―――……くそったれがっ!!!
自分の奥歯を噛み砕く勢いで歯を食いしばり、必死に鎮めようとしても、マグマみたいに煮えたぎった怒りが後から後から湧いてくる。
少しでも手元が狂えば死んじまうようなスピードの中で俺は、頭ン中で何度も罵声を反芻しては……余計にイラついて。
……結局ハンドルのグリップを開くことでしか自分を諫めることが出来ない。
溶け出していく町並みとトロ臭い乗用車を追い越して、俺は指定された目的地へと急いだ。
その発端は、るいを学校の最寄り駅前に降ろした後まで遡る―――。
漸く、オヤジの形見である最後のバイクを元ある場所に収められた。
多分、もう……コイツに跨ることはねぇんだろうな。
そう考えると感慨深いものがあって思わず、その真黒いボディに向かって手を合わせる俺が居た。
『なぁ、陸。てめぇにゃまだ早い。
大人になったら、てめぇにコイツはくれてやるから。それまで、ちぃと待てや。なっ?
いつか、てめぇが守りたい女が出来たら。その女のためにコイツを走らせてやれ』
……いつか、親父の手が初めて優しく触れた日を思い出した。
―――悪ぃ、親父。約束破っちまって。
……死んじまった親父曰く、"お袋以上のジャジャ馬"だという扱いの難しいバイク。
かつて、日に何度となく喧嘩をふっかけていた初紀に"体力バカ"という栄誉ある(かどうかはさておき)評価を与った俺でも、バイクスーツん中はサウナ真っ青の汗を掻いているほどだ。
こんなジャジャ馬を、女になってからも手足のように乗りこなせるとは思えねぇ。
だからこそ、なんつーか……その、おセンチな気分になっちまうわけで。
でも、好きな女(っつーと多少の語弊があるかもしんねぇが)の為に、ジャジャ馬バイクを駆り出せた……もう、未練は無いはずだろ。
そう、言い聞かせる。
……さぁて、っと。
今日は学校休んじまってるし仕事もねぇんだよな。
ま、せっかくだから久々にのんびりさせてもらうか。
ブーッ ブーッ
薄暗いガレージを後にしようとしたその瞬間に携帯のバイブ音。
この短い間隔のバイブは……メールか?
汗ばんだズボンのポケットから湿った携帯を取り出す。
サブディスプレイに表記された名前は―――坂城 るい。
……女になった奴の感性ってのはよく分からん。
ダチとは言え、振った直後にメールなんか寄越すなっての。……期待しちまうから。
俺も、あと数日したら分かるのか? 初紀や……るいの気持ちが。
不意にアタマを"あの夢"がよぎる。……女になっちまった俺が、るいと初紀にカラダをいいように弄くり回され、みっともない声をアンアンと上げて……いいように身体を弄ばれちまって……耳元でるいが甘い声で囁く…………って、アホか俺はっ!?
頭を左右に振って現実に引き戻す。
……それにしても、なんだっつーんだ?
今さっき別れたばっかじゃねぇか。
さっき用事があったんなら口で伝えりゃいい話なのに。
―――何かあったのか?
……妙な不安感に襲われながら恐る恐る携帯を開く。
"件名:おめでと"
なんだか気の抜けるような冒頭部分。
―――俺……なんかるいに祝われるようなようなことあったっけか?
まぁ、確かに誕生日まですぐだけど……今祝うようなことじゃねぇしなぁ。
そんなことを考えながらメールを開く。
……だが、そんな呑気な考えは一瞬にして吹き飛ぶ。
―――なんだ……これ……!?
その全てを読み終えた俺は、再びバイクに跨っていた。
低く唸りをあげるオヤジの形見。
――――畜生! なにがどうなってやがるッ!!?
"本文:ひーちゃん、キミの考えたコトが何となく見えたからメールしました。"
―――なんでだ……なんでこんなことになってンだッ!!?
薄暗いガレージから、ジャジャ馬と共に日が傾き始めた外へ飛び出す。
"本文:群青の蝸牛。ハルさんが書いた本をキミが持っているってコトはキミも知ってるんだよね?
私が通知受取人を辞めるためには、身代わりが必要だって。"
……全身から血の気が引いていくのがわかる。さっきまで心地よかったハズの汗が急にまとわりついてきて、それがバイクの生み出す加速度によって冷やされて……余計に寒気がした。
"本文:ひーちゃんは、女の子になることを見越していたんだよね。そして私の身代わりになるつもりだった。"
―――あぁ、そうだよっ、悪ぃのかよっ!? ……てめぇが好きな女の為に、精一杯の努力をしちゃいけねぇってのかよっ!!?
―――なのに……!!
"本文:でもね、心配ないよ。"
"本文:もうすぐ私はキミのものになる。"
"本文:だって、もう見つかったから。私の『身代わり』。"
―――なんで……っ!!?
"本文:君もよく知ってる人だよ。"
―――どうしてなんだよッ!!!
"本文:彼女に私の跡を継いでもらうことになりました。そう―――"
―――なんで……アイツの名前が出てくるんだよッ!!?
"本文:―――御堂 初紀ちゃんに。"
―――ふざけンなッ!!!!
"本文:もしも、私が言ってることが的外れなら……このメールに下に添付されている地図の、504号室まて来てください。
坂城 るい"
……そして、今。
俺は、るいが―――恐らくは初紀も居るであろう―――指定した場所へとジャジャ馬を走らせている。
くそっ、もっとスピード出ないのかよこのポンコツはよッ!!?
そう思い、曲がり角でグリップを捻ろうとした―――
―――……その、刹那。
シュコン、と何かが間抜けな音を立てた。
足元に、あるはずの感覚が無い。
その違和感を自覚した頃には、見慣れた筈の車道の景色も、違う姿を見せていた。
……なんでだ?
なんで、俺―――傾いてるんだ……っ?!
傾くというよりは、ほぼ真横に景色が反転していた。
軽すぎる足元を見やる。
―――ギヤ抜け……っ!!?
色彩が消えていく。
音が消えていく。
血の気が……引いていく。
次に映り込んだ景色……灰色ばっかりだった。
なんだよ、こ―――?
事態を把握できない。
と言うよりは、その瞬間には――――身体を、何か大きなものが突き抜けたような感覚だけ俺を支配していた。
……数間遅れて、まるでアクション映画かパニック映画でしか聞いたことのないような、耳をつんざく音がする。
「――ぁ―ああ―っ!?」
「―――っ! ――を―――っ!!」
「お―――ア―――よっ?!」
「―――さいっ! ―ま―ゅ―――たっ!!!」
物凄く、遠い位置で何かが騒いでいる音が、細切れに聴こえてくる。
何が……起きたんだ……?
辺りを見回そうとしても全身はおろか眼球の一つも動かない。
その、閉じているか開いているかもわからない視界は、常に真っ暗で……その細切れな喧騒も、次第に遠退いていった。
……残ったのは、身体中に鉛を括り着けられて、東京湾にでも沈められたみてぇな、奇妙な倦怠感だけで……。
―――なん、か……すげぇ……眠たい……。
―――睡眠薬を飲まされたら、こんな感じなのかもな……。
―――……ダメだ、何も考えらんねぇ。
―――………っ。
そこで、俺の意識は途切れた。
~青色通知10.2(陸の場合)続~
『とっとと起きやがれッ!! バカジャリがッ!!!』
――――っ!?
途切れた筈の意識に、強烈な叫び声。
その凄まじい勢いに負けて、俺は一度は閉じかけた瞼を強引にこじ開けようとする。本能で、必死に。
そうしなきゃ、きっと頭に拳骨を食らうハメになるから。
って………えっ?
「―――しっかりしろっ!!」
……気がつくと、さっきとは違う声が俺を怒鳴りつけていた。
ゆっくりと、けれど確実にこじ開けられていく両目から色と光だけが差し込んでくる。
「っ、おいっ、大丈夫かいっ!!?」
……事態を把握できないまんまで、ボヤけていた視界だけが段々とはっきりしていく。
そこには見覚えのない、若いサラリーマン風の男が居た。その背景には雲一つない夕焼け空が広がっている。
この人が……俺を呼び続けてたのか?
いや………違う。
さっき聞こえてたのはこんな品の良い声じゃなくて―――
「―――キミ、僕が言ってることが分かるかっ!!?」
って……あれ……俺、なんでこんな所でぶっ倒れてンだ……?
……とにかく耳鳴りのノイズ混じりに聞こえてくる、若いサラリーマンの"言ってること"は理解出来る。
"大丈夫だ"と返答しようとするが、何故か声が出ない。
「―――っ、はぁっ、はっ、っはぁ…っ!」
その理由は、カラダが俺の意志とは無関係に懸命に息をしてる筈なのに、まるで肺の直前で酸素がUターンしてるみてぇで……苦しくて仕方がないから。
「落ち着いてっ。
まず、ゆっくり息を吐き出すんだ」
「っく……ふぅぅ……」
「……よし、深く吸って」
「……すぅぅ」
「うん、いいよ、もう一回吐いて」
「……ふぅう」
その、若いサラリーマン風の男の指示することを愚直に繰り返している内に、漸く呼吸が落ち着きを取り戻す。
さっきまで、死にそうになるほど苦しかったのが嘘みたいだ。
―――ん……?
落ち着いてくると、アタマが妙に生温かいことに気付く。
……なンだ、これ?
「っ、まだ動いちゃダメだっ!」
若い男の親切心をよそに、俺は鉛のように重たくなった右手でそれに触れてみる。
それは、湿り気と粘り気を帯びていて、とても心地よいものじゃない。
掠れた目で、右手にこびりついたそれを見やる。……同時に、すぐ目を逸らした。
……見なきゃ良かったと後悔した。
「まったく……。
よし、呼吸も脈も大分落ち着いてきたみたいだ。大丈夫かい?」
そんな俺のテンションの下がり具合を知らずに、若い男は安堵と呆れの溜め息混じりに再度問いかけてくる。
ホントなら……ここは俺が素直に頷く場面なんだろうが……見ず知らずの人間が俺に馴れ馴れしい態度をとるのが気に入らなくて、俺はつい目線を逸らしながら―――
「……大、丈夫なら、頭から、血ぃなんか、流してねぇっスよ」
―――と皮肉を漏らしてしまっていた。
だが、どうやら若い男は俺の気質を分かってきたのか、気にする様子もなく笑ってみせる。
「ははっ、そんな冗句が言えるのなら大丈夫だろう。
聴診器と触診だけだたから断言は出来ないけど、骨も折れてないようだし……臓器に異常もなさそうだ」
……今、触診がどうのって言ってたけど、この人は……医者か?
「―――立てるかい?」
首肯で応え、俺は自らの足で立ち上がる。
辺りを見回してみると、こちらを気にしながらも、スタスタと行き交う通行人達。
なんか……世間の冷たさを思い知った気がする。
―――気を取り直して。今度は俺が転げた車道を見てみる。
そこには仕切り線とは別に、車道のド真ん中に、黒い一本線が伸びていた。
その延長線を辿ると、いつしか車道を外れ……私道の為に用意された鉄の柵にぶっかって、煙を上げるジャジャ馬の変わり果てた姿があった。
「……マジかよ」
途中で運良く途中で脱出が出来たから良かったものの、下手したら……そのスクラップの中に、俺も混ざって―――くたばってたかもしれねぇ。
そう思うと、血の気が引いた気がした。
「……あのバイクは君が改造したのかい?」
不意に若い男が小さく呟く。
―――親父は……あのバイクをレース用に仕上げる前に逝っちまったから、改造もクソもない。つまり仕様は―――どノーマルのまんまな筈だ。
「……いや。違う……ッス。
親父から譲ってもらったモンで、俺は……なんも手入れしてないんで」
まぁ、正確には"譲って"もらったモンじゃねぇんだけど……そんなコトで他人に変な気を遣われたくなかったから、明言は避けた。
「だとしたら、君のお父さんか」
俺の回答の何に納得したのかは知らないが、男は一人で頷いている。
……いつの間にか、俺は怪訝そうな顔していたらしい。男は再び笑顔でその場を繕うように口を開いた。
「ん? あぁ、すまない。
あのバイク、数年前にメーカー側が発売を中止したモデルだよね? ……確か」
「……詳しいッスね」
なんでもレーサー用に作られたタイプで扱いが難しく、爆発的な加速度はあるものの……燃費もコストも悪い為に一般客にはウケが悪かったとかで、生産中止になったらしい。他にも諸々事情があったらしいが……そこまでは俺も知らねぇし。
バイク通だったら常識的な話だろうが……俺を助けた若い男からは、そんなバイク乗りの雰囲気は感じられなかったから、余計に意外に感じる。
「ははっ、バイク雑誌にたまたま特集されてたからね」
ジャジャ馬の残骸の一部を指差しながら、若い男は言う。
「……見てごらん。アレだよ」
その指先の向こう側には、真っ黒なボディのサイドに不似合いな昼白色の布が転がっている。
さっきは、気付かなかったが。
「―――エアバッグ?」
「多分、外付けのタイプだろう。キミのお父さんが取り付けたあのエアバッグのお陰で、キミは助かったんだ」
「………」
……ふと、頭によぎることがあった。
もしかしたら、あの真っ暗な場所で聞こえた怒鳴り声……親父、だったのか?
……なんだよ、それ。
"レーサーには不要なもんだ"つって、エアバッグとか、そーゆーの取り付けるのを嫌がってたくせに。
なんだそりゃ?
俺に譲るモンだけに、そんなの付けやがって、畜生……っ!
ンなの俺のに付けるぐらいなら、てめぇのにも付けとけよ……ッ!!
そうすりゃ、アンタだって……死なずに済んだろうがっ!!!
「……ちく、しょうっ」
俺が吐き捨てるように呟いた言葉の意味を理解している筈がないのに、男は何故か気休めも慰めの言葉もかけないでいてくれた。
単に、掛ける言葉が見つからなかったのかもしれねぇけど、それが……ありがたかったのは確かだ。
でも―――。
「さ。油断は禁物だ。
一応救急車と警察を呼んでおいた。兎に角、今はゆっくり休みなさい―――」
……感傷に浸ってる場合じゃなかったことを若い男の言葉で思い出す。
このままじゃ、無免許でケーサツにしょっぴかれちまうじゃねぇか!?
捕まるのが怖いとか、そんなんじゃない。
今、行かなきゃ……アイツは―――初紀は……っ!!
「っ、冗談じゃねぇっ!!」
「き、キミ……!?」
……その行く手を、若い男の両手が阻む。
「放せっ!! ケーサツでも病院でも後で行ってやるッ!!!」
「そうはいかないっ。キミがしたことと、するべきことに責任を持つんだっ!」
「だったら、尚更放してくれっ!!!
俺の傷は大したことねぇんだろッ!!?」
血まみれになりながら若い男を睨みつける俺は――端から見れば単なる危ない奴にしか見えねぇだろう。
でも、若い男は……物怖じしないで俺の目を見つめ返す。
そいつの目は透き通っているみたいに何の曇りも見えなかった。
「………キミが何を焦っているかは知らない。知るつもりもないよ。でも、それはキミが解決しないのかい?」
「……当たり前だ……俺の、俺のせいなんだから……っ」
……情けねぇ。
……何で俺、泣いてんだ。
今はベソ掻いてる場合じゃねぇだろうが!!
このお節介野郎の羽交い締めを振り解いて、アイツらンとこに行って、それで―――!!
「―――………。
なら、勝手にしなさい」
「だからっ!!! 俺は行くっつって………え?」
勢いに任せて反論しようとした、その瞬間―――俺は耳を疑った。
今、この人……なんて言った?
そう思った時にはには、俺の両肩を拘束していた腕がが解かれていた。
「行きなさい。僕の気が変わらない内にね」
「……どうしてッスか?」
「………」
「アンタは……アンタの信じる"正しいこと"をしようしてるだけだ」
「………」
「なのに、何で俺を行かせてくれるんスか?」
「さぁ。なんでだろうね」
男は、俺の詰問に困ったような、爽やかな笑みを浮かべる。
でも……すぐにその笑みは消えた。
「ただ、キミが言う用事が終わったら必ず病院に行くこと。約束出来るかい?」
凄く真剣で真っ直ぐな眼差しが、俺を見つめてくる。
こんな目をする奴は……初紀や、るいだけじゃねぇんだな。
大人にも、こんな目を出来る奴が。
俺は、その問いかけに首肯で応える。それが、礼儀だと思ったから。
「……よし、じゃあ男と男の約束だ。
その大事な用事を済ませたら、僕のところまで来るといい」
頷いて、男は俺の血で汚れたスーツの内ポケットから何かを取り出した。
「―――僕は、こういう者だ」
なるほど、名刺か。
見るまでもない。この人はどこぞの病院の医者だろう。
今は文字が読めるほど視界がハッキリしていないのも手伝って、俺はそのままポケットにその名刺を突っ込む。
誤解の無いように言っておくが、彼の好意を蔑ろにするつもりは無いのは確かだ。
「……約束します、必ず行きます」
「キミの名前は?」
「―――陸です。前田 陸」
「そうか。気を付けて行くんだよ。陸くん」
「………はいっ」
……俺は、名も知らない若い医師に頭を下げると、その場から走り去った。
カッコ良く走り出したつもりでも、現実はこれっぽっちも甘くはない。
あの医者の居る事故現場から、数百メートルも離れていないのに。
……カラダは俺なんかよりよっぽど正直者だった。
覚束ない足元、遠くなる意識。
……朝礼の最中に、体育館で女子がぶっ倒れたりする時ってこんな感じなのか……?
「―――っ?!」
……だせぇ……っ。
膝から下の感覚が薄れて、転けちまってた。
まだ日が傾き始めただけの街中だってのに、頭から血を垂れ流してることも手伝ってか、歩行者の誰一人として……転けた俺に近寄ろうとはしてこない。
……きっと、さっきの医者が、親切だっただけの話なんだろうな。
女子達……悪ぃ、今なら謝る。
サボリとか言って悪かった。
だから、今は―――。
「……くそっ、たれがぁあッ!!!」
―――誰も、俺の"努力"を笑うんじゃねぇっ!!
気勢を上げて、力の入らない下半身に鞭を打つ。
……周囲の奇異や好奇の目は気にならなくなっていた。
……大丈夫だ、死にゃあしねぇ。
俺を誰だと思ってやがる?
"あの"御堂空手道場の師範の一撃を食らっても一日しないで復活した俺だぞっ!!?
いや、冷静に考えたらそんな凄かねぇけどよ……。
でもよ、あん時の痛み比べりゃ、こんなの屁でもねぇだろうがッ!!
地面を踏み割ってやる、そンくらいの勢いが丁度いい!
腑抜けてんじゃねぇぞこの野郎―――ッ!!!
ドンッ! という地鳴りのような音が、歩道に響き渡った。
……示し合わせたように辺りが静まり返る。
思い切りコンクリートの地面に叩きつけた足の裏から、痺れるような痛みが走る。
なんだよ、感覚は死んでねぇじゃねぇか……っ!
大丈夫だ、これなら。
まだ走れんだろ……?
―――初紀……るい……早まるんじゃねぇぞ……ッ!
それにしても―――エアバッグに助けられたとはいえ、さっきの俺は……一体全体どんな器用な転け方をしたんだろう。
バイクは大破してたっつーのに、俺はは頭から多少の血を流す程度の軽傷、ポケットに入れといた携帯はほぼ無事。
……随分と神懸かってる偶然だな、マジで。
今更だけど、俺の運は悪くはないらしい。……事故ってる時点で、決して良いとも言えないが。
この携帯がもし、ぶっ壊れてたとしたら。もしくは、俺が病院や警察に捕まっちまってたら―――初紀とるいはどうなってたんだ?
……やめとこう。考えただけで余計に血の気が引く。
その引きそうになった血を今は身体に走る巡らせた方が利口だ。
俺は、再び無心でるいの指定した場所へと走り出す―――。
―――陽も落ち掛けて、空には一番星が輝き始めた頃。
「は、…っはぁ…ここか」
ふらつく足を引きずりながらも、漸く俺はるいの指定した目的地の入り口に辿り着いた。
そこは高級住宅街の外れに位置する小綺麗なマンションで、一介の女子高校生が一人で住めるような代物じゃないことは世間知らずの俺でも分かる。
……そういや、ハルさんの書いた―――"群青の蝸牛"曰く、こーいうのも"通知受取人"の特典だった筈だ。
この国は―――やれ不況だ、やれ困窮してるだなんだってニュースがほざいている割に、妙な所に余裕があるもんだ。
毒づきながら俺はそのマンションへと足を踏み入れる。……その中は意外と簡素なつくりだった。
……エレベータも無ぇのかよ、畜生。
504号室だったよな、確か。
貧血気味の体に鞭を打って、俺は傾斜のキツい階段を登り始めた。
……くそっ、全身が重てぇ。
よく少年漫画じゃ精神が身体を凌駕するってシーンがあるけどよ……そうそう漫画みてぇには行かないってことか?
俺の身体のくせに、俺に偉そうに意見しやがって……黙って俺の言う通りに動けっつーんだっ!
いや、バイクが大破したとはいえ……頭から多少の血が抜けた程度のカスり傷程度なら、ここまで身体がフラつくってのもオカシな話だ。
血が足りない程度では最早説明ができない別次元の苦しみ。
骨が軋み、筋肉は悲鳴をあげ、走ったせいで乱れた呼吸は未だに整わない。
ホントは、俺を診てくれたあのヒトの見立てが間違ってたんじゃねぇか? ヤブか? ピッチャーか?
そう、疑いたくなる。
―――まるで身体の作りが、根底から変わり始めてるような―――違和感。
「っ……まさか、もう……?」
そう、呟いた俺自身の声も高い気がする。病は気からって話じゃなくて……間違いない、幻聴じゃねぇ。
「あと3日、あるんじゃねぇのかよ……?!」
……もし、もしも、だ。
初紀に全部を押し付けて、るいと結ばれるンだったら……俺は……男で居られるってのか―――?
「―――バカか、俺はよっ!!!?」
不意に頭に降りかかる暗雲のような……後ろ向きな思い。それを認めたくなくて俺は、真新しい壁に頭を打ちつけた。
……痛みと目眩と鈍い音を伴ったそれは、白地に赤黒いものを……無軌道に描く。
今更、なんでこんな思いに捕らわれなきゃなんねぇんだ……。
―――分かってる。ホントは分かってンだ。
俺は、初紀も……るいも……好きだったんだ。
いくら"ダチ"っていう言葉で、てめぇのキモチを誤魔化したトコで本音は変わりはしなかったんだ。
幸か不幸か……るいも初紀も、そんな俺を受け入れてくれていて。
それでも、俺は……どちらも選べる自由と、どちらかを選ばなきゃならない責任から目を逸らして、先延ばしにした。
そのせいで事態は……青色通知と、重なり合った偶然のせいで、気が付けば俺自身の中だけじゃ収まりが着かない所まで膨らんじまってた。
元を正せば、悪いのは他の誰でもない……俺のせいなんだ。
意地を張ってねぇで、素直に青色通知を受けていれば。
るいを好きになってなければ。
るいに近付きさえしなければ。
初紀を"女"として見なければ。
初紀を好きになってなければ。
―――こんな、苦しまなくて済んだのに。
後悔するような生き方だけはしたくないって口で言ってる癖に、こんなにも積み上げられちまった後悔の山。
てめぇの動き一つで、てめぇの身の回りをどうにか出来ると思った―――そんな俺の驕りを、どっかの誰かさんは許さなかったんだろう。
てめぇが動くだけで、てめぇが動かないだけで、何処かしらに代償が行くんだって、知らしめる為に。
しかも、その代償は必ずしも自分自身とは限らないのが腹立たしい。
……初紀は、俺とるいのせいで。
……るいは、俺と初紀のせいで。
……俺は、俺自身と重なり合った偶然のせいで。
言い換えれば、誰もが悪いし誰も悪くない。
……俺っていうバカを除けばな。
―――もう、こんなのゴメンだ。
一度は消えかけた命だ。なら、俺が取るべき行動は……もう一コしか残ってねぇだろ。
俺は、再び傾斜のキツい階段を駆け上がる。
―――初紀とるいの居場所まで……もう少しだ。
~青色通知10~
最終更新:2009年10月30日 10:21