【赤羽根探偵と奇妙な数日-4日目朝2-】
校舎の天辺に聳え立つ貯水塔の横に腰掛け、脚を空中で遊ばせながらほんの20メートルだけ離れた下界を見やる。
まだ肌寒さが残る時期に、一時限目から体育という時間割を与えられた可哀想なクラスの子達が、極めて怠そうな顔付きでランニングを始めているシーンが目に映った。
そのジェネレーションギャップを理解するには経験不足そうな熱血体育教師が、その子達に檄を飛ばしている。
あーあ、人心ってモノをまるで分かってないんだなぁ、あのヒト。
興味を削がれ、空を見上げてみる。
太陽と私の間には、鈍色の雲の塊が横たわっていた。
―――あ、天気予報観るの忘れてた。
あっちゃぁ……時事情報は欠かさず確認するようにって、せんせーから言われてたのに。
どういうイミがあるのかは知らないけど、それをうっかり忘れる度にせんせーから―――
『時事をチェックせずに委員会の人間を名乗るなんて僕には出来ないよ、流石だね』
―――とか
『やはり天才は頭の出来が違うんだね』
―――とか
それはそれはもう中耳炎になったかって錯覚するくらい耳が痛くなるイヤミを言われてたから、ここ最近は欠かすことなくチェックしてたのに……あーもうっ!
……今朝の占い、見逃しちゃったじゃないか、私のばかばかばか。
目視で状況を再確認。
……こりゃ、一雨来るかも。傘、持ってきてたっけ……?
………ま、いいや。
どうせ、昇降口に放ってとかれてる汚れたビニール傘を一本失敬すればいい話だし、それを咎めてくれるヒトも、今は居ない。
誰かに私自身の行動を揶揄されて、煩わされる心配なんてないんだもん。……どこにも。
………。
うん。大丈夫。
ずっと―――それこそ何年も、こういう生活を続けてきたじゃないか。
状況は常に動いているんだし、いつまでもこうして優しい日常に甘えても居られない。
だって―――――――もう、アクションは起こしてしまったのだから。
「……はぁーあ」
自分でも大仰だなと思う溜め息と共に、後ろ髪を纏めていた青いリボンを解く。
物持ちが良いと自負はしているものの、何年も同じものを使っていると……やっぱり磨耗は避けられないらしい。こんな柔らかな細長い布なら当然なのかもしれないけど。
ある種の決別、というイミアイも込めて一通りのヘアアクセを揃えてみたものの、なんか……やっぱりイマイチ。ピンと来ない。
―――で、、結局はこの色の褪せてきた青いリボンに立ち戻る堂々巡り。
中途半端だな、ホント。
今のところ、新しく取り揃えたヘアアクセの中で唯一役に立っているのは左手首につけたまんまの赤いシュシュだけだ。
こんなんじゃ、うら若き乙女としては及第点も貰えないのかもしれない。でも、それでもやっぱり私はこれがいい。この青のリボンこそが私のアイデンティティみたいなものなのだから。
―――突然、私を殴りつけるように吹き荒ぶ風。
「――んぅ……や……っ!?」
思わず悲鳴が漏れていた。
条件反射が働いて、右手で髪を、リボンを握り締めていた左手で制服のスカートを抑える。
あーもぉ……髪がボサボサだ。手櫛で直るかなぁ……?
………。
……誰も見ていないのに、とっさにこういう行動が取れるってコトは、少しは私も"ホンモノ"に近付けたってことなのかな。
「よく、わかんないや」
あれだけ"女の子はこうあるべきだ"って、なのちゃんに力説してたくせに、自分のことになると分からないだなんて。
「……はは、可笑しな話」
自嘲する。……それも束の間だった。
「―――ものうげにー、ほほえみあおぐぅ、びしょーじょかなぁー」
「え……っ!?」
―――パシャっ
不意に、間延びした喋り方をした知らない高い声と、模倣のシャッター音が足元から聞こえた。
「……字余りぃ」
あ、五七五だったんだ。や、違うな、五七六か。………って、そうじゃないない!
「誰……ッ?」
恐る恐る声とシャッター音がした方を見下ろすと、ミディアムボブの髪を拵えた線の細い女の子が、携帯のカメラレンズ越しに私を見つめていた。
この娘……見かけたことあるなぁ。えぇと、確か……。
「えーとぉ……許可なく屋上に入るなんて校則違反、不良さんです、不良ですよぉ美少女さーん」
あの……その言葉、そっくりそのまま自分にも当てはまることに気づいていないのかな。
逡巡の甲斐もなく、私はとうとうこの娘のことが思い出せなかった。
「はぁん……、いいですねいいですねぇ、哀愁漂う美少女さんに暗雲がすンばらしく映えていますよぉ、思わず抱きしめてギンギンになっちゃいたいですよぉ……っ!」
私の疑問を他所に、彼女は右手に持った携帯の画面を見つめながら恍惚とした表情を浮かべている。物凄く犯罪臭のする発言が聞こえた気がするけど……そこjは突っ込んだら負けな気がするから敢えてスルーしようそうしよう。
って、さっきのシャッター音……まさか、あの娘の持ってるシルバーの携帯で……?
「あ、の―――」
「―――ん~、この脚線美と物憂げな表情……妖艶さと清純さ、元来二律背反である要素がものの見事にムァッチしていて、なんとも、うーん、いいですね、いいですねぇ……」
あ、ダメだ、絶対聞いてない。
「あーのぉっ!?」
「…………………………はい?」
ようやく私の問いかけが辛うじて彼女の鼓膜に届いたらしい。
三点リーダ十個分に相当しそうな沈黙の後、現実に戻ってきてくれた―――と思いたい―――彼女は、首を傾げながらやっと私に視線を向けてくれた。
……なんか、今のやり取りでどっと疲れが溜まった気がするけど、こんなとこでへこたれてちゃ元も子もない。とりあえず当然の質問をさせてもらおうかな。
「……どちらさまですか?」
「`坂城 るい`さんですよね?」
「えっ、あ……はい」
「一年生、いやこの高校で男子の人気ナンバーワンで、今年度ミスコン優勝候補の」
「へ……そ、なの?」
「ぜひ一度、被写体になってもらいたかったんですよぉっ!」
……やっぱり、ダメだ。会話とテンションが全くといって良いほど噛み合っていない。
というか、ミスコンなんてそんなミーハーなイベントあったんだ。私だったら初紀ちゃん一択だけど。
まぁ、そんな雑感はさておき。とりあえず言うことは言っておかないとね、うん、間違ってないぞ私。
「私、写真撮っていいって言ったかな?」
質問ではなく確認と威圧の意味合いを強く含んで問い質す。
「えぇっ、ダメなんですかぁっ!?」
心底意外そうだね。こっちのがビックリだよ。
……この娘は何を根拠に写真を撮っていいと判断したんだろう。ちょっと頭の中身を覗いてみたい気もしたけど、やめた方が良いと本能が警鐘を鳴らしてるからやめとこう。出来ないけど。
「んー……自己紹介もしないようなヒトに撮られるのって、決していい気分じゃないよ、ね?」
ただ単に道理を説明しただけなのに、彼女は凄まじくこちらのMPが減らされそうな挙動不審な動きの後で頭を下げてきた。
「は、はひ、1年、えと、えと、確かC組―――」
あれ、ひーちゃんと同じクラス?
「――出席番号、えと、32番、だと思います、さ、……佐伯琴夜(さえき ことや)ですっ」
……佐伯?
最近どこかでその名前、聞いたような気がするな。
『この前、ウチのクラスに引っ越してきた"佐伯"ってヤツを含めて三人だぜ?』
……あ。そーか。
この娘が、ひーちゃんの言ってた例の転入生の一人か。
変なとこも多々あるけど、確かに、ほんわかした雰囲気を纏った可愛い顔をしてる。
でもなぁ、なんでだろ? 私、この娘とは合わない気がするなぁ……イロイロ。
「はぁい、そんなワケでもう一枚撮りますよぉ、こっちは空気ですよぉー」
「え、いやいやいや。少し落ち着こうよ、佐伯さ―――」
――――パシャ
「あー、ダメですよぉ、こっち見ちゃ」
……あぁ、もぉっ!
確かに私は初紀ちゃん家に下宿させてもらうお代の代わりに、初葉さんの縫ったコスチュームのモデルはしてるけど!
これじゃ、せっかくひーちゃん達と距離を置いたイミがないじゃない!
はぁ……仕方ないよね。
「―――ねぇ、佐伯さん」
「はぁい、なんですか?」
「私ね、……実は呪われてるんだ」
「あぁ、そぉなんですかぁ……へ?」
なんで今ワンテンポリアクションが遅れたんだろう。……まぁ、いいや。そこにツッコんだらまた話が脱線しかねないし。
「最近、私のせいで、人が1人亡くなったんだよ」
「……そう、なんですか?」
そこで、シャッター音がようやく鳴り止む。
「断言は、その、出来ないけど。でも多分そうだと思う」
嘘みたいに聞こえるかもしれないけど、潤色すらしていない事実。うん、間違ってない。
「……ね? 私に関わると不幸になるよ? だから佐伯さんも私なんかに―――」
「―――えと、坂城さんて実は今話題沸騰中の"ちゅーにびょー"ってのですかぁ?」
「っ! ち、違ッ、私はホントに―――」「―――だどしたら、ちょこっと自意識過剰ですよぉ」
え?
虚を突かれて言葉が出ない私を見て、佐伯さんは高い背丈の割に初紀ちゃんに勝るとも劣らない慎ましやかな胸をえへんと張る。
「もし、……もしもですよ? 自分ひとりの行動しない意志だけで人を死なせられるのだとしたら世の中死人だらけです。人類なんて紀元前に絶滅しちゃってますよぉ~?」
佐伯さん特有の間延びした口調とほんわかした笑顔で言われると、ギャップも相俟って少し怖い。
……そりゃ、一般常識だけで言えば確かに佐伯さん言うとおりなんだろうけど……でも。
「―――お願いだから、今は一人にしてくれないかな」
佐伯さんは委員会に関わっている人間ではないけど、私の鞄に仕掛けられていた盗聴器の一件も考慮すると……万が一ということも考えられる。
余計な心配の種を、これ以上抱えたくはないし。
「怖いんだよ、ホントに」
灰色の言葉。
「はぅ、分かりましたぁ。私もそんな駄々っ子じゃないですし……」
おずおずと携帯をたたみ、佐伯さんはしょんぼりとした表情で校舎への出入り口へ足を向ける。
……良かった。
今日をどうにか凌げれば、明日以降は新法審議の資料整理で委員会に出ずっぱり(とは言っても私は見ているだけだろうけど)だし、、警察の目も上手く誤魔化せる。
……それで、もし私が火の粉を被ることになったって、構うもんか。
「―――あ、そうだ、坂城さんっ」
「ぅわわわっ!?」
姿を消した筈の佐伯さんが再び顔をのぞかせる。あぁ、びっくりした……。神出鬼没だなぁ、この娘。すこぶる心臓に悪い。
「いっつもポニーテール姿しか見たことがなかったから知りませんでしたけど……髪下ろした姿、似合ってますね。いいですよいいですよぉ……」
―――パシャっ
性懲りもなくファインダー代わりの携帯画面を覗き込みながら微笑む佐伯さん。
「あっ、こ、こらぁっ!?
……もぉ、次から撮影料取るからね!?」
「髪を下ろした坂城さんの、お宝ブロマイドの使用許可が貰えるなら喜んで!」
いやいやいや!
芸能人でもないのに、誰かの手に私の画像が出回るなんて怖すぎるよ!
「許可しませんっ!」
「えぇ、そんな勿体無いぃ……」
「そんな顔してもヤっ!」
「ちぇー、私のジャーナリスト魂を揺さぶる改心の一撃写真だったのにぃ……これを世に出せないなんて……すごく、残念ですぅ……」
いや、残念なのはキミの思考回路じゃないかな。
うーん、なんなんだろうこの娘は。
ひーちゃんから少しは話を聞いたけどいろいろと想像以上だ。
「くすっ」
呆れ返る私を後目に、佐伯さんは殊更愉しそうな笑みを自らの携帯ディスプレイに向けて、ポツリと何か呟いた。
「憂うもの、夢みるものの、傍らに、あるやあらずや、人の出で立ち」
――え?
「今の坂城さんの気持ちを想像して詠んでみましたぁ」
そういって無邪気な笑顔を浮かべる佐伯さん。どうやら今度は五七五七七らしい。
イミまではわからないけど。
「わかりました?」
「ごめん、さっぱり」
「じゃあ、次に逢えた時の宿題ですね」
――私は、答えなかった。
「それでは、またぁ」
"また"なんてないかもしれないよ。
そう心で呟いている内に、視線を下ろした先にはもう無機質なコンクリートしか映っていなかった。
左手に握り締めていたリボンを、再び後ろ髪に結い付けながら、佐伯さんの詠んだ句をなぞる。
憂うもの、夢みるものの、傍らに、あるやあらずや、人の出で立ち。……か。
「……ワケわかんないや」
正直な感想が思わず口から漏れていた。
「さぁて、っと」
どうやらお天道様もご機嫌斜めっぽいし、保健室のベッドで休ませてもらおうかな。
「……よっと」
貯水塔の高台から飛び降り、校舎への出入り口扉を開け、階段を下る。
――――――その時だった。
「―――っ!?」
背後から誰かの気配を感じ取ったその刹那。
私が振り向くよりも先に、鈍い音が脳髄に直接響いた気がした。
―――その至極暴力的な音が鼓膜を揺らすか否かのタイミングで、足元から力が抜けていく。
「ぁ……ぅぁ……っ」
それを自覚した瞬間には、色彩のない歪んだ階段が眼前に迫っていた。
……なぜか、ずいぶんと昔に見た動物番組のアルマジロを思い出す。
走馬灯っていうのかな。あはは、体験するのは初めてだよ。
「ぁ……ぐ……ぁっ!」
そんな悠長なことを考えているうちに肩から腰にかけて鈍く重たい衝撃が襲う。痛みはショックのせいかほとんど感じないのに、反射的になんとも情けない悲鳴が意図せず漏れ出ていた。
……死亡フラグ、か。
笑えない、まったくもって笑えないよ。
……そーいうのって、自覚しててもダメなの?
まったく、不文律って、ホント、弱者に、優し、く、な……い
み、んな……ご……めん、な、
さ――――
オレの胸元あたりの高さで軽快なリズムを刻むチョークの音。
聞き慣れたその音が終わるや否や、リズムを刻んだ張本人は背丈に合わないハニーブラウンのロングヘアを躍らせながらくるりと観衆に向き直る。
その可愛らしさ、可憐さに、クラスの人間の殆んどが目を奪われていた。
……ある一人を除いては。それはオレもよく知る人物で、そいつを含めると見知った顔は二つだけだ。
「"宮内 さつき"です。よろしくお願いします」
ひとつは、オレの真横で深々と頭を下げながら憮然とした口調でどこぞのアニメ映画会社から告訴されそうな偽りの自己紹介をする、見た目詐欺の女刑事―――ゴロリンさん。
もうひとつは、窓際の奥席でグラウンドを退屈そうに眺めている斑な色の髪を拵えた少年―――前田 陸。
……よりにもよって、この二人と同じクラスなんて。しかも、そこに坂城さん、御堂さんといった事情に精通する協力者の姿はない。
何度も見回したけど、視線を三往復させた時点で諦めた。
……ああ、ホントに憂鬱以外の何物でもない。
ゴロリンさんが身分を偽って此処にいる理由も分からないし、前田 陸にいたっては朝のイザコザ以来口も利いていない。
はぁ……こんな色々と面倒な状況で、一体何をどうしろって言うんだよっ、赤羽根さんは!
「―――ね……赤羽根っ!」
「……ぇ?」
不意に、呼ばれ慣れていない声で呼ばれ慣れていない苗字を言われ、顔を上げるとクラス内のありとあらゆる視線がオレに集まっていた。
……う、視線の見えないドリルで直接胃を攻撃されてる気分だ。
「……だいじょぶ?」
ゴロリンさんが可愛らしく首を傾げながらオレの顔を覗き込んでくる。記憶を失くす前のオレはそういう性癖でもあったのか?
思わずドキッとしてしまった。
そんな心境を悟られまいとした本能が功を奏したのか、オレは辛うじてその問い掛けに頷き返すことが出来た。結果オーライ。
「……無理しちゃ、ダメだかんね? はい」
オレの首肯に一応は納得したらしく、ゴロリンさんは使い古されて殆んど円形状になった白チョークを差し出してきた。
……え、と。なんですか、コレ?
「……ホントに、だいじょぶ?」
再度、不安そうなゴロリンさんの反則的ロリータフェイスが近付く。
………。
あ、そっか。
オレの番だっけ、自己紹介。
「……ちょこっとだけ、緊張してるかもしれないです」
自分の心境なのにうまく言い表せなくて、ありふれた言葉に頼ってしまう自分が情けなかった。
……けど、そんな泣き言を吐いたところでどうにもならない―――と思うから、オレは、恐らくヘタクソであろう作り笑いを浮かべながら、チョークを受け取って黒板に向き直る。
えぇ、と。
字、間違わないようにしなくちゃ。
赤、羽、根、名、佳……と。
……よしっ。
「あかば―――」
―――改めて自己紹介しようとした振り返り様、不意にオレの左横の引き戸がゆっくりと開いた。
「―――ふぇ?」「―――ね……」
その引き戸から現れたのは、ふんわりした髪―――ミディアムボブっていうんだっけ?―――が印象的な、平均値より少し背の高い女の子だった。
「えー、あー、ほえぇ……」
まだ眠気が覚めないらしくボンヤリとした表情で、オレとゴロリンさんの顔を見比べては首を傾げている。
「ぅあ、ごめんなさいぃ。クラス、間違えちゃいましたぁ……失礼しまぁす」
「え、いやいやいやっ! 合ってるぞ!! お前のクラスはココだ!!」
引き戸が閉め切られそうになる寸でのところで先生に呼び止められて、その女の子はおずおずと半開きの引き戸から顔を覗かせた。
「あ、……あぁ、ホントだぁ。
遅ればせながら、おはようございますぅ……」
「……また遅刻か、"佐伯"」
「え。あ、はい。すみませぇん……バスが混んでて遅刻しましたぁ」
バスの乗車率は遅刻にさほど影響が無い気もするけど。
どうやら日常茶飯事のことらしく、担任は怒るのも面倒といった表情で形だけの苦言を呈したけれど、当の本人は悪びれる様子も無い。
なんていうか……マイペースな子だな。人の顔色を窺うことなんて知らないんだろうな。
ある意味、羨ましい性格をしてる。
そんなことをぼんやり考えながら彼女を見ていると、急に頭上で豆電球が点灯したかのように目が見開いた。
「おぉっ、転入生さんですかぁ!?」
瞬間湯沸かし器顔負けのテンションの急上昇。
「……今、自己紹介中だ。いいから席に着きなさ―――」
―――カシャっ
という作られたシャッター音が担任教師の注意喚起の途中で響き渡る。
それは、彼女の携帯電話から発せられたもので恐らくは……って、なんでオレらにレンズが向けられてるんだよっ!?
「いいですねいいですねぇっ!! 綺麗な子、可愛い子は大っ歓迎ですよぉ!!」
な、なんなんだ、この子っ!?
それまでの寝惚け眼が嘘みたいに、興奮したような……というか大興奮の表情で佐伯さん――だっけ?――は、無邪気にはしゃいでいる。
クラスの連中も半ば"またか"と言わんばかりのテンションで呆れ返ってるし……。
「佐伯ッッ!」
「……あぁ、ごめんなさいごめんなさいぃ」
些かボルテージの上がった担任の言葉に我に返ったらしく、彼女はいそいそと自分の席であろう後ろから二番目の空席にちょこんと座る。
「さささ、どうぞお気になさらず続きをどーぞぉ」
………え?
………え、教室内の空気引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、後のこと全部オレに丸投げですか!?
見るな、そんな憐れんだ目でオレを見んな、みんな。
って……ん?
なんだ?
今、ゴロリンさん……あの"佐伯"って子を睨んでいたような……?
まぁ、あんなにも自由気ままな子だと気持ちは分からなくもないけど。……ま、いいか。
こんな時にアレコレ考えあぐねたって仕様がない。これ以上目立つのも避けたいし。とりあえず、自己紹介だけは終わらせておこう。
「……赤羽根です。下の名前は"めいか"じゃなくて"なのか"って読みます。よろしくお願いします」
よし。
いかにも、この名前で十数年の人生を過ごしてきたみたいなアピールも出来た。後は野となれ山となれだ。
「―――ふむ。赤羽根は、目は良い方か?」
何かを考えていたらしい担任が藪から棒に問いかけてくる。
「え? あ、はい。……まぁ、それなりに」
"名佳"として測ったことはないけれど、別に裸眼の視力で生活に支障を来たすことはなかったし……ま、多分大丈夫だろう。
「それじゃあ、宮内はそこの一番手前の席、赤羽根は……あそこの奥の席に着くように」
「「え?」」
思わずゴロリンさんと同じ言葉が口から漏れ出た。
担任はこともあろうに、オレには、窓の外を不機嫌そうに眺めている斑柄の茶髪男子の右横の席、ゴロリンさんには体格的配慮がなされた最前列の席をそれぞれ指定してきたのだ。
「何か問題でも?」
「「いえ……」」
かくして、オレとゴロリンさんはそれぞれの不服を押し隠し、それぞれ最も望まない座席へと腰を下ろすことと相成ったわけである。
……憂鬱のための交響曲、第一番、溜息二重奏。終曲。
―――赤羽根さんって、スタイルいいね。羨ましいなぁ。
―――宮内さんって、髪キレー。
―――どこに住んでるの?
―――なんでこっちに越してきたの?
―――わ、肌スベスベー。化粧水どこのブランド使ってるの?
―――メアド交換しよーよっ、赤外線付いてる?
―――部活やってた? よかったらウチの部に……
………つ、疲れる。
転入したての女子ってこんなにも根掘り葉掘り訊かれたりするものなのか? あ、駄洒落じゃなくて。
人生初の経験だから、どうにも勝手が分からない。
遥か遠くに見える、もう一つの人だかりの中心にいるゴロリンさんは、流石社会人として揉まれているだけのことはあるらしく無難に受け答えしているけど。
オレはボロが出ないようにするだけで手一杯だ。
あぁ、もぉ……目立たないようにするってこんなにも面倒なことなのか!? あ、駄洒落じゃ……もういいや。
「うるせーな」
ふと。質問攻めの渦中にあったオレの左隣から。すこぶる不機嫌そうな低い声が飛んでくる。
……斑な茶髪の学ラン――前田 陸だ。
食事を邪魔された野良猫みたいな目つきでこちらを睨みつけている。
……なんだよ、今朝の仕返しでもしようっていうのか?
「―――転入生に訊きてぇのは、ホントはンなコトじゃねーだろが」
え?
その学ランのぶっきらぼうな一言で周囲の空気が凍りつく。
なんて言えばいいんだろうか?
凄く大袈裟に言えば、集団で決めた不文律とか禁忌とか……そういうモノに触れた瞬間の胃が締め付けられるような……そんな雰囲気。
そんな異常な空気の中で、その事情を把握しきれてないオレとゴロリンさんだけが取り残されていた。
「いい加減、うぜーんだよそーいうの」
ハリネズミみたいな髪を掻き毟りながら低く吐き捨てる学ラン。
……なんなんだよ、オレに今朝の仕返しがしたいんなら直接言えばいいじゃないか! なんで関係のない子たちに当り散らすんだよっ!?
「……何よ。フツーに質問してるだけじゃん」
質問攻勢の中心核にいた綺麗なストレートヘアの女子が、果敢にもあの不良崩れに対して抗議する。
……ああもうっ! オレを抜きでオレを出汁にして、何をいがみ合ってるんだよ!?
「友達になりたいから色んなことを訊きたいだけ。それの何がいけないの?」
―――あれ?
字面だけを追えば、その彼女の言い分は当然のものに聞こえるはずなのに……オレは違和感を覚えた。
今、オレ……あの子に睨まれた……?
「言いたいことがあんなら聞くぜ? 皆塚(みなづか)」
「っ」」
胸につかえた違和感の正体を突き止める間もなく、前田 陸は敵意を通り越した呆れにも似た低いトーンで返す。
まるで、最初から彼女―――皆塚さんの言葉には正当性がないと言わんばかりに。
「……行こ、シラけちゃった。次、化学でしょ? 遅れちゃう」
皆塚さんは、手入れの行き届いているであろうつややかなロングヘアを大仰に翻して、事跡に戻っていく。それにつられるようにして周囲の女子達も一人、また一人とオレの席から離れていく。
……少し名残惜しい気もしたが、オレは胸を撫で下ろしていた。
やっぱり、皆塚さんが女子グループのリーダー格なんだろうか。気付いてみれば、それまで騒がしかったオレやゴロリンさんの周囲に落ち着きが戻っている。
……というか、大多数の男子達からは異性の転入生との距離を測りかねているような感があるものの、女子は、あからさまにオレ達に触れないようにしている。そんな節が感じ取れるような気も―――
―――カシャ
「………で、なんで君はそんなトコからオ……私に携帯カメラを向けているかな」
教室後部の出入り口近くから聞こえた音のほうに目を向けると、案の定、朝のHR中に散々ヒトのコトを引っ掻き回してくれた例の"佐伯"さんが、引き戸越しにこちらを見つめていた。
……手元のものを含む3つの目で。
「えへへっ、私のことはぁ……空気だと思ってくださぁい」
……随分と騒がしい空気だことで。
「その辺にしとけ、佐伯。
……転入生が直ぐ転校生になっても知らねーぞ」
言いえて妙な言い回しが真後ろから飛んでくる。……転校、ね。
「う、むむぅ。そ、それは困りましたねぇ……。赤羽根さんや宮内さんのブロマイドは欲しいし……ぅう……」
学ランの白々しい物言いを真に受けて、真剣にアタマを抱えている佐伯さん。……なんていうか、オレが少し見上げるくらいの背丈があるせいかすこぶるギャップのある構図だなぁ……。
「―――おはよ~」
アタマを抱えている佐伯さんの肩越しに聞いたことのあるアルトの声がした。
……皆塚さんに負けず劣らずの綺麗なセミロングヘア。
御堂さんだ。イチ早く反応したのは私的な交流が深い学ランだった。
「どうした?」
「え、と。例のすっごい可愛いってウワサの転入生さん達にご挨拶したくて。
えーと……そっちのお二人、かな?」
学ランとは正反対ともいえる自然な微笑みを浮かべ、左右を見回しながら教室に入ってくる御堂さん。
……あ。ゴロリンさんからは見えない位置で御堂さんからウインクされた。……ちょっとドキッとしてしまう。
「"初めまして"、だね。
私、御堂 初紀っていいます。クラスは違うけど、体育は一緒になるんで、その時は……お手柔らかに」
―――うん? 今、御堂さん、少しどもったような……? 気のせい、か?
「んー、よろしくねー。あたしは宮ま……宮内 さつきです。こんなナリだけど一応同い年だから……だからねっ」
―――うん、ゴロリンさんのどもりには説明がつくからどうでもいいか。
「赤羽根です。よろしくね、御堂さん」
「……ありゃりゃ、なーんか私、お邪魔虫っぽいですねぇ……」
仲睦まじく話すオレ達に疎外感を感じたのか、佐伯さんはしょんぼりしたように自分の席に戻り移動教室の準備を始めた。
……別に、仲間外れにするつもりはないんだけどな。
「んー。なんか可哀想な事しちゃったかな。……あたし、佐伯さん―――だっけ?―――と一緒に行くよ」
「被写体になる覚悟はしといた方がいいですよ?」
「ま、いいんじゃないかな。減るもんじゃなし。同性に見向きされなくなったらオシマイでしょっ」
そういって、ゴロリンさんはかなり身長差のある女の子の後を追う。
……何ともまぁ、ゴロリンさんらしいというかなんというか。
普段は物事にあんまり固執しない性格なんだろうか?
……まぁ、その性格に赤羽根サンは適用されないらしいけど。
「あ……」
はぁ……結局、ゴロリンさんがこの高校に来た理由は訊けずじまいか。
赤羽根サンの話が本当なら――ゴロリンさんの狙いは"あの子"しか考えられないけど……一般ピープル、ましてや敵視してる探偵の"妹"相手に、仮にも(と言ったら怒られるだろうけど)警察官が機密事項を漏らすワケないだろうし。
……いや、違う。そんな理由は後付けだ。きっとオレは―――
「――元気な子だね」
考えを巡らせてたオレのすぐ真横で、御堂さんが感嘆の溜め息が漏らす。横目で見る彼女の表情から察するに、随分と好意的な印象を持っているみたいだけど……。
―――ゴロリンさん、か。
そりゃ、さ。
"悪い人"じゃないんだろうから警察に居るんだろうし、オレに対しても柔和な態度で接してくれているんだろうし。
理屈では分かっている。うん、分かってはいる。……けどなぁ。
……ん、この際だから白状すると、オレはゴロリンさんが苦手なんだ、と思う。
理由?
……分かってたら、こんな回りくどい言い方なんてしないっての。
……理由、ねぇ。
「―――は?」
思いがけず素っ頓狂な声が出た。
なんで赤羽根サンとゴロリンさんが盛大に口喧嘩しているシーンが浮かんだんだ? 異性化疾患が原因で、記憶どころか思考のネジまで弛んだのか?
いやいやいや、赤羽根サンとゴロリンさんが険悪な関係だとしても、オレには何もカンケー無いだろ。
別に、なんにも……。
「――なのか、ちゃん?」
不安を帯びた声とともに、細い手がオレの視界を往復する。
―――って。
「な、なんでもないっ! 大丈夫、うん、大丈夫」
なに緊張感をスっ飛ばして真剣に考察してんだオレのバカっ!!
そんなくだらないコトに時間を費やしてる場合じゃないだろ!
だって―――
―――いつの間にか周囲から喧騒が消えているのに。
さっき佐伯さんの後を追ってこの教室を出たゴロリンさんを最後に、"部外者"は全員は教室から居なくなった。
つまり、今この教室に残されたのは……オレと、御堂さんと、学ランだけ。
……そりゃ、オレ自身が原因だから文句は言えないけど……胃が痛い。
「……ごめんね」
逃げたしたくなるような重たい沈黙の中、会話の口火を切る御堂さん。
……もしかして、さっきのゴロリンさんに対する感想は、タイミングを伺うための繋ぎだったのか?
でも、"ごめん"って……どうしてキミが謝るんだ?
「私、自分勝手だったよね。
なのかちゃんの気持ちも考えないで、怒鳴ったりして……。
ホントに、……ごめん―――」
え、いや、その、だから、さ。
御堂さんは別に何も悪いことをしてないんだってば。
程度に差はあるだろうけど、親しくしてる人間を目の前で罵倒されて気分を害さない人なんて居ないだろう?
……確かに御堂さん印象からかけ離れた怒号に驚きはしたけど……それだけだ。
……それなのにここまで萎縮されちゃ、申し訳なさしか残らないじゃないか。
「その、わ、私も―――」
「―――おい」
喉まで出掛かった謝罪の言葉を引っ込めさせたのは、愛想もへったくれもない低い声。
「……ひ、陸?」
御堂さんがその声の主に恐る恐る呼びかける。
"彼"は先程まで対峙していた皆塚さん(……だっけ?)の時とは違い、今の自分はあくまでも感情をニュートラルな位置に置いている……そう言わんばかりの表情で後頭部を掻きながら―――。
「授業、遅れちまうんじゃねーのか」
―――まるで、小さな子を諭すみたいな穏やかな抑揚で言う。
どうやら御堂さんにはその真意は伝わったらしく、彼女は俯いたまま押し黙ってしまった。
……なんだよ、またオレだけおいてけぼり?
「っ……ごめん、なのかちゃん。
……もう、行くね」
突然、困ったような可愛らしさを讃えた御堂さんの笑顔がオレに向けられる。
「えっ、あ、う、うん……」
「……陸のバカ」
本人に聞こえるか否かの声量でイジけた子犬のように御堂さんが呟いたのをオレは聞き逃さなかった。
……仮に聞こえてたとしても、あんな可愛く罵倒されちゃ腹も立たないんだろうけど。
そんなくだらないことを思っているうちに、引き戸が静かに閉じる音がする。
「ったく」
羨ましい罵倒を受けたことなど露知らず、といった表情の学ランは、極めてかったるそうに腰を上げた。
……アンタ、いつかバチが当たるぞ、ていうか爆散してしまえ。
「んぁ?」
そんなオレの思惑に気付いたのだろうか、所作の終わりと共に、切れ長の目がこちらに向けられる。
……っ、改めて向き合うと分かるけど、結構背あるんだなコイツ。
赤羽根サンと同じか、それよりほんのちょっとだけ小さいくらいか?
少しだけ、重圧感を感じる。
……勘違いするなよ、ほんの少しだけだからな。
それに気圧されないよう睨みを利かせると、意外にも学ランは、ふいと目を逸らした。
「……なんだよ?」
喧嘩を売ってるようにも取れるオレの一言にも、学ランは寡黙を貫き、目を床に伏せて固まったまま動こうとしなかった。
……や、そう言ってしまうと少し語弊がある。
少し付け足すなら、学ランの行動はオレに気を遣ったとか、オレの威圧的な態度に気圧されてるとか……そういう類いのモノじゃない。
なんて言えばいいだろう……。考え事でもしてるような?
―――要するに……オレは眼中に無いらしい。
………あー、そうですか。
少しでもアンタに対して後ろめたい気持ちを持ってたオレがバカを見ただけ、と。
もう、いいや。
こんな奴に時間を掛けるだけ無駄じゃないか。
「―――待てよ」
踵を返した刹那に、低い声がする。
「……なんだよ、言いたいことがあるならハッキリ言えば?
わかんない奴だな。こっちは噂の転入生っていうレッテルを貼られてイヤでもヒトの目を引いてる時なの。
こんなとこを誰か見られて、変な噂立ったらアンタは責任取れるのかよ?」
波立つ嫉妬心の赴くまま、背中越しに言葉を吐き捨てても、学ランは言葉を荒げなかった。
ただ……ただ落ち着き払った声で
「……そんじゃ」
と呟くと、不意に両肩に大きな何かの感覚が。って―――!!
「な……っ?!」
"それ"が学ランの掌だと理解した時には視界一杯に斑な茶髪と仏頂面が映り込む。
それだけじゃない。
踵に床の感覚がない上に、少し息苦しい。……って、なにヒトの胸ぐら掴んで――!?
「な、に……するん、だッ、放せよっ、は、なせぇ……っ!」
「―――ンだよ、都合の悪ィ時だけ女面か?」
「っ、こ、の……ッ!! う、ぅ……くッ!!」
なんだよ、コイツの馬鹿力はっ!? こっちはブラウスごと引き千切るつもりで抵抗してるっていうのに……!!
「……チッ」
頗る不愉快そうな舌打ちは、オレに自由を返す合図だったらしい。
学ランの拳が静かに解かれると共に、オレの四肢はワックスの剥がれかけた床に吸い寄せられていく。
「っ、っは、ぅ、……はぁ……っ、っはぁ……っ」
いきなりの暴挙に対し、オレは咄嗟に抗議すら唱えられなかった。
息苦しさに震える身体がそれを許してくれない。
それどころか、視点を自分の手足と薄汚れた床から動かせそうもないなんて……。
くそ……なんだってんだよッ、舌打ちしたいのはこっちだっての!
「初紀からお前の事情は大体訊いた」
あくまで事実を述べただけだと言わんばかりに、学ランは抑揚なく淡々と吐き捨てる。
……事情を知ってて、この仕打ちかよ。
「―――正直言ってイイか?」
オレの返事を待たずして学ランは、そのまま言葉を繋げる。
「"だからなんだよ"?」
「な、……っ!?」
――それは、オレが記憶を喪くしてから初めて浴びせられた冷徹な言葉だった。
純粋な驚きをバネにオレが顔を上げると、学ランが今まで見たことの無い顔で、オレを見下ろしている。
……その顔を見た途端に、手足が震えだした。
「……あ、ぁ……」
……何かで聞いたような気がする。
ヒトの感情って、飽和すると却って冷めたように見えるって。
学ランの薄ら笑いは、まさにそれだと思った。
「……カワイソウな立ち位置に胡座掻いて、人様利用して、気に入らない奴に当たり散らして。ンな好き勝手が許されるとでも思ってンのかよ? なぁ?」
学ランが屈んで顔を近付けてくる。
その口元は半月状になっているのに、それが笑い顔に見えなくて……言い様のない恐怖が背筋を走り抜ける。
「……あ、あ……ぁ……!」
「今さらビビってんじゃねーよ。俺みてーな奴に同情されんの、ヤなんだろ?」
「っ、や、やめ……」
「"どっち"なんだよ? お前は」
「ご、ごめ―――」
「―――誤魔化してんじゃねぇよ、答えろ、赤羽根ぇええぇっ!!!!」
オレのすぐ真横で、途撤もなく重く鈍い衝撃が走り抜ける。
「ひぅっ!?」
それは、学ラン―――前田 陸が持ち前のごつごつした拳を床に叩きつけた音と衝撃によるものだった。
………。
あ、れ……?
何故か、打って変わったような静寂が教室内を満たしていた。
……恐る恐る、固く閉じていた両目を開く。
そこには、苦虫を噛み潰したような顔をしたまま動かない学ランの姿があった。
「……いつまでビビってんだよ。ばーか」
だ、誰のせいだと思ってるんだよ……!? そう反論したくても口や喉が緊張して上手く動いてくれそうにない。
まごついたオレを見かねたのか、学ランはふぅと溜め息を吐いてから、ゆっくりと身を引いていく。
「……身に覚えがあってもなくても、結局テメーのしたこたぁテメーにしか返って来ねぇんだよ。
それを言い訳にしちまったら、前になんざ進めねーだろが」
そう言いつつ、振り下ろした拳をゆっくりとポケットに入れながら、学ランは立ち上がる。
それが、オレにとっては心底意外だった。
「……な、殴らない、のかよ?」
「あ?」
「その、ムカついたんだろ……?」
「はぁ? そりゃ事情も知らねぇクセに言いたい放題言われたら誰だって腹は立つわな?」
「だったら―――!」
「―――こちとら"女を殴る奴は男のクズだ"って育てられてンだよ」
……は? それだけ?
「それともナニか? そのセーラー服は趣味で着てんのか?」
……いや、そんな訳ないだろ。
「んじゃ、俺が赤羽根を殴れる理由は無ぇ訳だ。アタマの良い赤羽根なら簡単な理屈だろーが?」
さっきまでの顔が嘘みたいに、学ランはふにゃりと顔を弛緩させる。
なんなんだよ、まったく……。
八つ当たりした相手にここまでされちゃ……もう認めるしかないじゃないか。
「……あの、今朝は、あんなコト言って……その、ごめん……っ!」
「おう、許す」
上手く言葉に出来ない拙い謝罪に対し、何事も無かったような軽口での即答が返ってくる。
……その、理不尽なオレの逆ギレに対する怒りとか、そういうのはないのか?
そんな簡単にオレを許していいのかよ……?
「――――つッ!?」
そんなことを考えていると、不意に学ランが顔をしかめた。
……どうかしたのか?
「……なんでもねーよ」
訊いてもいないのに半身になって、ポケットに突っ込んだ手を見せないようにする学ラン。
あ……もしかして、コイツ?
「ちょっと、そっちの手見せてみろ」
「はっ!? なんで、どーして!?」
先程床を盛大に殴り付けた手を指しながら言うと、学ランは盛大に狼狽えた。……赤羽根サンみたいな観察眼がなくても、流石に何となく察しはつくな。
「見せなきゃその手、ポケットの上から揉みしだくぞ」
観念したのか、学ランはポケットに突っ込んでいた右手を渋々差し出してくる。
……うっわ、拳骨が赤くなるの通り越して紫がかってる……確実に内出血はしてるな、これ。下手したら骨までイってるかも……実に痛そうだ。
「……Go to 保健室」
「はぁっ? 日本語で言えよ意味わかんねーよっ!!」
それぐらい理解しろよバカッ!
「保健室行けっつってんの!!」
「こんなん唾付けときゃ治る」
「捻挫や打ち身や骨折が唾で治るなら外科医はとっくに廃業してるわ! イイから行く、さっさと行くっ! 先生にはオレから言っとくから!」
不毛な押し問答の末に、学ランはハイハイと首肯を返してから立ち上がる。……が。
「赤羽根、移動教室の場所分かんのかよ?」
往生際の悪い奴だな、もぉっ!
「別に大丈夫だって、階段の踊り場に校舎地図が張り出してあったから」
「……なら、いいけどよ」
ったく、悠長にヒトの心配してる場合かよ……このお人好しめ。
「……なぁ、赤羽根」
教室を引き戸に手を掛けた……と思ったら、性懲りもなく振り返ってくる学ラン。
「あーもぉっ、なんだよ、そこまでして保健室行きたくないのかよ!?」
「ちっ、ちげーよっ! その、……る」
……る?
「や……さっきは、その、……悪かったっ!」
身体を直角に曲げて陳謝してくる学ラン。
……まったく、何が悪かったのか言わなきゃ、折角の誠意も意味ないだろうに。
「……全くもってその通りだよな、馬乗りになって無理矢理に、あんな……」
「っておいっ、誰かが聞いたら誤解を招くような言い方すんじゃねぇよっ!!?」
脊髄反射の如く赤い顔を勢いよく上げる学ラン。
「誤解も何も全部事実だろ?」
「だから、そうじゃなくてだなっ!! だぁーもぉっ!!!」
あれ。なんか、コイツからかうの楽しいかも。
でも……このくらいにしとこう。
「……言いたいことは、その、分かってるよ」
学ランが言いたいのは、きっとオレの記憶が無いことを蔑ろにしたことだ。
……でもそれはきっと記憶が無いことを言い訳にさせたくなかっただけで、学ランに悪意や害意があった訳じゃないから。
……でも、オレは学ランみたいに素直になれないらしい。
「"誤解を招く言い方"は、これでお互い様だろ?」
「……はぁ。ったくよぉ……。
―――兄妹揃って、律儀なんだかヒネくれてんだか」
呆れたような笑いと溜め息が返ってくる。
……って、アレ? 学ランの奴、御堂さんから話をちゃんと訊いてなかったのか? オレと赤羽根サンは兄妹じゃ――
「――事情は知ってんよ」
つい顔に出ていたのか、間髮入れずに学ランは言葉を繋げる。
「でもよ。
赤羽根と探偵さんって、結構そっくりだぞ? やっぱ、てめぇじゃ気付かねぇか?」
オレと赤羽根サンが……似てる?
「……よく、分からない」
「ま、家族ってそーいうモンだろうしなぁ」
……家族、か。
「そんじゃ、また後でな」
「……保健室」
「わぁってんよ、ちゃんと行くっつの! ……じゃあな、赤羽根っ」
疑われたのが不服だったのか、学ランはむくれながらピシャリと引き戸を閉め、漸く教室から出ていった。
……やれやれ。
――それにしても……学ランの奴、一体何を言い掛けたんだ?
結局、誤魔化されてしまったけど、学ランは、オレに謝意を示す前まで違うことを言おうとしてたのは間違いないんだけど……何て言おうとしてたんだ?
『その、……る』
何となく頭に浮かんだ言葉を口にしてみる。
「類は友を呼ぶ? あ」
言い切って、全く違うことが頭をよぎった。
そうだ、確か御堂さんが"彼女"をファーストネームで呼んでいた筈だ。
―――『るいちゃん』って。
「……坂城さん」
きっと、学ランも彼女の変化に気付いたんだろう。でも、学ランはその理由を知らない。
―――坂城さんに人殺しの疑いの目が向けられているなんて。
改めて考えたってそんなこと、あるもんか。
あんなに人に優しく出来る坂城さんが人を殺すなんて……。
「……あ」
……もしかして、学ランは何か知ってるのか?
だとしたら……ほんの些細な事でもいい、情報が欲しい。
彼女の無実を証明出来る切っ掛けがそこにあるかもしれない。
あれだけ馬鹿正直で律儀な奴なら信用出来るし、協力だってしてくれるだろうし。
……それに。
オレばっかり守られてて、守ってくれている人に何の恩も返せないなんて……そんなのはもう御免だ。
目立つ行動は控えるように釘を刺されてるけど、またとないチャンスかもしれないのに、安穏となんてしてられないっ。
―――赤羽根サン……ごめんっ!
まだ学ランは遠くには行ってない筈だ、走れば追い付ける!
オレは手ぶらのまま、教室を飛び出していた。教科書やノートなんて後で取りに来ればいい。
今はとにかく学ランに話を―――
―――ッ!?
「んぅ……っ!!?」
なんだ……これ……ッ?!
ハン、カチ? 誰だ、よ、放せよ、は、なせぇ……ッ!
な、んだよ、これ……。
だ、めだ……。
ち、から、入ん、な……い……。
……赤羽、根、さ――――
―――バタンっ―――
【赤羽根探偵と奇妙な数日-4日目朝2-】
完