「先輩が仮に自分から女になったなら、俺のことなんか放っておくはずでしょう? 自分勝手にあなたに約束を押し付けてきた奴なんか迷惑でしかないはずです」
さっきよりも――今までよりも近くなったまっすぐな目。
「でも先輩はずっと俺のことを気にかけていてくれた。女になったことも、自分から明かしてくれた。あんなに最低な態度しか取ってなかったのに、俺が困っていた時、助けてくれた」
そしてひどく優しく響く言葉に、戸惑いばかりが広がっていく。
「そ、んなの当たりま……」
「もし立場が逆だったら、俺はこんな最低な後輩は早々に切り捨ててます。それに……」
言葉を切り俯く川嶋の視線を追っていって、それはオレの足元に――――。
――あ…………。
足元に見えた肌色に、ザッと血の気が引いていく。
いつも履いてるくつ下。部屋の中も、寝るときでさえずっと身に着けていた、はずなのに。
この、傷を隠すために。
川嶋に見られないために。
「――――――っ」
急いで右足を引き上げて、川嶋に見られないように両手で隠す。
「その怪我……」
「違うっ!」
言わないで。
「――――その怪我のせいで、剣道ができなくなったですよね?」
「違うったら!」
否定したのに、言ってほしくなかったのに。
「剣道が嫌になったなら、部活が嫌になったなら部を辞めるだけ。なのに先輩がどうして女としては選手にならなかったのか。なぜマネージャーをしているか。……前に、仲田先輩に言われて初めて気づきました」
聞きたくない、耳を塞いでしまいたい。
思うのに、身体は少しも言うことを聞いてくれない。
「考えればすぐにわかったことだったんです。例え、女になったとしても……先輩が簡単に剣道をやめるはずがない。それなのに……っ」
何かを悔やむように顔を歪め、川嶋がまた頭を下げる。
「俺の身勝手な提案で、どれだけ先輩のことを傷つけてしまったか、もうわかりません。どれだけ我慢を強いて、先輩の気持ちをないがしろにしてきたかも……俺なんかには想像もできないぐらいだと思います」
ごめんなさい、と震えている声が耳に届いた途端に、心の中の何かが崩れてしまった。
知られたくなかったことがばれて、悔しくて、悲しくて……。
けれど、わざわざ最初からのオレの気持ちまで振り返って、ちゃんと思ってくれてとても嬉しくて……。
「けど…言い辛いとは思いますけど、まずその怪我のことを教えてくれれば――」
「……って」
ぐらぐらしてくる。
自分を取り繕うことすら――絶対にしちゃいけないはずのこともわからなくなるくらいに。
「だって、剣道をしないオレはいらない……って」
「え……?」
誤魔化しようもないくらいに涙が流れてくる。
何も感じちゃいけないのに。川嶋を傷つけたから、オレは痛がったらいけなかったのに。
「…っ、そんなはずは」
「女になっちゃって、川嶋との約束裏切って! 全部、オレが悪いのはわかってたけど――――っ!」
『なんで女になってるんだ』
ずっとずっと、残り続けているあの言葉。
「い、痛かった。手、振り払われて……切り捨てられて、すごく……!」
歪みきった視界には何が映っているかもわからない。
鼻の奥がツンと痛んで、喉が、胸が詰まるのに、言葉が止まらない。
「そ、れでも川嶋はまた誘ってくれた。女でも、剣道ができるオレのことは必要としてくれてた、のに……」
「あの時は……」
「断ることしかできない自分が嫌だった。けどっ、どうしようもなくて……」
「……二度と『しない』と言ったのは?」
自分のとても卑怯な所を指摘されて、言葉が詰まる。
なのに口からはすぐに答えが漏れていた。
「これ以上、川嶋に嫌われたくなかった。けどそれ以上にどうでもいいって、いらない、って思われたくなかった……」
「……………………」
「オレが剣道を『しない』なら、もっと嫌われる。ほんの少しも約束を守る気がないって思われる。……けど、もう二度と『できない』って知られたら、オレは……ほんとにどうしようもなくなる……っ」
川嶋にとって心底いらない存在になってしまう。
だから自分でなんか明かせるわけがなかったんだ。
もう剣道ができないと。川嶋にとっていらなくなってしまったんだ、と自分から認めたくなんかなかったんだ……。
「だから嘘ついた、言えなかったっ。もうできるはずないのに、まだできるみたいな言い方して……」
言わなければいけなかったのに、ただ自分を守るために嘘をついて……川嶋に嫌な思いをさせてしまった。
これ以上川嶋に嫌な思いをさせたくないって思ってたくせに、実際にはこんなにずるい自分がどんどん嫌いになっていった。
何も……川嶋に返せないくせに、逃げるためだけの嘘までついて……。
「…ごめん……」
ぎゅっとズボンを握る。
川嶋の反応が恐かった。
こんなふうに泣き喚いて、言っちゃいけないことばかりぶつけられて、川嶋がほんの少しでもいい気分になるわけないんだから。
ぼやけた視界で、オレは握りしめた膝の上の手を凝視するしかなかった。
「ああ……」
そんな短い言葉でもびくりと肩が跳ねる。
「ずっとそんなふうに我慢させてたんですね」
耳に届いたのは、まったく怒気を含んでいない声。
「俺が至らなかったせいで先輩にばかり負担を押し付けて……先輩はそれをずっと耐えてたんですね」
「っ、川嶋のせいなんかじゃ……!」
「俺のせいだ!!!」
部屋に響いた大声に、ひゅっと喉が鳴った。
「自分のわがままだけで先輩を傷つけたのも、そんなふうに何も言えなくなるまで我慢させて追い詰めてしまったのも誰でもない、俺、なんです」
苦しがるように歪められた眉間。
「先輩が何かを押し込めてるような態度を取るとき……身勝手ですけど、俺少しイラついてました。なんでもっとはっきり言ってくれない、本音をぶつけてくれないんだ、って」
痛がってるようにも見えるのに、川嶋は少しも視線を逸らさない。
「だから、変な話ですけど、こんなふうに泣かれて、本音をぶつけられて。俺、かなり喜んでます。ついでに言いますけど……先輩が表情を見せてくれるたびに内心けっこう浮かれてるんですよ」
「へ……?」
思ってもみなかった川嶋の本音に変な息が漏れた。
本当に意味がわからなくて、そのまま川嶋を見返すと川嶋の目が一瞬揺らいだ。
「……今から、ものすごく身勝手なことを言います。それに本音で答えてもらえませんか?」
でもすぐにまたまっすぐな目で問いかけてくる。
断れるわけが、ない。
川嶋が、ちゃんと、オレを見ててくれるんだから。
「俺、ずっと西森先輩のことが好きです」
「え…………」
最初はまったく意味がわからなかった。
「だから、今後も――――」
「そ、そんなはず、ない」
そして理解した瞬間には頭がそれを否定する。
『嫌われていない』。そう実感できるはずの――欲しかったはずの言葉。
信じたいのに……信じられなかった。
「こんな類の嘘なんかつけるわけないでしょうっ」
語気荒く言い返されれば、まったくその通りで。川嶋がこんな時にこんな嘘をつくなんて考えられない。
――でもっ……。
「オ、オレがオレだってわかって、あんなに冷たかったくせに……っ」
恨み言じみたものをぶつけてしまう。
今になってこんなこと言うなんて、あの川嶋とは何一つ繋がってないから。
「あの時はっ……すいませんでした。あの約束ばかり考えていて、今の先輩をないがしろにしてしまいました。でも……俺は本気で嫌ってる相手には関わったりしません。……先輩だからなんです、あんなふうに中途半端にずっと突っかかってたのは」
切り捨てるなら完全に切り捨てる。関わることさえ無駄だから。
そう告げられても、心のどこかで否定をし続ける。
口さえきいてくれなかった川嶋が、オレを見るたびに眉を顰めた川嶋が……そんなことをさせてしまった自分が、頭の中で否定を繰り返す。
おまえはこんなことを言われる立場なはずがないだろう……って。
「……たしかに男の西森先輩との約束は、すごく大事です」
オレが絶対に守ることのできなくなった約束。
この、歪んでしまった関係の最初。
「中学校時代、誰よりも信頼してた人に約束を受け入れてもらえて、すごく嬉しかったんです」
「っ、やっぱりオレなんか――」
「西森先輩はずっと一人だけです。俺はそれを勝手に二人に分けてしまって……だけどようやくわかったんです」
「なにを……?」
見たことのない真摯な目が向けられる。
「今の先輩が、俺の中でとても大切なんです」
――え……?
「だから、これから、俺と元のような関係を作ってもらえませんか?」
川嶋の右手が差し出される。
オレのことを振り払った手。伸ばされることが怖くてしょうがなかった川嶋の手。
それが答えを待っている。
全部知ってて……全部理解してくれてて、それなのにオレの気持ちを、聞いてくれている。
すごく、嬉しかった。
「い、いの?」
ずっと望んでた。そして諦めてた。オレは川嶋に嫌われてるから。
「本音を聞かせてください」
嘘の混じることのない声が返ってくる。
喉が震えて、言葉で返すことなんかできない。
だけど返すべき答えはずっと持ってたんだ。
――元の関係に戻りたい。
ずっとそれを願っていたんだから。
震える右手を一生懸命動かして、川嶋の右手を掴む。
川嶋の手は温かくて大きくて、そしてオレの手をしっかりと握り返してくれた。
――ありがとう。
「ありがとうございます」
張り詰めていた何かがふっと緩んで、今日初めて、川嶋が笑った。
約束を交わしたあの時よりも、すごく明るい笑顔で、嬉しそうに。
ずっと心の中にぽっかりとしていた何かが、埋まっていく感じを確かにオレは感じていた。
~~川嶋編5~~
週明けの道場。
そろそろ部活が始まるという空気の中、俺は仲田先輩に呼び出された。
「ようやく仲直りしたみたいだね」
「ええ、色々ご迷惑をおかけしました」
俺が最低なころから忠告をし続けてくれた仲田先輩には頭が下がるばかりだ。
もしこの先輩がいなかったら、もうとっくに西森先輩との関係は手遅れになってしまっていただろうから。
「まあ、夕希ちゃんが辛いのはもう見ていたくないからね。これからは幸せにしてあげるんだよ」
……なにやら勘違いをされている気がする。
「一応言っておきますけど、西森先輩とはまだ付き合ってませんよ」
「あれっ!? …………でも『まだ』って……ふぅん?」
ニヤニヤとした笑いを浮かべるこの人はどこまで鋭いのだろう。
西森先輩のことが『異性』として好きだと、気づいてしまったのはこの間の話し合いのときに自分で口にした瞬間だった。
けれど、今伝えても西森先輩には重荷にしかならない。
それに先輩は少しでも俺のことを必要としてくれているから。
だからしばらくは、元の関係を直していこう。
それが西森先輩も俺も、望んでいたことなんだから。
「川嶋ー?」
俺を呼ぶ西森先輩の声。
何かを押し殺した響きのないそれを嬉しく思いながら。
「なんですか、西森先輩」
俺は西森先輩の方へ駆け寄っていくのだった。
『約束ひとつ』 終
最終更新:2008年06月14日 22:50