最初はとくに思い入れがあったわけじゃなかった。
夜の繁華街をふらついてるのを女の子を注意して、家に帰す。
たまにある、仕事にも入らない程度のことのつもりだったんだ。
「なあ、別にそんなことしなくてもいいんだぞ?」
マンションの自室。リビングのソファからの俺の言葉は、相手に聞こえなかったのか、返事を貰えずに床に落ちた。
「慧?」
やはり返事はない。
腰を上げてベランダに顔を出せば、一生懸命にシーツと格闘してる可愛らしい姿があった。
「おーい?」
「えっ!? なに坂崎さん?」
心底驚いたという顔でこちらを振り向いたのは小田原慧。
元男で10も年下の、俺の恋人だ。
「いや、なんか手伝うか?」
「ううん、あとちょっとだから大丈夫。坂崎さんは座ってていいよ」
はにかむような笑顔で何の含みもなく言われて、俺はすごすごと元の位置に戻ってくる。
慧とこういう関係になってだいたい半年ほど。
『好きです。付き合ってください』
まだ高校生にもなっていない慧にそう告白された時は、まず冗談だと思った。けれどそう聞き返して泣きそうな顔をされて、慧が本気だということを悟る。
『なんでかはわからない。だけど坂崎さんだから』
どうして俺のことを、と問うた答えはそれだった。
前触れさえも予期できなかった唐突過ぎる告白。あまりに一途な視線にただただ困惑するばかりだった。
そんな俺に慧はひどく小さくなってごめんなさいと言ってくる。
慧は女体化してから、周りとの折り合いがうまくいかずに自分の居場所を見つけられないでいた。そこにちょうど俺が現れて、それで全部傾いてしまったんだろう。
そんな推測は容易に立てられた。
大人として、ここはちゃんと切り捨ててやらなきゃいけなかった。
「……じゃあ、付き合ってみるか?」
だがこんなことを言ってしまったのは、魔がさしたとしか言いようがない。
たまに遊びにくる慧との心地良い距離感やら、慧のとても可愛らしい外見やらいじりがいのある性格やら何やら……。
ここで切り捨ててしまったら、それを全て失ってしまう。
それだったらいっそのこと――――。
それに俺と付き合うことなど、まったく楽しいことではないことにそのうち気づくだろうと、慧の告白にその場で応えることにしたのだが……。
まさか自分が本気でほだされてしまうとは思わなかった。
名目上は付き合うということになって、それまでの妹や従姉妹のように見ていたものとは違う見方で慧のことを見るようになって、いつしか心の内は変わった。
じっと見つめてくる目が愛しくてしょうがなくなった。
仕事で約束をドタキャンした時も、純粋にがんばってと言ってくれる健気さにどうしようもなくまいってしまったんだ。
けれど、ほどなく慧の健気さは俺にとって不安なものにすり替わっていく。
例の事件のせいだ。
あの犯人がよりにもよってうちの管轄に逃げ込んだうえ姿をくらましたもんだから、自然、独身者から泊り込みの仕事に駆り出されてしまうことに……。
そのせいで慧との約束を守れない日がかなり続いた。
そうやって何度も約束を反故にしてしまったというのに、こいつは何一つ文句も泣き言も漏らさず、その度に笑って許してくれた。
実際に構ってとせがまれてもどうしようもできなかったくせに、俺はあまりにわがままを言わない、甘えてもくれない小さな恋人に不満を抱いていた。
そして一度や二度ではないその不満は不安へと姿を変える。
――本当に、俺は慧に好かれているのだろ
うか?
約束をドタキャンしても、たまの休みでさえまともに構ってやることもできなくても、慧はずっと笑っていた。
――不貞腐れることも、怒ることも、文句を言ってくることさえしない慧はただ『ごっこ遊び』をしている気分なんじゃないか?
慧に対して失礼すぎる考えを、あの時の俺は本気で抱いていた。
最初の最初に考えたことと相まって、それは消えるどころか大きくなる一方だった。
そしてよく考えればそんなことないとわかるはずの疑念は……盲目になっていたあの時は気づけず、俺は駆け引きじみたことを慧に仕掛けてしまったんだ。
ただただ相手を想うことしか知らない純粋な子供に……。
思い出すだけでも苦々しい記憶。
六月、ありもしない仕事を口実に慧との約束をわざと断って、後に残るのは後悔だけだった。
『身体を壊さないように頑張って』
再三のドタキャンにも関わらず、慧はまた怒ることもなくそれどころか俺の体調を気遣う言葉を残して電話を切った。
――……何をしてるんだ俺は。
携帯を片手にぼんやりとそんなことを思う。
せっかくの慧といられる時間を自分から消してしまうなんて……。
我慢だ、それも慧の真意を量るためだと自分に言い聞かせる。
しかしそれはただただ自分の不安を消すためだけに慧をないがしろにしていることだと、この時点では気づくことは出来なかった。
そして慣れないことはすべて裏目に出る。
その週の日曜日。
どこに行くことも何をするでもなく、俺は自室でボーっとしていた。外に出て慧と鉢合わせになることが怖かったのかもしれない。
けれどコンビニに昼飯を買いに行って、帰ってくるときに慧とエレベーターホールで出会ってしまったのだ。
すっかり忘れていたがこの日は俺の誕生日で、慧は俺がいないと分かっていてもプレゼントだけでも、と届けにきたのだと後で知った。
しかしあの時はそんなことは考えられずに、目を見開いた慧をただただ眺めることしかできなかった。
『……ど、どうしたの坂崎さん? 仕事は…?』
今にも泣きそうな歪んだ笑顔で慧が問いかけてくる。信じたくない、と、そんなことないよね、と訴えかけてくる目に、それ以上嘘をつくことはできなかった。
『あ、もしかして午後から……』
『慧、わかってるんならもう言うな』
ひゅ、と慧が息を飲んだのが分かった。
全てを理解して慧は泣き出した。そのくせ、そんなふうになっても恨み言一つ漏らさない慧に俺のほうが我慢できなかったんだ。
黙って涙を流す慧の手を引いて、自分の部屋に入る。
ソファに慧を座らせ、事情を――あまりにくだらない弁解をしようとして、けれどあの繁華街で出会った時と同じ、悲痛すぎる泣き顔に何も言えなくなってしまう。
怒られるよりも、呆れられるよりも、好きな相手に泣かれることが何よりも辛い。そんな当たり前のことを初めて知った。
あまりの情けなさに溜息が出る。こんな最低な奴は、こんなにもきれいな相手とは釣り合わないのではないか。そんなことを考えている中、慧は、また、俺を気遣う言葉を切り出してきた。
せっかくの休みなのに、邪魔をしてごめんなさい……と。
たったそれだけを残して帰ろうとする慧の手を握り、俺は問い詰めることしかできなかった。
なぜ怒らない、どうしてそこまで卑屈になるんだ、と。
『俺が、坂崎さんに付き合ってもらってるんだから』
とまどっているような声での答えに愕然となってしまう。
――付き合って『もらってる』?
まるで、俺が慧のことを適当に扱っているかのような言い方に、知らず眉をひそめてしまった。
もちろんどういうことだ、と重ねて問うて。
『俺…、坂崎さんに『好き』って言われたこと無い…』
鈍器で殴られたような気分になった。
なんとなくの流れで付き合いが始まって、そしていつの間にか本気になって、けれど俺はそれを一度も慧に伝えたことはなかったのだ。
笑いしか出てこないとはこのことだ。
なんのことはない、慧が俺に甘えてくれなかったのは全て俺のせいだった。何も明確な言葉を貰えないまま、ずっと放っておかれた慧は俺とは比べ物にならないほど不安だったはずだ。
それでも慧は我慢していた。俺にこれ以上迷惑をかけてはいけないと、ずっと萎縮していたのだ。
自分で自分の首を絞めたくなる。だがそんな馬鹿なことをする前に、やらなければならないことがある。
まだ間に合ううちに、この柔らかな存在を失ってしまう前に……。
『もう俺なんかと付き合ってられないか?』
『もう愛想尽かされてしまったか?』
こんなひどい男の、こんな時でさえ真面目になりきれない言葉に、慧は涙ながらに首を横に振って否定してくれた。
三ヶ月前のあの日から、改めて俺と慧の関係は始まったのだ。
そんな感じでようやく分かり合えたというのに、犯罪や事件というのはネズミが増えるより速いペースで湧いてくる。
夏休みのおかげでさらに忙しい終わった八月。多少ある休みの時は、今度は慧の方が家族旅行や夏期講習でまとまった時間が取れず、結局夏休みに遊びに行けたのはたったの二回。そのどちらも日帰りだった。
そして今、また新たな事件に俺は追われている。
今日は九月の祝日。全国的に休みである今日も俺は仕事……の予定だった。
つい最近捕まった犯人はどうやらわざわざ遠方から出向いてから、こちらで強盗未遂を犯したらしく。それだけならまだしも爆弾めいたものまで所持していたために急遽、俺が家宅捜索の立会いに赴かなければ行かなくなったのだ。
そういうことで、今日明日(できれば日帰りにしろと言われたがまっぴらだ)で東北に出張するはずだったのだが、なんとあちらの担当者が急病で倒れたというのだ。
幸い大事ではなかったらしいのだが、あちらもよほど人手不足なんだろう。
同担当には新人しかいないため引継ぎに少々時間が必要ということで出張は無しになり、さらには最近休みを取っていないだろうと、部長に今日から三日間の有休を取らされてしまった。
休みに文句があるはずもない。けれど休みになるのだったらもう少し、早くに言ってもらえなかったのだろうか。
あと一日でも早くに教えてもらえれば……。
「坂崎さん、どうしたの?」
いつの間にやら洗濯を終えた慧に近くから覗き込まれて内心かなり驚く。
ふと見れば先ほどまで洗濯カゴを抱えていた慧の手は、今度はなんとかワイパーとかいう簡易掃除用具を握っていた。
それは元々俺の部屋にあったものではなく、慧が少し前に持ち込んだものだ。曰く、掃除機を使うほどではない時に便利だとか。
そんな姿を認めて、溜息を吐きたくなってくる。
「あのな慧? 別にこんなことしなくてもいいんだぞ」
ぐっと堪えたつもりが少しばかり溜息混じりになってしまった俺の言葉に、慧はキョトンと音が聞こえそうな視線を返してきた。
「えっと、こんなことって?」
「洗濯とか掃除とか、とにかくわざわざ来てくれてんのにそんなことばっかりじゃ……」
「もしかして、迷惑だった……?」
「いや、むしろありがたくて逆に申し訳なくなってくるぐらいだ」
引け目たっぷりな声を即座に否定すれば、慧はほわんと笑みを浮かべた。
嬉しさを隠すことのないそれにどうしようもなく惹かれつつも、いつぞや慧に言われた言葉を思い出してひどく微妙な気分を味わう。
『少しでも坂崎さんの役に立てれば嬉しいから』
以前、今日のように洗濯をしてくれて礼を言ったとき、こんな言葉が返ってきたわけだ。
――これは……いったいどうなんだ?
こんなに健気なことを言われて、実際に世話を焼かれて俺は心地良いばかりだ。……そう、俺『だけ』が。
「なあ、今からでもどこか出かけるか?」
もう少し早くに休みが決まっていたのなら予定の立てようもあったのだろうが、あまりに唐突すぎたために昨晩慧に連絡するのが精一杯だった。けれど今はまだ昼前、近場なら十分に時間がある。
「う~ん、やっぱりいいよ。坂崎さんはゆっくり休んでて?」
それだけ言い残して慧は掃除を始めてしまった。
――はぁ……。
慧に聞こえないように溜息を吐く。
こういう時に、自分の情けなさを改めて突きつけられていたたまれない気分になる。
『女体化者とはいえ女子高生が、休みにどこへ行くわけでもなく、年上の男の世話ばかりを焼いている』
客観的に見ればこういうことだ。あからさまにおかしいのはもうわかってる。だが問題はそこじゃないんだ。
ちょうど良く目の前を慧が通り過ぎようとしたので。
「け~い~」
「わあっ!?」
捕獲して無理やりソファに座らせ、後ろから抱きすくめてやる。慧が持ってた棒はどっかに転がっていった。
「ちょ、坂崎さんっ!?」
おー、真っ赤になってる。
それが可愛く面白く、からかうように左手をきわどい場所に這わせれば、さらに頬を赤くした慧はぷるぷると震え始めた。たぶん、恥ずかしくてたまらないのだろう。
慧と付き合って半年。そっち方面のコトは自分でも信じられないがキスどまりだ。だからこんな他愛のないことも慧には大変なことなのかもしれない。
少しだけ可哀想になって、イタズラを仕掛けていた左手を戻し、ちゃんと慧のことを抱きしめる。
「……? 坂崎さ……?」
「ちゃんと、嫌なことはちゃんと嫌だって言ってくれよ?」
ともすれば高圧的に取られてしまいそうな言葉を、注意しながら口にする。
「え……?」
「俺のことを考えてくれるのは嬉しいぞ? だけどな、そのために慧が何かを我慢してるとしたら、ちっとも嬉しくはないんだ」
付き合いが始まってから、慧の気持ちに――不安に気づいてやれるまで。その間に俺が慧に教えてしまったのは、上手な我慢や遠慮の仕方だけだ。
俺に悟られないように、迷惑にならないようにと不安を押し込める方法だけを覚えさせてしまった。
実際に見抜けなかっただけに、それがわかったときは死にたくなるほど情けなかった。
だからこそあんな思いをするのは――慧にさせてしまうのは二度とごめんだった。
「わざわざ家事なんかしなくてもいいし、俺に遠慮なんかしないでもっと構えとか、どこかに連れてけとか言ってもいいんだぞ?」
いや、むしろお願いだから甘えてくれと、慧の耳元で言い聞かせる。
普段は俺の方が許されてばかりなのだから、たまには俺の方からも何かを返させてくれないか、と。
「それに今日は連休の最後だし、学校の友達とかと約束があったんじゃないのか?」
仮に俺ばかりを優先しているのだったら、そんなことはしなくていい。
かなり真摯な思いを伝えて、けれど慧からの反応はまったくなかった。
「慧?」
いっそ不審ささえ感じてしまうほどの沈黙の後にただ一言だけが返ってきた。
「……放して」
聞き逃してしまいそうな呟き。
ほんの欠片も感情すらも読み取れない声。
後ろから抱きしめてるせいで表情は見ることはできない。だが、今までただの一度も聞いた事のない無感動の声だけで一気に体の血が冷えた。
「けい……?」
「いいから放して」
あまりのことに情けないほどに動揺して、俺は言われるがままに腕をゆるめてしまう。
――このまま帰ってしまうだろうか……?
そんな危惧を抱いたが、けれどソファから立ち上がった慧は、上の方から、まっすぐに俺を見つめてきた。
「俺はね、いますごく幸せなんだよ」
声の響きは先ほどと変わらない。しかし慧の表情は、俺が想像したそれとは大きく違ったものだった。
「坂崎さんといっしょにいられてね……こうやって、少しだってわかってるけど坂崎さんの役に立てて、嬉しいんだよ?」
今にも泣きそうな顔で、必死に慧は告げてきた。
普段はなかなか会えないから、と。同じ空間に居られるだけで嬉しい。いっしょに過ごせるだけで幸せなんだ、と。
かっ、と腹の奥が熱くなる。
すさまじく喜んでるらしい自分に気づいて、それではダメなんだと自分に言い聞かせる。
「でもな、つまらなくないか? せっかくの休みに俺の部屋に来て掃除して……もっとどこかに遊びに行ったほうが楽しいだろ?」
高校一年といえば、一番遊びたい盛りの時代だ。実際、俺だってそうだった。
それなのに俺は慧をこんな所に囲ってしまってる。せっかくの思い出を作る機会を、こんな部屋で浪費させてしまってる。
それが、どうしようもなく心苦しいんだ。
「…………」
一瞬の沈黙。
「うおっ!?」
だが慧が突然抱きついてきたことによってそれは破られた。
「慧?」
俺の胸に顔を埋めて、ぎゅうと俺のシャツを握りしめる姿に、悲痛さを覚え名前を呼ぶことしかできなかった。
「俺の話、聞いてくれてた……?」
「え……」
もう明らかに涙混じりの声に動揺させられる。
「どうして、ここから追い出そうとするの? やっぱりいやなの? 俺がここにいるのは、迷惑なのっ?」
――失敗した……。
苦い感情が押し寄せ、何も言葉が出てこない。
そんな俺をよそに、慧はさらに続ける。
「俺は、ここにいたい。どこか他の人がいっぱいいる所なんかじゃなくて、坂崎さんと二人でいたい、から」
どこに行きたいとは言うわけがない。もう行きたい場所には来ているのだから。
自分の愚かさに頭を抱えたくなった。
言われて思い返してみれば、たしかに俺は慧を連れ出そうとするばかりで、今、どういう気持ちで慧がここにいるかを何も考えてなかった。
いっそ俺よりも賢い慧がただ流されるままでいるわけがない。ちゃんと考えて、それでここにいたいと思ってくれてる。
今になって、ようやくそのことを理解できた。
「ごめんな」
胸の中の小さな恋人を抱きしめる。
「俺も、慧がそばにいるだけで嬉しい、幸せだ」
じんわりとシャツが濡れた気がするが、そこには触れずに俺は形の良い頭を撫でてやる。
「好きだぞ」
ピクン、と腕の中で慧が跳ねた。
「……俺も、好き」
顔を押し付けたままでくぐもった小さな声だったけれど、慧の気持ちはちゃんと俺の耳に届いた。
「……坂崎さん」
「ん?」
「もっと、ぎゅってして?」
10も年下のくせに俺よりもずっと大人の顔で、俺のことばかり甘やかしている恋人。
そのささやかで可愛らしいわがままを、俺はすぐに叶えてやった。
背中だけでは伝わらない番外編「大人の気持ち」 END
最終更新:2008年06月14日 23:07