「我が野球部は、秋の予選の出場を辞退する事にした」
監督の急な宣言に、誰も、一言も、言葉を発せない。
そんな状況でも監督はお構いなしに話を続ける。
「つい一時間程前、ウチの生徒が暴行事件を起こした」
俺を含めた部員全員に動揺が走った。
「その報告を受け、我が校は全ての部で近々開催される大会の出場を自粛する事が決定し」
「待ってください!」
坂本先輩が監督の言葉に待ったをかけた。
「なんだ?」
「事件を起こしたのは野球部の部員ではありませんよね?」
「そうだ」
監督がゆっくりと頷き、それを見た坂本先輩も逸る気持ちを抑えるようにゆっくりとした口調で質問を続ける。
「ならば、他の部の部員ですか?」
「いいや、違う。事件を起こした奴はどの部にも在籍していない」
「では、何故出場の自粛を……」
「世間体ってやつだよ」
監督の放った一言は、坂本先輩を黙らせた。
「いいか、世間様ってのは思っているより頭が固えんだ。大体の奴らは学校の生徒達を単独ではなく、集団として捉える」
「と、いうと?」
「つまり、問題を起こした生徒とお前らは同じ学校の生徒ってだけなんだが、頭の固い奴らからすれば、今回問題を起こした奴もお前らも同じ問題児と見なされる。同じ学校の生徒と言うだけで、だ」
なるほど。つまり『箱の中の蜜柑が一個腐っていた。だからこの箱の蜜柑は全部腐っている』みたいな解釈をされる、という事か。
「そんな馬鹿な……!」
坂本先輩は、苦々しい表情で呻くような声での呟いた。
「という訳だ。この状況ではさすがに出場は避けたいのでな。ついさっき、出場を辞退する旨を伝えた」
監督は淡々と告げた。
「もちろん野球部だけではなく、近日中に行われる大会に出場予定だった部は出場中止となった。以上だ、今日は解散!」
解散が告げられたが、すぐに動き出す者は誰ひとりとしていなかった。
突然の衝撃宣言から一夜明けた、翌日の放課後。俺と麻生の二人は職員室の前にいた。
昨日の話について気になる所があり、監督に問いただしたい事があって、同じく気になったという麻生と共に、放課後に職員室にへと向かった。
麻生と顔を見合わせ、どちらからともなく頷くと、職員室のドアをノックし、中に入る。先頭は俺だ。
「失礼します」
中に入ると、職員室独特の雰囲気を感じ取れる。が、今はそんな事に構っている暇はないのだ。
辺りを見渡すと、椅子に座っている監督を見つけた。
「監督」
近寄り声をかけると、監督は書類に走らせていたペンを止め、こっちを振り向く。
「青山と麻生か。何か用か?」
二人とも同じ用事なので、俺が代表して話す。
「実は昨日の話についてなんですが……」
「その話はもう決着がついただろ。我が校は出場辞退だ」
それだけを言い、もう話す事は無いと言わんばかりに机の方へと向き直った。
だが監督に話す気は無くても、俺達にはある。
「監督、その件についてなんですけど気になる事があるんです」
「なんだ?」
「なんで監督は嘘をついたのかと思いまして」
書類の枚数を数えていた監督の手の動きが、一瞬止まった。
もちろん、その反応を見逃すような事はしない。
監督が何か言おうとしたが、それよりも速く、俺が口を開く
「昨日、監督は言いましたよね。近々開催される大会に参加する予定するだった部も、野球部と同じく出場停止にするって」
監督は無言。俺はそれを肯定の意を示すものだと受け取り、話を続ける。
「だけど、おかしいんですよ。俺のクラスに、野球部以外の『近々大会に参加する予定のある部』に所属している奴が三人程いるんですが、全員が大会出場停止の事は聞いていないって言うんですよ」
監督は、何も言わず、書類を数える手も止めず、ただ黙っている。
「それで、その三人はそれぞれの部の顧問の先生に出場停止になるのか聞きに行ったけど、全然そんな事はなく、逆に『何故、出場停止になるのか?』と聞かれたそうです」
監督は数え終わった書類を手放すと、ペンを手に取り書類に何かを書き込みはじめた。
その清々しいまでのシカトっぷりに俺は少々不安になる。だがもうここまで話したら止まらない。
「おかしいですよね、この『なんで出場停止になるのか?』って聞かれたの。監督は、ウチの生徒の暴行事件のせいだと言った。監督は知ってるのに、なんで他の先生は出場停止になる程の事件の事を、誰一人として知らないんでしょうか?」
監督は素知らぬ顔でペンを走らせる。
「つまり、この状況で一番自然な考え方としては、暴行事件は監督のでっちあげた実際には起こっていない嘘の事件だって事です」
「ついでに言うと、昨日一日ウチの生徒は誰も暴行事件を起こしてはいない」
俺の後ろにいた麻生が、付け加えるように言った。
「マジで?」
「ああ、信頼のおける筋から情報だから間違いない」
麻生は自信満々といった様子で告げた。
コイツがここまで自信ありげに言うのなら、まあ間違いはないだろう。
「……と言う事ですが、どういう事か聞かせてもらえますか?」
俺がそう言うと、監督はペンを置くと立ち上がり「屋上で話す」と言い、俺達の脇を通り抜け歩きだした。
俺達は慌てて監督の後をついていった。
屋上には、俺と麻生と監督の三人しかいない。
わざわざ場所を変えたという事は聞かれたくない系の話だろう。それを考えると都合が良かった。
監督は金網の向こう側に広がる校庭を見下ろしながら、口を開く。
「お前らの言う通り、暴行事件は俺の作り話だ」
「なら、大会には……」
「しかし、大会出場を辞退したのは本当だ。もっとも、連絡したのは昨日ではなくついさっきだがな」
「……!」
暴行事件が嘘だと判明し、大会に出れるかと喜びかけたところで「大会出場辞退は本当」と来たもんだ。しかも俺達に何も言わず、独断で。
危うく、一瞬本気でキレそうになったが、麻生が強く肩を掴んでくれたおかげで、監督に飛び掛かるのを我慢できるくらいの理性を保つ事ができた。
「な、なんで、嘘までついて大会出場したがらないんですか」
どうにも収まらない怒りが爆発しないように堪えつつ、監督に尋ねた。
「……俺は勝つ見込みのない勝負はやらない主義なんだよ」
監督の言葉が耳に入り、頭の中で反芻しながら言葉の意味を少しずつ理解していき……頭が沸騰しそうな程の怒りが込み上げるのを自覚した。
勝つ見込みの無い勝負はしない? ふざけるな。たったその程度の理由で貴重な試合の機会が、甲子園に行くチャンスが消えたんだぞ。
そして、俺達はまだしも先輩達はどうする。今回辞退した事で甲子園出場のチャンスは、来年の夏の一回きり……正真正銘のラストチャンスしか無くなったんだぞ。
勝つ見込みの無い勝負はしない。たった、それだけの理由で……!
「……い…おい、おい! 止めろ、青山!」
麻生の声が意識に割りこんできた。
止めろって、何をだよ?
「その手を離せ!」
手……?
俺はゆっくりと右手のある方を見る。
そこには、監督の胸倉を掴んで金網に押しつけている俺の右手があった。
そうだ、確か俺は監督の言葉にキレて頭の中が真っ白になって、肩を置かれていた麻生の手を振り払って、怒りに任せるままに監督の胸倉を掴んで、金網に力任せに押しつけたんだった。
どうやら、キレて記憶がトンだようだ。トンだ記憶を思い出すと同時に怒りを蘇ってくる。
虚脱しかけていた右手に再び力を入れ、監督を全力で金網に押しつける。
「ぬぐ……!」
監督が苦しそうな呻き声をあげる。
と同時に背中に衝撃を感じ、何者かに羽交い締めにされた。
今の状況を考えると、俺を羽交い締めにしているのは麻生以外には考えられない。
「離せ、麻生!」
「気持ちはわかるけど、まずは落ち着け!」
俺は麻生から逃れようとがむしゃらに暴れたが、麻生は割と力が強く、いくら暴れても逃れる事はできなかった。
しばらくそのままでいたが、俺が落ち着いてきたのを察知し、麻生は羽交い締めを解いた。
その直後に監督は口を開いた。
「青山、お前が激昂した理由、わからなくもない。しかし、出場したところで時間の無駄だ」
「なっ……!」
ようやく精神状態が落ち着いたところでこの物言い。
再び怒りが込み上げてきた。
「いいか、野球は九人いないとできない」
監督はごく当たり前の事を言った。
俺は今の言葉を不可解に思い、眉をひそめるが、監督は構わず話を続ける。
「今の野球部は四人が新入部員、しかも素人だ。仮に秋の大会に出場するとして、実戦までに鍛えたとしても使えるのは運が良くても一人だろう。他の三人は戦力として計算できない初心者的な存在となるだろう」
監督の言っている事は概ね正しい。と同時に反論一つできない自分を悔しく思う。
「さらに高校野球での実戦経験の無い者が四人。戦力と数えるには未知数すぎる」
その中の一人として、監督の言葉は精神的に痛く感じる。
「まあ、仮に四人全員が戦力になるとしよう。そして、さっき言った新入部員、上手くいって一人が戦力になったとしよう。そして、残った一人の坂本については戦力になる事はわかっているな?」
俺は頷いた。坂本先輩に関しては、普段の練習風景に加え、夏の大会でその実力を逃す事なく見ていたので、言われずとも戦力になるという事に異論は無い。
「しかし、そこまでだ。戦力になるのは多く見積もっても六人、残り三人は戦力にならない役立たずのままだ」
「役立たずって……」
「なら、どう言えと? 例えどんな言い方をしたとしても、役立たずなのは事実だ」
「……っ」
監督の言ってる事は間違いではない。
ついこの間入った、みちる先輩以外の新入部員四人はお世辞にも戦力と言えるようなレベルではない。秋の大会に合わせた練習をしたとしても、十中八九中途半端なまま終わるだろう。
でも、だからって監督の言い方は酷い。しかも、ここには新入部員の一人である麻生もいるのに。
横目で密かに麻生の様子を伺う。
麻生は自信なさ気にうなだれていた。野球を始めたばかりなので仕方ないとはいえ、役立たず呼ばわりされたショックは大きいようだ。
「でも、そうだとしても俺達がカバーすれば……」
「言ったはずだ、野球は九人いないとできない」
監督がさっきと同じ台詞を発するが、その言葉の意味はさっきとは全く違う。
「四人も足手まといを抱えている。こっちは五人で戦っているようなものだ。相手が弱小校ならまだしも中堅クラスの高校と当たってみろ。ほぼ確実に負ける」
監督はここまで言うと、一度言葉を止め、締めの一言を口にした。
「俺は勝つ見込みの無い勝負はやらない主義なんだ」
勝つ見込みの無い勝負はやらない……中堅クラスと当たると確実に負ける……? そんなの……やってみないとわからないじゃないか!
「どうやら納得できないようだな」
監督は俺の顔を見ると、ニヤリと笑いながらそう言ってきた。
「当たり前です!」
俺は監督に色々な鬱憤をぶつけるかのように怒鳴った。
監督は俺の怒鳴り声を聞くと、不敵な笑顔をさらに歪め、携帯電話を取り出した。
「なら、試してみるか?」
試すって……何を?
それを聞く前に、監督はどこかに電話をかけた。
「俺だ。ああ……ああ、そうだ、嫌とは言わさんぞ。お前は俺に五万程貸しがあったはずだ。断ると言うのなら、今日、それも今から返してもらいに行くだけだ。なに? 今月はピンチだから勘弁してほしい? そんな事、俺が知るか。……そうだ、最初からそう言えばいいんだよ。じゃあ今月末の日曜日でいいな? ……ああ、じゃあな」
そう言い、監督は携帯電話をポケットにしまう。
「決まったぞ」
「決まったって……何が?」
「何がって、練習試合だよ、花坂高校との」
監督は当たり前の事のように言ってのけた。
だが、俺達にとっては予想外すぎる事だ。
急に試合が決まった事もそうだが、相手が花坂高校と言うのも全くの予想外だ。
花坂高校は、今年の夏に泉原高校の野球部……つまり、俺達が在籍している野球部と甲子園行きを巡って決勝戦で激闘を繰り広げた関係である。ちなみに花坂高校は甲子園出場の常連校。つまり、ここの地区では最強クラスの高校である。
「証明してみろよ、今のチームで勝つ自信あるんだろ?」
なるほど、わざわざ強いチームを当ててまで自分の言った事は正しいと判らせる気か。
上等だ。
「例え、相手が花坂だろうがどこだろうが、やってやるよ」
「良い返事だ」
監督は楽しそうな笑顔を見せると「試合は今月末の日曜だ、励めよ」と言い残し、屋上から去っていった。
「麻生、部活に行くぞ」
俺は、急展開すぎる状況についていけてない麻生に声をかけ、部活に行くように促す。
花坂高校に勝つため。いまや、一秒たりとも時間を無駄にできない。
俺は麻生の腕を掴み、部室へと駆け出した。
【目指せ、甲子園-12 おわり】
最終更新:2010年07月23日 20:44