『約束ひとつ』(6) 西森編3

~~西森編3~~
 勘違いなんか、しちゃいけない。
 勘違いなんか……できるはずがない。
 ちゃんとわかってるから…。
 許してもらえるはずなんか、ないってことぐらい。
 オレは、川嶋に嫌われてるってことなんか……。
 川嶋が必要としてたのは男のオレ。男の、剣道が出来ていっしょのチームになれるオレ。
 だから今のオレは川嶋にとってはいらない存在。
『いっしょのチームになれなくても、先輩がまた剣道を始めてくれれば、またいっしょに稽古ができる』
 どれだけ川嶋がオレとの約束を大事にしてくれていたか、思い知らされた。
『それなのに、どうしてです。約束を破ったんだからこれぐらい……!』
 どれだけ川嶋が傷ついているのか、わかった。
 この時ほど自分の足を呪ったことはなかった。
 せっかく川嶋が歩み寄ってくれたのに、オレは、それに応えることさえできない。
 ……また剣道をしようと勧めてきた川嶋の言葉は、すごく…いたかった。
 断ることしかできない自分がすごく、みじめだった。
 でも、オレには、傷つく権利なんかない。
 オレが女になって、川嶋のことを裏切ってしまったから。
 最初に川嶋のことを傷つけてしまったのは…オレの方だから……。
 だから、痛くなんかない、苦しくなんかない、哀しくなんか、ない。
 ――うん、大丈夫。
 オレはどこも傷ついてなんか、ない。
 オレは、なんにも、感じてなんかないんだから……。
 そう……なにも、感じてないはずなのに、オレはずっと怖かった。
 これ以上、川嶋に嫌われてしまうことが、どうしようもなく……。
 もうこの上なく嫌われてしまってるかもしれない。現に、もうまともに言葉も――挨拶さえもしてくれないんだから。
 でも、それでも……何もしないではいられなかった。
 川嶋との関係がより悪くなってしまったのは、川嶋がうちに泊まるようになってから。
 もっと言えば、二度と剣道はやらないと川嶋に言ってからだ。
 なんでか、なんて考えるまでもない。
 女になって川嶋のことを裏切ってしまった。そして今度は、川嶋の提案を台無しにしてしまった。
 オレがオレだってばれてから、良い感情を持たれていないのは知ってた。
 中学時代の川嶋と、今の川嶋のオレを見る目はすごく違う。昔は見られるとくすぐったくなる感じだったけど、今は怖くて仕方がない。
 でもしょうがないことだ。嫌いな相手の家にいて、それで機嫌が良いなんて有り得ない。
 顔を合わせてしまえば、またあの冷たい目で見られてしまう……川嶋を不快な気分にしてしまう。
 その両方が嫌で、オレは川嶋と一緒に御飯を食べないようになった。
 川嶋の分の夕食を作って、オレはすぐに自分の部屋に篭る。そうすれば川嶋と顔を合わせないで済むからだ。
 お腹が空くようなこともなかった。空腹も眠気もほとんど感じずに、ぼんやりとしているうちに朝になって、また学校に行く。
 それで……いいんだ。
 川嶋がうちにいるのは、川嶋の部屋の鍵が出来るまで。
 ほんの数日しかないその間、これ以上、川嶋に嫌な思いをさせないように。
 これ以上、川嶋に嫌われないようにすることしか……オレには出来ないんだから。
 そこまで考えたところで目覚ましが鳴って、オレは体を起こした。
 視界はぼんやりとはっきりしなくて、どことなく頭も痛い。
 やっぱり眠ることが出来ずにずっと考えていたせいかもしれない。けどずっとぼんやりしてるわけにはいかない。
 川嶋が部屋から出てくる前に、洗濯物を干して、残っていた洗い物を片付ける。
 朝御飯は……。
 ――やっぱ、いいや……。
 あんまり食べてないのはわかってるけど、やっぱりお腹は空いてないから。
 そうして部屋に戻って、今日の教科書とかの確認をしてると川嶋が部屋から出てくる気配がした。
 同じマンションの部屋にいるけど、今はほとんど顔を見ていない。でも朝は準備をするためにどうしても同じ場所に集まってしまう。
 川嶋が部屋に入ったのを感じて、オレは洗面所に向かった。
 どこか、はっきりとしない頭のまま、顔を洗って……。
「あ…………」
 洗面所を出ようとした扉のところで川嶋と会ってしまった。
「……………………」
 川嶋から話しかけてくれることなんか、たぶんもう二度とない。だからと言って、こっちから話しかけることなんかできない。
 沈黙のまま、でも久しぶりに見る気がする川嶋の顔を、オレはぼんやりと眺めていた。
 でも、それがいけなかったんだ。
「あの、なんですか?」
 ――……っ。
 切り捨てるような言葉。怪訝そうに眇められた目を見てオレは失敗を悟った。
「…………ごめん」
 また、川嶋に嫌な思いをさせてしまった。
 相手を見ることのない最低の謝罪の言葉を残して自分の部屋に逃げ込む。
 でもそんなのもどうでもいいんだろう。
 すぐに川嶋が玄関を出る音がして、オレも部屋を出――――。
「ぇ……?」
 いきなり意識が遠くなる。
 転んでしまったような衝撃があった気がするけど、それを理解することもなくオレの意識は完全に消えてしまった。



 霞がかったようなどこかすっきりしない視界。
 焦点の合わない目で、オレは見知らぬ天井を見上げていることに少し経ってから気づいた。
 ――ここ、は……?
 なぜかうまく動かせない体。それでも仰向けのまま左右を見て、その視界はカーテンに遮られた。
 ――……まただ。
 すぐにわかってしまった。
 これは、夢。
 ことあるごとに、忘れることを許さないというように襲ってくる悪夢。
 ――見たくないのに……っ。
 思っても夢は何度も同じことだけを繰り返していく。
 病院で意識が戻ったオレに、父さんからの電話、先生の話。
 ……もう二度とまともな運動すらできなくなったという絶望。
 川嶋のことを決定的に裏切ってしまったときの映像をもう何度も何度も何度も何度も何度も……繰り返し見せられてきた。
 そして……夢の最後で言われるんだ。
 川嶋に、『なんで女になってるんだ』と。
 諦めるしか、ないんだと思う。
 だってこの夢はオレへの罰だから。
「ご、め……」
 謝ろうとして、言葉が喉でつっかえる。なぜかうまく声が出せない。
 けどオレはまた言葉を発していた。
「……め、なさ……」
 もう面と向かうことさえも嫌がられてる相手への、謝罪の言葉を。
「先輩……?」
 不意にカーテンに仕切られた空間の中に落とされた声にオレは完全に凍りついた。
『あっ、目が覚めましたか? 先生を呼んできますね』
 夢ならたしか看護婦さんが言うはずの場面だ。
 まともに動かない首をそれでもゆっくりと動かして見る。…オレの聞き間違いとかじゃなかった。
 そこにいたのは川嶋だったんだ……。
「な……で……?」
 頭の中が混乱しきってて同じ言葉しか回ってない。それが口から出てしまって、でもやっぱりうまく声が出なかった。
 ――川嶋が、ここにいるはずないのに……?
 ワケがわからなくて川嶋の顔をじっと見てしまって、すぐに自分がまた間違ったことをしてしまっているのに気づいた。オレが見ているだけでも川嶋には不快なことだと……。
 あの眇められた目をまた見たくなくて、緩慢な動きだけど慌てて目を逸らす。
「なんで……いるの?」
 そのまま川嶋に問いかける。
 まだ、川嶋が出てくるはずないんだ。川嶋が出てくるのは、夢の最後の場面、オレにあのセリフをいう時だけのはずなの……。
「…っ………」
 舌打ちをして突然川嶋が立ち上がる。
 いきなりなそれに反応しきれずにいるうちに、川嶋はオレの顔の横に椅子ごと移動してまた座り込む。
「あ……な、に……?」
 視線は合わせられないけど、川嶋にじっと見られてる気がしてすごく辛い。耐え切れなくなって恐る恐る話しかけて、でもやっぱり川嶋は返事をしてくれなかった。
 わかってる、夢の中だからって都合がいいことなんかあるはずがない。
 夢の中でさえ……オレは川嶋に嫌われたままなんだ。
 ――大丈夫、わかってた、ことなんだから。
 痛くなんかない、何も感じてないと自分に言い聞かせる。
「……せんぱい」
 川嶋に呼ばれたことに、すぐには気づけなかった。
「西森、先輩?」
「え……?」
 名前を呼ばれて、ようやく話しかけられていることに気づく。
 そのことに驚いて横に座っている川嶋の顔を見上げて、オレはまた川嶋の顔を凝視してしまった。
 今の川嶋の目はすごく複雑な色をしてる。顔も何かを耐えるように歪んでて、いつもの、オレを責めるようなものは欠片も感じられない。
「なんで……?」
 ――なんで、そんな顔してるんだ?
 川嶋がそんな辛そうな表情をすることなんかないのに。
 辛そうにも悲しそうにも見える川嶋の表情。
 ――そんな顔なんかしてほしくないのに……。
 もう見ていたくなかった。こんな表情ならいっそいつもの否定的な表情の方が良い。
 川嶋のこんな顔は嫌だったんだ。
「ご……めんな……?」
 喉の水分を全部吸い取られてしまったような掠れきった声。すごくみすぼらしいその声で、オレは必死に謝っていた。
 何に謝ってるのか自分でもわからない。だけど……思い上がりかもしれないけど、川嶋の暗い顔はオレのせいな気がして……。
 オレの謝罪に川嶋は目を見開いて、そしてその表情をさらに苦いものにしていく。
 ――ど……。
「どうして、ですか?」
 心の中で言いかけた言葉そのものを川嶋が言ってきて、一瞬、また声に出してしまったのかと思った。
「どうして、あなたが謝るんですか……っ?」
 すごく混乱してるってわかる顔と、それでも感情を押し殺した声。
 どうして川嶋がこんなふうに追い詰められた感じなのか、ぜんぜんわからない。
 怖かったはずの川嶋が、その時だけ頼りなく思えて、オレは正直に話してしまった。現実では絶対に言えるはずのない本音を。
 ――これは……夢だから。
「……って、川……を、やな思いに、させて……の、オレだから……」
 切れ切れになってしまう声を繋いで、そう伝える。
 オレが謝るのは当然なんだ。最初に裏切ったのは、傷つけたのはオレだから。
 言い終わると同時くらいに、視界がまたぼんやりと霞んでくる。
「川嶋も……そ、思ってる、だろ?」
 確認するように夢の中の川嶋に訊く。
 だけど、川嶋は返事をくれなくて、そうしてるうちに意識が少しずつ遠くなってく。
「俺、は…………」
 何か、川嶋が呟いた気がしたけど、それは聞こえることなくオレは意識を手放した。
 今回はあのセリフを聞くことがなくて良かったと、うっすらと嬉しく思いながら……。



 プールの底で揺れている感覚。
「……っぁ」
 びくりと体が竦んで、そこからいきなり引っ張り上げられるように一息に目が覚めた。そのせいかも知れないけれど、脈が妙に速くて、息も少しだけ上がってしまっている。
 ――いま……寝てたのか?
 ベッドの上でぼんやりとした疑問が浮かんできた。
 今日は……たしか、土曜日で……学校に行くために一度起きたはずだ。なのに、今は夕方。しかもオレはパジャマのまま……。
 ――なんで……?
 記憶がはっきりしない。
 必死で思い出そうとするのに、霞がかったような頭からは何も浮かんでこなかった。
 何がなんだかわからなくて、意味もなくキョロキョロと視線を彷徨わせる。
 ――ぁ……。
 暗くなり始めてる窓の外。そしてベッドの横の時計を見て、もう夕方だとやっと気づいた。
 ――ごはん、作らないと。
 食欲は今日も感じないけど、川嶋の分、作らないと。
 オレがこの家にいるように言ったんだから、川嶋の望むようには出来ないから、せめてそれくらいのことはしないと……。
 一気に目が覚めたくせにぐらつく頭を我慢しながらベッドから降り……。
「あ……!?」
 思わず声が出てしまったのは、立てなかったからだ。
 いつものように立ち上がろうとして、けど全然体に力が入らずにオレはベッドの下に座り込んでしまった。
 ――あっ……!
 それだけならまだしも変に倒れないように手を伸ばしたせいで、近くに置いてあった小さな屑入れを突き飛ばしてしまって。屑入れは派手な音を立てて転がって、自分のせいなのにオレは肩を竦ませる。
「先輩っ!?」
 短い、走るような足音のすぐ後に息せき切って部屋に入ってきた後輩を認められずに絶句してしまう。
「川……嶋?」
 ようやく継げた声もまともとは言えない。
「ベッドから落ちたんですか……?」
 気づかないままに川嶋を凝視してしまったのに、気を悪くしたふうもなく川嶋は近づいてきた。未だに驚いたまま、ぺたんと座ったままのオレは川島のことを見上げ続けてしまう。
「……先輩?」
 川嶋は困惑したような顔になって、オレの方へ手を差し伸ばしてくる。
「――――っっ」
 ただそれだけのことなのに、手を叩き落された記憶が脳裏をよぎってオレの体はビクリと竦んでしまった。目も思わずぎゅっと瞑って、オレは体を小さくする。
 一瞬の間が空いて、高い位置から溜息のような息が吐かれるのが聞こえた。それにさえビクつく自分は嫌いだったけど……どうしようも。
「……具合は、どうですか?」
「え……」
 意外なほどに平坦な声。そしてその内容に顔を上げる。
 ――具合……っていうのは、オレの……?
 なぜそんなことを川嶋が……?
「昨日俺が帰ってきたとき、先輩がそこに倒れてたんです」
 部屋の扉を指しながら、川嶋が教えてくれる。
「……たおれてた? きのう?」
 それでも理解できなくて川嶋の反芻してしまう。
「今日は日曜日です。……先輩は風邪で体調が悪くて、たぶん俺が学校に行った後…………。覚えてないですか?」
 言われたことを信じられなくて、なんの反応も返せなかった。
 風邪……は言われれば納得できた。このだるい感じと熱っぽさは確かにそれだ。
 けど倒れたなんて……。
「病院に行ったことも、その間のことも…全部?」
 確かめるように訊いてくる川嶋に頷くことしかできない。
「病院は……川嶋が?」
 意識のないオレを運んだのかと訊けば、川嶋は頷いて、顔が青ざめた気がした。
 どこまでも申し訳ない。意識がなくても川嶋に迷惑をかけてしまうなんて。
「……ご」
「謝らないでください」
 ぴしゃりと、有無も言わさず声を消されてしまう。
 静かなくせに、どこまでも力強い川嶋の言葉。
 呆然と川嶋の顔を見て、そこにあったのはまったく同じ色をした目だった。
「俺は先輩に、謝られるようなことは何一つされてません」
 よどむことなく言い切られたセリフ。
 ただただ目を見開くことしかできずにいるオレの腕を川嶋が掴んだ。
 驚いていて気づかなかったせいかもしれない。なぜかはわからないけど、今度は怖くないその手に支えられながら、オレはベッドの上に座らされた。
「今、お粥持ってきますから」
 言って川嶋は背を向ける。まだ何も考えられないまま、だけどその背中を目だけで追っていって。
「早く……風邪、治しましょう」
 部屋を出るところで、川嶋が呟くような声で告げた。
「西森先輩と、ちゃんと、話がしたいですから」
 その意味を理解する前に、川嶋の背中は廊下に消えていた……。



 気持ちの上では本当に久しぶりの道場。
「あ、夕希ちゃん。おひさ~」
 どこか入りづらくて、出入り口の所から中をうかがった途端、中から仲田さんの声が飛んできた。
 いつもとまったく変わらない仲田さんの調子に、知らず知らずのうちに入っていた肩の力が抜ける。
 オレが学校に、道場に来たのは四日ぶり。昨日の夜にようやく熱が普通まで戻ったんだ。
「すいませんでした。長いこと休んじゃって……」
「や、や、全然そんなことないよっ。誰にだって調子の悪い時くらいあるんだからね!」
 そう言ってもらえてほっとする。
 おかげで気負うことなく久しぶりに仲田さんと話していると、道着の一団が道場に入ってきた。
「あ、西森さん! 風邪だって聞いてましたけど、もう大丈夫なんですか!?」
 目聡いというか、入ってきた途端にオレに気づいた一年が話しかけてきた。
 ――名前は……あ、『垂』してないからわかんない。
「うん、一応治ったから。ありがとう」
「いっ、いえ! それなら良かったです!」
 その後、二言三言交わしてからその一年は防具を着けに剣道着の集団に戻っていった。そしてバトンタッチしたようにその集団から熊がこっちにやって来る。
「なんて罪なお人ッ!」
「きもちわるい」
 いつぞやと同じように奇妙なシナを作った先崎を切り捨てる。でもやっぱりこれっぽっちも気にした様子なく先崎は続ける。
「キミはアレだね? どこまでも田辺を落とす手口を心得て」
「あ、あいつタナベっていうんだっけ?」
 さっき話しかけてきた一年の名前を先崎が教えてくれてちょっとすっきりした。
 そして言葉の途切れた先崎の顔を見れば、ぽかんと口を開けてオレのことを凝視している。
「……わかった。西森にこのテの話題を振った俺が一番馬鹿だったってことだな!」
 アバヨ、と言い捨てて先崎は走り去っていった。すぐそこまで。
「なんだかわかります?」
「あ~……一人の少年が不憫って話かな~」
 まるで意味がわからなくて、近くにいた仲田さんに助けを求めれば、これまた意味のわからない説明をされてしまった。
 結局何もわからないままに部活が始まる。
「……今日は人少ないですね」
「もうすぐ体育祭だからね。HRが長引いてるところばっかみたいだよ」
「そう、ですよね」
 うちのクラスはわりとやりたい種目が被ることが少なかったから、かなりスムーズにHRは終わった。
 ――オレには、あんまり関係のない行事だけど……。
「った…!」
 瞬間、バシンという音ともに背中に衝撃が走って、思わず声が漏れた。
「そんな顔してたらずっとつらいまんまだよっ?」
「そう、ですね」
 知らず知らずのうちにまた仲田さんに気を使わせてしまって申し訳なくなる。
 だからこそもう考えないようにとゆるく頭を振って、体育祭のことを頭から追い出した。


 人数が少ないことを除けば、滞りなくいつもの通りに部活は進んでいく。
 部活が進む間にも遅れてきた人たちは順次に参加していって、けっこう遅れてきた人は参加せずに見取り稽古をして。そんな感じで短い部活時間は終わった。
 稽古を終えて水分補給をする部員の人たちにコップを手渡しながらぼんやりと思う。
 ――川嶋……。
 今日の部活の最後まで川嶋は姿を見せなかった。
 いや、クラスのほうの話し合いが長引いて、そしてその後に何か用事ができてしまったんなら来れないのはしょうがないんだ。
『先輩と、ちゃんと話がしたいですから』
 熱がある間の記憶は全部どこか掠れた感じになっているけど、その言葉だけは鮮明に覚えててる。
 だからずっと気になってるんだ。
 もうオレのことを嫌ってるはずの川嶋が、今更何を話したいというんだろうと。
 それ以前に、どうしてあそこまで熱心に看病してくれたんだろうと、不思議に思ってる。
 オレの症状は、川嶋が言うには倒れてた最初が一番酷かったらしくて、それ以降はぶり返すこともなく少しずつ良くなっていった。
 月曜日の朝には、一人でいても大丈夫と思えるくらいには治ってきてた。それでも川嶋は、学校を休んでずっとオレの看病をしてくれていた。
 大丈夫だと言っても聞き入れてもらえず、御飯から洗濯まで何までオレがやらなきゃいけないことを全部川嶋がやってくれた。
 だからこそ倒れたくせにこうやって早く治ったのかもしれないけど……すごくいたたまれなくて、申し訳なかった。
 ――それなのに……。
 空になったタンクを洗い場で洗いながら、まとまらない考えを巡らせる。
「人数少ないからコップ少なくて楽だねー」
「そうですけど、やっぱり人は多いほうが……」
「む。ま、それはそうなんだけどさっ。……って、あ」
 手の動きが止まった仲田さんの視線を追えば、そこにいたのは今日の部活に最後まで顔を見せなかった奴だった。
「かわしま……?」
「どしたの、川嶋クン? こんな時間に」
 オレと仲田さんにほぼ同時に声をかけられたのに、川嶋はそれに応えずに近づいてきた。
 先輩の言葉を無視だけはしないはずなのに、川嶋はオレたちの声に応えずどんどん近づいてきて。
「何か手伝います」
 なんの脈絡もなくそう言い放った。
「別に。今日は人が少なかったから手伝ってもらうほど仕事無いよ」
 あまりにいきなりな川嶋の提案。オレが驚いてるうちに、仲田さんがそれに返事をしていた。
「それよりさ、川嶋君……わかってるの?」
 仲田さんのその言葉とともに二人の目が一瞬オレに向けられて戸惑う。けど、何事かと思う前にまた二人は向き直った。
「はい。ちゃんと、わかってます」
 どこか苦々しく聞こえる川嶋の声。
 そんな声を出しているくせに、まっすぐ仲田さんのことを見据えていて、そして仲田さんもそれをちゃんと受け止めてるように見えた。
「……オレ、片付けてきますね」
 なぜか、ここに居たくなくて、コップを口実に立ち去ろうと……したのに。
「夕希ちゃんは病み上がりなんだから、これ以上お仕事しちゃダメッ。あとは私がやっとくから川島君に送ってってもらいなさい」
 え……と思う間すらなく、オレの手からコップが持って行かれてしまう。
「なか……?」
「はいこれ夕希ちゃんのバッグ。じゃ、カワシマクン、任せたよっ」
「わかりました」
 何がなんだかまるで理解できない。
 どうして仲田さんは川嶋にオレのことを送っていけなんて言うのか。
 どうして仲田さんは川嶋にオレのかばんを渡すのか。
 どうして……川嶋がそれに頷いているのか、まるでわからない。
 まだ熱を引きずっているようにうまく頭が働かない。
「西森先輩、行きましょう」
 だけど、なんの負の感情もない後輩の声に。
 ちゃんとオレのことを呼んでくれる川嶋の声に、オレはふらふらと従っていった。


「あ、バッグ……自分で持つ、から」
 川嶋がずっとオレの荷物を持っていてくれてたのに気づいたのは校舎を出てからだった。
「別に、今さら平気ですよ」
「何も持たないでいると落ち着かないから」
 まるでバッグを学校に置き忘れてきたか、学校をサボった人のように見える気がして、心もとない。
 何よりこれ以上、川嶋の手を煩わせることなんか無いんだから。
 ほんの少しだけ考えるような素振りを見せた川嶋は、それでもすぐにオレの方にバッグを突き出してきて。それを受け取ろうとして自然とオレと川嶋に向き合う形になった。
「ありが……」
 それはあまりに自然な流れで、一瞬オレは自分で禁じていた行動を取りそうになって、慌ててまた俯いた。
「どうしたんですか?」
 川嶋が聞いてきたけど答えられない。
 これ以上川嶋に嫌な思いをさせたくないんだから。
 川嶋はオレに見られることを嫌がってる。オレが熱を出す前の、洗面所の前ではっきりわかったことだ。 
 看病してもらってた時も、それだけは気をつけてた。それくらいしかできなかったから。
 だからバッグを受け取って、川嶋の顔を見上げそうになったのを慌ててやめたんだ。 
 嫌いなはずなのに……それでもオレのずっと看病をしてくれた川嶋に、煩わしい思いをさせるはもう、嫌なんだ。
「――っ」
 高い位置から聞こえてきた舌打ちに、オレは思いっきり肩を弾ませてしまった。
 気づけばここは川嶋にオレのことをバラした場所で。
 また置いていかれる恐怖が一気に湧きあがってくる。あの時のうずくような痛みが、また胸に蘇ってくる。
「んで……っ」
 吐き捨てるような独り言を川嶋が漏らす。
 それがあの時の川嶋と似ていて……やっちゃいけないのに、オレは川嶋に手を伸ばして……。
 ――また振り払われたら…?
 頭の中に聞こえた声でその手も止まった。
 がんじがらめになってしまう。
 向き合ってるのに、視線も会話も交わせずに、オレは川嶋の動きをただ待つことしか……。
「先輩、買い物に行きましょう」
「……え?」
 ――かい…もの?
「ずっと家にあるものだけを使っていたらほとんど食材が無くなってしまったので」
 いきなりすぎる川嶋の提案。
 すぐに理解できずに固まっていると、川嶋は歩き出していて……置いていかれたくなくてオレは慌ててその背中を追う。 
 川嶋が普通に歩くだけでも、オレが追いつくことなんか無理なのに……、なぜかオレはすぐに追いつくことが出来た。
 その理由は…川嶋がオレでも追いつけるような速さで歩いてくれてたから。
「近くのあのスーパーでいいですよね?」
 けれどそんなことをおくびも出さずに、ごく普通に川嶋が訊いてくる。
 場所はそこでいいけど、少し無理だった。
「一回荷物置かないと……」
 この足でもそこそこの重さまでなら耐えられる。だけど重いものをいくつも持つと、うまくバランスが取れなくて転んで持ってた物をぶちまけたりしちゃうんだ。
 だから、買い物はいつも一度帰ってからと決めている。
「それに、買い物ならオレ一人で行――」
「本当に冷蔵庫に何もないんですけど、その分を全部持ちきれるんですか?」
 痛いところを突かれてぐっと言葉に詰まる。
「それに用事は一度で済ませたほうが楽でしょう?」
 オレの反論を全部潰してしまう川嶋の言葉に、オレは力なく頷くことしかできなかった。
 スーパーに着くまで会話はそれきり途切れてしまう。
 でも、とくに何を話すわけでもないゆっくりとした足取りのその時間は、何かすごく懐かしくて、大事な気がした……。



 さっきからずっと落ち着かない思いを味わってる。
「先輩、包丁出してもらってもいいですか?」
「えっ、あ、はい…」
 理由は隣に立っている川嶋だ。
 川嶋がほとんどの荷物を持ってくれた買い物から帰ってきて、それで着替えてから夕飯を作ろうとキッチンに行って、なぜかそこには川嶋が先に居たんだ。
「れんこんとごぼうはあく抜きするんですよね?」
「う、うん」
 さやいんげんのすじを取るオレの横で、手際よく川嶋は料理の下準備を進めていく。
『オレがやるから……川嶋は待ってて?』
『でも二人でやった方が早いでしょう? 俺、腹が減ってますし』
 お腹がすいているという川嶋の提案をそれ以上断れずに、今のこの状況になってしまった。
 たまに質問をしてくる以外、川嶋はほとんど完璧に料理を進めていって、なんとなく所在の無さを感じてしまう。
「フライパンは……?」
「あ、ここ」
 手だけは動かしながらぼんやりとしてしまっていたらしい。
 川嶋の声に反応してその場所を教えようとかがんで……。
『あ』
 同じようにかがもうとした川嶋にぶつかってしまってオレは軽くしりもちをついてしまった。
「大丈夫ですか!?」
「ぁ、うん…平気」
 すごく焦った感じで川嶋が訊いてきて、それを不思議に思いながらも返事をする。軽いしりもちだったから、そんなに痛くもなかったし。
「すいませんでした」
 言葉とともに、目の前に手が差し出される。
 それに驚いて川嶋のことを見上げれば、川嶋は何かに気づいたように目を彷徨わせて……
――――プルルルルル! プルルルルル!――――
 いきなりな電話の音にびっくりする。けどそれは川嶋もだったみたいだ。
 あっけに取られてるような川嶋をキッチンに残して、オレは電話を取りにリビングに出る。
「もしもし?」
『あっ、西森さんですか? 管理事務室ですけど――――』



「……かしたんですか?」
「え……?」
 顔を上げた瞬間、お箸から筍がテーブルの上に転がり落ちた。
「ぁ……」
 緩慢な動きでそれを拾って、空いたお皿の端に置く。
 ――なんで、オレは川嶋とご飯を食べてるんだろう?
 今さらそんな疑問が心の中に浮かび上がる。でも今になるまで何も考えられずに、ただ流されるままになってしまっていた。
 原因は――――。
「さっきの電話」
 オレの思考を読んだかのような浅見の言葉にびくりとなる。
「なにかあったんですか?」
 尋ねられて、一瞬……ほんの一瞬だけ答えるのを躊躇ってしまった。 これは川嶋にとって、とても重要なことなのに…。
「……………………」
 でも川嶋が、『あの』川嶋が返事を待つように、オレのことをじっと見ていたから。
 だから……。
「鍵、できたって」
「はい?」
「管理人さんからの電話だった。川嶋の部屋の鍵、明日、届くって」
 喉が詰まるようになって、けれどそれを消すように話したせいで端的になってしまった言葉。
 川嶋がどんなリアクションを取ったのかは、すぐに俯いてしまったからわからないけど……たぶん喜んでると、思う。
 やっと、こんな所から開放されるんだから。
「そう、ですか」
 少し間があってから川嶋から言葉が返ってくる。そこにある感情は、わからなかった。
「長い間、お世話になりました」
 その口調のまま、礼儀正しい挨拶をしてくる川嶋。
 突然、胸が痛くなった。体の中を直に絞られたような、ぎゅっとした痛みが走って、オレはますます川嶋から顔を背けてしまう。
 けれど口からは、勝手に言葉が漏れ出していた。
「いきなり戻ったら、辛くないか…?」
 言った自分でもワケがわからない。だから川嶋の方はもっと理解不能だったろう。
 なのに、口は勝手に動き続けていた。
「二週間近く、留守にしてたんだから……ほこりとかすごいだろうし」
「たぶんそうかもしれないですけど、しょうがないですよね」
 そんな言葉が欲しいわけじゃない。
「とりあえずの掃除をして、次の休みに大掃除でもしますから」
 それも、違う。
「だから明――」
「だったら」
 川嶋の声に被せて、オレは言葉を発していた。
「週末まで、ここにいないか……?」
 そこまで言って、対面から息を飲むような気配が伝わってくる。
 ――オレは、何を言ってるんだ……?
 自分が言ってしまったことを反芻して、一気に自己嫌悪に襲われる。
 せっかく川嶋は自分の部屋に帰れるのに、それを引きとめるようなことを言っても、川嶋にとって迷惑でしかないのに…っ。
「休みなら、オレも掃除とか、手伝えるし」
 撤回しようと口を開けば、また意図しないものが口から出て行く。
 どうしようもなくて、もう川嶋を困らせないために口をつぐむしかなくなる。
 だから、それ以上のフォローもできなくて、余計に川嶋の反応が怖かった。
「そうですね」
 有り得ない声音に、びっくりして顔が上がって……そこにあったのは。
「それじゃあ、もう少しだけ、お世話になってもいいですか?」
 すごく優しげな川嶋の顔だった。
 なぜ、どうして、なんて疑問すら浮かんでこなかった。
 ただ、川嶋のこんな顔を見るのは、いつぶりかもすぐにはわからないほど久しぶりで……すごく嬉しくて、本当に嬉しくて…。
「うん」
 自然とほころんだ顔で、オレはそう返していた。

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最終更新:2008年06月14日 22:45
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