「ふう……」
俺は今、花坂高校の食堂にいる。
すでにトイレで用は済ませたが、色々な事がいっぺんに起きて疲れたため、座れる場所で休憩をとっている。
しばらく休んで、だいぶ楽になってきた。
「もう大丈夫そうですわね」
春風さんが、俺の顔を覗き込み笑顔で言った。
「あ、はい。すいません、ご心配をおかけして……」
「気にしなくてもよろしいですわ。治ったなら行きますわよ、野球部を見学するのでしょう?」
「はい!」
春風さんには『俺が野球部を見学する』と説明しておいた。
春風さんは野球部に所属している上に、多分だが顔を覚えられた。なら、むしろ『見学』と称して堂々と見に行けばいい。
皮肉な事に、コンプレックスに思っていた高校生に見えない低身長が、今回に限っては俺を『高校見学に来た中学生』に見せるという状況にしてくれた。俺としては不本意な方法ではあったけど。
と、そんな訳で今、俺は野球部へと『案内』してもらってる。
しばらく無言で歩いてたが、春風さんが口を開いた。
「ところで、あなた」
「なんですか?」
「ポジションはどこですの?」
この場合の『ポジション』と言うのは、野球の守備位置の事だろう。
「キャッチャーです」
嘘だらけだと、ボロが出やすくなるだろうから、嘘はできるだけ少なめに。それ以外は本当の事を答える。
「女性でキャッチャーとは……珍しいですわね」
春風さんは、ジロジロと物珍しそうに俺を眺めている。
まあ、しかし実際珍しいかもしれない。
うちの先輩女子は二人とも内野だし、クラスメイトの女子は色んな面で捕手向きじゃない。春風さんも口ぶりからして捕手ではないだろう。
それにプロ・アマ問わず大体のチームでは男が正捕手やってるから、女性キャッチャーは確かに珍しい。
「昔からずっと捕手やってて、他の守備位置を経験した事ないんです」
だから、今となっては捕手をやっているというより、捕手しか出来ない状態に近い。
「そうでしたの」
春風さんの言葉を最後に、またしばらく無言の状態が続く。
「貴女、ここに見学に来たと言う事は受験するつもりですの?」
春風さんが、唐突に聞いてきた。
他に適当な言い訳が思いつかないし、ここは受験するつもりだと答えておいた方がいいだろう。
「はい、そのつもりです。入学できたら、もちろん野球部にも入るつもりです」
「そう……でも、ここの野球部はレベルが高いですわよ」
「それくらい承知の上です。むしろ望むところです」
言ってから少し後悔した。
たかだか中学生なのに、ちょっと発言が強気すぎただろうか。
生意気だとか思われたらどうしよう……悪いイメージはできるだけ与えたくないのに。
「自信満々ですわね。ま、それくらい自分に自信を持っていたほうがよろしいのですけど」
あれ? 意外と悪く思われてないっぽい。
とりあえず悪いイメージはないようで助かった。
そんな話をしているうちに玄関まで戻ってきていた。
「それじゃ、私は向こうの玄関から入ってきたので……」
「わかってますの。待ってますから早く靴を履き変えてきなさいな」
「はいっ!」
急いで来客用玄関まで戻って、靴を履き変えた。
そして、外から生徒用玄関に戻る途中で携帯電話に着信が入った。
「おっと、電話か……あ」
画面に表示されているのは【山吹陽助】の四文字だ。
トイレに行くって言ったきり、三十分以上も戻ってないからな……怒ってるだろうな。
恐る恐る通話ボタンを押し、電話口に出る。
「も、もしm」
「遅い!」
「うわっ!?」
いきなり怒鳴られた。
陽助は普段あまり怒ったりしないから、こういう時は怖い。普段怒らない人が怒ったりすると特段怖く思うアレな感じだ。
「今どこだよ」
「い、今は玄関にいるけど……」
「オレ、野球部が使っているグラウンドの近くのベンチにいるから、急いで来い。話はそれからだ」
それだけ告げられて、通話を切られた。
通話時間は三十秒にも満たなかったけど、かなり怒っている事は感じとれた。
トイレから出た後に、連絡の一つでも入れておいた方がよかったかもしれない。
「ヤバいかなぁ……」
「何がヤバいんですの?」
「うひぃ!?」
ビックリした! 凄くビックリした!
「きゃっ!? ど、どうしましたの? 『うひぃ』なんて変な声出して」
いきなり、後ろから声かけられたからだよ!
なんで、春風さんが俺の後ろにいるんだよ!
「ちょっと、聞いてますの?」
春風さんが俺の前で手をヒラヒラと振る。
「……あ、はい」
まだ少しビックリした時のショックが残っているが、なんとか気持ちを落ち着かせ、返事する。
「驚かせてしまったようですわね、ごめんなさい」
「いえっ、大丈夫ですから」
頭を下げ謝る春風さんに、恐縮してしまう。
「大丈夫ならよろしいんですが……ところで何がヤバいのか話して下さいません?」
もしかして、陽助との話を聞かれていた?
一瞬、背筋に寒いものを感じたが、さっきの会話をよくよく思い出してみたら、別に全部聞かれても正体がばれるような内容でもなかったと思い、野球部近くのベンチに向かいながら春風さんに話す事にした。
話す、とはいっても事実をそのまま話す事はなく、大筋はそのままに俺の仮の立場を考慮した話にアレンジした。
「なるほど。つまり、貴女は見学する前に用を足す事にした。だけど時間をかけすぎて貴女のお兄様はご立腹だと」
「まあ、そんな感じです」
アレンジを加えた結果、陽助は何故か『俺の兄』という事になった。どうしてこうなったんだろう。
ま、いいか。
「わかりました、私の方から貴女のお兄様に説明いたしますわ。野球部の二人が貴女に迷惑かけた事が原因の一つでもありますし」
……いい人だ。
「あ、ありがとうございます!」
キレ気味な陽助と対峙するのに、一人じゃ何かと心細い。なので、この願ってもない申し出をありがたく受けさせてもらう。
そうこう話しているうちに野球部が使用しているグラウンドが見えてきた。
「近くのベンチって言ってたから、ここら辺にあるはずなんですけど……」
辺りを見渡してみるが、ベンチらしき物は見当たらない。
「こっちですわ」
春風さんが、俺の手首を掴み歩き始めた。
「あ、はいっ!」
俺は慌てて春風さんに着いていきながら、気づかれないように携帯電話を取り出し、陽助にこっそりと一通のメールを送った。
送ったメールにはこう書いておいた。
『もう少しでそっちに着く。それと、お前は俺の兄になったから。説明は後でするから、それまでそういう事にしておいてくれ』
陽介は、俺が陽介の事を兄に仕立てあげた事を知らないので、伝えておく。
これを陽助が読んで兄のフリをしてくれれば、春風さんに怪しまれる事はないだろう。
「居ましたわ」
春風さんが囁くように呟き、俺の手首から手を離した。
春風さんの視線の先には、携帯電話の画面を覗きこんでいる陽助がいた。
送ったメールを読んでくれただろうか。
ふと、陽助がこっちを向いた。
俺の存在に気づいた途端、不機嫌そうな顔つきになった。
「遅いぞ」
顔つきと同じ不機嫌そうな声だった。
うわ、やっぱり怒ってるよ。
俺が怯んでいると、春風さんが一歩前に出た。
「失礼ですが、貴方は…………」
そこまで言い、言葉を切る。そして俺の方を向いた。
「そういえば、まだ貴女の名前を聞いてませんでしたわね」
このタイミングで聞くの!?
まあ、黙っている訳にもいかないので答えるけど。
「青や……っ」
つい本当の名前を言いそうになったが、ギリギリで気づいて言葉を止めた。危ない危ない。
「青や?」
春風さんは、中途半端な俺の言葉に首を傾げていた。
「あ、青……青谷翔子です」
とりあえず偽名を名乗っておいた。
考える時間が無かったのと、本当の名前を一部晒してしまったせいで、本名の名残が少し残ってしまっているが問題はないだろう。
「青谷翔子さんね」
小さく頷くと、春風さんは陽助の方に向き直った。
「お待たせして申し訳ありません。貴方は、ここにいる青谷翔子さんのお兄様で間違いありませんか?」
ここは、この偵察をバレずに済ませるか、否か、の重要な質問である。
ここで『いいえ』なんて答えようものなら、生徒でもないのに休日にここにいる陽助は、多分かなり不審がられるだろう。
それは陽助も承知しているはず。
加えて、さっきメールも送っておいたから大丈夫だ。
多分大丈夫なはずだ。
「ああ、そこにいるのはオレの妹だよ」
陽助の答えを聞き、内心で安堵のため息をついた。
よし……もしかしたら、メールを読んでいないんではないかと思ったが、無用な心配だったようだ。
「それではお兄様、貴方の妹さんが予想以上に時間を浪費してしまった事についてですが」
春風さんの言葉に、陽助が表情を変えた。
「その件については、私達の側に非がありますの」
そう前置きし、春風さんはさっき校舎の四階で起こった事について全て話した。
「……と言う訳です。うちの部員が貴方の妹さんに迷惑をかけてましたの。本当に申し訳ありませんでした」
「あ、いや、別にいいよ。あんたは妹を助けてくれたんだから、謝らなくてもいいと思うんだけど。それに結果的に妹は無事だったんだし」
頭を下げた春風さんに対して、陽助はやや焦りながらも謝らなくていいと答えた。
「しかし、部員のせいで迷惑をかけたのは事実ですし、誰かが頭を下げないと……」
「だから、あんたが下げなくても、ナンパした奴らに謝らせれば……」
謝る、謝らなくていい、と両者互いに一歩も譲らない。
このままだと時間が無駄になるので、別の事で気を逸らすしかないな。
春風さんの服を袖を軽く引っ張り、春風さんの注意を自分に向けてから、考えついた台詞を言う。
「春風さん、野球部の練習に戻らなくていいんですか……?」
「あ……そうでしたわ。結構長い時間抜けていたから早く戻らないと……できるならば、ゆっくりと見学していってほしいですわ」
春風さんはそう言い、急いでグラウンドに戻っていった。
春風さんの姿が見えなくなってから、陽助がポツリと呟いた。
「あの人、マネージャーじゃなかったのか……」
【目指せ、甲子園-16 おわり】
最終更新:2011年01月05日 20:59