隆の手が伸ばされて俺の肩を掴んで、意識せずに肩が跳ねる。
「ちょっとくらいなら平気だろ?」
――…………っ!
隆の目は俺を見ていなかった。
気軽に訊かれて、たしかに隆に触れられることには特に嫌悪はないはずなのに……俺は渾身の力で隆の手を払い落とした。
「って…!」
「さわるな」
――なんだこれ……?
ぐらぐらする。何かが自分の中に積もっていって、息が苦しい。
「いきなりどうしたんだ?」
軽い口調の質問には答えられない。
のどの奥が固まったようになっていて……。
「なあ、どうしてそこまで嫌がってるんだ? 今までだってパシリとか宿題の肩代わりとかで似たようなことしてたじゃねえか」
借りた金を現金ではない形で返すのはよくやっていただろう、と心底不思議そうな顔で問われて、わけがわからないモノが一気に噴き出してきた。
何も考えられなかった。
でもその瞬間、ただ、いっそ泣きたい気分だったんだ。
「…………うるさい」
「は?」
「胸胸胸胸ってうるさい!!」
なんでいきなりこんなにキレてしまったのか、自分でもわからない。
そして何も考えられないからこそ最低の暴言を、俺は吐いてしまった。
「そんなに揉みたいならこんな面倒なことしてないで風俗でも何でも行けばいいだろ? どうせおまえの目的なんか乳だけなんだし」
隆のことを見下すのと同時に、
「ああ、でもそうか、四千円で一時間以上遊べんなら俺のほうが安上がりだもんなぁ!?」
自分のことも貶める最低な言葉。
一度勢いづいてしまったら、止めることはできなかった。
「おまえさぁ…うまいこと言ったつもりだろうけど、結局金で女の体を触ろうとしてるだけだろ? なんでだ、おい、ふざけんなよ?」
「……………………」
いっそ何か言い返してくれれば止まれるのに、それは叶わなかった。
「たかだか五日前まで男だった友達になんでそんなこと言えるんだ? どこまで自分勝手なんだ。俺が、本当に、そんなこと言われて喜んで体差し出す馬鹿だと思ってたってことか?」
また返事がない。
それが悲しい。
「だよなぁ、そうじゃなきゃあんなこと言えないよな。隆クンは、女になった俺は突然尻軽になったと思ってたわけだ、どんなこと言っても喜んで受け入れると思ってたわけだ!」
「違うっ」
「どこが違う? 俺は、女になってまだたったの五日だ。どう考えたってまだまだ女の気持ちなんかわかるはずない。まったく違う姿に戸惑うことばっかりだ。なのに、おまえはそんなこともわかろうとしなかったじゃねえか!」
ほんの欠片でもよかった。
少しだけ立ち止まって、俺の立場になって考えてくれさえすれば……。
「……なんでそんなに怒ってんだ?」
くらり、と視界が揺れた。
立ちくらみとかじゃない。あまりに違う考え、温度差にただただ悲しくなってくる。
「……男なんて馬鹿だって、俺がそうだったときから思ってた」
「あ?」
困惑したように隆が声を上げる。
「おまえさ、今まで友達だった奴らに性欲を向けられるのがどんなに気持ち悪いのかわかるか?」
隆が息を飲む。
あえて直接的な言葉を選んだのは、この男にもわからせるためだ。
「受ける方はわかるんだよ。下心が透けて見える視線向けられて、俺が楽しんでた思うか? 男にいきなり抱きつかれたりするのを喜んでるように見えたのか……っ?」
この五日間のことを口にすれば、隆は口をつぐんだまま顔を逸らす。
「隆のことはすごく……感謝してた」
過去形だと強調する言い方。
それに驚愕の表情を浮かべた隆がこちらを向く。
「そういうのをそれとなくガードしててくれた。隆は、他の奴らとは違って本気でこんなことを言ってこなかった。だから安心してそばにいれた」
嬉しかったんだ。こんなにも変わってしまっても変わらずに接してくれて、本当に嬉しかった。
「でも結局、おまえも、他の連中と変わらないんだよな……」
語尾が掠れて、視界がぼやけてくる。
うまく見えないけれど、それでも隆から目を逸らさずに俺は言い切った。
「帰れ」
純粋な拒絶の言葉を。
「二度と俺の前に来るな」
「な…………」
絶句する隆をじっと見上げる。
口を半分くらい開けて、何かを言いたそうに、だけど何も言えないまま隆は俺に背を向けた。
そしてやっぱり何も言葉を残さないまま、隆の背中は俺の部屋から消えていった。
階段を下りる足音の後に、玄関の扉が開閉する音が聞こえてきて、隆が本当に出て行ってしまったことがわかった。
不意に足の力が抜けて、俺はベッドに突っ伏す。
「ふ………っ」
決壊したように後から後から涙が出てくる。
なんでこんなに泣けてくるのか、ほんの少しだけわかる。
悲しいんだ。
自分でできないような言い方をしたくせに、言い訳すらしてもらえずに置いていかれたことが。
隆も、他のくだらない連中といっしょだったってことが……。
女になって、人間関係は全部変わってしまった。
男にも女にも属せずにポツンとしていた俺のことを、唯一、今までと変わらずに接してくれていた友達。
なのに、そいつも俺のことを見てくれない。こんなどうでもいい肉の塊にしか興味がないんだと思い知らされた。
隆はわかってくれている。そう思って全部が隆に傾いてしまった。
だからこそ悲しいんだ。
そんなつもりはなくても人格を――存在を否定された気分になる。
隆には、隆だけにはそんなこと言われたくなかったのに……。
「…………はは」
涙を流しながら、乾いた嗤いが漏れる。
あんなことを言って、ここから追い出したくせに今でも俺は隆と切れたくないと思ってる。
隆といっしょにいたいと、心の底から思ってる。
――けど、無理だ……。
俺のことを見てくれない相手とはいっしょにいられない。
隣にいるのに、別のモノを見られるのは、悲しいから。
「あ、はは……」
ここで気づいてしまった。
――なんだ……。
他の奴らにそんな目を向けられても嫌悪しかなかった。
けど隆にそうやって見られてこんなに悲しいのは、俺が女として、隆に惹かれ始めてたからだ。だからこそ、ただの部品にしか興味がないとわかって、悲しかった。
俺のことを見てくれていないとわかってしまったんだ。
『他の奴らにどんなふうに見られたって、隆がわかってくれるから』
なんの違和感もなく、ずっとそう考えてた。
隆がいるから、何もいらないんだと……。
俺は……最初から隆のことだけを別格として俺は見続けていたんだ。
「惜しかったね、門倉くん……」
あと一ヶ月遅く、同じことを言ってたならあいつはこの体を好きにできただろう。
でもそれは無理だ。
俺が自覚をする前に――想いを育てる前に、おまえがそれを潰してしまったんだから……。
「ばいばい……」
俺以外、誰もいない部屋でそう呟く。
女としての初めての感情に。
俺の、一番の親友に……。
「自覚があって潰える世界」 BADEND
最終更新:2008年06月14日 23:01