~~川嶋編4.5~~
『話したいことがある』
そう言った俺に引き攣った声で西森先輩が頷いてから、もう四十分は経つ。
あの後すぐに風呂が焚けたアナウンスが流れてきたから、西森先輩が風呂に入り始めてからも同じだけの時間が経っているわけだが……。
――遅くないか?
脱衣所も兼ねている洗面所から西森先輩が出てくるのをリビングで待ち続けて……だがそろそろその入浴時間に疑問を持ち始めてる。
今まではどうだったかと思い返してみて、ある事実に気づいてしまった。
なんてことだと知らず頭に手をやる。
先輩が風呂に入ってゆくのを俺が見たのは今日が初めてだ。ここに居させてもらってからずっと先輩が先を譲っていてくれたからだ。
だが、俺は今まで一度もそれを疑問に思っていなかった。
あんな最低な態度だったのにも関わらず、先輩は俺のことを考えていてくれて――俺はそれに無意識に甘え続けていたんだ。
今まで気づこうともしていなかった事実に気づいて、一瞬目の前が暗くなる。こんなにも幼稚な自分が恥ずかしくてたまらない。
だがそんな自己嫌悪の時間はそう長くは続かなかった。
不意に洗面所の方から慌しい空気が流れてきて、何事かと腰を浮かしかけた瞬間、リビングとの境の扉が勢いよく開かれる。
まだ濡れた髪、ところどころ湿っているパジャマは体に張り付いて、先輩のほっそりとした体が余計に強調されている。
さらにはとても慌てているような表情に――感情のある表情に見惚れてしまいそうになってなんとなく先輩の足元に目を逸らし、俺は息を飲む。
あの時、ただ一度だけ見たことのある肌色に、俺は表情を引き締める。
今までの徹底ぶりを考えれば、これは明らかに先輩の油断である。だけどそれは俺を待たすまいという行動の結果だ。
その気持ちに報いるために、俺はちゃんと言わなければならないのだ。
今までの謝罪と、自分がどうすればいいのか、どうしたいのかの答えを。
~~西森編5~~
まるでたった今目が覚めたかのように、ふと気づいたらオレは風呂上りでぼんやりと体を拭いていた。
川嶋の話の内容――投げかけられるだろう言葉を想像して、ずっとそんな無駄なことを考えていたせいで、風呂の間のことは満足に覚えてない。だけど……。
――川嶋の話って……。
また答えが見つかるはずのない疑問を考えそうになって、頭を振ってそれを追い出す。
怒りや嫌悪の類の言葉なら……いくらでも向けられる心当たりはあった。
だけど、たぶんそれは違う。
あんな突き刺さるほどに真剣で……なのに少しも怖さを感じなかった声音から、そんな言葉が続くとは思えないし、川嶋はそんなことは、しないから。
川嶋は、突き放す時は間接的なことはしないはずだから。
「――――――――っ」
思い出しそうになったことを振り払おうと、知らないうちに下を向いてしまってた頭をゆるく振る。
まだ濡れてる髪から水滴が飛び散っていくのを目で追って。
「え…………!?」
壁に嵌め込まれてる時計を見て、呆気に取られてしまう。
有り得ないほどに、時間が進んでしまっていた。
風呂に入る前にちらっと見てから、もうすでに何十分も経ってしまっている。
――つまりそれと同じ分だけ、オレは川嶋のことを待たせて……!
ざっと熱が引いていく。
もう一分一秒も惜しくて、体を拭くのもそこそこにパジャマを着込んで、オレは洗面所の扉を勢いよく開ける。
そして風呂に入る前に川嶋が居たリビングの方を見やって――さっきと同じ場所に居る川嶋を認めた瞬間、一気に自己嫌悪の気持ちが噴きあがってきた。
「ま、待たせて、ごめん」
つい口から出た薄っぺらな『ごめん』が自分でも厭わしかった。
けど実際に待ってくれていた川嶋にはもっと気持ち悪いものに聞こえたんだろう。
その証拠に、頑張って見た川嶋の顔は、どこまでも険しいものだったから……。
ほんの少しだけ離れた距離でどれくらいそうしていたんだろう、でもその硬直した時間は川嶋が動き出したことで終わる。
立ち上がった川嶋が、こっちに近づいてくる。
その間もオレはずっと射竦められたように川嶋から目を離せずにいた。
オレの目の前まで来た川嶋は、仕種だけで椅子に座るように伝えてくる。何も考えられないまま、オレは諾々といつもの位置に腰掛けて……。
「川嶋?」
話をするのだから、当然川嶋はオレの正面に座るものだと思っていた。なのに川嶋は指示を出した場所から動かずに、こちらをまっすぐに捉えてくる。
「どうし、たの……?」
また、返事はない。
逃げ場がないまま、不安ばかりが膨らんでいく。
それに負けて、今まで頑張って逸らすまいとしていた視線を外した瞬間、川嶋が切り込んできた。
「前に俺がちゃんと話がしたいって言ったのを覚えてますか?」
「……うん」
川嶋の声にゆっくりと視線を戻す。それが出来たのは声の中に負の物が含まれていない気がしたから。
「オレが、風邪引いてた……とき?」
恐る恐る聞き返せば、川嶋は頷いてくれた。
「話っていうのは……あのときから、ずっと言いたかったことなんですけど、聞いてもらえますか?」
確認するかのように少しずつ区切られた声に頷けば、川嶋は綺麗な動作で正座をした。
オレが座っている椅子の横、つまりは床に。
「今から俺が言うことは、誤魔化しとか嘘とか、そんなのじゃなくてちゃんとした――――俺の本心です」
川嶋の突然の正座に、疑問や居心地の悪さを感じるより先に、耳に届いた低い位置からの声。
言葉を選んでいるようにゆっくりだったけど、オレに向けられるその目は、ほんの少しも揺らいではいなかった。
「今まで、本当にすいませんでした」
突然の土下座。
「………………え…!?」
何拍もおいてから、ようやく川嶋の行動を理解してうろたえてしまう。
「なっ、なん……」
なんで川嶋がそんなことをするんだ、ということすら驚きすぎてまともに口から出てこない。
「こんなことだけで許してもらおうなんて思ってません。だけど、やっぱりこんなことでしか俺はまともに先輩に謝れないんです」
「……っと、待って!」
詰まっていた喉からようやく声を出せた。
「なんで、川嶋が謝るんだ?」
謝るべきなのは……オレの方なのに。
悪いのは全部オレのはずなのに。
「……それは、本気で言ってるんですか?」
川嶋の声の質が変わったことにぎくりと身体が強張る。
「俺に謝られる理由なんてないってことですか」
立ち上がった川嶋に見下ろされて、喉が凍りつく。
だけど言葉を否定したと思われたくなくて、首だけを縦に動かす。
川嶋が謝ることなんかないってことは、ちゃんと伝えなきゃいけないと思ったから。
「くそ……っ」
なのに、ひどく苛立った川嶋の声が落ちてきて……。
何が川嶋をこんなに苛立たせてしまうのかがわからなくて、ますますオレは何も言えなくなってしまった。
ほんの一瞬の間。
けどすぐに怒気を含んだ溜息が聞こえてきて身体が竦む。
「……理由なら、あるでしょう?」
だけど次に耳に届いたのは、とても静かな川嶋の声だった。
「りゆう、って?」
「俺が西森先輩に謝らなきゃならない理由です」
一句ごとに区切って、まるで言い聞かせるようにゆったりとした言葉。
それでも、やっぱりそんなものがあるわけがない。
「悪いことをしたのは……オレ、だろ?」
するりと、ごく自然にその疑問が口から出てしまった。
それはずっと自分に言い聞かせてきた事実で……、確認するまでもなく川嶋もわかりきってるはずのことだった。
「先輩が、何をしたんですか……?」
――…………っ!
わかってるはずなのに…問いを重ねられて、今になってようやく、川嶋が本気で怒ってることに気づいた。
『自分のしたことがわかってるのか。わかっているのなら、ちゃんと認めて、そして謝れ』
言外の意味に、そしてある事実に気づいて血の気が引く。
――オレは川嶋に、ちゃんと謝ったことなんか、一度もない……?
そうだ……、最初のあの時でさえ、オレは目すら合わさずにいたんだから……。
「ご、ごめんなさっ……」
「は?」
胸の奥のほうが引き攣れてうまく喋れない。
それでもせめてもの気持ちで川嶋の顔を見て、謝る。
「オ、オレ……女になって、約束守れなくて。川嶋の気持ち、台無しにしちゃって……!」
喉がつかえて、それ以上言葉が出てこない。もっとちゃんと謝らなきゃいけないのに、そんなこともできない。
だからこそ、今度こそは川嶋から目を外すことはしなかった。
「先輩……」
でもそれすらも川嶋には迷惑だったのかもしれない。
呆れたような目を向けられて、きりきりとどこかが痛む。
「先輩は…………わざと女になったんですか?」
「…………ぇ?」
――な、に…?
「西森先輩は、自分から望んで女になったんですか?」
「――――っ、そんなはずないだろっ!!」
言われたくなかった。
絶対に、そうとだけは思われたくなかった。
「どうしてっ、なんでそんなこと……っ!」
――そんなことを聞けるんだ……!
あまりのことに涙まで滲んできて、視界がぼやける。
どれだけあの約束が大事だったか。あの川嶋の言葉がどれだけ嬉しかったのか。
それだけは否定しないでほしかったのに。
「すいませんでした」
――……え?
ぼやけた景色の中、高い位置に会った川嶋の顔がすっと下がる。
「西森先輩が、望んで女になったはずがないなんて……もうわかってます」
「じゃ、あ……なんでそんな、ことっ」
「先輩が謝る必要がないことを、ちゃんとわかってほしかったからです」
膝立ちになった川嶋から届くまっすぐな声。
最終更新:2008年06月14日 22:49