『…悪い。明日、行けなくなった』
そのセリフを聞かされるたびに泣き出してしまいそうになる。
「うん、わかった。仕事、がんばれよ!」
でもそれを気づかれないように、わざと明るく言って、俺は電話を切った。坂崎さんに迷惑をかけたくないから。
たとえほんの少しでもいいから……まだこのままでいたかったから。
今から三ヶ月前。中学校の卒業式の日。
「…好きです。付き合ってください」
ちょうど休みという事でソファでくつろいでる坂崎さんに、俺が必死の思いで告げたとき、あの人は目を丸くしていた。
「は…? いきなりなんだそれ?」
ふざけてると思われたのか、半笑いでそう聞き返された。でも俺のほうを見てすぐにその笑いは消える。
「もしかして……マジか?」
予想はしてたけど、いざ拒絶されると胸が絞られるみたいに痛い。
「……ごめんなさい…」
ふつう、いきなり10も下の、それも元男からそんなこと言われても迷惑なだけだよな…。
「あ、いや…、謝られても…」
そのまま気まずい沈黙が流れた。
現実から逃れるように、俺は坂崎さんと初めて会った時のことを思い出していた。
坂崎さんと出会ったのは、俺が女体化してしまった日から一週間後くらいのことだった。
『15、16歳の未経験の男は女体化』
このふざけた現象がいつ始まったのかはわからない。だけど俺たちが生まれた時にはそれが世間の常識になっていた。
女体化の大半が16歳の誕生日前後に起こると、俺たちは保健体育の授業で教えられていた。
まだしたことがなかった俺は、あと1年はあるから大丈夫だろう、とその授業のせいで勝手に思い込んだまま、あの日を迎えることになってしまった。
その日は朝起きると奇妙なほどだるくて。顔を洗ってすっきりしようと体を引きずるようにして洗面所まで行って、そして俺は叫んでいた。今までじゃ到底出せないような甲高い声で。
はっきり言って、それまでの俺の顔は並レベルだった。だからこそ、楽しく平穏な生活を続けられていたってことに気づかされる。
今までからは考えられないほど変化してしまった俺の外見。
自分のはずなのに、鏡の中の美人は誰だと思ってしまうほどに変わってしまった俺は最初は楽観的に構えていた。
けど現実は違っていた。
学校ではそれまで友達だった奴に『そういう対象』として見られるおぞましさと、『調子に乗るな』と女子からの無言の圧力。
今考えれば、うちの学年でその時に女体化してしまったのは俺だけだったから、どういう接し方をすればいいのか、誰もわからずにああなってしまったんだと思う。
しかも家でもぎくしゃくすることになった。
女になってしまった俺は父さんにも母さんにも、親戚の誰にも似てなかったんだ。
明らかに顔の系統が違いすぎる俺が家にいることで、どこか緊張した雰囲気が流れていることに気づいた時、俺は家を飛び出していた。
どこにも行けず、ただ夜の繁華街を彷徨っている俺はかなり危ない状態だったんだろう。
「こんなとこうろついてると、マジで危ないぞ」
斜め上からかけられた声に、見上げると、若い男が近くから俺を覗きこんでいた。
「別に、いい」
切り捨てた俺の言葉に苦笑いを浮かべ、男は頭を掻きながら上着から手帳を取り出す。
「俺さ、こういう身分だから。目についちゃったもんは放っとけないんだよな」
警察手帳…。初めて見た……。
坂崎……駄目だ、下の名前の漢字読めない…。
「俺、補導されるわけ…?」
「『俺』…?」
俺の一人称に疑問を持ったのか、一瞬だけ眉にしわが寄る。
「俺、元は男だから…」
「ああ、そうか」
あまりにもあっさりとした声に驚かされて、ばっと顔を上げると、男―――坂崎さんはふっと笑った。
「それが、こんなところでうろついてる理由なんだな?」
本当に短い受け答えで、何もかも見透かされて、俺は動揺のあまり動けなくなってしまった。
「とりあえずおまえんちに送ってくから。住所教えろ」
明らかに上からの口調で言われて、頭に血が上った。
自分でも何を言ったのか興奮しすぎてて覚えていない。だけど、今まで溜まっていた辛さや哀しさを、たった今会ったばかりの坂崎さんに全部ぶつけてしまっていた気がする。
職業とはいえ、こんな馬鹿な奴のヒステリーに付き合わされて、絶対に嫌がられてると思った。
なのに、坂崎さんは俺が怒鳴り終わった後に一言しか言わなかった。
「つらかったな」
それも、本当に俺のことを考えてくれて、それ以上何も言えないという表情で…。
壊れかけていた何かが、ゆっくりと癒されていくような気がして、俺の目からは無自覚に涙が流れ出していた。
そんな俺の頭を坂崎さんが撫でて、また涙を止めることができなくなった。
「一人じゃ、きつかったな…?」
初めて、俺をわかってくれた人。
「これ、俺の電話番号だから。もしまたつらくなったら、すぐに言って来い」
さらさらと書いたメモを俺に渡しながら、愚痴くらいでも言えば楽になるだろ? と、笑ってくれる坂崎さんの顔は忘れられないものになった。
こんな感じで俺と坂崎さんは出会ったんだ。
それから、定期的に俺は坂崎さんと会うようになっていた。
有名大学出の警察官を両親は疑わずに俺はちょくちょく坂崎さんの家に遊びに行くことを許してもらっていた。(俺が坂崎さんと会った後は、気分が浮上してるのに気づいたせいもあるんだろうけど)
坂崎さんは、最初こそおとなしげな今の俺に外見に騙されてたけど、すぐに俺が男のままの、がさつで大雑把だと見抜いてからかってきた。聞くところによると、坂崎さんの部署には女体化の人が多くて、そういうのがすぐにわかるんだそうだ。
坂崎さんといっしょにいる時間はどこまでも楽しいものだった。
女体化してから知り合ったからか、何も気負わずに今の俺だけを見てもらえる。
家よりも学校よりも、安心していられる場所だった、はずなのに…。
俺に向けられる、呆れたような、からかうような坂崎さんの笑顔をまっすぐ見られなくなったのは、いつかはわからない…
必死に打ち消そうとして、だけどいつまでも残り続ける想いを、否定するための材料はすぐに無くなってしまった。
そして俺は自分の気持ちを認めざるをえなくなったんだ…。
長い溜息が聞こえて、俺は現実に引き戻された。
女になってしまってから、初めて気を張らずにいられた、この大好きな空間全部に拒絶されているかのような錯覚に陥る。
誰にも聞かれたくなかったから、一人暮らしの坂崎さんの部屋で言ってしまったのがアダになってしまった。
「っ……帰、る…」
坂崎さんを困らせたいわけじゃなかった。ただ俺がこのまま何の確かな繋がりもない知り合いで終わるのが嫌なだけだったんだ。
「ちょっと待った」
逃げようとしたところで、手首を掴まれて引き戻された。でも坂崎さんの顔を見ることなんかできなくて俯く。
「冗談…じゃないんだよな?」
まだ手首を掴まれてて、近くにの顔があるのが今はつらい。
それでも嘘はつけずに一度だけ頷くと、ゆっくりと手を外されて、馬鹿みたいにそれにさえ傷つく。
「慧、おまえ…俺のどこが良いわけ?」
真剣な声で問われる。
「…わからない……」
「は?」
「でも、坂崎さんだからだと思う…」
仮にあの時、繁華街で別の人と出会っていたとしても、その人は好きにならなかった。
それだけは絶対に言い切れる。
俺の言葉に、坂崎さんはまたしばらくの沈黙を置いて。
「……じゃあ、付き合ってみるか?」
脈絡も無く切り出されたその言葉が俺と坂崎さんのお付き合いの始まりだった。
そして話は冒頭の現在に戻る。
「また、約束破られたの?」
学校で机に突っ伏していると、頭の上から呆れたような声が降ってきた。唯一同じ中学からここに来て、そして唯一俺の事情を知ってる杉田だ。
俺は中学の時に女体化したのに比べて、高校に入ってから女体化した杉田の方が明らかに女を楽しんでる。
もともと杉田はかなり太ってたけどいまやその面影はなくて、かなりグラマーの美人に変貌している。
「別に、破られたわけじゃない……」
杉田の質問にそう返す。ちゃんと事前に連絡を入れてくれたんだから別に破られたわけじゃない。
「じゃ、なんでそんなふうに落ち込んでるわけ?」
さらに追求されてしまって一瞬言葉に詰まる。
「そ、それは…」
「ここまで小田原が落ち込む理由っていったら、私は一つしか知らないけど?」
完璧に見透かされてて、それ以上は何も言えなくなる。
そんな俺に杉田は一回大きなため息をついた。
「あのさ、あんまり言いたくはないけど…。小田原さ、その人に遊ばれてるんじゃないの?」
「そんなこと…ないと思う」
俺だって自分の身の程ぐらいわかってる。
元男だし、お金を持ってるわけでもない。そして何か手を出されたわけでもない。
仮に遊ぶ相手だとしても全然割りに合わないし、何より坂崎さんはそんなことできる人じゃない。
「平気だから。そんなに心配しなくてもいい」
杉田の目を見て言い切ると、渋々といった感じで杉田はその日、何も言ってこなかった。
付き合い始めてから何週間かしたころ、大きな事件があった。
隣の県で起きた事件だったけど、犯人がどうたらってことで坂崎さんも駆り出されることになったらしい。
部外者には情報は出せないからよくわからなかったけど。
そのころまでは坂崎さんの休みに少しの時間だけでも会えてたけど、五月に入ってからはめっきり会う回数は減ってしまった。
それでも休暇は多少あるけど、その貴重な休みを俺に使うことなんかない。
あんなに楽しそうに仕事の話をしているんだから、俺はわがままなんかを言えるわけない。
坂崎さんを困らせるようなことだけは絶対にしたくはない。
だから坂崎さんの寝る時間を削らないように夜のメールもずっと控えてるし、迷惑のかかる言動は絶対にしてない、と思う。
仕事のことはよくわからないけど、俺にできるのは、それくらいだし……。
「それに…もう少しの我慢だし」
思わず呟いてしまって、俺はベッドの上で周りを見回した。自分の部屋。誰に聞かれるわけもないんだけどな。
実はその事件の犯人はすでに捕まっている。
なのに、坂崎さんがまだ忙しいのは、その裏づけとか事後処理っていうのが長引いてるかららしい。
――だから、あともう少し我慢…。そうすれば前みたいに普通に会えるから。
「それに…もうすぐ坂崎さんの誕生日だし」
暗くなってしまった考えを振り払うように、わざと口に出してそう言う。
前に聞いておいたんだ。坂崎さんの誕生日は来週で、ちょうど日曜日。
――たぶん、忘れてるんだろうな~。
坂崎さんは変なところで無頓着で、よくそういう日を忘れる。他の人の誕生日とかは覚えてるくせに。
「前も、その前の約束もだめだったけど、来週の日曜日こそ…」
この日のためにこつこつ貯めておいた金で一応プレゼントも買ってある。前に坂崎さんが好きだって言ってた、俺はよく知らないメーカーのネクタイピン。
「……喜んでくれるといいな」
『♪~、♪~』
突然携帯が鳴り出して、ベッドでうとうとしかけていた俺は思いっきり肩を弾ませた。
半ばむっとしながら携帯に手を伸ばして、そして画面に表示された名前を見てそれだけで胸が高鳴る。
「はいっ」
『ああ、慧か?』
実を言うと、俺は電話で話すのは苦手だ。坂崎さん相手だと特に。
――まるで耳元で囁かれてるみたいで……。
『慧? どうした、なんかあったのか?』
「えっ、な、なんでもないっ!」
『坂崎さんの声に聞き入っていました』なんて、もちろん言えるわけなくて無理やりごまかす。
『なら良いけど…あのな、慧…』
言いにくそうに言葉の最後を濁す坂崎さんに、嫌な予感が一気に膨らんだ。
まさか……。
「また…仕事?」
『悪いっ! 今日までに一段落つくはずだったんだけど、ちょっと…トラブって、明日も俺が行かなきゃならなくなったんだ』
どうして…?
あからさまに傷ついた、そして責めるような言葉が出てしまいそうになって、慌てて明るい声を作る。
「うん、わかった。身体壊さないようにがんばって! また今度な!」
早口で言い切って、それ以上何も言われないうちに俺は電話を切ってしまった。
「……っ………」
ぎゅう、と締め付けられるように胸が痛む。なんでここまでタイミングが悪いのか、と坂崎さんの仕事を恨んでしまいそうになる。
だけど、我慢……しなきゃ…。
俺は、ただ坂崎さんに『付き合ってもらってる』だけなんだから……。
そしてその週の日曜日。
俺は坂崎さんのマンションに来ていた。俺の家からは電車で5駅。意外と近い。
――11時、か…。坂崎さんはもう仕事に行ってるよな…。
携帯で時間を確認して、マンションの入り口に立ち尽くす。
坂崎さんのマンションはオートロックの共用玄関で、坂崎さんがいない今は開けてもらうことができない。
ちょっと怪しい気もするけど、そこで待っていると、中から宅配便っぽい兄ちゃんが出てきて、俺は中に忍び込むことに成功する。
軽く犯罪行為なんだけど、まぁそれはさておき。
なんで俺がここに来てるかというと、プレセントを置きに来たんだ。せっかく買ったんだから、直接じゃなくても誕生日に受け取ってほしいから。
あまり大きくない箱だから、あの玄関の郵便受けにも入りそうだし。
ちゃんと書置き(?)も付けてあるからわかるだろうから。
そんなことを考えながら、坂崎さんの部屋の前まで来た。ここに来るのは本当に久しぶりだ。
あの事件が起きて坂崎さんが忙しくなってから、一回も来なかったから…。
そう考えると、その犯人がものすごく憎い。
いっそ死刑にでもなればいいのに、と物騒なことを考えながらネクタイピンの入った箱を郵便受けに入れる。
コトンと小さな音が中から聞こえた。
――坂崎さんが、喜んでくれますように。
神社みたいに手を合わせそうになって、さすがにそれはやめておいた。
「さて、と…」
もうやることもない。だけど、せっかくここまで来たのに、と後ろ髪を引かれる思いになる。
「少し待ってたりしたら、帰ってきたり…?」
だから思わず馬鹿な考えが口から出て、自分で笑ってしまう。
坂崎さんは仕事に行ってるんだから、そんなことありえないのに。
長くいればそれだけ帰りたくなくなるから、さっさとエレベーターのほうに引き上げることにした。
なのに、いざ俺がエレベーターの前に来た途端、はかったようにエレベーターは下に降りていった。
ひでぇ…。
それでも一階にいたもう1つが上昇を始めて、他の階に止まることなく、俺がいる階までまっす……。
「………え……?」
「…あ……?」
エレベーターが開いたそこに立っていたのは、今ここにはいないはずの人。
俺の一番大事な人が―――今は仕事に行っているはずの坂崎さんが立っていたんだ…。
なんで、なんで、なんで?
今の状況が信じられなくてそれしか考えられない。
だけどそれより気になるのは…。
「……ど、どしたの、坂、崎さん? 仕事、は…?」
場合によっては私服で出勤する坂崎さん。だけど今は仕事に行けないようなボロい、とてもラフな格好をしている。
――どうして、答えてくれない…?
「あ、もしかして、仕事は午後から…」
「慧、わかってるんならもう言うな」
目を逸らしたまま切り捨てるかのような坂崎さんの一言が、必死に否定してたある可能性を真実だということを示していた。
今日は…ほんとは仕事なんか無かったんだ……。
ずっと、考えないようにしていた。『もしかしたら、俺は坂崎さんに避けられてるじゃないか』なんて。
そうじゃない。今はただ忙しいからだって、だから会えないだけなんだって、何度も自分に言い聞かせてきた。
「どう、して…?」
頬を水が伝っていって、それをぬぐうことができない。
舌打ちをして、坂崎さんは振り払えないほど強い力で俺の手首を掴んで、ずんずんと廊下を歩いていく。俺は半ば引きずられるようにして坂崎さんの部屋に入った。
『………………』
無理やりソファに座らされて、冷え冷えとした雰囲気に、坂崎さんのほうを見ることすらできずにただうつむく。
重苦しい沈黙の中で、坂崎さんがため息をついて、身体が勝手に竦んだ。
「…ごめっ、ごめ、な。せっかくの、休みなの…に」
みっともない。しゃくり上げるのを止められず、妙なところで言葉が切れてしまって後悔する。
だけど、何かを言わずにはいられなかった。
坂崎さんに、言葉をかけられるのが怖かった…。
「…邪魔、して、ごめんなさ、いっ……。いま、帰る…から…」
これ以上ここに居たら、坂崎さんの迷惑になる。嫌われる。
もう手遅れかもしれないのに、そう思うことでしか自分を保てない。
ここにいたら、壊れてしまう…。
「なんで……おまえはいつもそうなんだ?」
立ち上がりかけた俺は、聞いたことのないような坂崎さんの真剣な声と掴まれた手に止められてしまった。
「な…にが?」
「どう考えても俺のほうが悪いのに、おまえはどうしていつも……今もそうだ、どうして責めない。なんで自分が悪いなんて考えるんだ?」
思いもよらないことを訊かれて、混乱が強まっていく。
のどがつっかえるようになって、何も言えない。首を横に振って、それを伝えても坂崎さんは手を放してくれなかった。
「それ、は…」
無言で俺の答えを待っている坂崎さんの顔を見ることさえ怖くて、俺はうつむきながら声を発した。
「俺が、坂崎さんに付き合ってもらってるんだから…」
だから、そんなのはあたりまえのことなんだ…。
消え入りそうな俺の答えに、坂崎さんの手がびくりと震えた。
「おまえ…『付き合ってもらってる』って、何だよ?」
「だって、俺、元々男だし…、坂崎さんに、何もして、あげられない……し」
「…んなの、最初からわかってんだよ。それに、こんな年下の奴に何かしてもらおうなんて思ってるわけないだろ?」
それは、俺には何も期待してなかったってこと……か?
やっぱり俺なんか、いてもいなくても同じ、だったんじゃないのか?
いや、違う…。無駄な時間を使ってしまう分だけ、俺がいないほうがよかったんだ。
「なあ、どうしてそこまで…自分を下に見るんだ?」
立っていられなくて座り込んだ俺に視線を合わせて、坂崎さんが聞いてくる。
言いたくなかった。こんな女々しいこと言ったら、呆れられてしまうから…。
「俺…、坂崎さんに『好き』って言われたこと無い…」
でも、坂崎さんにはウソをつきたくなくて言ってしまった。
「わか、ってる…から、…うん。坂崎さ…は、いい人だから…」
だから、告白したとき、俺を突き放すことができなかったんだろう。
でもそれ以上に残酷だ。こんなふうに遠回しに離れていくなら、最初の、あの夜に無視しててくれれば良かったのに…っ。
「………マジ、か?」
笑っているかのような息とともに、吐かれたセリフに、頭を殴られたような気がした。
怒ればいいのか、悲しめばいいのかさえわからずに、ただただそこで動けなくなってしまった。
「悪かった!!!」
突然、坂崎さんが頭を下げた。
「な、に…?」
困惑したような俺の声にも、坂崎さんは頭を上げてくれない。
ようやく顔を上げてくれた坂崎さんの表情は、今まで見たことがない自嘲的なものだった。
「そっか…、そんな初っ端から、俺間違ってたのか」
坂崎さんは自分だけ納得した顔をして、そして手を顔に当てる。
「約束破って、しかも付き合ってる奴をこんな不安にさせて……うあ、俺マジ死んでいいわ」
信じられない単語が聞こえて、俺は恐る恐る坂崎さんの顔を見る。
「付き合って、るの? まだ、俺は…坂崎さんの恋人でいていいの…?」
「あたりまえだろ」
こっちこそ、愛想を付かされてるんじゃないか、と、笑いながら、だけど目だけは真剣に問われて、慌てて俺は首を横に振った。
「良かった」
次の瞬間、俺は坂崎さんの腕の中に閉じ込められていた。
強い力で抱きしめられて、何も考えられなくなってくる。変態みたいだけど坂崎さんの匂いに俺は弱いみたいだった。
「何回もドタキャンして、本当に悪かった。……ごめんな?」
後ろから抱きかかえられて座っている体勢で言われて、でも俺は首を横に振った。
「もう、いいから。…もう、忙しくないんだろ…?」
こうやって、嘘を吐かれたのは今回だけ。それまでは全部仕事だった。
いっそ職場の奴らに聞いてくれてもいいとまで言ってくれたんだから、本当なんだろう。
『会ったタイミングがタイミングだったから、それで全部俺に傾いたんじゃないかと思った』
坂崎さんは正直に話してくれた。
あまりに文句を言わない俺を、そのせいで文句が言えないだけじゃないのかと不安に思ってたっていうのも教えてくれた。
だからってこんなふうに実際に試すのはひどいけど。
「だけど、俺のせいだったんだな」
「うん、そうだよ」
俺も正直に言うと、後ろから苦笑いが聞こえて。
そして坂崎さんの足をまたぐようにさせられて、正面を向かされた。
「いままでずっと、ごめんな? ………好きだぞ」
照れたように笑いながら、俺が一番欲しかった言葉をくれる。
「うん……俺も、好き」
頷くと、キスをされた。
「―――っ、ぁ…」
頭と腰に手を回されて、侵入してきた坂崎さんの舌にいやらしく口の中をかき混ぜられる。
頭がぼーっとなってきたころにやっと唇を離された。
「大丈夫かー?」
その声に頷くと、またキスされた。今度は触れ合わせるだけのものを。
「今度からは、お互いにちゃんと話し合おうな?」
至近距離で覗き込まれながら、いたずらっぽく言われて、でも少しだけ困惑する。
そうなるとわがままばかり言いそうな自分が怖い。
それを伝えると、坂崎さんはからかうように笑った。
「10も年上なんだから頼りにされたいぞ。それに」
「こんなに可愛い彼女の言うことを迷惑と思うはずないだろ?」
耳元で囁かれた声に、俺はしっかりと泣かされてしまった。
最終更新:2008年06月14日 23:05