『約束ひとつ』(5) 西森編2.5~川嶋編3

~~西森編2.5~~
 どうしてあんなことを言ってしまったのかわからないまま……けれどこのひと月、何も変わらずにいた川嶋との距離は、ほんの少しだけ縮まった。三部屋分だけ。
 昨日から、川嶋がうちに泊まることになった。
 オレがそういうふうに仕向けたから……。
「じゃ……先に行きます」
「うん、いってらっしゃい」
 先に準備が終わった川嶋が部屋を出て行く。いっしょに登校する、なんて選択肢なんかあるはずがない。
 せっかくいっしょに住むことになっても、川嶋の態度は何も変わることはなかった。
 ただ、挨拶の種類が増えたのと、必要最低限の事務的な会話を交わすようになっただけ……。
 わかってる。当たり前のことなんだ。物理的な距離は近づいても精神的なそれは何も変わってない。
 川嶋がオレの所に来たのは『仕方ないから』。他に選択肢がなかったから、嫌でも我慢してここにいるしかないから。
 だから、勘違いなんかしちゃいけない。
 川嶋はオレを許すつもりなんてない。
 オレは…川嶋に嫌われたままなんだから……。



~~川嶋編3~~

―――ピーッ!!―――
 高い笛の音が道場に響き渡り、地稽古が一区切りされる。
 別に笛が鳴っても、お互いが納得するまでは地稽古は続けてもいいんだけども、大体は三分毎に鳴らされるこの笛の音で竹刀を納め、互いに反省や注意点を軽く伝え合ったりするのがこの高校の地稽古のやり方だ。
 そして俺はと言えば、先崎先輩という二年の先輩との稽古を終えたところだ。
「っくぁ~!! おっまえ、本気で強いな!」
 言われて俺は曖昧に笑うしかない。ここで認めたり下手に謙遜したら、なんかいやらしい気がするからな。
「こりゃ、あと二ヶ月……いや、二週間で俺抜かれるな」
「そんなことないですよ」
 おどけた調子で自嘲する先崎先輩に反論する。
 実際、先崎先輩の高身長から繰り出される正確で、力のある打ち込みは、うまく受け流すことも避けることもできないんだ。
 その後軽口はそこまでという感じで、話の内容はたった今までやっていた地稽古のことに移っていく。
「……なので、先崎先輩はもうちょっと前に出る感じでも良いと思うんですけど…」
 地稽古の最中に気になったことを先輩に言ってみる。
 先崎先輩は俺より…というか剣道部で一番のガタイの持ち主なのに、なんか相手を待ってる感じがして、もったいない気がする。
 だからこその俺の言葉に、先崎先輩はうんうんと頷いて。
「やっぱり? 川嶋もそう思うか?」
 どうやら先崎先輩は自分でわかっていたらしい。
「二人に言われるってことは、こりゃ真面目に直さんといかんな」
「『二人』?」
「そう、おまえと西森だよ」
 ――…っ!?
 思ってもいなかった名前が出て、一瞬動揺してしまう。
 けれど面を被っているおかげか、先崎先輩は俺の表情の変化に気づくことはなかった。
「……ってそうそう、あっぶね、忘れかけてた。あのな、川嶋?」
「はい?」
「おまえ、リズム取る癖なんかあるのか?」
「――――――……」
 今まで、たった一人にしか指摘されたことのないこと。
『あのな、川嶋。おまえ、打とうとする時に前後にリズム取ってるぞ』
 もう、二度と会えない人の声が耳に蘇ってくる。
「……直したつもりだったんですけど、まだわかります?」
 中学校時代、西森先輩に指摘されて初めて自分でも気づいた癖。
 それを見事に突かれて、今度は隠せないほどに声が震えていた。
「いや、俺は気づかなかったんだけどな。この間、西森がちょっとな。今度川嶋と当たったら伝えといてくれって言ってたんだ」
 言われて、勝手に首がマネージャーの二人がいる方へと動く。
「実際俺も西森に言われて、そんで思いっきり見つけようとしてようやくわかったんだから、普通にやってる分にはばれないだろ」
 先崎先輩のフォローめいた言葉に、何も返事ができなかった。
 剣道というのは『一眼、二足……』というようにまず目の運び方――目付けが大事で、強い相手ほど視線の動きを悟らせず、また相手の動きを見切るのが上手い。
 そして先崎先輩はこの部の中に限らず、かなり強い方だ。
 その人が気をつけてやっと俺の癖を見つけられたということは、先輩の言うとおり、試合とかで初めて当たった相手には滅多にわかるものではないだろう。
 ――けれどあの人は……。
「やっぱ惜しいよな~」
 いまだ視線を戻すことができない俺に、構わず先崎先輩は言葉を続ける。
「ああやって端から見てるだけなのに悪い癖とか見抜けるんだから、マネージャーじゃなくて選手としてかなり上のほうに行けそうなんだけどな~……」
 俺に話しかけるというよりも独り言に近いそれを聞きながら、俺は自分の中でほんの少し、何かが動いたような気配を感じていた。



 コンコン…と遠慮がちに扉を叩かれ、それに反応して俺が顔を上げるのと「夕飯出来たから…」と、小さな声が聞こえてくるのは同時だった。
 明日までの宿題と、それでも余った時間をつぶすためにしていた予習のノートを片付けてから俺は部屋を出る。
 俺が使わせてもらってるのは先輩のお父さんの部屋。
 仕事のため長期に渡り遠方に出向いている先輩のお父さんの部屋は、大きな家具があるだけでその中身はほとんどなかった。どうやら必要な物はほとんどいっしょに持っていってるためだろう。
 部屋を使わせてもらう身としてはその方が気が楽だった。何か重要な物を汚してしまったりする危険がないからだ
 部屋を出てLDKの大きな部屋に入る。
 その部屋の中は、料理のいい香りと……ピリピリとした空気に満ちている。
 なぜか? …なんてことは今更すぎて考える必要もない。
 俺が、ここにいるせいだ。
『…………………………………』
 毎日、緊張した空気の中、無言で行われる夕食。
 お互いが料理を食べる音しかしないその状況は気詰まりで仕方がないはずなのに、俺はそれをどうにかしようとはしなかった。
 話しかけるなり、いっそ食事を別々に摂ると――俺の分まで作らなくていいですと提案すればこの最悪の状態は消え去るはずだ。
 けれどそれをしないのは、居候をさせてもらってるのにそんなわがままを言えるはずもないことと…自分から話しかけてなどやるものかというくだらない意地だった。
 さらに言えば……今さら何を話せばいいのかわからないというのもあったからだ。
 が、今日は違った。
「ひとつ、先輩に聞きたいことがあるんですけど」
「………………………え……?」
 かなり遅れての先輩からの返事。
『俺から話しかけられることなどない。そんなこと思ってもみなかった』
 そんなことを考えているのがありありとわかる
「西森先輩?」
 そのまま固まってしまった先輩の名前を呼ぶと、端から見ていてもわかるほどに肩を跳ねさせる。
「あ…………俺が、答えられることなら」
 我に返った感じで先輩はそう返してきた。
 俺はこの人にただ話しかけただけ。
 それなのに、今の今までこの人から発せられていたピリピリした雰囲気は消え去っている。まあ、どこか緊張したような感じは残ってるけれど、それもさっきとは段違いにマシになってる。
 そのことに俺の方もかなりいい気分になっていた。
その気分のまま、俺は今日の部活中に思いついたことを口にしていた。
「先輩って、マネージャーになったのはいつからですか?」
「………っ…」
 なぜか息を飲むような気配が伝わってきて、どうしたんだという目を向けると、なんでもないと言うように目を逸らされてしまう。
「オレが、女に…なってすぐ、だけど……?」
「あ、やっぱりそうですか」
 俺の思ってた通りの先輩の答え。つまりそれだったら……。
「どうして、そんなこと聞くんだ…?」
「ああ。今日、俺、地稽古のときに先崎先輩にお願いしたんです」
 俺の言葉に先輩は頷いた。どうやら俺が先崎先輩とやっているところを見ていたらしい。
「その時なんですけどね、俺、先崎先輩に癖について指摘されたんですよ」
 かつて西森先輩に言われたこととまったく同じ事を先崎先輩に告げられて、少なからず俺は動揺した。そして同時に、直したはずの――わかりにくくなっているはずの癖を簡単に見抜いた先崎先輩の実力に少なからず感嘆のようなものも覚えていた。
 けれど、それは違ったんだ。
「そのことを先崎先輩に教えたのって先輩なんですよね?」
 俺の確認も含んだ質問に、また首をためらいがちに縦に振る。それを見て俺は、先崎先輩に真相を教えられたあの瞬間に思いついた提案をぶつけることにした。
「西森先輩、また剣道をしませんか?」
「――――――――」
 俺がこんなことを言い出すなんて思ってもみなかったのか、先輩はただただ目を見開いて、俺をじっと見つめてくる。
「ほら、西森先輩は今でも剣道の目が良いんですよね。俺、前に同じこと注意されてから努力してあの癖を消したつもりだったんですよ」
 それがどうにもいたたまれなくなり、俺は聞かれてもいない理由説明をしていた。
「自分では完全に直せたと思ったんですけど、西森先輩にはすぐに見抜かれた。でもいくら前から俺を知ってたとしても、あの先崎先輩が言われるまで気づかないほどの小さな癖をすぐに。だから先輩の剣道自体の腕は今でも全然……」
「ごめん」
 ただ、一言の謝罪が、俺の言葉を遮った。
「ごめん……オレ、もう剣道は…」
「なんでですか!? そりゃあ、たしかに筋力とか間合いとか色んなことが変わっててやりにくいでしょうけど、だからってやめることは……!」
 最後まで聞くことなく、俺はそう捲くし立ててしまった。
 また、裏切られたような気がした。
 俺はこんなふうにボロボロになってしまった関係を、元の良い状態に戻したかった。先輩が男だった頃のように、普通に何も気負わずに話したりしたかった。
 なのにあの約束が、それを出来なくしているのはもうわかっている。
 俺もこの人も、あれにこだわってしまって、何も進むことが出来ない。
 だからこそ、それを打ち消すための……また新しく関係を作るための俺の提案を、この人はまた否定した。
 ……わかってる。これは俺の勝手な考えでしかない。自分に都合の良いだけの提案でしかないとわかっているのに。
 けれど口から出てしまったのは最低の言葉だった。
「いっしょのチームになれなくても、先輩がまた剣道を始めてくれれば、またいっしょに稽古ができる。それなのに、どうしてです。約束を破ったんだからこれぐらい……!」
 言ってしまってからはっとした。この期に及んで、また約束のことにこだわるつもりなんかなかったというのに……。
 こんなふうに言われてさぞかし腹立たしいだろうに、先輩は顔色一つ変えずにいる。それがまた気まずくて、俺は舌打ちをして顔を逸らした。
「約束……守れなくて、ごめん」
 気まずい沈黙を破ったのは先輩の方だった。
 声に反応して、先輩の顔を見て、そして絶句した。
 先輩が、笑っていたからだ。
「でも、オレ……剣道は、二度とやらない」
 その笑顔のまま、決定的な言葉を告げられて、また俺の中の何かが振り切れる。
「…うしてですか!? そこまで、俺とまた剣道をするのは嫌だって事ですか?」
 もはやただの言いがかりでしかないような内容に、この人は首を横に振る。
 初めてこの人の顔を見たとき「幼い」という印象を持った。けれど今は、そんな幼さなど欠片も感じさせない笑みで、またこの人は言う。
「川嶋のせいじゃない。でも俺は……」
――――バン!!!――――
 それ以上聞いていることなんかできなかった。この人の口から、否定の言葉が出てくるところなどもう見ていたくなかった。
 テーブルをかなりの力で叩いて、食事も半ばに俺は立ち上がる。
 さして驚いたふうもなく、淡々と俺を見つめてくるこの人の視線を振り切るように、俺は借りている自分の部屋に戻った。
 もちろんあの人が追いかけてくることなんかない。
 あの人の中には、俺にかける言葉など何もないのだから。



 あれから俺とあの人の関係はそれ以前よりさらに冷えたものとなっていった。
 同じマンションの一室に住んでいるというのに、視線も会話も交わさず……、かろうじて繋がっていた『挨拶』ですら今は……。
 そして、一番、大きく変わったこと。
 ……食事だ。
 心地良い雰囲気だったことなど一度もなかったが、それでもあの人とは欠かさず夕食をいっしょに摂っていた。
 けれど、それも別になった。
 あの次の日の夜、いつものように夕飯を告げるノックをされ、心のどこかで俺はほっとしていた。
 けれど、いざテーブルに来てみれば、そこに並んでいたのは明らかに一人分の食事。
 そして……どれだけ待ってもあの人は自分の部屋から姿を現さなかった。
 これがあの人が出した答え。いや、今まで曖昧だったものを一気に表に出してきただけかもしれない。
 ともかく、俺はこれ以上踏み込むことが出来なくなってしまった。
 あの時の口論……俺の言いがかりは考えるまでもなく俺の身勝手な意見でしかない。誰が見ても、俺が悪い。
 頭が冷えて、そう考えられるようになった矢先のこの出来事。
 ――切り捨てられた。
 身勝手なことに、俺はそんなことを考えた。
 だからこそ、だ。
 俺はことさら、あの人と距離を取るようにしていった。
 もう、みっともない言いがかりをつけないためにも。
 入学してすぐの『あの時』からずっと自分の中に居座り続けている、あの酷く、冷たい感情を早く忘れるためにも……。
 けれど同じマンションの部屋に住み、同じ高校に通っているんだから、どうしたって顔を合わせなければならない。特に朝は。
 微妙に時間をずらした菓子パンでの朝食を終え、今日の授業の荷物の確認を済ませ、登校に備え身支度を整える。
 そして……。
「あ…………」
 広いとはいっても普通のマンションの部屋。
 顔を洗いに洗面所に来て、扉のところであの人と鉢合わせしてしまった。
「……………………」
 あの一件からこんなふうに部屋の中で遭っても、互いに目を逸らして、何も話さずに離れていくのが普通になっていた。
 けれど今回は違った。
 遠くを見ているような、いっそ虚ろと言ったほうが正しい眼差しであの人が見上げてくる。
「あの、なんですか?」
 いつまでも続くそれがかなり居心地悪く、思わず突き放すような言い方をしてしまった。
「…………ごめん」
 なんで謝られたのかわからないまま、結局その理由を聞くことが出来ずに、俺は『いつものように』あの人より先に学校に向かった。


 ……だから気づかなかった。
 次に、俺がここに帰ってくる時、どこまでも後悔することになるなんて。
 気づけるはずがない、という言い訳なんかする権利すら俺にはない。
 俺が……あの人を、追い詰めてしまったのだから。



 よその学校はどうかは知らないが、うちの高校は土曜日も授業がある。第一と第三土曜は休みだけどな。
 そして第二土曜である今日は昼まで授業があるというわけだ。
 うちのクラスの時間割は土曜の四時間目は体育。
 HRを済ますのが早い我がクラスの担任は、話もわかる素晴らしい教師で。最低限の連絡事項がある場合を除いて、ほとんどの土曜日は帰りのHRはナシになる。
 体育を終え教室に戻ってきてみれば、『良い週末を』と黒板に書き殴ってあった。
 今日もいつものパターンに当てはまったようだ
「川嶋~、サイゼ寄ってかね?」
「悪い、部活が一時からだから無理だわ」
 クラスメイトの誘いを断って、俺は一人で学校の近くのコンビニで昼食を購入。
 そして学校に戻り、道場で昼食。
 本当は道場でメシ食うなんていけないんだけどな。部内では暗黙の了解になっている。
「俺の防具のとこさー、またピンポン三つも入ってやがんの。アレだな、卓球部は俺のこと目の敵にしてるよな?」
「おまえが運悪いだけだと思うぞ」
 俺と同じようにメシを食ってる奴に冷静なツッコミを入れる。卓球部と剣道部は場所を共有してるからよくこういうことが起きる。正方形の蜂の巣状になってる防具入れに玉が入り込むなんてもう普通のことだ。
 ちなみに今日の活動は三時過ぎまで。それ以降はここで卓球部の活動だ。
 そんなふうにしているとすぐに開始の時間が近づいてきて。
「そろそろ着替えた方がいいんでないかい?」
 俺たち一年に不意に声をかけてきたのは、マネージャーの仲田先輩だ。
「ほらほら、先輩たちはもう着替え終わってるよっ」
 すでに着替え終わって、軽く素振りをしている部長を見て、俺たちは慌てて更衣室に向かう。いや、厳密に言えば『俺たち』ではない。
「川嶋くん、ちょっと……」
 道場前の水道の辺りで仲田先輩になぜか俺だけが呼び止められた。
「ちょっと、今日練習終わったら、片付け手伝ってもらえないかな?」
 どうやら、初っ端に言ってしまったあのセリフのおかげで、俺には頼みやすいらしい。
 けれどとくに断る理由もなく、俺はこの時素直に頷いたのだった。
 部に関する雑用なら一年がやるのは妥当だからな。
 ……が、しかし。
 ――……あ……?
 と、自分の安請け合いを後悔したのは、着替えてる最中のことだった。
 片付けを手伝うということはマネージャーの仕事を手伝うということだ。
 つまり…あの人と顔を合わせなくてはならない。
 どうしてこんな単純なことにさっき気づかなかったのか……。だからといって今さら断るというのもできるはずがない。
「はあ……」
 ――……しょうがないか。
 考えても何が変わるわけではない。
 少し重くなった足取りを道場のほうに向ける。
 引き止められたり考え込んだりしていたために、俺が道場に着いたときには今にも練習が始まりそうで俺は慌てて防具を着け始める。
 どこに目をくれる余裕もないくらいにかなり慌てながら。
 部長の配慮なのかタイミングが合ったのかはわからないけれども、俺が用意が終わり立ち上がると同時に部長の声が道場に響いた。


 土曜日でいつもより時間があると言っても何か変わったことをやるわけではない。
 準備体操、素振りといつもの順序で稽古は進んでいく。
 しいて変わってる点を挙げるとすれば、竹刀への打ち込みというメニューが増えたことと、地稽古の回数が多くなることだ。
 ……その稽古の途中であることに気がついた。
 始まった直後は焦っていてまったく気づけなかった。実際に気づいたのは基礎が終わって、いざ面をつけるという時になったときだった。
 あの人が、いなかったんだ。
 いつものマネージャーの定位置。
 二人が並んで座っているはずの場所には、仲田先輩だけがポツンと座っていた。
 ――なんでだ…?
 いや、そんなふうに思うのはおかしいのかもしれない。
 あの人にだって用事があることがあるんだろうし、もしかすれば何か突発的に用事が出来てしまったのかもしれない。
 六月にある体育祭に向けて慌しく動いているクラス委員の例を持ってきて、とりあえず自分のことを納得させた。
 …けれどどこかで納得しきれていないこともわかっている。
 今日の朝の、あの人の言動。
『…………ごめん』
 あの虚ろな目と、意味不明の謝罪が、頭から離れてくれない。
 ――くそ…っ。
 心の中で吐き捨て、立ち上がる
 自分でもわけのわからない不快感のようなものが体の奥にこびりついている錯覚に襲われ、……俺はそれを振り払うように最初から思い切り竹刀を振るった。
 だが、一度気にしてしまったものを完全に振り払うことができずに、俺は何度も仲田先輩のいる場所を見ていた。
 そんなことをしていたせいで今日の俺はまったく調子が上がらず、部活に入ってから最低とも言えるような調子のまま部活を終えた。
 結局、今日の部活にあの人が来ることはなかった。


「や~、ごめんね~。部活終わって疲れてるのに手伝ってもらっちゃって」
「いえ、別にこれくらいのことなら全然」
 道場の前での仲田先輩との会話。
 部活前に仲田先輩が言った『片付け』とは、マネージャーの仕事の手伝いのことだった。
 そういうわけで俺は部活が終わってから、なるべく急いで着替えて道場前の水道に戻ってきた。道場ではもう卓球部がアップのラリーを繰り返している。
「今日、夕希ちゃん来れなかったみたいでね~」
 誰のことだ、と聞きそうになってすぐにあの人のことだと気づく。
「それにほら、あんまり片づけるの遅くなると、ピンポン部の邪魔しちゃうからねっ」
 球が外に飛んでいかないように卓球部は戸をきっちり閉めて部活動をしている。そのせいでコップとかを戻しに道場に入るときにやたらと目立って嫌なのだ、と仲田先輩。
 まるで漫画のようにあっははーと笑う仲田先輩の空気は独特のものだけど、この人が話しているだけでその場が明るくなる。
 この人のこうやって他人の気持ちまで引き上げてくれる空気は有り難いものだ。
「やっぱり、一人だとこういうときに大変ですね」
「やや、マネージャーの仕事ってね、普段はそーんなきっついもんじゃないんだよ。そうだね、でも一番きつかったのは合宿のときかな」
 笑って冗談っぽく言うもんだから、それが謙遜なのか、それとも本気なのかが読めない。
 そのため曖昧に笑うしかない俺に、コップを洗いながら仲田先輩はさらに言葉を続ける。
「でもねぇ、全国にでも行かない限り私ら三年は合宿前で引退だから、今度はマネージャー、夕希ちゃん一人になっちゃうんだよねー…。そうなったら川嶋君がフォローしてあげてね?」
 不意にあの人の名前を出されて、うまく返事をすることができなかった。
 ここであの人の名前が出ることはごく自然なことなのに、俺は不自然なまでに動揺をしていまっていた。
「やっぱり……」
 ポツリとした呟き。
 そちらの方に顔を向ければ、仲田先輩がコップを洗う手を止め、まじまじと俺を見上げてきていた。
「? あの……」
「川嶋君はさ」
 どうしたのか、と聞こうとした俺の声は遮られる。
「なんでそこまで、夕希ちゃんのことを、嫌ってるの?」
「……………………」
 あんまりと言えばあんまりな質問に、俺は目を瞠り仲田先輩の顔を見返す。そこにあったのは初めて見る、笑顔以外の表情。
 普段は朗らかな笑みを浮かべている仲田先輩の目は、じっと俺のことを見つめてきている。
 いや、これは見つめるというより睨んでいるといった方が正し……。
「えっと、川嶋君はもう女の子になる心配はないのかなっ?」
 俺が認識をした直後に、仲田先輩の顔はまた元の笑顔に戻ってそんな質問を投げかけてきた。
「え……あ、一応半年くらい前に……」
 正直に言ってその変化についていけず、俺は混乱したままそのきわどい問いかけに真面目に返事をしていた。
「ふぅん」
 笑顔が消える。
「夕希ちゃんが悩んでた時に、川嶋君はやることやってたんだ」
 へぇ~、とわざとらしい声を出す仲田先輩。
 ここに来て、ようやく俺は仲田先輩に敵意のようなものを向けられていることに気づいた。
「あの……いきなりなんなんですか?」
「それを聞く前に、まずはこっちの質問には答えてくれないのかな?」
 口調こそいつもの感じに似せているが、先輩の声に含まれている感情は明らかに何かを含んでいる。
「質問って……俺が、あの人のことを……?」
「そう、どうしてあんなに嫌ってるわけ?」
「別に、そんなつもりは……」
「ないわけないよね。あんなに夕希ちゃんのことだけ邪険に扱ってるのに」
 決めつけるような言い方に反感を覚えなかったわけではない。
 けれどその内容に心当たりがあるだけに、うまい言葉が見つからず、俺は黙ることしか出来なかった。
「最初はね、川嶋君は女の子が苦手なのかなって思ってた。けどね、こうして私とも普通に話してて、他の子たちともまあまあ話してる。……夕希ちゃんだけだよね、川嶋君が自分からは絶対に話しかけないのは」
 確認をするように、ただ今までの俺の態度を話しているだけのはずの仲田先輩の声はこれ以上ないほどに鋭い。
「それに今だって夕希ちゃんの名前は出さない。先輩って呼ぶくらい簡単なのにその呼び方さえもしない」
「…………仲田先輩には、関係ないことです」
 たしかに仲田先輩は間違ったことは言っていない。
 けれど俺とあの人のことにずかずかと立ち入ってくるような言い様に、少なからず俺は腹を立てていた。
「関係ない、ってその通りなんだけどね」
 意識してたわけではないけれど、かなり尖ってしまった俺の言葉を、先輩は肩をすくませていなしてみせる。
「私ね、どうにもならなくなったら相談する、って夕希ちゃんに言われてるんだ。でも、夕希ちゃんは未だに何にも言ってきてくれない」
「だったら、あの人に聞けばいいじゃないですか」
「また」
 憤ったまま、突き放す言い方をする俺に、仲田先輩が表情を変える。
 睨むような、しかし怒りではない何か強い感情を乗せた視線を俺にまっすぐぶつけてくる。
 あまりに強いその目に、俺は完全に気圧されていた。あの人よりもわずかに背が高いだけの女子の先輩に……。
「また、夕希ちゃんのことはそんな呼び方するんだ」
 どうでもいいことだろう、と俺は顔を逸らした。
 先輩相手にその態度はかなり失礼なことだが、この時の俺はそんなことを考える余裕もなく、ただ早くこの話を終わらせたかったんだ。
「川嶋君がそんなふうなのは、『西森君』が女の子になって約束を守れなかったから?」
「――――っ」
 けれど仲田先輩はそうさせてはくれない。
 一番触れられたくない箇所に踏み込まれて、相手が先輩だということも忘れ、俺は本気で目の前にいる相手を睨みつけていた。
 ――いや、それよりも……。
「あの人が、話したんですか……?」
「違うよ、私が夕希ちゃんから無理やり聞きだしただけ。そうでもしないと潰れちゃいそうだったからね」
 ――潰れ……?
 聞き慣れない言葉に俺が眉をひそめているうちに仲田先輩が続ける。
「川嶋君はさ、西森君が好きで女の子になったわけじゃないってわかってるよね?」
「………………」
 それくらいは…わかってる。
だから……だからこそ気に食わないんだ。
 なんでならないように行動をしなかったんだ。どうしてなってしまってから、俺に何も連絡がなかったんだと。
「それって、『後輩との約束を守ろうと努力しないで女遊びしろ』ってこと?」
 言い換えられてぐっと言葉に詰まる。
「西森君、頑張ってたよ。去年、入部した誰よりもいっちばん努力してた……。それに仮に川嶋君だったら言えるの?」
「……何を」
「一番信頼してて、それで自分をすごく慕ってくれてる相手に、『女になった、もう約束は守れない』って。そんなこわいこと……できる?」
 また沈黙せざるえなかった。
 そうやって考えればそうかもしれないとどこかで納得をしている自分がいる。
 だがやはり、感情の大部分がそれを否定した。
「あのね」
 拒絶するような言葉を吐こうとして、しかし声をかぶせられたことによってそれは消え去る。
「西森君と夕希ちゃんは同じなんだよ? それなのに、どうしてここまで夕希ちゃんのことは嫌ってるわけ?」
 最初の質問と同じことを聞かれ、俺は再び沈黙を返した。
 さっきのように呆気に取られたからではなく、口を開いてしまえば、言葉が漏れてしまいそうだったから。
「西森君のこと慕ってたから、川嶋君はここに来たんでしょ? そりゃあ性別は変わってるけどさ、今の夕希ちゃんとまた同じような関係になればいいじゃな……」
「……っ、そんなことはわかってる!!」 
 なおも続けられた言葉に、何かが切れてしまった。
「俺だって、こんなぎくしゃくした状況は耐えられなかった。あの人とまた、同じ距離に戻りたかったんだ。だからこそあの人とちゃんと向き直ろうとして……!」
 我慢しようとしていた言葉。
 どこまでも自分が情けなく未熟すぎると自覚したくなくて、けして吐き出せなかった感情。
「だけどそれを拒絶したのはあの人のほうだ!」
 遠くを歩いている奴らが奇異の視線を向けてきているのに気づいていた。
だが今は喚き散らす真似をみっともないと思う余裕もなかった。
「あの約束のことは、もう忘れたかった。だから元に戻ろうとしたのに……いっしょに稽古をしようと言ったのに……あの人は二度と、俺と剣道をしたくないって……」
「ちょっと待って」
 激昂している俺とは裏腹の、ひどく冷めた声で遮られる。
「キミ、どれだけあの子のことを傷つければ気が済むつもり?」
 短い疑問の言葉。ただそれだけのはずなのに、頭に上っていた血が一気に引いていく。
 目の前にいる女の先輩が、今までのどんな試合の相手よりも恐ろしかった。
「傷つけるって……」
「男の時の西森君のことは尊敬してたけど、女の子になって剣道をやらない夕希ちゃんには学ぶものはない。価値がない。いらないって言ったんでしょ?」
「そんなわけ……」
「そういうことでしょ。キミは『また剣道をすれば仲直りしてもいい』ってことを言ったんだから」
 ――そんなのは詭弁、屁理屈だ。
 思うのに、声に出して反論することが出来なかった。
「キミはさ」
 ついさっきまでは名前で呼ばれていたのに、その他大勢を差す代名詞で呼ばれることに傷ついている自分に気づく。
 ――…………っ!!
 そして同時に悟った。
 これは、俺が『あの人』と呼ぶことと同じことだと……。
「なんで夕希ちゃんが剣道をしないのか――マネージャーをやってるのか……なんて考えたこともないでしょ」
 形は問いかけるものなのに、断定的な口調で言い切られる。
 言い返せなかったのは、事実、考えたこともなかったからだ。
「剣道とか部活が嫌になったなら、ただ辞めればいい」
 頷くことさえできず、俺は仲田先輩の言葉を待つ。
「続けたいなら、キミが言ったとおり、女の子になっても剣道は出来る。うち、女子部員もまあまあいるしね」
 聞けば聞くほどその通りで……だからこそ初めて、ある疑問にぶつかる。
「なのに、なんで夕希ちゃんは剣道をやらないのか……」
 たった今、心の中に浮かんできた疑問は仲田先輩が代弁してくれた。
 ――考えてみれば、そうだ。
 昔と今を繋げてみればすぐにわかることだった。
 西森先輩は、俺が知るなかで誰よりも剣道自体を楽しんでいた人だった。女になったからといって、簡単に剣道を投げ出すことなんかしない人のはずだった。
 その人が、今、どうして剣道をしていないのか……。
「夕希ちゃんは剣道をしないんじゃないんだよ……」
 続きを、聞きたくはなかった。
 喉が凍りついたようになっていなければ、何か言葉を発して遮ってしまいたかった。
「剣道が……できないんだよ」
 けれど俺は立ち尽くすことしか出来なかった。
「たぶん、もう二度と」
『二度と』と、あの、言い争いの時と同じ言葉を聞いて……。



 何一つまとまらない考えを延々と続けているうちに、気づけば俺はマンションの、部屋の前まで帰ってきていた。
『キミはさ、夕希ちゃんが西森君ってわかった後……』
 何も反論できずにいた俺に、仲田先輩が続けたあの言葉が耳に残って離れない。
 そんなはずはない、と言い切る自信はなかった。考えれば……思い出せば出すほど、その言葉が真実味を増していく。
 信じたくはなかった。気のせい、思い込み、ただの勘違いだと流してしまいたかった。
 ……なのに、今までの記憶がそうさせてくれない。
『どこまでもおまえは愚かなのだ』と責め立ててくる。
 あの人と話し合おうと思ったのは、鬱々としたこの気分を振り払いたいからだ。なのに――いや、だからこそ、この扉の中には入りづらい……。
だからと言って制服のままそのうえ荷物まで持ってどこかをふらつくというのも出来そうにない。
 もう、逃げ続けるわけにはいかないんだ。
 ――くそっ……。
 自分でもまるで意味がわからないままそう吐き捨て、意を決して扉の鍵を開ける。
「…ん……?」
 だけども変な覚悟を決めたのも無駄になったようだ。
 ――まだ、帰ってきてないのか?
 夕方になり始めて薄暗くなってきたのに、部屋にも廊下にも電気がついていなかった。
「なんだ……」
 ここにきて妙に肩に力が入ってしまっていたのに気づき、溜息めいた深呼吸を吐きつつ、俺は靴を脱ぎ……。
「――――っっ!!?」
 何気なく廊下の電気を点けて、息を飲んだ。
 一番奥のLDKの部屋に続くこの廊下には扉が三つある。トイレと俺が使わせてもらってる部屋と、あの人の部屋の……。
 そのうちの一つ、あの人の部屋から普通ならあるはずのないものが覗いていた。
 細い、真っ白な腕が、廊下のフローリングに横たわっていたんだ。



「……うん。少し酷い風邪だね」
 俺が普段お世話になっている先生の言葉。
 それを聞いて俺は先生の椅子の隣、簡素なベッドの上に視線を移す。
「本当、ですか? 風邪で、そんな倒れたりとか……」
 そのベッドの上で寝ているのは…先輩だ。
 意識を失ったまま、俺がここに連れてきてそして診察が終わっても、一向に目が覚める気配はない。
 でも、さっきよりも呼吸は辛そうではないことに俺は小さく安堵の息を漏らした。
「うん、普通ならここまで酷くなる前に自分で摂生するだろうけど。まあ、こうして点滴もやってるし、ちゃんと薬を飲んで食べて寝れば、一週間もかからないよ」
 細い腕に点滴を受けている姿は、ただそれだけなのにとても痛々しい。
 先輩が倒れているのをそのままおぶってきたせいで、パジャマのままというのも手伝って余計に重病のように見えるせいだろうか。
 今の先輩の姿は……朝見たときと同じままだ。
 学校を休んで、いつからあそこに倒れていたのかはわからない。
 けれど倒れるほどに調子の悪いこの人のサインに、何一つ気づけなかった自分がどこまでも嫌になった。
「風邪っていうのはほとんどが体調が悪くなってきた時に菌に負けてなっちゃうもんだから、体調さえ良くなればすぐ治るよ」
 俯いた俺に、安心させるような言葉をかける先生。
 俺が小学生のころから診てもらってるこの先生は信頼できる人だ。だからこそ、次の先生の言葉に打ちのめされる。
「だけど、この子はちょっとそれ以外にもね…」
「…どういうことですか……?」
 言いよどむ先生に聞き返す声は掠れていた。
「……軽くだけどね、不眠と拒食の症状が出てる」
 今まで日常では聞いたことのない単語。
 それだけに、その二つの言葉は俺にひどく重く聞こえた。
「学校の、先輩だっけ? こういう症状は大体ストレスが原因のことが多いんだけど、何か……いま学校のほうでやってたりする?」
 遠まわしにその原因を問われても、俺は首を振ることしかできなかった。先生は点滴が終わったらまた呼んでくれと言い残して、隣の診察室に戻っていく。
「原因は……俺だ」
 カーテンで仕切られた空間の中。
 いまだ眠り続けている先輩の傍らで俺は頭を抱えて、自分を罵っていた。
この人をここまで追い詰めた原因は、なにもかも全部自分のせいだ、と……。
 仲田先輩の言葉が頭の中によみがえる。
『キミはさ、夕希ちゃんが西森君ってわかった後、あの子の笑った顔とか怒った顔とか泣いてる顔、見たことある?』
 言い残して仲田先輩は洗っていた物を片付けに行ってしまい、俺は何も言い返せなかったけど、その答えが今になって浮かんできた。
 ――俺は、この人の表情を見たことがない……。
 仲田先輩の言葉を聞いた直後は、そんなことない、見たことくらいあると思っていた。言い争い――俺が一方的に罵ったあの時に、あの人の笑った顔を見たんだ、と。
 だが今考えてみれば、その中のいびつさに気づかされる。
 一年前の、男の時の先輩の表情は今でもすぐに思い出せる。
 西森先輩は笑う時、怒る時……目に感情を込めて、相手のことを見据えていた。あの試合の帰りも……。
 ……あの時、確かにこの人の顔は笑みを形作っていた。
 けれど、目は……何よりも遥かに雄弁だった目には、何も映っていなかった。
 空っぽの、なんの感情も映していない目が、俺のことを眺めていたんだ。
『西森君と夕希ちゃんは同じなんだよ?』
 言われなくなって当たり前のことだ。けれど俺はそれから目を逸らし続けていた。
 その結果がこれだ。
 自分の勝手なわがままで、誰よりも尊敬して信頼していた人を傷つけて、貶めてしまった。
 こんなに……精神的に追い込んでしまった。
 後悔しか浮かんでこない。自己嫌悪で潰れてしまいそうだ。
「……ん………」
 かすかに苦しげな声が聞こえて我に返る。
 顔を上げれば、先輩が居心地悪そうに身じろぎをして、そしてすぐにまた動かなくなった。
 ずれてしまった薄手の毛布を直そうと立ち上がり、毛布から靴下を履いた足が飛び出ているのに気づく。
 ――暑いのか…?
 いや当然だ、こんなに熱が出てて、その上靴下なんか履いてたら居心地悪いに決まってる。
 この時俺は、なんでパジャマなのに靴下だけはちゃんと履いてるのか、という疑問を抱くことなく、勝手にそれを脱がし……。
「……っ!」
 また、後悔することになった……。

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最終更新:2008年06月14日 22:40
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