に『裏切られた』。
 相反する感情が同時に存在して、混乱ばかりが深まっていく。
「なんの、ために……」
 ただ俺は、また西森先輩と剣道がしたかっただけなのに……っ。
「くそ…っ!」
 こんなことで悩みたくなかった。
 ……この人の傷ついた顔を見ていられなかった。
 だから俺は背を向けた。
「川嶋…っ」
 後ろから呼ばれても、振り返らずに俺はその場から歩き去ったんだ。
 突きつけられた事実から逃げるかのように……。



 裏切られた。
 許せなかった。
 女になったのなら、なんでその時にすぐ俺に伝えてくれなかったんだ?
 あの人が女になったその時に、たとえ、人づてにでも伝えてくれたなら、こんなに盲目的に西森先輩だけを追うことなんかなかった…! もっと、他の道や選択肢を見る余裕があったはずだったんだ!
 そんな負の感情が一気に噴き上げてきた。
 だけどその中で一番辛かったのは、もう一生、西森先輩とは剣道が出来ないということ。
『絶対に、またいっしょのチームでやりましょうね』
 俺があの人に言った、ただただ純粋な俺の願いは、絶対に叶うことはない。
 いっそ悲しみ――絶望とも言えるようなその感情を、俺は留まらせることが出来ず、謝罪の言葉を告げるあの人にぶつけてしまった。
 伸ばされた手を叩き落すという行為によって。
 無意識だった。そのせいで力の加減はまるでしていなかった。
 自分を裏切った相手にならそれぐらい当然だろう、と思っている自分がいる。
『……ごめん』
 けれど、何て最低なことをしてしまったんだと後悔している自分もいた。
 俺が手を払った時、あの人の目がひどく哀しげに揺れているのに気づいて、胸の中に罪悪感がこびりついた。
 すいませんでした、と謝りたかった。
 ……あの人が西森先輩だとわかっているのに、震える細い肩を抱きしめたくなった。
 そしてそんなことを思ってしまったことにまた愕然とさせられる。
 あの人の正体がわかっているのに、そんなことを考えてしまう自分が信じられなかった。
 だけどそれを打ち消すことは無理だった。
 悪く考えようと、そんなことないはずだと思い込もうとするたびに、あの人のとても傷ついた顔がちらついて離れてくれない。
 あの人に対する怒りと…その不可解な感情がせめぎ合い、どうにかなりそうだった。
 だから俺は帰ってくるなり、全てを放棄するように寝た。……どこかで夢であればいいなんて思いながら。


 おそらくそのせいだろう。
 俺が次の日に起きた時間は朝の六時半。しかも二度寝ができないほどに眠気は綺麗になくなっている。
「……………………」
 それなのに気分は相変わらず沈んだままだった。
 今までは嫌なことは寝れば忘れることができていた。仮にその問題が残っていたとしても、今までの俺は冷静にそれに対処することができていた。
 だが昨日からの、このもやもやとした嫌な感情は残り続けている。
「くそ……っ」
 それに押し出されるように不機嫌な、吐き捨てる言葉が口から漏れる。
 けれど怒りから出たはずのその声は力がない。そして胸がすっきりすることはほんの少しもなかった。
『裏切られた』という怒りと悲しみ。
『抱きしめたい』という……あの人への好意。
 未だにそれらは別々に存在していて、心は完全に混乱したままだ。
 仮にそれがどちらかだけならば、もっと楽だった。
 あの人のことを恨めば、あるいは慕えば、ただそれだけで解決する話だから。
 ――…くそっ……。
 今度は内心だけで吐き捨てる。
 もちろん心が軽くなるはずもなく……答えのでない感情を、俺は一旦心の隅に押し込めることにした。
 そんなことをして解決はずもない。それどころか自分がこの後、どうすべきなのか――――どうしたいのかさえ、見つけることができない。
「……はぁ…」
 思わず吐いてしまった溜息に自分で驚かされた。
 こんなふうに溜息を吐くことなど、今までまったくと言っていいほどなかったから。
「……動くか」
 昨日帰ってからすぐに寝てしまったせいで風呂も入ってなければ飯も食ってない。
 とりあえず適当にシャワーを浴びただけでも、多少気分が紛れた。
 そして飯は……と考えかけ、昨日のうちに買出しに行くつもりだったのを思い出す。
 しかし結局昨日はどこにも行かずに寝てしまった。そのため冷蔵庫を覗いても何も無しだ。
 しょうがない、と残り少しだった牛乳を取り出し、テレビをつける。その牛乳を飲みながら、ぼんやりと朝のニュースを眺める。
 ニュース自体は頭に入らなかったが、暇つぶしにはなった。
 ふとテレビの時刻を見ればかなり時間が経っていて、そろそろ学校に行っても平気な時間になっていた。…といってもまだまだ早い時間である。
 ――途中でコンビニでも寄るか……。
 そこで何かを買って、教室で朝飯として食べれば授業にはちょうどいい時間だ。
 そう考えて、さっさと制服に着替える。
 バッグの中身も今日の時間割りの教科書に取り替え、俺は部屋を出た。外は綺麗な青空で、少しだけ気分がましになる。
 早く出たんだから、といつもよりゆっくりとした歩調でエレベーターホールに移動して、ボタンを押す。
 良い条件ばかりのこのマンションだが、一つだけ苦言を呈すればエレベーターの速度が遅いということくらいだ。
 二機あるエレベーターちょうど両方とも一階にいて、そのうちの一つがゆっくりと数字を変えながら昇ってくる。
 近づいてくる足音に気づいたのはその時だった。
『あんた一人暮らしすんだから、きちんと近所付き合いしなさいよっ!』
 最後まで俺の一人暮らしに乗り気でなかった母親が言っていた。乗り気でないくせに料理やら洗濯の仕方やら色々教えてくれたのは、感謝すべきことなんだろう。……上達はあまりしなかったが。
 とにかく、何よりも挨拶が基本だ、と俺と同じ考えを言ってきた母さんとは、結局似たもの同士なのかもしれない。
 いよいよ足音が近くになって、その人に挨拶をしようとそちらを向き……俺は固まってしまった。
 そこに立っていたのは……西森先輩。
 その姿を認めた瞬間、抑えたはずの感情が一気に噴き出してくる。
 ――なんで、この人が…?
 いや、同じマンションだというのは知っていた。けれどまさか階までいっしょだったなんて……。
「お、はよう……」
 不意にかけられた挨拶の言葉。不安げに揺れる目が、それでも俺を見つめている。
「…………おはようございます」
 たったそれだけの言葉しか出てこない。
 もっと言いたいことはあったはなのに…無理だった。それ以上口を開いてたら、自分でも後悔しそうなほど口汚い言葉が漏れそうで……いや、それならまだマシだ。
 問題なのはもう一つの方の感情。そっちの方こそが俺が何も言えない理由としては大きかった。
 だからこそ口をつぐむしかないのに、先輩の顔を見ていると言葉を我慢できなくなりそうで…。俺はその、短い挨拶を返しただけで、目を逸らしてしまった。
 視線を前に戻してすぐにエレベーターの扉が開き、何気なさを装ってあの人の後から乗り込む。先に入れば嫌でもその姿が視界に入ってきてしまう。
 あからさますぎるかもしれなかったけど、自分を抑えるにはこのやり方しか思いつかなかったんだ。
「川嶋……」
「………………」
 小さな声が名前を呼んできたけど、今の俺には会話どころか返事をする余裕すらない。
 扉が閉まりエレベーターが下へ向かい始める。……このエレベーターの速度をこれほど呪ったのは初めてだ。
「オレ……約束、守れなかったけど……川嶋には、剣道を続けてほしい……」
 続けられた言葉に、目の前が真っ赤に染まった気がした。
 ――約束だと思っていてくれたのなら、どうしてそれを守ってくれなかったんだっ!
 そう思ったことと……俺が、本当に西森先輩と剣道をするためだけに、この高校を選んだことを見透かされた気がしたせいだ。
「別に、あなたのためにやっているわけじゃありませんから」
 エレベーターがようやく一階に着いたところで、俺はくだらない自尊心からそんな言葉を言い捨てて、振り返りもせずに歩き出す。
 ……そんな自分の行動が、また、逃げているだけのように思えて、たまらなく嫌な気分に再び陥ることになってしまった。


 そんな嫌な気分を抱えたままその日の授業をこなし、俺は……入部届けを持って道場に向かっている。
 この学校では入部するさいには担任から届けの用紙を貰い、その顧問あるいは部長に渡して入部となる。
そして昼休みに受け取った俺の入部届けには『剣道部』と書いてある。
 ある意味では、あの人に言われたせいだ。
『自分がいなくても、剣道を続けてほしい』とあの人は言った。
けれどそれは裏を返せば、西森先輩がいないのなら俺は剣道を続けないと思われていたことになる。
 屈辱だった。
 たしかに西森先輩がいるからこの高校を選んだわけだが、それとこれとはまた別の話。 それなのにあんなことを言われて、腹が立たないはずがなかった。
 けれども、ここで俺が剣道部に入らなければ、それこそあの人が思っている通りになってしまうわけだ。それに耐えられるほど、俺のプライドは低くない。
 ――だからこそ、ある意味挑発と取れるあの言葉にわざと乗ってやる。
 …………そう『言い訳』を自分にして、俺はどうにも向かいづらい場所への歩みを続けた。
 この時点でもうわかっていた。
 結局、俺は西森先輩との繋がりを全て断ち切ることが怖かったんだ。
 ほんの二年間の付き合い。
 けれどとても居心地の良かったあの関係を全て無かったことにするのは嫌だったんだ。
 道場に着いたときにはもうけっこうな人が来ていて、開始の準備も大体終わっているという状況だった。
 礼をして道場に入り(道場に出入りするときは必ず軽く頭を下げなければならない)、マネージャーさんがいる場所へと目を向ける。
 おそらく三年らしいあの明るいマネージャーさんと……壁の方を向き、座って何かの作業しているあの人がいた。
ただの後姿のはずなのに、視界に入っただけで変な感じに胸が騒ぐ。
 すぐに三年のマネージャーの―――名前は後で知ったが―――仲田先輩が俺に気づき、あの人に何やら言っているのが見えた。
 しかしあの人は動かなかった。……顔をこちらに向けることすらしない。
 俺が近くに行ってもそれは変わることはなかった。歩いて五歩もない距離にいるのに、まるで俺がいないかのように振舞われる……。
 ――……そういうことか。
 どこかで傷ついてる自分に気づき、乾いた笑いが漏れそうになった
 俺は、どこかで期待していたんだ。
 謝罪や、いっそ言い訳でも良いから、何か言ってきてもらうことを。
 けれど現実ではこの状況だ。俺が近くにいることがわかっているだろうに、それを無視して作業を続けるこの人は、俺の事を切り捨てることにしたわけだ。
 剣道部に入るのなら、もう俺のことなどどうでもいいというわけだ。
 朝から放課後にかけての時間で、なんとか抑え込んでいた負の感情が表に出そうになる。
「こんにちは! もしかして今日は…」
 しかしそれを出すことはなかった。
「はい、入部届け持ってきました」
 視界の端で『何か』が動いた気がしたが、無視だ。
 今でも視界に入れれば、変なふうに胸が騒いでしまう。ならば、最初から視界に入れなければ済む話だ。
「一年生はどれくらいから練習に参加しても良いんですか?」
「え? あっと……」
 あれ、という表情をして仲田先輩の視線が動く。俺はそれを追うことはせずにただ質問の答えを待っていた。
「別に今日から参加してもらっても構わないけど……」
 仲田先輩は丁寧に入部の手はずを教えてくれた。
 それを聞いている間、俺はずっと床のほうを見ないようにと試合の時のように相手だけを見据えていた。
 ――これが、あなたが望んだことです。
 そんなあてつけがましい、暗い考えを抱きながら……。



 それから、特筆すべきことは何もないまま約一ヶ月が経った。
 入部して最初のころは部の備品の竹刀を持って、学校のグラウンドや少し離れた大きめの公園で素振りや体力づくりのメニューをこなしていたが、五月の頭には俺も道場の練習に加わることができた。
 高校から剣道を始めた奴らは道着や防具の準備が整ってないから、俺ともう一人、女子の経験者だけ一足早くな。
 練習時間が短いという欠点があるが、ここの剣道部の稽古は毎回充実としたものだ。
 別に何か特別な練習を取り入れてるわけではない。それでもこんなに楽しく感じるのは、全員が真剣に取り組んでいるからだ。
ほんの少しもふざけやだらけが混じることのないこの雰囲気はとても心地良い。
 そのおかげで剣道だけに集中できるのはありがたかった。……同じ道場にあの人がいることも特に気になることがなかったからだ。
「じゃあ、おつかれさまでした」
「あいよ、おつかれ~」
 今日も今日とて部活が終わり、俺は更衣室を出る。
 どうにもただ待っているという行為が苦手な俺は、さっさと一人で帰るのが日常になっていた。もちろん部活での友達もできてるが。
 そうして玄関に向かい、後者の設計上、途中で通らざるをえない水道の前で、部活で得た満足感や高揚感がすっと引いていく。
 マネージャーである仲田先輩と、あの人。道場前の水道で洗い物をしているその二人が嫌でも目に入る。
 人が来た気配に気づいたのか、二人がこっちを向くのがわかった。けれど俺はそちらを見ることはなく、玄関の方に足を向ける。
「おつかれ」
 ポツリとした、呟きのような声。
「……おつかれさまでした」
 声がしたほうを見ずに返事をして、俺はその場から離れる。
 あのエレベーター以来、俺から話しかけたことは一度もないのに、あの人から声をかけてくることは毎日だった。
『おはよう』と『おつかれ』。
たった二種類しかない、まるでただの後輩に対する義務のようなそれ。
 それに不愉快なものを感じつつ、けれど『ただの』挨拶の言葉を無視するという狭量なことはしたくなかった。
 だから、会ってしまったら挨拶をされて、それに返事をする。そんなふうに、あの人との関わりはそれだけになっていた。
結局、何も変わらないままの一ヶ月。
 自分がどうしたいのかさえ……まだ見つけられないまま、ただ時間だけが過ぎてゆく。
 しかし、唐突に、そして一気に事態は変わってしまった。
ゴールデンウィークが明けて初めての練習日――今日、まるで予期してなかった俺にそれは降りかかってきたのである。
『オレの部屋に来ないか?』
 その言葉とともに。



 きっかけは、かなり間抜けなことだった。
 想像しやすいと思うが、剣道というのは一回の練習でかなり水分が減る。道着の重さが2キロくらい増えるのもよくある話だ。
 おかげで、部活の中で配られるお茶やスポーツドリンクでは足りずに、帰り道に自販機で飲み物を買おうとした時だった。
「ああっ!?」
 ……我ながら情けない大声を上げてしまった。
 制服の上着のポケットから財布を出そうとして、それといっしょに変なふうに財布に引っかかっていたらしい家の鍵まで出てきてしまったんだ。
 それだけなら別に問題なんかない。
 だけど、『スペアも含め三本の鍵をまとめたキーホルダー』が『目の粗い排水溝』に落ちていったら……誰でもそれくらいの声を出してしまうはずだ。
 一度だけキンッ、と高い音がして、次に聞こえてきた音はポチャンという絶望の音だった。
 ……その時周りに人がいなかったのが救いだった。自分でもわかるほどに、決して人には見せられない動揺ぶりだったから。
 しばらくそこで立ち尽くし、愕然とした心持ちで俺はマンションに帰ることにした。どうにか取れないかと考えもしたけど明らかに無理だ。
 マンションの共用玄関に来て、そしてそこで足止めを食らう。
 オートロックというか、鍵がないと開けることができない自動ドア。家に誰かいるわけもなく、そのうえ管理人室のカーテンは閉まっている。
 さらに言えば、ちょうど俺の携帯は電池切れを起こしていて、充電器はといえば部屋の中だ。
 なんだこれ、と自分の不運に嘆きたくなる。せめて中に入りたいところだが、夕方にもかかわらず、出入りする人間は誰もいなかった。少なくとも俺がそこで立ち往生している間は。
 携帯を時計代わりにしてるからどれくらいそうしていたのかはわからないが、大体二十分ほどだろう。外に通じる方の扉がゆっくりと開いた。
 やっとこの状況から動けると思った俺はもたれていた壁から……。
――あ……?
 現れた人物に目を瞠る。
「…ぇ……?」
 相手も俺に気づき、小さな驚きの声を上げた。
 同じマンションに住んでいるんだから、考えてみれば当たり前のことだ。
 剣道部マネージャーの小柄な先輩が、混乱している様子で俺の前に立っていた。
 それから、あんなに最低な態度しか取っていなかった俺を、あの人は見捨てるでもなくわざわざ管理人の所までいっしょに来てくれて、説明までしてくれた。
 ――管理人、いるじゃないか!
 そう思ったが、こちらの方が明らかに立場が弱いのでとても言うことはできなかった。(これは後で聞いた話だが、管理人は何人かいるらしく交代制であそこにいて、その交代の時はカーテンを閉めるそうだ。なぜかは知らないが)
 鍵を――それも本来取っておくべきスペアまで失くしたことを伝えるのは、かなり情けなく恥ずかしかったがそうも言ってられない。
 案の定、正論で管理人に諭され、穴に埋まりたい気持ちになった。
 しかもへこんでいる俺に更なる追い討ちがかかる。
 鍵を全部失くしてしまったので、業者の方に新しい鍵を注文しなくてはいけないことになったのだが、それができてこちらに届くまでに一週間から十日もかかるというのだ。
「毎回マスターで開けるわけにも、マスターを貸すわけにもいかないからねぇ。ちょっと必要な荷物だけ今出してもらって、それで一時的に違うとこにいてもらうしかないかなぁ」
 元は自分のせい。自業自得でしかないのだが、どうしても肩が落ちてしまう。
 だが、いつまでもそうしてるわけにはいかず、俺はのろのろと荷物をまとめることにした。
 マスターキーで開けてもらった部屋に入って、自分の部屋に行く。
 ――まずは……授業に必要なもの、と。
 他にも部活や、普通の生活用……金も引き出しとかないとな。
 ――それにしても、防具がなくてセーフだったな…。
 防具は部員用に貸し出される学校のスペースに置いてあるのだ。もしあれも持って歩かないといけないことになっていたらかなりきつかった。
 旅行ならちょっとした着替えがあればなんとかなったりするもんだが、俺は長ければ十日、どこかに移動しなければならない。
 まるで小さな引越しのように荷物をまとめていって、あの人が玄関にぼんやりとただずんでいるのに、今更ながら気がついた。
 もうあの人に対する熱の高い怒りは消えている。
 裏切られたという恨みも今はナリを潜めていて、感謝の気持ちが湧いてきていた。
 もし逆の立場だとしたら……。
 俺ならこんなふうに面倒なんか見ることなく、さっさと見捨てていただろうから。
「なんでそんな所にいるんですか?」
 その気持ちのまま声をかける。
 そんな寒々しい玄関にいるくらいなら、奥のリビングにでもいてくれればいいのに、と。
「……最後にここの鍵、閉めなきゃいけないから。……もし、邪魔だったら外で待ってるけど…」
 けれど返ってきた言葉は、俺の言葉を誤解したどこまでも卑屈な答えだった。
 いや、わかっていて、それで中に入りたくないための言い訳かもしれない。
 どっちにしろ、その誤解を訂正する気にはもうなれなかった。
「………別に、いいです」
 だからと言って追い出すことなどできるはずもなく、それだけ言って俺は荷物をまとめる作業に戻る。
 ――…くそっ。
 親切のつもりでかけた言葉でさえ曲解されてしまう。
 俺はこの人に、助けてくれた人までも邪険に扱うような人間だと思われてる。
 そのことに、少なからず傷ついている自分を誤魔化すように、徹底して作業に没頭する俺。
 俺はいまだに、どうしたらいいのか……どうしたいのか、ちっともわかっていなかった。
 そうやって黙々と荷物の用意を続けているうちにあらかたの準備ができてきた。
 さて、それは良いとしてこれから……。
「あの、さ……アテは、あるのか?」
 俺が考えようとしたことを読んでいたかのように、あの人が震えている声で尋ねてきた。
「……………………」
 答えに窮する質問に返事をすることはできなかった。
『ある』と言ったら明らかに嘘だし、まだ友達に打診をできていなかったから『ない』とも言い切ることは……。
「仮に友達の家に行くにしても、いきなり、しかもこんなに長く泊めてくれるような所はないんじゃないか?」
 また俺の考えを先回りした声に黙るしかない。
 言われてみればその通りだ。
 最初から約束していたならまだしも、こんな時間にいきなり家に上げてくれる奴なんかいないだろう。
 親戚も……一番近くて隣の県だ。
「ホテルとかは…この辺にないし……。あっても一週間も泊まれば金が馬鹿みたいにかかるし……。それに、川嶋の両親は今、海外に行ってるんだろ?」
 それ以外の考えつく選択肢を先回りされて潰されて、まるで路頭に迷えとでも言われている気分になってくる。
「あの、何が言いたいんですか?」
 自分の口から出た声は、かなり不機嫌な響きになっていた。
 ――……わかってる。これはただの八つ当たりだ。
 癇癪を起こしている子供と同じレベルだと自覚はしているのに、どうしても目が鋭くなってしまう。
 しかしあの人――西森先輩はそんな俺を気にしたふうもなく、ただ淡々とあのセリフを言ったんだ。
 そう、オレの部屋に来ないか、と。
「………………」
 声すら出せなかった。
 もう本当にただただ『驚き』。
 その感情とクエスチョンマークで頭の中が塗りつぶされている。
「……………………」
 何も言えずに、目を見開いて凝視し続ける俺をどう思ったのか、先輩は気まずげに目を伏せた。
「ごめん。やっぱり、嫌だよな?」
 いまだうろたえてろくな言葉も思いつかないうちに、あまりにも感情の無い声でそんなことを言われ、ドキリとさせられた。
 なんと返せばいいのか考えていると、いつの間にか伏せられていた目が俺の方を見つめていた。
 ……動揺しきっていた俺は、そこにある違和感に気づくことはできなかった。ここで気づくべきだったのに……。
「…別に、そこまで嫌なわけじゃ……」
 結局考えがまとまらないうちに口から出てしまった言葉に、自分で驚かされる。
「…じゃあ、荷物、移動させよ」
 俺の言葉を肯定と取ったのか、オレの部屋は三つ隣だから、と勝手に俺の着替えを詰めたバッグを持っていこうとされる。
「ちょっと待ってください!」
 内心ではかなり焦ったままでいたせいで、つい呼び止める声が大きくなってしまった。
「自分がなに言ってるかわかってるんですか?」
 俺の問いかけに先輩はぼんやりとした視線を返してきた。
「嫌なら……そう言ってほしい」
「いや、だからそういうことじゃないでしょう」
 若い男が若い女の家に行って、そのうえ泊まるなんて……少し考えれば多少なりとも危ういとわかるのに、どうしてこの人はわかってくれないんだ!
 しかも。しかもだ。認めたくはないが、こんなことになったというのに、この人の容姿は俺の好みにかなり近い。中身が誰か、なんてわかっているのにだ!
「……レになら」
 思わず頭を抱えたくなりかけたとき、聞き逃してしまいそうな声が落とされる。
「オレになら……何も気兼ねすること、ないだろ? いくらでも、迷惑…かけられるだろ……?」
 ――は……?
 意味が、わからない。
『どういうことですか?』
 ようやく正気に戻り、何を意図しているのか理解できないその言葉の意味を問いただそうとした時、ちょうど玄関の扉が閉まるのが目に入ってきた。
 ――いったい、何を考えてるんだ!?
 あの人の真意がちっとも見えない。
 俺が、迷惑をかけることができる?
 たしかに何の前触れもなく、泊めてくれなんて言われたら誰だって迷惑に思うだろうが、『いくらでも』という言葉がどうにも引っかかっている。
 そうやって玄関先で考え込んでいると、扉が開けられてあの人が戻ってきた。かと思えば、今度は教科書を入れてある紙袋に手を伸ばす。
「ちょっと、だからで……」
「準備、終わったの?」
 言葉をかぶせられて、どうしてか言葉に詰まる。実際、荷物をまとめる作業はあとほんの少し残っていたからだ。
 俺が返事をしない隙を狙い、先輩は教科書を入れた紙袋二つを持って部屋から出て行く。
「待ってください!」
 また反応が遅れてしまったが、今度は先輩を追いかけて俺も外に出て……
 ――あっ!?
 そう思ったときにはもう遅かった。
――――ドサッ――――
 俺の数歩先で、先輩がいきなり転んだからだ。
「大丈夫ですか!?」
「……ごめん。教科書が…」
 駆け寄る俺に、見当違いな謝罪が返ってきた。たしかに通路に教科書は散らばっているが今はどうでもいいことだ。
「そうじゃなくて、怪我とかは?」
「大丈夫」
 先輩のことを助け起こそうと無意識に俺が伸ばしていた手を、先輩は掴むことなく立ち上がった。
「ちゃんと、集めておくから。川嶋は準備するのを続けて」
 俺を見ることのないまま教科書を拾い集め始める先輩は、それ以上俺に話しかけられるのを明らかに拒んでいた。
 そんなふうに拒まれているのに、話しかけることなんか俺にはするつもりもない。
「……わかりました」
 俺の方を見ようともしない先輩を置いて、部屋に戻り残っていた生活雑貨をバッグに詰める。
 ――何を、考えてるんだ?
 さっきと同じことを、さっきとは違う意味合いで思う。
 ――あんなふうに手を取ることさえしないくせに、どうしてそんな相手を家に上げようとしているんだっ?
 あまりにもわけがわからなくて、いっそ腹が立ってくる。
 そもそもがおかしい。
友達もダメ。ホテルも親戚の家も近くにない。だから先輩の家に泊まる。……いや、ここまではおかしくはない。ただしその先輩が同性である場合は、だ。
 ――あの人は、自分が女だっていう自覚が……。
「…って、そうか」
 すとん、と理解できなかったものが落ちてくる。
 一つのことを起点に考えてみれば、こんな単純な話はない。
 あの人にとって、これは単なる罪滅ぼしにすぎないんだ。
 自分が女になってしまって、そして俺との約束を守れなかったことを後ろ暗く思っているらしいのはわかっている。
 そういえば、そうだった。あの人は少しでも悪いと思ったら、自分が嫌でも我慢する人だった。
 それが、俺を自分の家に泊めることであったとしても。
「くそ…っ」
 言いようのない不快感が湧いてきて、それが口から漏れる。
『気兼ねすることはない』『迷惑をかけていい』
 ああ言ったのも、『ただの罪滅ぼし』のためだったに違いないんだ……っ。
 ――……わかりました、せいぜいそうさせてもらいます。
 一度生まれたはずの、小さな温かい感情は、もうどこかに行ってしまっていた。
 今日はほとんど感じることのなかったはずの暗い部分が、また心の中に広がっていく。
 どうして、自分がこんなふうに思っているか、など俺はまったくわかっていなかった。
 いまだに、俺は自分がどうしたいのかが、わからないままだった……。

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最終更新:2008年06月14日 22:39
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