規則正しく、等間隔に設置されている街路灯が、ゆらゆらとイビツな一本線を描いては消えていく。
その、カタチのはっきりしない一本線の光が……三途の川を渡る、死者の魂みたいにも見えた。
……そんな気味の悪い景色をぼんやり眺めることぐらいしか、今の私に許された現実逃避は無くって。
―――宗にいの計らいで、私を家まで送ってくれている、このハイヤーの中では。
余計なお世話だと思いながらも、突っぱねる気力も残っていなかった私は、成し崩し的にハイヤーの後部座席に乗り込んでいた。
………本当なら今すぐここから車道に転げ落ちて死んでやろうかとも思った。
今の私には痛みを感じる力も残っていないだろうから。
でも、そんな物騒な考えをしてる私の両脇を、宗にいの部下だというスーツ姿のオジさん達がガッチリ固めていて、それを許してくれそうな様子はない。
……まるで、警察にパトカーで連行されている容疑者の気分。
って……あれ?
そこで、ある違和感に気付く。
―――こんな道、私……知らない。
私を家まで送り届けてくれるはずのハイヤーが、いつの間にか私の見慣れない複数車線の大きな国道を、ただ真っ直ぐ走っていることに。
「……どこに、向かってるの……?」
身体を蝕む虚脱感を必死に押しのけて、私は言葉を絞り出す。
「あっ、気付いたみたいだね」
そう話しかけてきた助手席に座っていた人と、ルームミラー越しに目が合う。とても、優しい目をした、青いリボンで髪を結った可愛らしい女性だった。
青いリボン……か。
……なんだか、るいちゃんを思い出すな。
「……ぐすっ。
……宗にいのお仕事の部下のヒトって、男性だけだと思ってました」
いつの間にか目尻から溢れ出ていた水分をブラウスの袖で拭いながら、私は至って真面目な感想を述べた―――つもりだったのに、ルームミラーごしに映ったのは心底愉快そうな口元の笑みだった。
「あははっ、あの人、昔からホントに女っ気がないからね。
モテそうな顔にしてるのにね。
あー、でも"エスプリ"とかそーいう言葉と真逆の位置に居る人だからなぁ」
「えす……?」
突然訳の分からない横文字が会話に飛び出してきて当惑する私を後目に、彼女はあくまで軽い口調で話を続ける。
「あ、そうそう。
残念だけど、キミの推理はハズレだよ。私は神代先生の部下じゃないんだ」
……神代"先生"?
宗にいを"先生"と呼ぶ女の人は、これで二人目だ。
どことなく、誰かに似ている……そんなイタズラっぽい喋り方も相俟って、私の興味のベクトルが助手席に座る青いリボンの女性に向く。
……ほんの小さなルームミラー越しだけど……凄く綺麗な人だと、すぐに分かった。
「御堂 初紀ちゃん、だっけ。名前で呼んで……良いかな?」
「あ……はい」
「ありがと、初紀ちゃん。
うん、可愛い名前だねっ」
―――わ……なんて綺麗な顔をして微笑む人なんだろう。
私が男だった時なら、間違いなく恋に落ちる自信がある。
大時代的に、ラブレターとか書いてそうな―――男だった自分の姿を容易に想像出来るから怖い。
「……あ、そうそう。
初紀ちゃんの最初の質問に戻ろっか。
えっと、この車が向かっているのは確か"神代先生のオフィス"だよ」
「宗にいの……?」
"そうですよね?"と、美人さんは不安そうに運転してる人に確認を取っていた。
美人さんの右隣から首肯が返ってきて、どうやら彼女の言っているコトに間違いはないことを理解する。
―――何でそんな所に私が連れて行かれるんですか?
そう問い質そうとしたけど―――それよりも助手席に座る彼女の声が先回りしていた。
「ごめんね。
ホントなら初紀ちゃんを家まで送ってから、そこに向かう予定だったらしいんだけど……。
―――なーんか予定が変わっちゃったらしくて、ね」
「……はぁ」
「で、神代先生曰わく
"初紀の家は、この病院から歩くとかなり掛かる。
こちらの勝手で急いでもらうのに申し訳無いが、初紀をハイヤーに同乗させて貰えないだろうか"だって」
……今の彼女の大仰な喋り方は……宗にいの物真似、なんだろうか……。
「ね、似てた?」
期待を込めた視線がルームミラー越しに注がれる。……やっぱり物真似だったらしい。
どうリアクションすれば良いのか困る物真似だった。
……勿論ネガティブな方に。
と、とりあえず、フォローはしなきゃ……だよね。うん。
「あっ、えっ、と……み、眉間のシワだけソックリでした」
……フォロー失敗。あーもう、……私のボキャ貧。
「でしょでしょ!? 初紀ちゃんってば分かってるぅ!!」
………あれ?
助手席ではしゃぐ彼女以外の車内の人間が、妙な違和感を拭いきれずに、ほぼ同時に首を横に捻っていた。
どうやら、私の感性は間違ってはいないらしく少し安心する。
「―――でね、GPSナビを使ったら、
どうも病院から自宅まで歩くのも、ハイヤーで遠回りするのも変わらないんだって。
私も丁度、着くまでの間の話相手が欲しかったし」
あくまで軽い口調で彼女は言う。
……ちょっと―――いや、かなり変わってる人だけど、彼女は彼女なりに私に気を遣ってくれているのだろう。
今さっきまでの私は、とても彼女の"話し相手"になれるような心持ちじゃなかった。それは多分、私をハイヤーに乗せる前から彼女も分かっていた筈。
……それなのに、こうして赤の他人で、"話し相手"にもならなそうな私を、何の抵抗もなくこのハイヤーに乗せてくれたのだから。
「……すいません、ご心配をお掛けして」
「え、心配? なんのこと?」
頭を下げた私に返ってきた言葉のトーンに、私の座骨の位置がほんのちょっぴり前にズレる。
このヒト……ホントに分かっていないのかな……?
それとも、トボけるのが凄く上手なのかなぁ……??
「んー、初紀ちゃんの言いたいコトはよく分かんないけどさ。
私は私のしたいようにしてるだけだから、謝られても困るかな」
真意を測りかねていた私を後目に、美人さんは再び可愛らしい顔で微笑みかけてくる。
まぁ……この際、どっちでもいっか。
「―――ありがとうございますっ」
「うんっ、そーいう顔してた方が男のコにモテるよ。
……で、なんでお礼言われてるのかな、私?」
……どうやら美人さんはホントに分かってなかったらしい。
「え、と……私も、したいようにしてるだけですから。気にしないでください」
「ふぅん……?」
さっきまでの虚脱感が少しでも祓われたのは、間違いなくこのヒトのおかげだし、ね。
「―――まもなくです」
抑揚が殆ど皆無な運転手さんの低い声と、等間隔にカチカチと鳴るウインカーの無粋な音が、私達のお喋りを遮る。
……ふぅ、と私のものではない小さな溜め息が聞こえてくる。
「……ねぇ、初紀ちゃん」
ほんの少しだけトーンの下がった美人さんの声がして、その溜め息が彼女のものであると気付いた。
なんとなく、声に出して返事をしづらくて、ルームミラー越しに私は彼女に目を向ける。
影を落とした視線が私に向けられていて、何だか両肩から震えが止まらなくなった。
「あははっ、怖がらない怖がらない。
……あのね。
例えば、自分が誰かを救えたり、支えられる立場にあるとしよっか。
で、自分には救える人が大好きなヒトが二人居る。
でも、自分が手を差し伸べられる相手はたった一人だけだとしたら、初紀ちゃんなら、どうするかな?」
それは、彼女の実体験なのだろうか。
……言葉が、漠然としていて分かりづらいけど……陸みたいな立場のこと指しているのだろう。
……あ……そういえば、アイツの立場でなんて考えたコトもなかった。
私なら、どうしてるだろう……?
それは、私が陸とるいちゃんを比べるようなものだ―――。
だとしたら―――。
「……答え、られません」
……拙い脳みそで悩み抜いた挙げ句に、私は狡い答えに辿り着いてた。
"それが、心に正直になった結果だから。"
そう言ってしまえば聞こえはいいけど……単なる我が儘だし、質問の答えとしては最低だ。
―――でも。
「……ごめんね。イジワルな質問して。
―――だから、そんな苦しそうな顔しないで?」
私はそんなに思い悩んでいたような顔をしていたのだろうか?
「べ、別にそんなこと―――」
「ううん。いいんだよ。
それがホントなんだろうなぁ、きっと」
私が慌てて取り繕った反論を遮って、彼女は自嘲気味に笑ってみせた。
それは……さっきと変わりなく綺麗で、さっきとは全く違う影を背負っているように見えた。
「―――詳しくは言えないんだけどね。私ね、多分……焦ってたのかなぁ?
比べちゃいけない人を秤にかけちゃったんだ。
大好きな人を二人。どちらかを選ばなきゃいけないって、自分で自分を責め立ててさ」
「自分で自分を……ですか?」
「うん。私の口癖でさ。
"逃した魚の大きさだけは嘆くな"って、いつも自分に言い聞かせてるんだ」
―――あれ?
どこかで聞いたような言い回しな彼女の言葉に、不思議な既視感を覚える。
その原因がなんなのかを突き詰める前に、彼女は言葉を繋げていた。
「まごついて、何もしないまま終わることが何よりも後悔することだって、思ってたからね」
「思って"た"……ですか?」
「うん、思って"た"」
持論だと主張していたそれを、彼女は自身で呆気なく覆す。
「だって、イチバンの後悔を潰したら、"その次の後悔"がイチバンに繰り上がっちゃうでしょ?
ヒトって……そういう生き物からさ」
確かに、彼女の言いたい事はわからなくないけど……。
何だか、私の心許ない胸元に妙な靄が掛かったみたいでスッキリしない。
「その"繰り上がったイチバンの後悔"を受け入れる強さが……私には無くってね。
おかげで昨日は一晩中泣くハメになっちゃったよ―――」
「―――着きましたよ」
おどけるように美人さんが鏡越しに笑いかけてくる。……それを私の右前に居る運転手に遮られて、不貞るように頬を膨らませる彼女。
―――窓の外に目を遣る。
そこは、オフィス街と思しきビルが立ち並ぶ通りで、時間帯も遅いせいか……今は人も車の往来もまばらだ。
「はいはい……お仕事ですもんね。今行きますよー」
カチャ、とシートベルトの外れる音がして、車から彼女が降りてしまう。
「初紀ちゃん、じゃっ、またね」
「あっ、えと……その……名前……っ!?」
後部座席の窓の外から手を降る美人さんに、私は必死で声を掛けた。
そこで彼女も漸く気付いてくれたらしい。
「あっ、そっか。自己紹介、まだだったっけ? 私は―――」
―――不意にハイヤーの右真横をトラックのエンジン音が通り過ぎていく。
……それに彼女の言葉がかき消されて聞こえたのは、たったの二文字だった。
「――」
………えっ?
「"あの子"のこと、よろしくね。
……じゃあね、初紀ちゃん」
「えっ!? ――――あのっ!!!?」
私の言葉が聞こえていないのか、彼女は踵を返して、象牙色の大きなビルへと急ぎ足で駆けていき……やがて、その姿を、その象牙色のビルの中へと消していった。
―――今、聞こえた彼女の名前。多分聞き違いなんかじゃない。
でも、私が聞いた話だと………彼女は交通事故で亡くなってる筈じゃなかったの―――?
「―――"ハル"……さん……?」
私は、忘れるはずもないその名前を反芻するように、小さく、ただ小さく呟いた。
~青色通知13.3(るいの場合)~
―――私は、"異性化疾患対策委員会"の事務所ビルの一角に通された。
警察の取調室みたいなもの想像していたのだけど、そこは会社の応接室のような場所で何だか拍子抜けしてしまう。
……それからは、ずっと革張りのソファに座っての、床とのにらめっこが続いた。
「なんとか言ったらどうなんだ?」
「…………」
「いつまでこうしてるつもりだ?」
「…………」
「もう、二時間だぞ。そろそろ話してくれてもいいんじゃないか? "AO1617号"」
「…………」
「………はぁ」
光沢ニスがたっぷりと塗りたくられた木目調のテーブルを挟んで真向かいのスーツの男が、小さく溜め息を吐いた。
彼で、一体何人目だろう。
とっかえひっかえ代わる代わる、尋問してくる人達に、私が口を開くことはなかった。
父さんや母さんと国際電話で話せるらしいけど……それにも首を横に振った。
体面だけを気にして、私のことなんか放ったらかしにしてたくせに。
今更電話口で見えないはずの保護者面をされるのも癪だった。
それに、結末は目に見えている。
海外か、独房か。
そんな二者択一を選ばされる自業自得の、ほんの一歩先くらいの未来。
どちらにしても、数年は大好きな友達に会えない、真っ暗な未来。……それだけなら、まだいい。
でも、そうじゃない。
だって――――。
―――ピリリリリッ!
不意に、携帯電話に使われているテンプレート的な電子音が鳴り響く。
……案の定、それは私を尋問していたスーツ姿の男性の携帯が着信したことを報せるものだった。
「どうぞ」
そこで、私は初めて口を開いた。
極めて平坦な口調で私に促されて、尋問者は複雑な面持ちで通話ボタンを押し、それほど広くない応接間の隅っこに移動する。
……こんな目と鼻の先の距離じゃ何のプライバシー保護にもならないと思うんだけどな。
流石に部屋を出るわけにもいかないらしい。
―――オトナって大変なんだな。
「はい、もしもし。……はい、そうです。
え、いや、その……はい、申し訳ありません……」
多分、電話口で私の尋問が上手くいってないことを詰られているんだろう。
少し可哀想な気もするけど、私には関係の無い。
それ以上は興味すら湧かなくて、聞き耳を立てる気も失せてしまう。
……なんか、ずっと黙って床とにらめっこしてたら、垂れ下がってきた髪が鬱陶しくなってきた。
……どうしよう。
陸の救急車騒ぎのこともあって手ぶらで出てきちゃったから、髪留めのゴムはみんな部屋に置いてきちゃったし……何か代わりになるのってあったかな……?
半ば諦め気味にスカートのポケットを弄る。
――――あ。
手のひらに長細い紐の感触。
それは普段の私がいつもしていた、"あの人"の最後の痕跡。
"ハルさん"から貰った青いリボン。
この際、仕方ない、かな。
口にリボンをくわえ、下ろしてた髪に手を掛ける。
そういえば、今日はシャワーも浴びてないから……髪がちょっとベタついてて気持ち悪いや。……こうやって髪を結うのも、ほんの数年前まで、ちっとも慣れなかった行為なのになぁ。
……よし、いつものポニテの出来上がりっと。
「―――え、あっ、……はい。了解しました。失礼します」
どうやら、向こうさんの通話も丁度良く終わりを迎えたらしい。
テーブルを挟んで向かい側から低い咳払いが一つ聞こえてくる。
視線をそちらに向けると、口惜しそうな顔をした尋問員の姿がそこにあった。
「……どうやら、選手交代みたいですね」
にこやかに放った私の嫌味に返事は無く……無言のまま"尋問員その8くらい"は部屋からすごすごと出て行った。
「………ふぅ」
ほんの数十秒のインターバル。
とは言っても、凝り固まった肩を回したり、深呼吸をしたりする程度。
尋問に使われてるような部屋だと、おちおち独り言も漏らせないしね。
盗聴―――というか、この応接間自体がモニタリングされてる可能性は大いにある。
気をつけなきゃ。
油断したら……初紀ちゃんまで罪に問われてしまうのだから。
―――コンコン。
不意にノックの音がする。
私が今までこの部屋で出迎えた人の中では一番紳士的な人かもしれないな。
それまでは何の予告も無しに部屋に入ってくる人しかいなかったから。
「―――はい、どうぞ」
私はまるで面接官のような口調で新たな尋問員を招き入れる。
お堅い真面目人間なら、あしらい方もよく分かっているつもりだ。
相手のペースで話をさせたらダメだ。
この相手をバカにした言動も、その布石―――
―――ガチャ。
「こんばんは。"AO1617"号さん?」
「あ……っ!?」
思わず息を飲む。
そして、私は髪を青いリボンで結ったことを後悔する羽目になる……。
―――大きな誤解をしていた。
私が目視で確認した面子だけが、神代先生の部下だと思い込んでいた。
その中に"女性"は居なかった。
勿論、目の前に居る―――私とおんなじ青いリボンを髪に結った人が此処に居る訳もない……。
ありえない……ありえないっ!!
だって、その人は―――!!
「はじめまして。
"異性疾患対策委員会"の委員長を務めています―――
―――有島 美春です」
タイトスカートのスーツに身を包んだ女性が、淡々とした口調と綺麗な笑みで嘘を言う。
もう、二度と会うこともないと思っていたのに……どうして!?
―――なんで、"ハルさん"が……!?
当然の疑問が……ふと、アタマの片隅の小さな違和感を呼び起こす。
―――どうして、ただの資料係に過ぎない筈の神代先生が、"委員会"をまるで手足のように動かしていた?
―――何故、通知受取人を辞めても尚、ハルさんは同じ場所で生活を続けられていた?
―――そして、今、この瞬間、彼女は何て言った……!?。
私の想像の終着点は、あまりにも突拍子もないもの。
けど……辻褄だけは合ってしまう。
「………はじめ、まして」
私はとっさに嘘を嘘で返して、口を噤む。……というか、頭がグチャグチャで言葉が出てこない。
……落ち着け、落ち着け、私!
意外過ぎる展開の先制パンチを食らってパニクってる場合なんかじゃないっ!
「さて、と」
ハルさんは、ソファに腰掛けた途端に何を思ったのか……私との間にまたがるテーブルの下に手を伸ばした。その仕草に何故かとドキっとしてしまう。
「……よいしょっ」
目当てのモノを見つけたのか、前かがみになっていたハルさんが姿勢を戻す。
その右手には、黒っぽい携帯電話くらいの大きさの精密機器が握られていた。
……盗聴器か。
「……まったく。こーいうコトはやめてね―――って、あんなに言ったのになぁ……」
「―――え……っ?」
ハルさんは、溜め息混じりにその盗聴器らしい黒い機器のカバーを外して、そこから単三か単四の電池を数本抜き取ってみせた。
ゴロゴロとテーブルに転がるオキシライドの乾電池達をしばらく見つめてから……私はハッと我に返る。
「な、なにしてるんですかっ!?」
「"委員会"は通知受取人のプライバシー保護も管轄だから、ね。
それが喩えIDを抹消された違反者であっても例外は無し。
―――そうだったよね? るいちゃん」
そこで初めて私を名前で呼んで、可愛らしくウインクしてみせるハルさんは……私の知っているハルさんだった。
―――でも、ダメだ、信用しちゃいけない。
「……そんなコトで、上手く誤魔化したつもりですか?」
緩みそうになった気と表情を凍らせて、私は彼女を睨みつけた。返ってくるのは、相変わらずの柔らかい表情。
「んーん。るいちゃんが用心深いコトは知ってるよ。
鍵の閉め忘れとか、よく注意されたもんね」
「……そうやって、昔の思い出を引き合いに出しても、喋るコトはありません。委員会にも、神代先生にも、………貴女にも」
……このまま私が頑なに黙秘権を行使し続けなければ、その被害は初紀ちゃんまで飛び火してしまう。
事情はともあれ、初紀ちゃんが違法に通知受取人になろうとしていたのは、確かな事実。
……それ自体は大した罪に問われることはないとしても―――初紀ちゃん、引いては陸の人生を左右することになりかねない。
………それだけはなんとしても避けなきゃいけなんだから。
「……それは自分自身のタメ?
それとも"ひーちゃん"と"初紀ちゃん"のタメかな?」
「―――っ!!?」
思わず、私は目を見開いてしまっていた。
昨夜、あの場に居合わせた陸がハルさんと面識があるのは理解できる。
―――けど、初紀ちゃんは違う。
あの時、面識どころか話題にすら出なかった筈の彼女のことを……何故ハルさんが知ってるの……?
「可愛い子だよね。
あの黒髪とか、妬いちゃうくらい綺麗だし。トリートメントが良いのかなぁ?
あ、彼女はクラスメートなの? 制服も、るいちゃんの今着てるのと同じみたいだし」
いつ、どこでかは分からないけど……ハルさんは、実際に初紀ちゃんに会っている。
ハッタリや誤魔化しは、多分通用しない……。
―――どうしよう……どうしようっ!? このままじゃ、初紀ちゃんも陸も……!!
「……えーと、るいちゃんは何か勘違いしてるみたいだね」
「え……っ」
「私は、るいちゃんを捕まえるつもりは無いよ。勿論、初紀ちゃんを罪に問うつもりもないしね」
―――そんなの、誰が信じるもんか。
そうやって、また甘い顔をして……また私を裏切るつもりなんでしょう?! ……昔、私の目の前から貴女が消えたように……!!
「……この部屋にはもう、記録の残せる媒体は残ってない。
るいちゃんや初紀ちゃんに不利なコトだって話してくれて大丈夫、私が口を噤めば済む話なんだから」
―――それだって、都合のいい嘘に決まってる。
「クチで言っても信じてくれない、か。……そうだよね、うん」
―――……そんな寂しそうな表情をしたって無駄なんだよ、ハルさん。
「………じゃあ、仕方ないね」
………えっ?
何を思ったのかハルさんは、踵を返して出入り口の扉の鍵のツマミを水平に捻る。
そして―――彼女は私の横に腰掛けて、ジッと私を見つめてきた。
ハルさんから目を逸らしていても……艶やかな髪からシャンプーの甘い香りがする。
……って、呑気に感想を述べてる場合じゃなくって!!
「なんのつもり、ですか……!?」
「……この場に記録を残す媒体が無いって言ったよね。それを証明するんだよ」
「証明って―――んぅっ!!?」
―――な、なに……なに、これ……っ!!?
唇と口腔に、熱気と湿り気を帯びた感触と……ミントの味。
背中には革張りのソファ。
視界には、イヤリングを付けた耳元が映り込む。
「ん……んぅっ、ふぅ…っ…んっ!!?」
水音が数秒間、私の鼓膜を犯しているの聞いてから……漸く私はハルさんに無理矢理に唇を重ねられていることに気が付いた。
「んっ、んーっ!? ふ……んぅっ!」
慌てて、覆い被さっているハルさんを押しのけようと両腕に力を込めても、決して重くはない筈のハルさんの身体はビクともしない。
……まるで、唇を介して私の力が吸い取られてるみたいに。
「―――っ!?」
……それだけじゃない。私の内股を擽られるような感触が走る。
その、こそばゆい気持ちよさにカラダは強張ってしまっていて、更に力が抜けていく気がした。
そこで、漸く私の口腔を味わい尽くしたであろうハルさんのピンク色の舌が……唇から離れる。
その余韻を惜しむみたいに、私のハルさんとの舌を結ぶ……透明の粘液。どちらが、名残を惜しんでいるのだろう……? ハルさん? それとも―――。
―――違うっ!! 私は、もうハルさんのコトなんか……!!
惚けていた頭を横にぶんぶんと振り、口元に残るハルさんとの"つながり"をブラウスの袖で拭う。
……口紅なんてしてない私の唇を介して、ピンクのルージュがブラウスの袖口にくっついてる。……それだけで身体が熱くなるような気がした。
「っ、はぁ……っはぁ……こん……な事して……何になるん……はぁ……ですかっ!!?」
「……もしも、この部屋をモニタリングしてるなら、今頃私は外のヒト達に取り押さえられてるでしょ?」
要するに、ここは完全に外界から情報を遮断している場所だ。そうハルさんは言いたいらしい。
「―――それに、今のるいちゃんは私を訴えることだって出来るんだよ?
"無理矢理犯された"って、ね」
っ、……訴えるって、そんなの……状況証拠だけで証明出来る訳が―――。
「―――出来るよ。物的証拠だってあるんだもん」
「っ!」
ぼんやりアタマで考えてたことが口から漏れ出てたらしい。慌てて両手で口を押さえる私を、ハルさんはイタズラっぽく笑い―――右手の中指と人差し指をくゆらせる。
そして、ゆっくりと開かれた右手の指の間には……私が快感に耽っていた確かな証である、粘り気を帯びた透明な一本線。
「―――っ!?」
私は……たかだか舌を絡めた強引なキスと内股を触られただけで……あんなに……!
「これには……DNAがつまってるんだよね。
こんなの、フツーにお喋りしてただけじゃ私の指先に付くワケもないもんね?」
「~~~っ!!」
一体ナニがしたいんだ、この人はっ!!?
わざわざ法的に不利になる状況を作り出して、自分の言っているコトに嘘偽りがないと主張したいの!?
それなら、もっとそれっぽい顔してよハルさんっ!!
そんな……真新しい玩具を手に入れたみたいな顔して、私の……その、……それで、遊ばないでよ……。
「まだ、話してくれないのかな?」
「………」
「じゃあ、"物的証拠"をもっと作ればいいのかな?」
「………っ」
返事に困った私は、覆い被さっていたハルさんから目を逸らしていた。
……いや、違う。反論の言葉ならいくつも見当たった筈だった。
それなのに、そんな拒絶の言葉を飲み込んだんだ。私自身の意志で。
「ね……興奮してるでしょ?」
「っ、してませんっ!!」
「ふぅん? これでも?」
「ひぅ……んっ!?」
ハルさんの細い手首が、一つだけボタンの外れたブラウスの隙間から侵入してくる。
……彼女の指先が撫でるように私の身体に直接触れただけ。ただ、それだけなのに、私のカラダは私の意志を離れて勝手にみっともない声をあげていて……。
こんなコト、"お仕事"で男の子としてた時だってなかったのに……!
「キモチ……良い?」
―――わかってるくせに……っ!!
イタズラっぽく笑いながら、わざとらしく訊いてくるハルさんを私は弱々しく睨むことしかできない。
初紀ちゃんや陸を蹂躙することに快感を覚えていた私は、一体どこに行ってしまったのだろう……っ!?
「キモチ良くないのかな?」
「……っ………」
意地悪な視線に耐えきれなくて、分かりきった問いかけが悔しくて、もどかしくて……私はソファの背もたれに目を向けていた。
「そーだよね。無理矢理じゃあ、キモチ良い筈ないよね……」
諦観に満ちたハルさんの言葉を、私はどう思って、聴いてたのだろう―――?
「でも、やーめない」
「え………っ」
―――自分の胸中を探る間もないフェイントに、私は知らず知らずの内に彼女に視線を戻してしまった。
そこには……初めて見る、ハルさんの冷たい眼光。
それに気を取られていたせいか、私は……あることに気が付いていなかった。或いは、気付こうとしていなかっただけ……?
―――私とお揃いの青いリボンで結われていた筈のハルさんの髪が下ろされている。
「……あ……っ!?」
気付いた時には、もう遅い。
ハルさんのリボンが私の両手首に縛り付けられていた。……私が玩具の手錠で初紀ちゃんを拘束したように。
自由を奪われた両手は、即座に彼女の左手に押さえつけられてしまう。
―――私は、一体何時までこの青いリボンと、その持ち主に身も心も縛られ続ければいいの……?
「ほら、休んじゃダメだよ?」
「や、だ………ぅんっ!」
頭を掠める皮肉をかき消すように、淡々とした言葉と共に胸元を襲う緩い快感の波。
必死に抵抗の言葉を並べ立てようとしても、普段よりもオクターブ高い息混じりの母音に上書きされていく。
「や、っはぁ……うっ、あ、ん……んぅっ!」
「胸、おっきくなったよね。サイズはどれくらいかなぁ? うーん……」
暴力的なまでの快感に声を押し殺そうとする私とは対照的に、ハルさんは日常的な会話を楽しむような口調で、私の乳房の輪郭をなぞるように弄り回してくる。
「……んー……C、うーん……もっと、かな。じゃあDくらいかな? いいなぁ、私よりおっきいかも?」
「っ、ぅ、ん……っんんっ!」
質問の答えなんか初めから気にしていないような、私の弱い所を執拗に攻め続ける愛撫が続く。
それに堪えかねて、反射的にカラダを捩らせると―――内腿から熱と粘り気を帯びた感触が伝わってきた。
でも、何か違う。
身体に、強制的に与えられる快感に耐える私とは別の―――程遠い位置に居た私がポツリと呟いたような気がした。
「じゃ、そろそろ―――」
―――"私の頭を撫でてくれた人は、こんなに、細い綺麗な指をしていなかった"。
―――"私を想ってくれた人が受けた辱めはこんなものじゃなかった"。
「っ!!」
私の秘部にハルさんの指が伸びる。
その刹那―――まだらな茶髪の男の子と、綺麗な黒髪の女の子の憐れむような視線。
「―――や……だっ!!」
―――誰かが倒れるような鈍い音が響く。
それが誰のものか確かめる為に、私は反射的に瞑っていた両目を恐る恐る開いてみる。
「っ、はぁっ、はぁ……っ」
……私だ。
私が、ハルさんを跳ね退けたんだ。
なんで、そうしたか、それが出来たのかは分からない。
ただ、急に……快感に打ちひしがれ、脱力していたはずの私の身体が―――弾かれたバネみたいに、反射的に動いていた。
ソファの反対側に倒れたハルさんは、乱れた髪を直しながら上半身を起こす。
「いっ、たたぁ……もう、急にどうしたのかなぁ?」
肘掛けにぶつけた後頭部をさすりながら、ハルさんは首を傾げていた。
意味が分からない。
自分で自分の好きな人から享受出来るはずの快楽を手放してまで―――私は何を言おうしているの?
「……違う」
「……何が、かな?」
自問に自答するよりも先に、口が動いていた。
「あなたは、私に目先だけの希望を与えるような真似だけはしなかった!
私が、大好きだったハルさんは―――!」
――――あ。
「大好き"だった"、かぁ」
言葉を反芻するように、ハルさんは満足そうな、それでいて少し寂しげな笑顔を浮かべて呟く。
「ハルさんっ、今のは……その―――っ!」
「―――ちょっと待っててね」
取り繕う言葉を探していた私を後目に、ハルさんはジャケットの胸ポケットに仕舞ってあった携帯を操作し始めた。
程なくして、それを耳に当て、反対側の人差し指を唇にあてて、"しーっ"のジェスチャーを私に送るハルさんがそこに居た。
「あ、もしもし。有島です。
ええ、はい。通知受取人"AO1617号"と御堂 初紀の共犯関係ですが……立証は無理でした。私でも取り付くシマも無い感じで。
……はい、責任は私が持ちます。
あははっ、先生だって元から私には期待してなかったじゃないですか。
そんな大仰な役目を果たせる器じゃなかったんですよ、私は。
―――えぇ、そうですね、尻拭いをお任せするのは忍びないですけど。
え? ……はい、分かりました。
……はい、先生も。
では失礼します」
無機質な電子音、閉じられた携帯、そして……私に向けられる大輪の向日葵のような笑顔。
「おめでとっ。るいちゃんの勝ちだよ」
何を以てして勝ち負けが決まるのか分からないハルさんとの勝負に、私はいつの間にか勝利を収めていた。
……初恋の終わりっていう、鈍い胸の痛みと引き換えに。
「……ごめん、なさい」
頭を下げても、涙は零れない。
昨日までの私なら、多分……ボロボロに泣いていたはずなのに。
「あははっ、なんで謝るかなぁ。むしろ私が責められる立場なんだけどな」
「……くすっ。なんで、でしょうね」
何だか急に可笑しくなって、ハルさんと笑い合う。
それは、昨日の天海駅での出来事からは想像も出来ないくらい穏やかな時間。
自分が女の子で、ハルさんも女性だからこそ生まれる時間。
……でも、それも長くは続かない。
「―――さっき電話で話していた通り、初紀ちゃん……御堂 初紀、何の罪状も問わないようにします。
しかし、元"AO1617号"。貴女には然るべき罰を受けていただきます。
それが、委員会の総意です」
打って変わった凛々しい顔でハルさん―――いや、"異性化疾患対策委員会"の委員長、有島 美春は言う。
……これで、陸と初紀ちゃんは……もう大丈夫なんだよね……。
それは、私の望んでいた結末。
でも、それは同時に、私がこの街から離れなければならないことを指していた。
「……理解ある裁量に感謝します。委員長さん」
―――これで、いいんだよね。
私が通知受取人の資格を剥奪されても、陸は初紀ちゃんと結ばれる。
陸は、女の子にならずに済むし、初紀ちゃんの想いだって報われる。
今生の別れじゃないんだから。
……また、会える。
……また、会えるんだから……泣くな……私っ。
「残酷なようですが、あなたに猶予は与えられません。ご理解ください」
「……分かっています」
それは、つまり、陸や初紀ちゃんにお別れを言う機会は皆無だということ。
多分、ハルさんは名ばかりの委員長で、それほどの権限が与えられていないのだろう。
委員会の実権を握っているのが、家柄のバックボーンを持った神代先生だとすれば、初紀ちゃんに飛び火しなかっただけでも破格の裁量なんだ。
そう、自分に言い聞かせる。
元はと言えば全部私自身が蒔いた種。その禊ぎを私自身が受けるのは当然なのだから。
……それでもココロが納得出来ないのは私がお子様だから、かな……。
「……行きましょっか、委員長さん?」
そんな甘えを振り切ろうと、私は自ら口火を切った。
……ハルさんは、私に背を向けたまま出入り口の鍵のツマミを垂直に回す。
「……ごめんなさい。私がエスコート出来るのは、ここまで……です」
開け放たれた扉。
「……みんな、ツレないんですね」
ハルさんは、何も答えない。
……大丈夫、いつも通りだ。
もう慣れたんだ。
―――独りぼっちで、大丈夫だ。
ハルさんに会釈して、私は部屋を後にした。
~青色通知13.3(るいの場合)~
最終更新:2009年10月30日 10:53