~~川嶋編4~~
半分くらい忘れかけていたけれど、俺がここにいる理由は自分の部屋の鍵を失くしたからだ。
鍵を失くし、新しい鍵ができるまで居場所のない俺を、西森先輩は厚意で自分の部屋に来ないかと誘ってくれた。
だから鍵ができた以上はここにいてはいけない、これ以上はただの迷惑になってしまうと思っていた。
「長い間、お世話になりました」
ただそれだけ、他に何も言えなかった。
俺がここにいることで、どれだけこの人にストレスを与えていたのかは……いい加減わかっている。
同じ部屋に住んでいるだけで、倒れるまで追い詰めてしまうほどに、俺は西森先輩のことを傷つけてきた。
やっとそれを自覚できた矢先の鍵の完成に、多少落胆したのも事実だ。
これまで傷つけてきてしまったこの人にちゃんと責任を取りたい、そして近い場所で元のような関係をまた作り直していきたいと思っていた。
けれどもそれは叶わないと知って……「しかたない」と自分に言い聞かせる。
学校も部活もマンションも同じなのだから、と。
それなのに、西森先輩はまた予想もしてなかった言葉を投げかけてきた。
「週末まで、ここにいないか?」
最初に自分の部屋に来ないかと言ってきたように、あまりにも唐突なそれには心底驚かされた。
留守にしていたから埃や掃除が大変だろうと、目の前で俯き加減に西森先輩は言ったが、家自体なかった前に比べればそんなことは大した理由にはならない。
ちゃんと帰る場所があるのに、それでも引き止めるということは、この人自身、ほんの少しでも俺との関係を、また見直したいと思ってくれているのではないか?
思い違いかもしれないその甘えた考えがふっと湧いてくる。あまりに自分にばかり都合良い考えだが、俺はそれを否定することはしたくなかった。
西森先輩が言うことやることを全て悪意的に捉えていた、あの最悪な自分には戻りたくはないんだ。
「それじゃあ、もう少しだけ、お世話になってもいいですか?」
どうしてか目を見開き驚いた顔で俺を見上げてきた西森先輩は……。
「うん」
初めて見る嬉しそうな笑顔でそう答えてくれた。
再会してから、いや、男の頃ですら見たことのない、本当に初めて見る笑顔。
純粋に可愛いと思ってしまうほどの表情。
それをまっすぐに向けられて、なぜか平静な気持ちではいられなくなった。
この時に自覚した自分の中に燻っていた感情の答えを、跳ね上がった鼓動の理由を、俺が理解するのは、意外とすぐのことだった。
「出られますか?」
廊下から声を掛けると、西森先輩はすぐに自分の部屋から出てきて、待たせてごめんと小さく謝ってくる。
そのことに少しだけ思うところがあるものの、あえてそれを飲み込んで普通を装う。
「じゃあ行きましょう」
そうして俺たちは学校に行くべく部屋を出た。
こうやっていっしょに登校するようになってから今日で三回目。
俺がこの部屋に泊めてもらうのはたぶん今日までで、明日には自分の部屋に戻る。
――だからこそ、ちゃんと話さないと。
西森先輩の具合が悪かった時に言ったんだ。早く風邪を治そう、と。西森先輩とちゃんと話がしたいんだ、と。
けれどそれは先輩の具合が良くなってからも、うやむやにしてしまっていたんだ。
タイミングが無かったことと……やっぱりこの期に及んでも、はっきり口に出すことを無意識に拒んでいたのかもしれない。
西森先輩はもう女だと、認めたくなかったのかもしれない。
だけど、そんなのは俺の身勝手で自分本位すぎるわがままだと、もうわかってる。
――ちゃんと今の先輩を見なきゃいけないんだ。そうじゃなきゃどこにも進めない。
ようやくそんな心構えもできて、少しはまともに先輩と接することが出来てると思う。
挨拶とか必要事項だけではない会話も、ここ数日で少しずつ交わせるようになってきたし。
だが、それはかなりぎこちないものだ。理由は……全部俺にある。そういうふうに先輩を追い詰めてしまったのは、誰でもなく俺自身だ。
さっきのようにまったく先輩は悪くはないのにかなり神妙な顔で謝られてしまったり、こうして二人で歩いている時も、先輩は絶対に隣を歩くことはない。
二歩ほど斜め後ろをついてくるようにしか歩いてくれないんだ。
そんな先輩の態度に苛立つことはなくもない。
だがそれらの態度全てが自分が原因だとわかってるから文句も言えない。いや、そんなこと言う権利なんかあるわけないが。
だからこそだ、ちゃんと先輩と話し合いたいのは。
今までの謝罪と……新しい関係でちゃんと付き合っていきたいと、伝えたいんだ。
仮に断られても……自業自得だ、しょうがないとしか言えないんだけどな…。
そうやって今日の夜のことを考えていると、肩に力が入ってきて、それなのに溜息を吐きたくなってくる。
何気なく西森先輩のほうを振り向けば、目が合った瞬間に逸らされてしまい、さらに溜息を吐きたい気分が高まっていくのだった。
高校受験のときにわりと頑張ったおかげか、今のところ授業でわからないところはまったくない。
そういう理由があって授業についてはいつもの通りだったとしか言えない日常だった。
授業についてだけは……な。
HRが長くて嫌だと思ったのは本当に最初だけ、その後すぐに手抜きHRになった我が担任の話が終わり俺は道場に向かう。
今日は特に話が終わるのが早く、廊下を歩いていてもまだHRの最中のクラスがほとんどだった。
「おっ、早いな田辺」
「ああ……川嶋」
偶然、何気なく更衣室より道場の方を先に覗いて、そこにいた同級生に声をかける。
田辺は俺のクラスの二つ隣の教室で、初心者から始めた奴らの中でも一、二の速さで上達してる奴だ。
「やっぱり先輩たちもまだ誰も来てないのか」
入り口のところから中を見回しても、近くに立つ田辺以外はまったく人影はなかった。
田辺はまだ道着に着替えてなかったけど、まだかなり早いこともあるし、とくに何も言わずに俺は着替えようと更衣室に足を――――。
「あのさ……っ」
向けようとして、中からの声に阻まれる。
適当に返すのも憚られるような、どこか思いつめた調子の田辺の言葉と視線に、思わず黙って立ち止まってしまった。
「聞きたいことがあるんだ」
俺の凝視をどう思ったのか、今度は真剣な声での田辺。
その態度にただならぬ気配を感じつつも、俺はそれを止めることはしなかった。
「ここで話しても平気なことか?」
確認はしたけどな。
「ああ、今のところ誰も来そうにないし、すぐに済ませるから」
答えて、田辺は一度息をつき。
「西森さんって付き合ってる奴がいるのか?」
完全に予想の外の質問を俺に投げつけてきた。
「――――――――――」
その瞬間、本気で、何も考えられなかった。
そしてそのままたった今の田辺の質問を鸚鵡返ししてしまう。
「西森、先輩と付き合ってる……奴?」
頷く田辺。
――なんだそれは……?
まだうまく頭が回らない。それでも無理やり動かして考える。
西森先輩と……って田辺は今の先輩しか知らないから、こいつが考えてるその付き合ってる相手というのは当然、男だ。
つまり『そいつ』は西森先輩の彼氏ってわけで…………いるのか、そんな奴?
俺は家の鍵を無くしてからおよそ二週間、ずっと西森先輩のところでお世話になっていたがそんな気配は欠片も感じられなかった。
仮にそんなのがいたとしても、先輩が違う男(俺のことだが)を連れ込んだり、もっと言えば先輩が倒れたときにも何も反応がないのは不自然すぎる。
となれば、やっぱり田辺の勘違いなんじゃないか?
「なんで、そんな……」
「いや、悪い。言い方が悪かった」
そんなことを言い出したんだ、と続くはずの俺の言葉を切り、田辺は新たな爆弾を落としてくれた。
「一つだけ、これだけ正直に教えてほしいんだ。川嶋と西森さんは付き合ってんのか?」
今度こそ、思考は完全に停止した。
「あ……え……?」
「この間――三日くらい前にさ、帰り道にスーパー寄ったんだ。飲み物とか、買おうと思って」
目を伏せて、田辺が続ける。
「そん時に見たんだよ。おまえと、西森さんがいっしょに買い物してるの。菓子とか飲み物じゃなくてさ、普通に、飯の買い物してた」
途切れがちになりながら、それでも言葉は消えない。
「だからさ、二人は『そう』なんじゃないか、って、思い始めて……。でもわかんなくてさ。……けど今日、さ、二人で、マンションから出てきたよな?」
後で知ったが、田辺の通学路の途中にうちのマンションがあるらしい。
けれどこの時はなぜ知ってるんだ、という疑問よりも、田辺の震える声が気になってしょうがなかった。
「声、かけようかと思ったんだけど…、できなかった。あんまりわかりたくなかったんだけどさ、あの人の目が俺に向くことはないって、急に、わかったんだよ……」
涙声になる田辺になんと言えばいいのかわからない。
「だからさ、ちゃんと、当事者から聞きたかったんだ」
自分の感情の終着点をちゃんと作りたかったんだ、と。
「なんで、俺に聞くんだ…?」
「たぶん俺、西森さんに覚えられてもいないから」
そんな奴にこんなことを言われても、あの人の迷惑にしかならないだろ、と田辺はまっすぐに答える。
だからこそ、俺から引導を渡してほしいと。
「俺は…………」
正しい答えは……ある。
『そんなことはない。全部おまえの勘違いだ。俺と先輩は付き合ってなんかいない』
それが答えのはず……なのに、口から出た言葉は、まったく違うものだった。
「……西森先輩の家に、何度も泊まってる」
「――――――っっ」
田辺が息を飲んだのが、たぶん見てなくてもわかった。
そのままこいつは下を向いて、ほんの少しだけ震えた後に、顔を上げた。
無理やりとわかる笑顔で。
「そうか。やっぱりそうだよな!」
「…………わるい」
「あやまんなよっ、俺が余計にかっこわるくなるだろっ?」
そこまで言って、不意に声が途切れる。
「……ごめ、やっぱ……俺帰るわ」
「ああ」
何も、言えなかった。
道場を出て、俺から数歩離れたところまで来たところで、不意に田辺は立ち止まる。
「一つだけ…かっこつけさしてもらっていいかな」
震えている声。
「……ああ」
そんなことしか返せない自分が嫌になる。
「好きだった、人と……部活の仲間の秘密ぐらいは、俺、ちゃんと守るから」
あちらを向いてる田辺の顔は見えない。けれど震えている肩が、湿っている声が、どんなに田辺が辛いのかを教えてくれた。
そしてそれ以上お互いに何も言うことなく、田辺が走りさっていくのを俺はぼんやりと見ているしかできなかった。 どれほどそうしていたのか、けれどそんなに時間は経っていなかったんだろう。
「カワシマクン」
突然真後ろに現れた気配に比喩なんかじゃなく思いっきり肩が跳ねた。
慌てて後ろを振り向けばそこにいたのは仲田先輩。
「あの、仲田先輩? いきなり驚かさないでくださ……」
「さっきに謝っておくね。ごめんなさい」
「は?」
仲田先輩のあまりに唐突な謝罪に当然俺は面食らう。
「どうかしたんですか?」
「……あのね、さっきの話、聞いてたんだ」
ほんの一瞬だけ、え? と思い、その次にざっと血の気が引いていく。
あそこ、と仲田先輩が洗い場の横の……ここからは死角になっている場所を指差す。
「麦茶の準備しようとしててね。タンクの蓋落として、しかも隙間に入っちゃって、それ取ろうとしてるときに聞こえちゃったんだ……」
立ち聞きをしてしまってごめん、と正直に仲田先輩は謝ってくれる。二年も年下の俺に頭まで下げて。
だが、その謝罪はまともに俺の耳に届いていなかった。
「……最初から、ですか?」
訊けばためらいがちに頷かれてしまい、くらりと眩暈まで感じてしまう。
「二つ三つ訊きたいんだけどさ。川島君って…いつから夕希ちゃんと付き合ってるの?」
いきなり一番触れられたくない話題を振られて、ぎくりと体が強張る。
質問されてるのに答えられないのは、おそらく仲田先輩にはすでに答えを見透かされてる気がするからだ。
「付き合ってなんか……ない。あるわけないよね? だってついこないだまでカワシマクンは夕希ちゃんのことすっごい嫌ってたから」
「……すいません、でした」
「私じゃなくて本人には謝ったの?」
そのうえで一番痛いところをえぐられてぐうの音も出ない。
俯くことしかできない俺に仲田先輩は一つ溜息を吐いて、さらに追究の手を伸ばしてくる。
「田辺君には悪いけどね、正直に言って夕希ちゃんがあの子を見る確率は低そうだなーって思ってたんだ」
あんなにわかりやすかったのに夕希ちゃん本気でわかってなかったし、と仲田先輩。
「それでもさ、どうして田辺君の誤解を深めるような言い方したの?」
「それは……」
言葉は、出なかった。
正しい答えがあるのに、わざと誤解させる言い方をしたというは自覚があるのに……なぜかと問うても、それはわからない。
「あの言い方だとね『俺と夕希ちゃんは付き合ってます、Hも済ませてますー』って聞こえたんだけど?」
「そんなわけありませんっ!!」
あんまりなことを言ってくれる仲田先輩に思わず大きな声が出てしまう。
――俺と西森先輩が……?
そんなことはあるはずがない!
「ふ~~~~ん?」
「…なんですか?」
「ん~ん、別に。まあ少しは先輩っぽいことでも言っとこうと思ってねっ」
仲田先輩は移動して道場に入る。そしてそこから腰に片手を当てこう言ってきた。
「夕希ちゃんが女の子になって一年ちょっと経ったけどさ、あんなに可愛いくて働き者なのに今まで告白されたことないのは奇跡だと思わない?」
「はあ……」
曖昧に頷く俺に、仲田先輩はこれまた微妙な笑みを向けてくる。
「それがなんでかって元男がネックになってるかもなんだよね~。でもさ、夕希ちゃんの元々を今の一年生は知らないわけじゃない? だからさっ、今後田辺君二号、三号がいーっぱい生まれてくると思うんだっ」
なんとなく、腹の辺りがもやもやとして来る。その不快感の名前を探してるうちに仲田先輩はさらに意図の見えない話を続ける
「夕希ちゃんも女の子だし、そん中の一人にほだされちゃうかもしれないよねー?」
「それが、なんですか…?」
さらに膨らんでいく不快感を隠すことも出来ていない尖った声で訊いてしまったのに、仲田先輩は不思議な笑みを浮かべるばかりだった。
「自分がどうしたいのか、何を考えてるのか。そんなのがわかるのは自分だけなんだからっ。それぐらいちゃんと把握してなきゃダメだよっ?」
人差し指を突きつけられて自信満々に言い切られてしまった。
が、この時俺は仲田先輩が何を意図しているのか、結局最後まで少しも理解できずに、「努力します」と実のない返事をするのが精一杯だった。
ただ一つの違いを抜かせば今日も今日とて何一つ変わることのない日常だったと言っていいのかもしれない。どうしても短く感じる部活を終え、すでに習慣となっている西森先輩との夕食の買い物を済ませ家に辿りつく。
昨日までと一つも変わることのないそれら。
しかしたった一つの違い――部活前のあのやりとりがどうにも心に引っかかったままで気持ちが悪い。
「川嶋……?」
そのせいだろう、自分では気づかないうちに上の空になっていたのは。
「なんですか?」
夕飯の食卓、向かいに座る先輩の声に若干遅れてしまった返事をする。けれど先輩は俺が目を合わすや否や「なんでもない」とまた俯き加減になってしまう。
ならなんで呼んだんだ、とほんの少しだけ苛立つ。
だがそれ以上にあるのは歯痒さだ。
「――――――」
机の向かいにある小さな頭を眺めながら、気づかれないように溜息を吐く。
こんなふうに先輩が萎縮しているのは俺のせいで、それをどうにかしたいのに、今も話を切り出すタイミングが掴めずにいる自分が情けない。
ムシのいい話だが俺は……先輩に拒絶されたくないんだ。
何を今さらと、もうどうでもいいことだと言われたくない。
いや、それ以上に先輩がまた自分で自分を貶めるようなことを口にしてほしくない。
あんな……からっぽの表情をさせてしまうのは二度とごめんだった。
どう言えばそんな誤解を生むことなく伝えることができるだろうかと考えて、そして結局何も言えないまま今日まで来てしまったんだ、が!
――そんなこと言っていられる余裕はない。
先輩の厚意に甘えてられるのも今日まで、明日には俺は自分の部屋に戻る。そうなれば、悩んでいる今以上にタイミングなど巡ってこないのはわかっている。
だからこそ今日、西森先輩に謝らなければならないんだ。
こんなぎくしゃくとした関係はもう嫌だから。
最終更新:2008年06月14日 22:47