『遠回りの両想い』

「吉田、明日どっか行かないか?」

「どっか、って…またアバウトな提案だな」

 放課後でざわざわしてる教室の中、佐瀬がいつものように話しかけてきた。

「別に行ってもいいけど、どこに行くんだよ?」

「そこで行かないって言わないよっぴーったら、本当にカ~ワ~イ~イ~」

 うん。うざいしキモいね。

 というか、よっぴーって呼ぶな。俺は認めた覚えはない。

「ここにあるものは何か分かるか?」

 俺の苦情には答えるつもりはないらしい佐瀬が取り出したのは、2枚の小さな紙。

 よく見えないけど、水族園…のチケットか?

「そう、明日の創立記念日にここ行こうぜ」

「……わかった」

 やれやれという感じを装いながら佐瀬の提案に頷くと、佐瀬は無邪気に笑って俺を見ていた。



 会話だけ聞いてると男同士。だけど実際はそうじゃない。

 佐瀬とは高校の入学式の、なぜか前日に出会った。……ああ、そうだよ。素で入学式の日を間違えたんだよ。

 でもそんなバカしたのが俺だけじゃなくて、もう一人いたわけだ。

 そんなことがあったおかげで、俺と佐瀬は入学当初から仲が良かった。

 ちょっと変なところもあるけど基本的にいい奴の佐瀬といるのは楽しくて、学校ではほとんど佐瀬といっしょに過ごしてた。

 だけど、そんな楽しい生活もすぐに崩れ去ってしまった。

『女体化』

 まだ未経験だった俺は、なんの心の準備もなくその現象に襲われた。

 あれは、驚く…ってもんじゃないな。鏡見て、腰抜かしたのなんて生まれて初めての経験だった。

 それでもすぐに状況を認められたのは自分でも不思議だったけど、最初から俺はそういうのに疎かったんだろうってことにしといた。

 何か、それ以上考えてはいけないような気がしたから……。

 それはともかく、女体化者の例に漏れず、俺もけっこう可愛い方に入ると思う。でも自分だと思うとどうしても実感はない。

 なのに、なんでそう認識してるかといえば、顔さえ良ければいいという腐れがこの世(学校)に多く生息してたせいだ。

『あーもーっ、あいつらうざい!!!』

 自分の席に突っ伏して、女体化してからたった一週間で口癖になってしまったセリフを吐く。

 はっきり言って、男はバカだと思う。俺だって元男だけど、マジでそう思う。

 告白の理由の9割方が『顔が好みだから』っていうのは明らかにおかしいだろ!?

 しかもだ。こんな小さい女(俺のことだ)を待ち伏せするっていうのはどういう了見なんだ?

 その時は運良く股間蹴って倒れたところを、さらに集中的にメッタ蹴りして逃げることに成功したけど。

『じゃあ、俺と付き合ってるってことにしとくか?』

 そんな俺を心配したのか、これは佐瀬が提案してきたことだった。

 そうすれば言い寄られることも少なくなるだろ、という意味合いを含んだそれを俺は二つ返事で承諾して。

 あの日から俺と佐瀬は公認カップルと見なされるようになった。そのおかげか、俺へのちょっかいも激減。

 そして俺は学校にいる間中、佐瀬にくっついていられる権利も手に入れられた。

 そんなことになぜか喜んでいる自分に疑問もあったけど、親友と変わらない付き合いができるって答えを持ってきたらしっくりはまった。

 女子たちに、『女の子になったんだから、恋人でもない男とべたべたしちゃ駄目だよ』と言われたこともあったからな。



 まあ、そんな感じの校内限定偽装恋人という関係になってる俺たちだけど、そういえば外で遊ぶのは久しぶりだ。

「つか、これ…デートってことになるのか……?」

 明日に備えて早めに入ったベッドで急にその疑問に襲われた。

 あれ? 学校では恋人ってことになってて…? でも実際は付き合ってないわけだし……遊びに…? でもそれじゃあ、恋人ってことになってる教室で誘ったのは何でだ?

 深く考えれば考えるほど沼に沈んでいきそうなこの疑問を俺は早々に投げ出した。

 答えを出すのが面倒だったのもあるし、何か嫌な予感がしたんだ。

 俺の価値観が丸ごとひっくり返ってしまいそうな自覚が生まれてしまいそうな嫌な予感が……。



 結局ぐっすりと寝て起きて、俺は遅れないように待ち合わせ場所に向かった。

 初めて行く場所にしては迷わずに行けた気がする。

 なのに、現地集合って言い出した奴がまだ来てないっていうのはどういうことだ?

『悪い、いま電車降りたとこ』

 着いたときに佐瀬はいなくてメールを送ったら、こんなのが返ってきた。

 あと10分くらいか……。

 そう思って、植え込みのところに腰を下ろした俺は、突然肩を叩かれて体を硬くした。

 そうだ、学校で無くなったから油断してたけど……。

 恐る恐る後ろを振り向くと、そこには。

「ごめんな、遅れた」

「…え? な、今、メール…?」

 俺はまだ携帯をしまってすらいないのに、いきなりメールの相手が現れてかなり呆気に取られてしまった。

「ああ、ごめんごめん。送りそびれてたのを、さっきメールきた時に間違って送ってた」

「あ、そ…なのか…?」

 まだ驚きから回復できずにいた俺は、佐瀬のよくわからない理由説明に気の抜けた返事をしてしまった。

 だから危うく気づかないところだった。佐瀬の怪しい手の動きに。

「今日はスカートなのか」

「…ああ、ってナニやろうとしてんだっ!?」

 下から忍び寄ってきてた手を本気で叩き落とす。

「ちっ」

 そこ、聞こえてるぞ。

「ったく、なに小学生レベルのことしようとしてんだか…」

 いや、今時の小学生もこんなことはしないだろうから、下手すると幼児レベルか?

 俺が叩いた手をぷらぷらさせながら、佐瀬はニヤニヤ笑いで。

「制服以外でよっぴーのスカート姿見るのなんて初めてだからな~。あまりの可愛さについふらふらと…」

「―――――っ!!」

 突っ込むところだらけの佐瀬の言葉なのに、俺は何も言えずに、そして佐瀬に手を掴まれた。

「じゃ、ちゃっちゃと移動しようか」

 俺の返事を待つことなく、佐瀬はずんずんと進んでいって。その速さに俺が苦心していると、佐瀬は急に歩調を緩める。

「なに…?」

「速すぎたな、ごめん」

 振り向きながら佐瀬は俺の頭を撫でて、でも手は放さずにまたゆっくり歩き出して。

 俺たちは水族館の中へ入った。


 水族館というものに行くのは、何年ぶりだっけ。たしか最後に行ったのは小学生の時だったかな?

 平日という事もあって、館内にいるのは子供が大半だった。ちらほらとカップルの姿も見えて、俺たちもそう見えてるのかと思うと少しだけ恥ずかしい。

 けど、すぐにそんなのは気にならなくなった。

「お~! こいつ全然動かないぞ」

「佐瀬っ、佐瀬っ! ほら、亀、亀いるぞっ!」

「あ、サメ来たっ! っはは、でっかー!」

「くそっ、撮りそこなったっ! もっかい、もっかいこっち向け!」

「あ、あっちクジラいるって!」

 ……冷静になって考えれば明らかに自分のテンションがおかしいのがわかる。

 でもこのときの俺は本気の本気ではしゃいでた。それこそあいつおかしいんじゃないかと思われても仕方ないほどに…。

 ノンストップであっちこっち見て回った後、俺はクリオネの水槽に張り付いていた。

 数センチくらいの半透明の生き物がふよふよ浮いたり沈んだりするのをずーっと見ていて、なんとなく思い出したことを佐瀬に話しかける。

「そういえば、こいつらの食事風景ってグロ……」

 途切れた言葉は誰に受け止めてもらえることなく地面に落ちた。

「さ…せ……?」

 いない。ずっと、横にいたはずなのに……。

「……え?」

 どこ…行った?

 普通に考えればトイレかなんかだと思う。でもそれだったらなんで何も言わないでいなくなったんだ…?

 まさか…。

「…置いて、かれた……?」

 口に出してしまってから後悔した。さっきまで浮き立っていた心の中に一気に不安が広がっていく。

 そんなはずないと思うのに、自分がどれだけ佐瀬をそっちのけにしていたか自覚があるだけに、最悪の可能性を否定できない。

 探しに行くべきなのか、ここで待てばいいのか……。

「……携帯っ!」

 慌てて携帯を取り出して、電話をかける。10回くらいコール音が鳴って、留守番電話の無機質な声が聞こえてきた。

「…なんで?」

 電話に出るつもりもないくらい、怒ってるのか? 何も言わずに消えてしまうくらい……。

「悪い悪い、待たせたな」

 一番聞きたい声が後ろからかけられた。

「トイレ行った後、飲み物買ってたら遅くなった」

 そっちの方を見て、佐瀬の変わらない笑みを認めた瞬間、緊張の糸が切れた。

「ちょっ、おい!? どうしたよ?」

 ぼろぼろと溢れてくる涙を見られたくなくて、佐瀬の胸に顔を押し付ける。

 いきなり泣き出した奴の相手なんて、ただ面倒くさいだけなのに…、佐瀬は何も言わずに俺の頭を抱いてくれた。

 両手に飲み物を持った状態だから、佐瀬は間抜けな体勢になっていたけど…。

 それでも、俺は嬉しかった。



「……で? つまり吉田は、俺が愛想尽かして先に帰ったと思ったわけか?」

 佐瀬に連れられて移動したベンチで俺は頷いた。

 座って、佐瀬が持ってきてくれたジュースを飲んだら落ち着いてきて、何で泣いてしまったか話したんだけど…。

 ――…情けない上に恥ずかしい…。

 横に座る佐瀬の顔を見ることなんかできずに、俯いていると横の上のほうから溜息が降ってきた。

「つか、俺ってそんなに信用されてなかったんだな?」

 加えて冷たい声も耳に届いて、俺は体を竦ませた。

「……違っ…」

「違わないだろ? ちょっとくらい放っとかれたくらいで怒って帰るような器の小さい男だって言われたのと同じだしな~」

 そう言われて初めて気がついた。

 自分が、どれだけ佐瀬に対して失礼な事を言ってしまったのか…。

「でも…っ、…でも……」

 それは、ちがくて…、ただ、佐瀬がいなくなったと思ったら、すごく悲しくて…、どうしたらいいのか、わかんなくなって……。

 自分でもぐちゃぐちゃで、よくわからないこの感情をうまく言葉にできない。

 何かを言わなければと焦るのに、俺の口は力なく「でも」と呟くしかできなかった。

「………………なんてな。これくらいにしとくか」

 え……?

 突然に変わった声のトーンに戸惑う。

「せっかく来たんだから、楽しんでもらえてるみたいで俺も楽しかったし、別に怒ってないぞ?」

「だっ、て…今……」

 あんなに冷たい声で、俺のことを責めてたじゃないか…っ。

「ああ、あれ? ちょっと拗ねてた」

 拗ねてた?

 佐瀬に似合わない単語が出てきて、俺は首をかしげた。

「あんな可愛い笑顔をさ~、俺じゃなくて、ましてや哺乳類ですらない魚類がさせてんのかと。というより、俺といるより魚見てた方が楽しいのか、とか色々考えてな」

 意外だった。

 佐瀬がそんなことを考えてるなんて、思ってもみなかった…。

「ま、見入ってる吉田にちゃんとトイレ行くって伝わってるか確認しなかった俺も悪かったしな」

「……がう、ちゃんと聞いてなかった俺が悪かったんだ…」

 その挙句、勝手につまらない勘違いをして、その上佐瀬を不愉快な気分にさせてしまった。

 あまりにも自分が情けなくて、どれだけ自分勝手なのかわかってしまって……。

 今すぐここから消えてしまいたい。

 そんな気持ちから、俺が悪いんだと繰り返していると、また溜息を吐かれて体が震える。

「じゃあ、そんなに気にしてんなら、吉田が俺の言うこと1個だけ何でも聞くっていうことで手を打たないか?」

 俺がこのことをこれ以上引きずらないように、という佐瀬の提案に、俺は無言で頷いた。

「え? マジ……か?」

 俺が怒るような反応を予想してたんだろう佐瀬は、ハトが豆鉄砲を食らったような顔で同じ事を訊いてきて。

 そして俺はまた頷く。

「…いいのか?」

「しつこい」

 何度も聞かれていい加減口から出てしまった。

「わかった」

 短い佐瀬の言葉。

 それ以上佐瀬は聞いてくることはせずに、もう少しだけ休んでから、今度は落ち着いて二人で色んな水槽を見て回ることにした。

 一人で舞い上がってる時も楽しかったけど、佐瀬といっしょにゆっくり歩いているだけで、じんわりと何かが胸にしみこんでくるような、不思議なあったかさがあって。

 幸せ度数で言ったらこっちの方が圧倒的だと、意味もなくそんな度数を決めていた俺だった。


 俺があんな条件を飲んだ理由は一つ。

『こんなに俺のことを考えてくれる佐瀬に、何も返さずにいることなんかできない』

 その一心から佐瀬の出した提案を受け入れた。

 ………わけなんだけど、もしこの後俺がさせられることをわかっていたなら。

 もし俺があの時一瞬だけ佐瀬が見せた意味深な視線の意味に気づいていたのなら。

 それ以前に、もっとこの条件について深く考えていたなら…。

 どんな手を使ってでも、それを回避しようとしていただろう事はここで言わせてもらう。

 そうじゃなきゃ、俺がただの変態みたくなってしまうからな。


 そうしてほとんどの場所を見て回って、俺たちは最後に水族館のおみやげ屋に来た。

 正直言えば買うつもりなんかない冷やかしで色んな商品を突きまわして遊ぶ。

 すると突然目の前に何かを突きつけられて俺は上半身を仰け反らせた。

「これやる」

 ラッピングされた小さな袋を手渡されて少しだけ困惑する。

「なに、これ?」

「プレゼント」

 首を傾げつつ袋を開けると、プラスチックでできた小さなラッコのストラップが出てきた。

「なんで…?」

 なんで、プレゼント…?

 それに、どうして俺がラッコが好きだってばれてるんだ?

「よっぴーが一番熱心に見入ってたのがラッコだったからな」

 その名前で呼ぶなと突っ込みながら、ああ、そうかと納得し……って、待てよ?

 ラッコの水槽に行ったのは、二人でゆっくり回ってる時。

 つまり…俺がラッコを見てるとき、こいつは俺のことをずっと見てたってことで…。

 しかも、しかもだ。俺の反応の違いがわかるくらいに他の所でも佐瀬は俺の様子を見てたってことになる。

 その事に気がついて、顔が熱くなる。

 色んなことを言いたいのに、佐瀬の顔を直視することすらできない。 「ぁ…りがと……」

 だから、やっと発せた俺の、本当に小さくなってしまった声でのお礼は、佐瀬に届いたかどうかわからなかった。



 水族館を出てから、佐瀬と二人で駅に向かうことになった。

 佐瀬とは高校からのいっしょになったわりには地元が近いから、これからそっちに戻ってから遊ぶつもりなのかと思ったんだ、

 だから何も言わずに歩いていく佐瀬の後ろを何の疑問もなくついて行って。

 切符も買ってくれて、ラッキーと思いながら、駅の中もついて行って。

 そしてようやく何かおかしいと気づいたのは、帰るはずの線路の逆のホームに着いてからだった。

「佐瀬、こっち逆側だぞ?」

 俺の言葉に反応しない佐瀬。

 電車は俺たちがホームに着く直前に行ってしまったから、全くと言っていいほど人はいない。

 だから移動するならまだ時間はあるんだけど、なぜか佐瀬は動こうとせずにいた。

「…あのさ、俺がさっき出した条件って覚えてるか?」

 もう一度、場所を指摘しようとしたところで、そんなことを訊かれた。

 その言葉に頷くと、奇妙なほどに真剣な声でさらに問われる。

「本当に、いいのか?」

 あ~も~…。

「あのさ、いい加減しつこいぞ。俺は何度もいいって言ってるだろ」

「そうか……」

 少しだけの沈黙。

 その間、佐瀬の中では色んな葛藤が渦巻いてたんだと思う。

「じゃあさ…、俺がしてもらいたいこと、言うぞ?」

「おう。あんまり金かかんないなら何でもいいぞ」

 ……今思えば、この俺の言葉が最後のきっかけになってしまったんだろう。

「『ちかん』させてくれ」

「………………………………………………………………はあ?」



 …えっと、今、こいつ何言った?

「ちかん?」

「そうだ」

「誰が?」

「俺が」

「誰に?」

「吉田に」

「何で?」

「してみたいから」

 簡潔にして明瞭な一問一答。

 …だめだ、ぜんぜんわかんない。

「ちかんは犯罪だぞ?」

 混乱しまくった頭で、とりあえずよく聞くフレーズを口に出すと、佐瀬はそれに頷いた。

「ああ、だから『ちかんごっこ』みたいな感じで…」

 ごっこ?

「なんだそれ?」

「だからな……」

 そう言って、佐瀬は俺に説明を始めた。

 触るのは絶対に服の上からだけ、俺が本気で嫌だと思ったらそこですぐに終了、絶対に周りにバレないようにする………。こんな感じだそうだ。

 俺も元男なわけだし、こう、女の子に触りたいってところまではわかるんだけど…。

 どうして電車でやる必要があるのか、まったくわからないぞ。

 しかもそんな手癖がついたらどうするんだ?

 それを佐瀬に伝えると……。

「こんなことおまえにしか頼めないし、おまえにしかしたくない」

 …そんなこと言うのは、卑怯だろう。

「あ、電車来た」

 何も言えずにいるうちに、ホームに滑り込んできた電車に乗せられる。

 こんな時間なのに電車の中はかなり混んでいて、それでも佐瀬は俺を入り口脇の角に配置して、自分はその前に陣取る。

 席の脇は高くて、そして佐瀬も俺よりずっと背が高いから、俺はすっぽりと埋まってしまう感じになってしまった。

「ほ、ほんとにやるのか?」

 バカみたいに心臓の音が大きく聞こえてくる。

 もう何に緊張してるのかさえわからない。

「ああ。運よくうるさいのもいるし」

 確かに。よく見えないけど、逆の扉の所に女の子たちが固まって大声で話してる。

「あんなにうるさけりゃ、よっぴーが少しくらい声出てもバレないだろ?」

「な――――っ!!!」

 何を言うんだ、と続くはずだった声は途切れさせられた。

 佐瀬の顔が俺の肩辺りに来て…。

(やっぱり、いい匂いするな)

 耳元で俺だけに聞こえる声で囁かれて、そのかすかな息が首筋にかかるだけでぞくぞくとした感覚が這い上がってくる。

 ――なに、これ…っ…?

(吉田? どうしたんだ?)

 ――だから耳元でしゃべるな…!

 心の中で叫んだ言葉が通じたのか、佐瀬は顔を離した。

 それに内心ホッとして、でも次の瞬間、俺はさらに体をはねさせた。

 佐瀬の手が、俺の、し、尻に……っ。

 俺が口をパクパクさせていると、その手が動き始める。

 最初はゆっくりと撫でるようにして…。

 手のひらの熱がじんわりと服の中にまで伝わってきて、感触に合わさってあのぞくぞくがひどくなってくる。

 ――…ぁっ!?

 加えて指まで動き出して、息が荒くなってしまうのを隠せない。

 あの大きな手の長い指が俺の尻の形を確かめるように這い回っている。

 そう想像しただけで、さらに興奮してきてしまって、どんどん体の制御がきかなくなってくる。

「…ゃ……ぁ…」

 何度も何度もしつこく往復する手に、ついに殺しきれなくなった声が口の端から漏れてしまった。

 けど女の子たちの笑い声のおかげで周りに聞こえることはなかったと思う。俺の真後ろにいる奴以外には…。

(今の声……もしかして?)

 また耳元で囁かれて、体がびくりと動いてしまう。

(ちがっ…、そんなこと…っ)

(そんなこと、ってなんだ? 俺、何も言ってないぞ?)

(―――――っ!!!!)

 はめられたっ!

 今俺が言ってしまったことは、自分から、佐瀬に触られて、気持ちいいなんてことをばらしてしまったも同然で…。

(もう、やだっ)

 恥ずかしくて、体の向きを反転させる。

 佐瀬と向きあうような状況になって、佐瀬の手は外れた。

(もう、やめっ! おしまい!)

 小声のまま佐瀬の顔を見ずに主張する。

 自分でもわかるほど真っ赤になってしまってる顔を見せられない。

 これ以上されたら、どこかおかしくなってしまう…。

(……人間ってな、心と体がそれはもう密接にくっついてるもんなんだよ)

 突然の意味不明な言葉に俺は動きを止められてしまった。

(だからな、吉田が気持ち良くなってくれてるって事は、本気で嫌がってないって事だよな?)

(そ…んな…!)

 確かに、佐瀬に触られるのは全然嫌じゃない。

 ――けど…っ、だけど……っ

 俺の葛藤をよそに、唆すようなセリフを吐いた後、佐瀬は同じように手を動かし始めた。

 そう。『同じように』だ。

(――――っっっっっっ!!!!!)

 体を反転させたんだから、触られる場所も前後逆になる。

 ふにふに、と体の正面からあの場所を探る動きに、体温が2、3度上がった錯覚すらあった。

(やっ……、さ、せ…ぇ…)

 もうぞくぞくとか言っていられないほどの波が襲ってきた。

 やめさせたいのに、力が入らなくて、佐瀬の腕に手を添えるだけになってしまう。

「……ぁ、ぁっ……」

 声も抑えられなくなって、体を丸めるように佐瀬に縋り付いてしまう。

 前を押し付けるように撫でられることが続いて、頭の中がどんどん使えなくなっていくのがわかった。

 なのにどうしようもなくて、佐瀬の手がスカートの中に……。

『七広~、七広~です』

 独特のアナウンスに俺はハッとさせられた。

 電車が止まると同時に佐瀬の手も止まって…、横の開いた扉から外に逃げ出す。

 突然逃げ出した俺に、一瞬佐瀬が呆気に取られて、でも扉が閉まるぎりぎり直前にホームに降りてきた。

 俺たち以外誰も降りなかったホームで、俺は佐瀬を見つめていた。

 この、ぐちゃぐちゃになってしまった感情の、出口を求めるように…。



 数歩離れた場所にいる佐瀬を俺はただ見つめる…。少しも動かずに、ただただ佐瀬の顔を……。

 佐瀬も俺を凝視していて、時間が少しだけ止まった気がした。

 でもそれは佐瀬が気まずげに目を逸らしたことで崩れる。

「………ごめん、悪かった」

 ぐらり、と視界が揺れた。錯覚なんかじゃなく…本気で。

 ――……俺、謝られちゃったんだ…。

 そうか……、謝られなきゃ、いけないようなことを…されてたんだ…。

「やだ…って言った…」

「それは…」

「俺は、やだって言った!」

 相反する気持ちが渦巻いて、普通を装うことすらできない。

 佐瀬にとって、これはただの気の迷い、ちょっとした暴走……。

 だから『つい』やってしまったことなんだ、と…。

 だから合意の上だったのに謝る必要があるんだと突きつけられて…。

「俺が嫌がったら、やめるって言ったくせに…っ」

 だけどこれも俺の言葉だ。こんな場所で、あんなふうに触られるなんて、やっぱり嫌だった。

「吉田……」

 佐瀬が一歩近づいてきて、俺は同じだけ後ろに下がる。

 なんでそこでおまえが悲しそうな顔をするんだ…?

「そこまで、嫌だったんだな…?」

 頷くことも、首を横に振ることもできなかった。

「……………」

 お互いに目も合わせられないまま、次の通過電車が風を起こしていく。

「帰る…か?」

 ポツリと佐瀬が漏らして、俺もそれに同意する。

 このままここに居ても、何の解決にもならない。自分の感情が何も見えてこない。

 けど、ここで帰ると、何かが手遅れになってしまうような焦りも感じていた。

 階段を上がって、そして逆側のホームに下りる。もうすぐ電車が来るというアナウンスが聞こえた。

 ちゃんと佐瀬と話したいのに、俺は顔を上げられない…。

 こんな寂れている駅に、止まらなくてもいいのに電車は止まって…そしてそれに乗り込む。

「………え?」

 なんで佐瀬、乗ってこないんだ?

『ドアが閉まります。ご注意ください』

 無意識に俺は閉まり始めたドアの間から飛び降りていた。

 幸い、どこにも引っかからなかったから、電車はそのまま走り去っていく。

「なっ…にやってんだこの馬鹿っ!」

 怒鳴られて、体が竦むのと同時に、ほんの少しだけ嬉しくなる。

「だって…佐瀬が乗ってこないから……」

「そんな理由で……」

 呆れたような溜息を吐かれた。

「あのな、吉田、今俺となんか居たくないだろ? だからおまえだけ先に帰そうと思ったのに…」

 なんで降りてくるんだ、と佐瀬はもう一度溜息を吐く。

「俺に触られるのなんて、もうごめんだろ?」

 自虐的な言葉で、俺に問いかける佐瀬。

 ずきずきと胸が痛む…。

「好意につけ込まれて、あんなことされるなんて、いやだったろ?」

「………や…だった…」

 口を開くと、佐瀬が息を飲んだような気配が伝わってきた。

「ほら…やっぱ…」

「こんな場所で……、あんな遊びみたいに、ふざけてる…延長みたくされて、すごくやだった…」

 大した理由もなく、佐瀬にされるのはすごく哀しかった…。

 あまりにも重さの違う想いを実感してしまって、すごくつらかった。

「吉田…? それ、って…」

「気づかないで…いたかったのに!」

 この不安の、悲しさの……、それなのに、ずっと佐瀬とくっついていたいなんて気持ちの理由なんてっ…!

 こんなに惨めな気分になるってわかりきってたのに…!

 だからいつも途中で深く考えるのを止めてたのに…。

「佐瀬は、一回試してみたかっただけなんだろ!? だったら…だったら、何で…」

 なんで、俺で試したんだ…!

 もしされてなかったら、まだごまかしていられたのに。

 いっしょにいれて嬉しい理由も、置いていかれたと思ってあそこまで泣きたくなった理由も、全部適当なところで納得できてたのに。

 けど、もうそんなことできない…。

 もう、自覚が生まれてしまったから。

「気づかないでいたかった、って…何をだ?」

 いつ佐瀬が俺の目の前にきたのか、わからない。

 しゃがみこんでしまいたいのに、両手首を掴まれた。

「なぁ…お願いだから、言ってくれ」

 今の俺には、どこまでも残酷な要求が突きつけられる。

 力なく首を振っても、強く握られた手首を放してくれない。

「なんでなんだよ?」

「…だって、いまさらおかしいだろ?」

「あ…?」

 あんなに学校で男を嫌がってて、なのに今更…なんて、どんだけムシが良い話だ。

「俺の方のが…佐瀬を裏切ってたんだ……」

 俺のことを心配してくれて、それで…付き合ってる『ふり』をしてくれてる佐瀬を、無自覚のうちに裏切っていた。

「佐瀬は、俺のこと…そんなふうに思ってないのに…、俺は…っ」

 もう、まともに話せなかった。

 ボロボロと水が頬を流れていくのを感じる。

「……好きに、なっちゃったんだもん…」

 誰が…とは言えなかったけど、佐瀬には伝わってしまったみたいだった。

 両方の手首から、佐瀬の手が離れていって、体を切りつけられたような痛みが走る。

「…ごめん」

「っっ!!!」

 やっぱり、そうだよな…。いきなり、こんなこと言われて…。

「ごめん、俺、卑怯だったな」

 …え……?

「先に言われないと動けない。…俺の悪い癖だ」

 自嘲するように笑って、瞬間、真剣な顔になって言葉を続ける。

「吉田が困ってるのにつけこんで、学校では付き合ってることにして、ずっといっしょにいられるようにした。俺のせいで泣いてたのに、それをいいことに条件出した上、こんなことして……」

 一旦言葉を区切って、ゆっくりと息を吐く。

 何を意図してるのかわからないそれを、俺は黙って聞いていた。

「しかも…、しかもな、一番大事なことまで後手に回って、先に言われたんだから…。俺、かなり情けないな…」

 まさか、という想いが湧き上がってくる。

 けれど確かな言葉がなくて、信じられない。

「言っただろ? おまえにしか頼めないし、おまえにしかしたくないって」

「…教えて?」

 佐瀬の言葉を遮って、俺は訊いていた。

「佐瀬が…俺のこと、本当はどう思ってるのか、言って…」

 そう言った俺に、佐瀬はたった三文字だけ返してくれた。

「好きだ」

 絶対にもらえないと思っていた言葉。

 俺と、同じだけの熱をもった言葉。

「ほんと…に?」

 信じられなくて、嬉しくて…また涙が流れてくる。

「ああ。…それとも、こんな変態はやっぱ嫌か…?」

 首を横に振って、自分から佐瀬に抱きついていった。

「佐瀬が…、佐瀬がいっしょにいないほうのが、やだ!」

 顔を押し付けながら言うと、佐瀬の腕が背中に回される。

 今日は、佐瀬に泣かされっぱなしな気がする。

「俺もだ。……ありがとう」

 頬に手を添えられて、上を向かされる。

 佐瀬の顔がゆっくり近づいてくるのが恥ずかしかったけど、俺はじっとそれを待っていた。

 俺と佐瀬の付き合いは、今日のこの瞬間から新しいものに変わった。


 そう、『親友』から『恋人』に。

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最終更新:2008年06月14日 23:08
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