「はぁ……」
今日のわたしは自分でも自覚できるほど、元気がなかった。
原因は昨日の逃走劇のせいだ。
あの後、なんとか望ちゃんから逃げおおせたが、長時間の全力疾走のツケとして、今朝から体を動かすと節々が痛む。いわゆる、筋肉痛だ。
さすがに放課後になると、痛みも大分和らいで普通に動ける程度にはなった。
ただ、あくまで『普通に動ける程度』であって、体を使う事をするとしばらく痛みが振り返す。
そう、例えば今みたく、練習用の道具を準備している時とか。
「い、痛い……両腕とか両足にズキズキくる……!」
痛みを堪えて、練習用の道具を全て運び終える。
それとほぼ同時、グラウンドに着替え終わった部員達が集まる。
今日は特に用事のある人はいなかったようで全員が集まった。
全員で円陣を組んで、坂本先輩からの二、三言、その後柔軟体操、ランニング、そして個人練習に移る。
この間、わたしは柔軟体操のお手伝いくらいしかやる事がない。
何らかの使命感にかられていた昨日のわたしなら物足りない気分になっただろうけど、筋肉痛が辛い今のわたしには有り難かった。
みんながランニングしている間に体を休めていたら、振り返した痛みが幾分か収まった。
個人練習に入ると、練習のお手伝いするために呼ばれるので、その前に痛みが収まったのは幸運だった。
いくら筋肉痛が辛かろうとマネージャーとしての仕事はキッチリとこなさないと。
「まだ少し痛いけど、これなら大丈夫だよね……うん、大丈夫」
自問自答し、痛みが振り返さない程度に軽く準備運動をする。
「……ん?」
準備運動をしながら、みんなの様子を見ていたが、なんか妙だ。
円陣を組んでいるかのように、全員が一カ所に集まって……何かを話している、のかな?
みんなから少し離れたところにいるわたしまでには声は届いていない。
しかも、ここからじゃ誰が話しているのかもわからない。
わたしの準備運動が終わった頃、話の方も終わったのか、全員一度頷いてからそれぞれが個人練習に移っていった。
一体何の話だったんだろう。
ま、大切な話なら後でわたしにも誰か話してくれるよね。
「おーい、誰か手伝ってー!」
お、早速お呼びがかかった。
「はーい! 今、行きます!」
さて、今日もマネージャーとして頑張るぞ!
「こっちだ」
声のする方に近づくと、眼鏡をかけた、いかにも賢そうな男子に手招きされる。
この眼鏡の男子は麻生良太君。
二学期になってから入部してきた五人のうちの一人だ。
「トスバッティングするからボールをトスしてくれ」
「はい」
少し離れたところにしゃがみ、ボールの入ったカゴから数個のボールを取り出す。
「じゃあトスしますよ」
「ああ」
ボールを、麻生君の腰と同じくらいの高さにトスする。
瞬間、麻生君の振るった金属バットが快音を発し、ボールをネットに叩きこんだ。
芯で捉えた良い打球だ。
四、五回ほとんど同じ高さでトスし、その球を打ち込まれる。
そして悪戯心で、次の球を麻生君の膝くらいの低さでトスする。
いきなりトスされた球の高さが急に変われば、普通なら空振るか打ち損じるかのどちらかだろう。
特に初心者なら、空振る確率が高いだろう。
だが、麻生君は
「おっと」
少し膝を曲げて、ゴルフのスイングのような軌道を描き、低くトスをした球をネットに打ちこむ。
初心者のはずなのに、不意の事態に対応してみせるこの反応速度には驚かされる。
「まだまだだ。今のは単に当てただけだ。振り抜かないと……」
麻生君は悔しそうに呟いていた。
野球を始めて一週間程で、今の高低差に食らいつけるなら大したものだと思うのだけれど。
どうやら、麻生君は自分の野球の、技術レベルの理想を高く設定しているようだ。
「よし、もう一回だ。頃合いを見てもう一度、高低差のある球を頼む」
そう言うと、気持ちを切り替えるように眼鏡のブリッジを指で押し上げ、再び両手でバットを握る。
ここまでやる気になってくれると、手伝う方としても気合いが入る。
「はいっ、わかりました」
返事をして練習を再開する。
腰の高さにボールをトスし続け、麻生君がトスしたボールを打ち続ける。
その繰り返しが十分程続いた頃、『そろそろ頃合いかな……』と考えた。
何が頃合いなのかは言うまでもなく、低めの球をトスする頃合いの事である。
「(よし、行くよっ!)」
心の中で自分自身に合図を送りつつ、表面上では何事もないかのように振る舞い、しかし内心ではどうなるか楽しみに思いながら、何度も反復してきた動きを繰り返し、ボールを低くトスする。
「っ!?」
麻生君は、トスバッティングに夢中になりすぎていたのか、低い球の事を忘れていたらしく、一瞬反応が遅れた。
そんな状況でスイングしても、まともな当たりになるはずもなく、バットの芯で打てなかったボールは低く鈍い音を響かせネットとは見当違いの方向に転がっていった。
「……………………やはり、いきなりそう上手くはいかないか。わかっていたさ、わかっていたとも」
打ち損じて転がっていくボールを見て、凄くショックを受けていた表情になっていたところを見た身としては、言い訳のようにしか聞こえない。
とにかくフォローをしておこう。
「そうですよ、始めから上手くできる人なんてそうそういませんよ。上手くなるには練習と経験、それが一番です」
とにかく言い訳がましいという事には目をつぶり、できるだけ麻生君の発言の内容を肯定しつつ、練習への意欲を高めるように言葉を選びつつ、言葉を紡ぐ。
「ああ、そう……だよな」
麻生君はそう言うと、バットをしまいグラブを掴んで坂本先輩の方に向かった。気持ちを切り替える為に守備練習でもするのだろう。
麻生君が行ってから、すぐに他の部員……成田秀二君に練習を手伝ってほしいとお願いされた。
「じゃあ、バントの練習するからマシンの操作を頼むよ」
成田君は、いかにも女子が騒がずにはいられなさそうなイケメンフェイスに爽やかな笑みを浮かべながら、自分の金属バットを取り出し、素振りをしている。
わたしの仕事は、バッティングマシンにボールをセットするだけ。セットしたら何もしなくても勝手に投げてくれるからね。
数回の素振りを終えた成田君は、バットの先端に左手を添え、即座にバントできる構えに入る。
わたしはマシンの後ろに行き、カゴからボールを取り出しボールをセットする。
球種は当然ストレート。スピードは……初心者だし100キロぐらいでいいかな。
設定を終わらせた。後はたまにボールを追加する事以外では見てるだけ。
マシンのアームがゆっくりと持ち上がり、ボールを持ち上げた瞬間、急激にアームのスピードが増し、設定した通り100キロ(多分)のストレートで、ストライクゾーン(成田君を基準とした場合)に向かっていく。
次の瞬間にコツン、と小さな音がバットから鳴り、ボールが弱々しく地面を転がる。
「よしっ」
成田君が小さく、だが満足そうに呟いた。
今のは、ボールをバットに当てた部分に加えてバットを引くタイミングが良く、打球が上に上がらず球の勢いもいい具合に抑える事が出来ていた。
球速を抑えていたとはいえ、今のは上手い。
「今のは上手なバントでしたね」
上手にバントできた成田君を誉めておく。
これひとつで部員のモチベーションを上げやすいので、誉める事はわりと重要だ。
「ありがとう、いいバットだろ?」
喜んでいる成田君は、わたしの予想してない、少し的が外れた返事を返してきた。
バント技術の事を誉めたつもりなのに、成田君からはバットの事を自慢するような返事が返ってきた。
「え、ええ、いいバットですね」
とにかく、バットの方も誉める事でモチベーションの増加に繋がるかもしれないので、余計な事は言わずにバットも誉めておいた。
その途端、成田君は爽やか?なスマイルを浮かべ、自らの手にあるバットに熱い視線を注いだ。
その眼に、ある種の怖さを感じた。
成田君の様子が少しおかしいので、バットの事をもう少し聞いてみる事にした。
「あの、そのバットって何か特別なバットなんですか?」
わたしが聞くと、成田君はウットリとした顔でバットから視線を外し、頷いた。
「そうなんだよ、なにせ楓たんモデルのバットだからね!」
「え……かえ…? え?」
ん? 聞き間違いかな?
聞き間違いじゃないとすれば『楓たん』って言ったよね?
そもそも『楓たん』って誰? そこからわからない。
みたいな事を成田君に言ったところ、成田君は怒涛の勢いで喋りだした。
早口でまくしたてる感じだったので聞き取りづらかった。
なんとか聞き取れたところから話を整理すると、成田君の見ている深夜アニメに出てくるヒロインの一人が、件の『楓たん』らしい。その深夜アニメは野球を題材にしたものらしく、かなり人気があるらしい。で、その『楓たん』モデルのバットがでたらしく、そのヒロインのファンの成田君は『楓たん』モデルのバットを買ったらしい。
以上が、話の中から聞き取れたところをわたしなりに整理してみた結果だ。
つまり、要約するとアニメキャラのモデルのバット買ったって事のようだ。
たったこれだけの事を理解するだけなのに、酷く疲れた気がする。
とにかく、聞いてる間は練習中止してしまったから練習再開しないと。
「ちょ、成田wwwお前、楓派かよwwwwwきめえwwwwww」
練習再開しようと思った矢先に、背後からやけにテンションの高い声が聞こえてきた。
この独特のテンションは一人しかいない。
「安川君ですか」
そう言い、後ろを振り返ると、予想通り安川慎吾君だった。
「当たりwwそれより、成田よぉwwwww楓派ってどういう事だよwww」
「何か文句でも?」
何やら不穏な空気が、二人の間に漂う。
「当たり前だろwwww楓よりも秋子に萌えるだろjk」
「秋子だって? 冗談だろ!? 秋子より楓たんの方がずっといいだろ」
「はっwwwwwお前目が腐ってんじゃねぇのwwwwwww」
「そっちこそ、視力大丈夫? いい眼医者知ってるから教えてあげるよ」
「違うかwww腐れているのはお前の脳みそかwwwwwwww」
「安川こそ頭がおかしいよ。いい精神科医教えてあげるから一生入院してろよ」
ああ、居心地が悪いことこの上ない。
二人ともアニメの話してたはずなのに、いつの間に罵りあいになったんだろう。
と、とりあえず止めないと!
「あ、あの二人とも喧嘩はいけないとおm」
「「市村さんは黙っててくれ!」」
二人からどなられた。しかもシンクロされた。
こう言われた以上、わたしでは何を言っても無駄だ。
残念だが黙らざるを得ない。
途方に暮れていると、誰かがわたしの隣を通り抜けていった。
「ここは私に任せろ。市村は、青山達のところに行け。練習の手伝いを探していたぞ」
わたしは、手の骨を鳴らしながら通りすぎていったキャプテンの指示に従い、青山君達のところに向かった。
余談だけど、この出来事から一時間程経った頃、あの二人がどうなったのか気になり、グラウンドを見渡してみた。
二人は、グラウンドの端っこの方で正座していた。しかも、俯いて、何かに怯えるようにガタガタと震えながら。
……いったい、あの後に何があったんだろう。
この時間だと、青山君は山吹君と投げ込みしているはず。
正直、投げ込みの練習では何か手伝いできるとはあんまり思えないんだけど、坂本先輩の言った事なので、口からの出まかせとは思えない。
ま、行ってみればわかるよね。
と、言う訳でビニールハウスで作られた簡易ブルペンの前に着いた。
いつもならここで練習しているはず。
ビニールハウスの扉を開くと、予想通りに投げ込みをしている二人……そして、予想外な事に、キャッチャーの斜め前方、わかりやすく言うならバッターボックスの位置にバットを構えて立っている者がいた。
ビニールハウスの中にいた三人……青空翔太君、山吹陽助君、川村龍一君、は一斉にわたしの方を向いた。
多分、誰が入ってきたのかと思って見たのだろう。頭の中ではそう理解できるのだけど、実際に一斉に見られると、不可視の圧力みたいなのを感じて、軽くのけ反りそうになる。
しかし、今はのけ反っている場合ではない。のけ反るよりも練習の手伝いという大切な事がある。
「えっと、坂本先輩に言われたんです。青山君達の練習で人手が足りないって」
ここに来た理由を簡潔に述べると、バッターボックスにいた川村君が構えていたバットを下ろす。
「……それなら、俺の役目は終わりだな…………」
「役目? 役目ってなんですか?」
「少しでも実戦に近い雰囲気で練習したかったから、仮想敵バッターとして、龍一にバッターボックスに立ってもらったんだ。ただし、バットは振らずに立ってるだけでな」
川村君の台詞の疑問に、青山君が答えた。
「そもそも、ここでボール打とうものなら、ビニールに穴空いちまうな。龍一のパワーなら尚更だ」
山吹君の言葉に、わたしは心の中で頷いた。
川村君は、入部当時からずば抜けたパワーの持ち主だった。飛ばす事に関しては多分部内一だろう。
その反面、バットコントロールがイマイチで、ボールに当たる事は十球中、一、二球がやっとといったところだ。
「……マシン打撃してくる」
川村君は、山吹君の台詞にも表情一つ変えず、バットを持ったままビニールハウスから退出した。今言った通り、バッティングマシンで練習しにいくのだろう。
「じゃあ、早速だけどバット持って打席に入ってくれ」
「はい」
近くに立てかけてあったバットを手に取り、川村君がいた場所と同じ位置に立つ。
「あ、言い忘れるところだった。おい、陽助、市村さんが見てるからって、調子に乗ったり力んだりするなよ?」
「そ、そんな事しねえよ! 考えてすらねーよ!」
からかうような口調で喋る青山君の言葉を、山吹君は必死な様子で否定する。
「そうか? その割には焦ってるように見えるんだが?」
「焦ってないっ! 余計な事言ってないで早く構えろ!」
焦りまくっている山吹君を見て満足したのか、青山君は言う通りにキャッチャーミットを一度拳で叩いて、前に突き出す。
「よし、来い」
山吹君は頷くと、大きく振りかぶり、左足を前に出し、ボールを持った右手を真横に振り抜く。
振り抜いた右手から放たれたボールは、サイドスロー独特の軌道を突き進み、青山君が外角低めに構えていたキャッチャーミットに納まる。
山吹君は、やはりコントロールがいい。
球威や球速があまりない分、狙ったところにきっちりと投げる事ができるコントロールは目を見張るものがある。
そして、そのコントロールの良さを一層良く見せているのが、青山君のキャッチングの上手さだ。
捕手のキャッチングが上手ければ、投手は心理的な余裕が生まれるし、投球にも幅ができる。
とはいえ、この二人が出場した試合を見た事がないので、このコントロールとキャッチングの良さが、試合でも通用するかと言われれば、?マークがつく。
「力みすぎだ。もう少し力を抜け」
「抜いてるぞ!」
「嘘つくな。俺が何回お前の球を受けてきたと思ってるんだ」
「嘘じゃねえって!」
二人は言い合いをしながらも、全生徒下校時刻が来るまで練習の手を止めはしなかった。
今日も練習時間が終わった。
わたしの場合、ここからもう一仕事がある。練習用具の片付けだ。
普段ならなんて事はないのだが、今日は筋肉痛なので、ただの後片付けも苦行になる。その辛さは今日、練習用具を準備した時に体験済みだ。
幸い、今日の練習手伝いはたいして辛くない部類に入るものが多かったので、今の痛みはほとんどない。
とはいえ、また重い物を持ったりしたら痛みが振り返すんだろうなぁ…………
「……はぁ」
でも、これもマネージャーの仕事なんだし、仕方ない事なんだ。
憂鬱な気分になりながらボールカゴに手を伸ばすが、ボールカゴを掴む寸前で、カゴが浮き上がった。
「えっ?」
素でそんな声が喉から漏れた。
訳がわからなかった。
だって、青山君がボールカゴを持っているのだから。
なんで今、青山君がボールカゴを持っているのだろうか。
もう練習時間は終わったのだ。
「筋肉痛なんだろ? 今日は俺達が片付けておくから、休んでていいよ」
色々と思考を巡らせていたわたしは、その一言で頭の中が真っ白になった。
……否、一つの疑問が残った。
「なんで、筋肉痛の事……いつから……」
「なんでって、昼休みに聞いたから」
青山君が指さした方向には、両手を顔の前で合わせ、ひたすら頭を下げる望ちゃんがいた。
「昨日、戻ってこなかったから何かあったのかと思って、市村さんと一番仲の良い望に聞いてみたんだけど……」
青山君は、一度言葉を切り、横目で望ちゃんの方を見る。
「コイツがそもそもの原因だったとはな」
望ちゃんは何か反論するつもりだったのか、口を開きかけたが結局何も言わずに閉口した。
「ま、そんな訳で今日のところは俺達に片付けさせてくれよ、な?」
「でも……」
わたしの都合で迷惑をかけさせる訳にはいかないと思い、断って自分で運ぼうとしたが
「でもも何もないっ……女の子なんだから体は大事にしとけ」
青山君はそう言うと、返事を待たずにボールカゴを持ち上げ、体育系部活共用の練習用具室へと歩きだした。
それに続いて、他の部員達も次々に練習用具を持ち、歩きだした。
その様子を、ただ茫然と眺めながら、青山君の言った言葉を脳内で反芻した。
「昼休みに聞いたのかぁ……」
同時に謎が解けた。
わたしが準備運動してた頃、ランニングを終えたみんなが何か話してたけど、わたしの筋肉痛の事だろう。
だから、今日の手伝いはたいして体を使わない、軽いものばかりだったんだ。
ああ、結局みんなに気遣わされちゃったか、マネージャーなのに……わたし、まだまだだなぁ。
マネージャーとしてこんな事、もう二度と無いようにしよう。
わたしは、心から決意した。
そして、片付けも終わり、本来ならここで解散なのだが、今日は解散前に野球部監督の豊永哲也先生から言う事があるとの事で全員グラウンドに集まっている。
「さて……今日は重要な発表がある」
豊永先生は定年間近の割には、張りのある声で語りだした。
重要な発表? なんだろうか?
豊永先生はみんなの視線を一身に浴びながら、口を開いた。
「春の甲子園をかけた、秋の予選大会が迫ってきてるのは、ここにいる全員が知っていると思うが……」
豊永先生は一度沈黙し、ため息をついてから、再び口を開いた。
「我が野球部は、秋の予選の出場を辞退する事にした」
最終更新:2010年05月25日 22:29