無題 2011 > 11 > 09(水) (うДT)

(4)『相良という人』

 放課後、安芸野揚羽の奇妙な追跡をなんとなく撒き、何の収穫も得られぬまま生徒会室を出て家路に就いた藤堂は、夕闇の迫るいつもの神社の石段を全速力で上り下りしていた。この世界の沙樹にとってはわからないが、少なくとも応援団長藤堂魁にとっての日常的なストレス解消法である。

(未熟・・・未熟・・・!)

 藤堂は、自分が応援団長であることを誇りに今まで生きてきたし、その名に恥じない人間となることを思い努力してきたつもりだった。しかし、応援団という自らの足場となる存在をなくしたことで、これほどまで不安に苛まれる自分が許せなかった。自らが応援団という組織を支えているつもりで、実は自分の方こそそれに支えられていたのだと見せ付けられた気がした。

 このままでは、例え元の世界に戻る方法がわかったとしても、どうやって仲間たちに顔向けすればいいのかわからなかった。

(・・・まだ、帰れない)

 いつしか藤堂は、そんな風に考えるようになっていた。

 何十往復目か、または何百往復目か、流石の藤堂も力尽き、石段を上りきったところで境内の石畳に仰向けに倒れこんで荒い息を吐いた。ふと確認してみると、両手足がいつの間にやら泥だらけの土だらけになっていて、その汚れの下には無数の擦り傷やあざ、切り傷。

「・・・こんなんじゃ家に帰れないな」

 自嘲するようにそう口にして、境内を覆う木々の葉がささやかな風に揺れるのを見上げながら藤堂は目を閉じた。

 このままそよ風の中で、霧みたいに散っていければ楽なのに。

 ・・・なんて、ちょっと女々しかったかな。

 いくつもの朝と夜を経て、深い森の中、自分の体がゆっくりと風化し、春には緑のツタに覆われ、夏には綺麗な花が咲き、秋には舞い落ちる紅葉に覆われ、冬には雪化粧で包まれるだろう。そしてまた新たな春が訪れたとき、柔らかな日差しの中、きらきらと輝く澄んだ雪解け水に乗って、ゆるやかに土に還っていくイメージ。

 このまま、ここで眠ってしまおうか。それもいいかもしれない。

 しかし、ある気配が近くで蠢くのを感じたとき、藤堂の意識は元の神社の境内に戻される。

 気配は石段の方角からでなく、その反対側、神社の本殿裏の茂みの方向から近づいてくるようだった。茂みが荒々しく踏みしだかれる音を耳にしたとき、藤堂はとっさに自らも近くの茂みに身を隠した。そのまま息を殺して、現れる人物を窺う。

「・・・相良聖?」
「誰だ!」

 思わずつぶやいた言葉に耳ざとく気づいて誰何してきた人物、茂みから現れたのは、まさしく相良聖だった。特に隠れ続ける理由も無いので藤堂は素直に姿を見せると、相良は安堵するようながっかりするような、もしくはさらに緊張を強めるような、複雑な顔をした。しかしながら藤堂にとって、そんな表情よりも目を引くものがあった。

 相良は珍しく"ズタボロ"だった。手足はあざや擦り傷だらけ、制服もところどころ破れたりほつれたりしていた。顔だけは、恐らく額の汗をぬぐうときにでも手から移ったのであろう泥がくっついている以外綺麗なものであったが。

「・・・その格好、どうした?」
「お前が言うか?鏡でも見てみろよ」

 ・・・そういえば、自分も似たようなものだった。

「ただ走りこんでいたらこうなっていただけだ」
「そうか。じゃあ俺もそうだ」

 どうやら適当にはぐらかしたと思われたらしく、相良はそんな風に答えた。

「喧嘩か?あなたがやられるなんて珍しいこともあるんだな」
「やっ!やられてねぇよ!やってやったんだよ!もちろんコテンパンにな!」

 相良から何かを聞きだしたいときは、どうやらこうしてプライドを刺激するようなことを言えばいいようだ。

「ま、まあ、不意を突かれたせいでちょっと手間取っちまったけどよ・・・」
「なるほどな」

 ばつが悪そうに相良がそう言い終わった、ちょうどそのタイミングだった。

 相良が出てきた茂みの方角から、複数の足音が慌しく響いてきたのは。

「へへ、やっと追いついたぜ、相良さんよォ」

 足音の主たちは、5・6人の男たちだった。制服からみて皆高校生であろうが、着崩し方やその面構えから見て、どうやらチンピラ気取りの不良高校生であることがわかった。それぞれの手には木刀や鉄パイプ、木製の角材など思い思いの武器が握られていた。

「散々逃げ回ってもらったがそれもここでおしめぇだなぁ。そろそろ本格的に1年前の借りを今日こそ返させてもらうぜ、血に飢えた狂犬さんよォ」
「へっ、しつっけぇ連中だな。俺が女になった途端に狙ってきやがったって事は、男の頃の俺には怖くて手が出なかったかよ!」

 なるほど読めた。

 恐らく相良はこの連中に不意打ちでもされ、追ってくる連中を蹴散らしながらここまで来たというところだろう。しかし、女相手に武器持ちで複数、しかも不意を突くとは、気に入らない。

「へへへ、どっちにしろテメーが追い詰められてるってことには変わりねぇんだぜ?それともそこに居るオネーチャンにでも助けてもらうか?」
「・・・こいつは関係ない!」

 そう言って相良は、藤堂をかばうような位置に立つ。とはいえ、普段の相良ならこんな連中、ものの五秒で倒してしまうかもしれないが、今のこの格好からして恐らくここに来るまでにこれ以上の人数を相手にしながら走ってきたのだろう、それが無茶な行為であろうことは予想が出来た。

「関係ない?おんなじ学校の制服を仲良く着ちゃって、それでも関係ないって?こいつは傑作だぁ」

 先頭の口数の多い男がゲラゲラ笑う。後ろに控えた男たちはニヤニヤ笑いながら持っている武器の素振りを始める。その動作や体格、目に宿った危険な光から、恐らく街にザラにいる不良より少しは腕に覚えがありそうに見えた。第一、不意を突いたとはいえ、あの相良相手に二本足で立てる状態でここまで追ってきたわけだ。ただのチンピラと見るのは少々甘いといえるだろう。

「さぁーて、どう料理してやろうかねぇ」
「私一人を料理して終わりにするのはどうだ?」
「おま・・・何言って!!」

 進み出てそう提案した藤堂を、相良は慌てて制そうとする。口数の多い男はきょとんとしている。

「あのなぁ・・・そんなん通用すると思うか?」
「・・・そんな甘い奴らじゃない!ここは俺がなんとかするから、お前はさっさと帰れ!」
「それこそ通用しねぇんだよぉ相良聖ちゃん!このネーチャンも一緒に一晩中かわいがってやるからよォ、へへh」

 目の前に寄せられた口数の多い男の顔に向かって、藤堂は頭突きを繰り出した。

「あっがッ・・・!!」

 顔を押さえながら後ろによろめく男の襟首をつかんで、更に頭突きをぶつける。

 二回。三回。四回。五回。六回。七回。八回。九回。

 呻き声が聞こえなくなるまで入れてやってから、失神した男を後ろで控えていた連中の前に投げてやった。一瞬呆気にとられていた男たちだったが、すぐに我に還ったようで口々に罵声を放ち始める。

「ダ、ダラッてンのかオラァァァァァァ!!」
「しャあッそォオラアアアアア!!」
「ぶるぁあああああああ!!!」

 そのうちのせっかちな一人が奇声を上げながら向かってくる。藤堂に向かって振り下ろされる鉄パイプ。それを一歩後ろに下がってかわし、石畳を打ち据えたパイプを左足で思い切り踏みつける。パイプはあっさり男の手からすり抜け、石畳とぶつかり甲高い音を立てる。しかし、男がその音を聴くことは無かった。そのとき既に藤堂の膝に顔面を潰されていたからである。

「てめぇら黙りやがれ!!!」

 顔面の潰れた(実際は鼻から血を出しながら失神していただけだが)男の襟首を左手で掴み上げながら藤堂が吠えると、先ほどまで声を上げていた男たちが嘘のように静まり返る。一瞬で叩きのめされた仲間の様子と、間髪入れず放たれた怒号に戦意をそがれてしまったからである。

「・・・お前ら、八頭身工業高校だな?」
「そ、それが、どうしたってんだオラァ!」

 藤堂の言葉に、青い顔をしていた男たちの一人が、精一杯の虚勢で声を上げる。

「三年生の矢良に、同級生の藤堂がよろしく言っていたと伝えておいてくれ」
「なッ、お、おめぇ、・・・や、矢良さんとどういう関係なんだよ!?」
「・・・お前に言っているんだよ、大将?」
「!」

 男たちの後ろで黙って控えていたリーゼントの体格のいい男の眉がピクリと動く。藤堂の思った通り、この男がこの集団のリーダー格のようだった。

「それとも、・・・後輩に恥をかかせてもらった礼を俺が直接言いに行った方がいいかな?」

 藤堂の発する威圧感が、場を支配する。その場を一瞬、木々を鳴らす風の音だけが包んだ。

「・・・お前ら、行くぞ!」
「へ、へいっ!」

 リーゼントがさっさと背を向けて歩き出すと、手下たちは慌ててそれに続き、気絶した者を伴ってそそくさと石段を降りていった。

 しばらくぼんやりとそれを見送っていた相良だったが、はっと我に還って追いかけようとする。気がすまないのはわかるが、藤堂は彼女の肩を軽く掴んで制する。

「な、なっんだよっ!このまま逃がしちまっていいのかよっ!」
「気持ちはわかるが、今はあれでいいんだ」
「だ、だってよ・・・もっとコテンパンに痛めつけてやらないと、きっと後で仕返しに来るぜ?」
「それは大丈夫。ああいう群れて行動する手合いが頼みにしているのは自分たちの組織力だ。だから、いくら一人ひとりを痛めつけたところで今日みたいに手を変え品を変え何度でも仕返しにやってくる。だったら、ああいう風にその"自信"の基を揺るがす感じで脅しをかけてやれば少なくともしばらくの間はちょっかいかけられないはずだ。結局ああいう連中は、一人じゃ何も出来ないから群れているものだ」

 相良にそう説明していると、胸がちくりと痛む。まるで、今の自分のことを言っている気がして。

「・・・じゃあ矢良ってのは誰だよ」
「ああ、やつらが八工の連中だというのがすぐわかったから、矢良というそこにいる顔見知りの中で一番腕っ節の良さそうな奴の名前を出してみただけだ。単なるカマかけだったが、意外にも上手く行った様だな」
「ハァ!?じゃあ全部ハッタリだったのかよ!?」
「ああ。あの人数なら例え失敗してもとりあえずふたりで乗り切れたし、手間が減った分良かっただろう?」
「ばっ・・・」

 相良は大口開けて笑い出した。

「お前・・・変な奴だな!」
「そうか?私からすると、あなたも十分面白いけどな」

 ひとしきり笑い終わると、相良は軽く手を挙げてこちらに背を向けた。

「ま、まあ、俺一人で何とかなったが、一応礼は行っておくぜ。機会があったら、またな」
「・・・ああ、少し待て」
「あ?なんだよ?」

 呼びかけると相良は、面倒くさそうにそれでも一応藤堂を振り返る。

「そのまま帰って大丈夫なのか」
「そのまま?」

 藤堂が相良の傷だらけの手足を指差すと、彼女はそれで理解したようで肩をすくめて笑った。

「お気遣いありがとよ。だけどこんなの、ツバつけときゃすぐ直るさ」
「あなたがそういうならそうなのかもしれないが、今の状態のそれを見たら多分、あなたの家族が心配するだろう」
「んあ?・・・ああ、確かに・・・親父はいいとしてお袋がなんて言うか・・・」

 相良は右手で頭をかきむしりながらため息をついた。

「家に来い。してしまった怪我は仕方が無いから、せめて治療はしておこう」
「ああ?いいよ面倒臭せぇ。いつもの調子で窓からでも帰宅して適当に」
「先輩に逆らうということの意味をわかっているか」
「お、おお。じゃあ行くよ・・・」

 何故か反射的に藤堂に従う旨を発言してしまってから、相良は自分の行動に首をひねってひねってひねってしまうのであった。





「で・け・え・家だなぁおい・・・」

 見渡す限り遠くまで続いているように見える和風建築の塀と、目の前にでかでかと構えた丸で時代劇にでも出てきそうな木造の門を前に、相良は思わず感嘆の声を漏らす。

「先祖がたまたま土地持ちだっただけだ。門を入ったら庭を抜けて道場に回るぞ。ついて来い」
「お、おお」

 立派な構えの木造の門を潜り、母屋の明りを避けて庭の隅を離れの道場へ向かう。玉砂利の敷き詰められた部分を歩くと足音が建ってしまうので、なるべく植え込みの近く、土の露出した部分を選んで歩いた。母にばれてしまうと厄介なのは藤堂も一緒であった。

 道場は、母屋から続く長い渡り廊下の先にある。道場に付属した宿泊所にかつて門下生たちが起臥していたそうだが、現在は無人になっており、時たま訪れる遠方からの客のために使われる以外は閉ざされたままである。隠れて傷を治療するには絶好の場所であった。

「足跡を消すのを忘れるな。それから靴は持って入れ。ここにいることが悟られると厄介だ」
「いったいどんな人なんだよ・・・お前の母さん」

 文句を言いながらも相良は靴を持ってあがってきてくれる。

 縁側から直接道場へ上がりこみ、明かりのない床を慎重に足で探りながら二人は奥へ進む。目的の引き戸に到達すると、藤堂は電光石火の勢いでその戸を開き、相良を招き入れると背後を確認しながら慎重に両手でそれを閉めた。

「・・・これでもう大丈夫だ。問題ない」
「お、おう・・・しっかし、なんだかわかんねーけど100人から待ち構えてる廃工場に一人で乗り込んだときの次くらいに緊張したぜ」
「・・・その感覚は概ね正しい。流石だな」
「お、おお、そうか。よくわかんねーけどよ」

 藤堂は、いつもこっそり傷を治療するために隠している救急箱を棚の隅から取り出す。包帯に消毒薬、脱脂綿にテープを取り出すと、手際よく治療の準備を始める。

「やってくれんのか?悪りーな」
「え?あ、ああ・・・そうだな」

 当たり前のように準備を進めていたが、考えてみればどうして自分が相良のためにこんなことまでしているのか・・・よくわからないが考えても仕方がない。母に感づかれる前に相良と自分の治療を終えてしまわなければ。藤堂は少しあせっていた。道場の給湯室まで忍んで走り、汚れた手足を拭うための湯を小さな洗面器に張り、傍らにかけられた手ぬぐいを取ると大急ぎで相良の待つ部屋へ戻る。

「痛てっ!お前、もっと優しくできねーのかよ!」
「仕方ないだろう。自分ですることはあっても人にする事なんて滅多にないんだ」
「それにしたってやりすぎだろうってイテテ! お前、よく見たらそれビッシャビシャじゃねーか! 出しすぎだろ!」
「頼むから静かにしてくれ。落ち着いてゆっくりやろう・・・」
「ぉおまっ! 変なトコ触んなよ! そこは関係ねぇだろ!」
「うるさい奴だな・・・ほら、あとは脱脂綿とテープで・・・何してる」
「・・・へ?」

 引き戸の隙間から覗いていた琥凛は急に声を掛けられ一瞬きょとんとしたが、藤堂と相良の視線を受けて慌てて作り笑いをしながら取り繕った。

「あ、あははは、その、なんか艶っぽい声が聞こえたから、お姉ちゃんが誰か連れ込んでヘンな事してるのかと思って・・・」
「・・・」

 気まずそうに頭をかきながら琥凛はそれでもちゃっかり部屋の中に入ってきた。

「・・・母さんにはバレてないだろうな」
「あ、うん、お母さん今日急に会合に行かなきゃならなくなっていないし」
「そうか・・・」

 藤堂はほっと胸をなでおろした。そして脱力する姉を前に、妹の瞳にいたずらっぽい光が宿る。

「お母さんにばれたらまずいって事は・・・この人もしかしてやっぱりお姉ちゃんの恋人?」
「おい琥凛・・・お姉ちゃんは久々にお前をお仕置きしたくてウズウズしているぞ」
「・・・ごめんなさい」
「・・・迷い猫を拾ってきたみたいなものだ。家に帰すまでは大目に見てくれ」
「ぅおぉい迷い猫って何だよ!?」

 今度は迷い猫に例えられた相良が黙っていなかった。

「すまん、他意はない」
「そうか他意はないか・・ってそれこそダメじゃねぇかよ!?捨て猫かよ俺は!?」
「それは言葉のあやだ」

 相変わらず居座っている琥凛を尻目に、治療はとりあえず完了する。しかし、その仕上がりに相良は少々不満げだ。

「おい・・・手足がこんな包帯ぐるぐる巻きじゃ余計面倒なことにならねぇか?」

 手足だけで言えば確かに、相良の姿は実際以上に重い怪我に見える有様だった。消毒した脱脂綿とテープの絆創膏の上から、包帯が二重三重に巻かれ、なんとも動きづらそうな有様だった。まるで子供向けの絵本に出てくるミイラ男だ。

「してしまった怪我は仕方ないんだ。せめて最善は尽くさないとならんだろう」
「だからってこれはねぇだろ!?せめて包帯はなんとかしてくれよ」
「わかったよ・・・これでいいか!?」

 皮膚を覆う包帯を巻き取ってやると、相良はため息をついた。

「ふいー、やぁっと自由に曲げ伸ばしが出来るぜ。手足がうっ血して死ぬかと思った」
「文句の多い奴だ・・・親御さんに心配かけることになっても知らんぞ」
「さっきのマッシロケッケの方が何倍もヤベーだろ? それにまぁこんな時間になったしどの道面倒臭せぇことにはなると思うんだけどな」
「それは心配いらん。こんな時間に女一人で帰しはせん。私が責任をもって家まで送り届ける」
「・・・おい。立派な心がけだが送った後でお前はどうするんだよ。お前だって女だろ」
「・・・」
「じゃあ猫さんにはここに泊まっていってもらえばいいんだよー! お母さんもいないし」
「ハァッ!? 誰が猫さんだコラ!? 俺は血に飢えた狂犬こと相良聖様だぞコラ!?」
「地に植えたひょうたん・・・?」
「だぁって!?」

 じゃれあう二人を尻目に、藤堂は引き戸を開いて夜風を部屋に取り入れながらため息をついた。

「・・・琥凛。夕飯はもう出来てるのか」
「あ、まだ。ピザでも取ろうかと思って。ピザ屋なら遅くまで出前してくれるし」
「ダメだ。それじゃあ栄養が偏るだろう。それに面倒くさい時は出前で済ませようだなんて言っているといつまで経っても良い習慣をつけられない」
「だってあたしはお姉ちゃんみたいに料理上手じゃないもーん」
「あのな、琥凛。私だって初めから出来たわけじゃない。面倒くさがらないできちんとやって来たからここまで出来るようになったんだ。手伝うだけでいいからお前も台所にきなさい」
「はーい・・・」
「・・・そういうことだから相良さん、あなたも」
「お、おう。手伝うぜ」

 突然声をかけられて相良は半分腰を浮かせる。彼女はどうやら、藤堂が思っていたより律儀な性分も持ち合わせていたようだった。

「いや、あなたは客人だからそういった心配は無用だ。それより今日は母もいないしあなたも母屋で寛いでいてくれ。こんな所に押し込めるような真似をして悪かった」
「そ、そうか? いや、黙って座ってるのも性に合わねーっつーかよ。風呂でも洗ってやろうか? 一っ風呂浴びたいしよ」
「・・・そうか。じゃあ、お願いするよ」
「おう、任せろや。新品同然に磨き上げてやるよ」

 そう言って相良も立ち上がった。





「しっかしいい風呂だった!ありゃ檜風呂か?腹も一杯だしもう死んでもいいぜ~」
「・・・別に月は綺麗じゃないぞ」
「え?」
「・・・いや、こちらの話だ」

 風呂でさっぱりして、夕食も終えた後、相良は寝転がって伸びをした。相良の家には藤堂から先程電話を入れた。自分が女性で身分もはっきりしていたことで、意外にもすんなり相良の母親の承諾を得られたことに、藤堂は内心ほっとしていた。今は琥凛が風呂に行っている。

 しかしながら気持ちに余裕が出てくると、別のところが気になり始める。

「相良さん・・・あなたも女性なんだから、もう少し行儀よくするべきだ」
「え?」

 藤堂がトレーニング用に持っていたハーフパンツとTシャツ姿の相良は、だらしなく横向きに寝転がって頬杖ついてテレビを見ている。常識的に考えても始めて訪れた家でそこまで寛げる事は驚嘆に値することであるが、まして普段から女の何たるかを鬼のように母親から叩き込まれている藤堂の感性からすると、より一層今の相良の姿は信じられないものに映ったのだ。

「それを言うなら今のお前だってかなり不自然だぜ?」

 しかしながらそこは相良の目からも逆に藤堂姉妹の食事風景はかなり異様なもので、食事中は一応テレビがついてはいるものの背筋を伸ばして二人とも正座、こちらから話題を振れば琥凛は喜んで返答してくるものの藤堂はほとんどそれに応じず、黙々と食事をする。琥凛の意向と相良に気を遣ってかつけられていたテレビも、彼女自身は切っておきたかった様だった。藤堂がアレほどまでに恐れる母親がいないなりの砕けた状況がこれだとしたら、もし自分がこの家の子供だったら、絶対に耐えられないであろうと相良は思っていた。

「どこがだ。貞淑な振る舞いは女性として当然の嗜みだろう」
「ていしゅ・・・いや、だからよ、そんないつも肩肘張ってて疲れねーのかってことだよ」

 しれっと返す藤堂に、相良も段々意地になって語気が強くなってくる。彼女は元々激情家である。しかしながらそんな様子に気付いてか気付かずか、藤堂は眉ひとつ動かさない。

「日ごろから鍛えているから疲れることなどない。こうしていなければ逆にストレスが溜まって来るくらいだ」

 またまた知らん顔でそう言いつつ、立ち上がってきゅうすに湯を注ぎ始める。茶でも淹れて飲むつもりらしい。

「じゃなくておめーはもう少し今時の女っぽくした方がいいってんだよ!」

 ほとんど腰を浮かせたような格好でそう怒鳴った相良に、今度は藤堂が手にした湯飲みをちゃぶ台にドンと叩きつける。

「それは私に阿婆擦れにでもなれということか!そんなことは断固として認めん!」
「アバズレって・・・お前俺をそんな風に見てたのかよ!?」

 思い余って言いながら立ち上がってしまう相良。そしてそれに負けじと立ち上がって威嚇する藤堂。相良は自然と、男子生徒の間に立っても頭ひとつほど抜ける事のある長身の藤堂を見上げる形になる。そんなことを気にする彼女でもなかったが。

「なんだ?それで品行方正な大人の女性のつもりだったとでも?笑わせるな。俺からすればお前など山からまかり間違えて転がり落ちてきた野猿も同じだ」
「・・・あんだとコラ!!理屈ばっかこねてジジイみたいなものの言い方しやがって!!」

 相良はガッと藤堂の胸倉を掴む。藤堂は怯まずそのまま前のめりに圧力をかけながら相良を目で威嚇する。傍から見ればもはやチンピラ同士の意地の張り合いだった。いつ殴りあいになってもおかしくない雰囲気だった。事実二人とも空いた方の拳はいつでもお互いを殴りつけられる様手のひらに爪が食い込むほど握り締められていた。

「大体俺はお前の言う今時の女というのが嫌いだ。夏になれば裸のような格好で表を出歩き、夏でなくても娼婦のように人前で化粧直しなどしている。往来では平気で連れ合いの男に媚びる甘える接吻する。羞恥心のかけらもない猿も同然の振る舞いだ。猿回しの猿の方が反省を知っている分上かも知れんぞ。こんな子供を表に出した親の顔も見てみたいものだな」
「それは!俺も気に入らないけどよ・・・俺が言ってるのはそういうことじゃねえってんだろ!!俺が言ってんのは、もっと女なら、女として楽しめることとか、夢見たりとか、そういうこと自由に楽しんだ方がいいんじゃねーかって言ってんだよ!!」
「なるほどな。お前のことは噂で聞いているぞ。毎日のように男の家に入り浸っているそうだな。それもお前の言う女として楽しめることか?感心するよ。まるで盛りのついた猿だな」
「お前・・・言わせておけば!!!お前だって結局やってることは男に媚び売ってんのと一緒だろ!?男にとってただただ都合のいい女になるのがお前の理想かよ!!」

「やめて!!!」

 二人の動きが拳を振り上げた姿勢のまま止まる。

 二人の視線の先には、開け放たれた襖の向こうに立つ琥凛の姿があった。風呂上り、この部屋の雰囲気を察して乾かす間もなく駆けつけたのか、濡れた髪からはしずくが滴り落ちていた。両手をきつく握り締め、口は真一文字に結び二人を睨み付けていた。

「私達の家で暴力なんて振るわせない!!二人ともこの家から出て行って!!!」

 そう言い放つ琥凛には、有無を言わせぬ迫力があった。しばしそのまま、二人は立ち尽くしていたが、どちらからともなくお互いを解放し、部屋を出て行った。二人が玄関を出るまで、琥凛は両手をきつく握ったまま、その背中を睨み続けていた。





 月明かりに照らされた庭の片隅に、二人は所在なげに佇んでいた。どこかの草むらから虫の声が響き、池の鯉が小さくはねた。

「・・・で、どーするよ」

 定番のうんこ座りで足元の小石を弄びながら、相良は誰に問いかけるでもない調子でそう言った。黙って夜空を見上げる藤堂は答えない。そのまま二人の間にまたしばらく沈黙が流れた。藤堂は黙って星座を見つめ、小石に飽きた相良は池の縁に腰掛けて仄暗い水中を泳ぐ鯉を眺めていた。

 10分も経った頃だろうか。先に口を開いたのは藤堂だった。

「あなたには、本当に悪いことを言った。・・・すまない」
「あぁ?なんだって?」

 聞き返した相良は笑っていたが、嘲るような調子はない。先程までの激情はとっくの昔に過ぎ去り、怒りはすっかり白けきっていた。笑うような調子になったのは、藤堂がそんなことを言うのが純粋に予想外だからだった。

「今時の女が嫌いだと言ったのは私の本心だが・・・それとあなたが同じだと言ったのは、間違いだった。あなたが、あなたの理想に従って生きていることは、私にもわかるつもりだ。だから、すまなかった」

 藤堂は振り返って頭を下げた。

「そんなこといったか?」
「そう伝わらなかったとしても、私の気持ちの上では言ったも同然だ。だが、それが間違いだということは、冷静になった今ならわかる。だから・・・」
「だぁー!もういいよ!」

 空気に耐え切れなくなって相良は立ち上がり、藤堂の言葉をさえぎった。驚いた鯉がまた、水面を跳ねた。

「・・・つーか俺も・・・すまなかった・・・俺の方もなんつーか、お前の言う通りだったというか、まあ、もう少し慎みを持つべきだとは思うしよ!まあ、その、図星を突かれて引っ込みがつかなくなったっつーか・・・とにかくお前が一方的に悪いわけじゃねーよ!!だからこれ以上謝んな」

 そう言って相良は、また元のように池の縁に腰掛けた。照れた様に向けられた背中をしばらくの間びっくりしたように見つめていた藤堂だったが、ふっと微笑むと、おもむろに口を開いた。

「こんなことを言うのは恥ずかしいが・・・私は、多分怖いんだ。あなたが」

 相良は何も答えなかったが、構わず藤堂はぽつりぽつりと語り続けた。

「私は自分がこうなったとき、喜びも、悲しみも、怒りもしなかった。ただただ、怖かった。鏡の中の自分を見ることは、耐え難い恐怖だった。
 その頃私は応援団員になったばかりだったし、それまでも、自分は立派に男になって、自分なりにこの国に、社会に尽くしていくものだと思っていた。それ以外の人生は考えられなかった。だから、鏡の中から見つめ返してくる女を目にしたとき、目の前が真っ暗になった。自分の人生は、これで終わったのだと思った。応援団も退部させられてしまった。何かを始めようとする気力も何もかも失っていた。
 しかしそれを救ってくれたのは、私を追い出したはずの応援団だった。応援団の仲間達だった。彼らと、彼らの誇りが支えてくれていたからこそ、私は努力して応援団に帰る事が出来たし、団長を継ぐという栄誉に預かることも出来たのだと思う。私は、彼らが私の手をとり助け起こしてくれたときに、この身体はどうあれ、この三年間を男として、彼らと彼らの応援団を守るために捧げようと決めたのだ。それから今まで、その仲間達にふさわしい団長であるために努力してきたし、そうなれたと自負してる。
 でも・・・今は、それも失ってしまった。応援団という存在が、どれだけ私のアイデンティティを支えていたのか、初めて気が付いた。自分が支えていたつもりで、本当は私が彼らに依存していたんだ。
 ・・・私は、女になんかなれない。多分、これから先も、心の底から女になることも、本当の意味で男を愛することも出来ないと思う。でも、応援団が目の前から消えてしまった今は男でいることも出来ない。私はもう、自分が誰なのかわからない・・・」

 途中から藤堂は、自分がこの世界の沙樹の話をしているのか、元の世界の自分の話をしているのかわからなくなっていた。それでも相良が聞いてくれているのは空気でわかっていた。彼女の背中に垂れた長い髪が、夜風に微かになびいていた。

「・・・いや、失って初めて気が付いたんじゃない。多分、初めから気付いていたんだ。だから、あなたのことがずっと気になっていた。多分、あなたが私のことを知るより昔から。あなたは、私が悩んでいた様な全てのことにとらわれず、自由に見えた。だから、羨ましかった。それ以上に、あなたを見ていることは怖かった。自分の不甲斐なさを目の前に見せ付けられているような気がしたから。だからこそ、あなたに突っかからずにはいられなかったのだと思う。これでは、どちらが問題児なのかわからんな」

 こんな話をしてすまなかった。

 そう言って藤堂は、今晩の寝床に案内しようと振り返ろうとしたが、そのとき相良が口を開いた。

「・・・応援団ってのはよくわかんねーけどよ。あんたの仲間は、あんたが男だからとか、女だからとか、そんな理由でついてきてくれてたのかな?」

 相良は、藤堂の答えを待つように少しの間黙った。

「あんたは、あんただと思うんだけどな。俺は」

 相良は、小石をひとつ拾って池に投げた。小石は水面で一度だけバウンドし、そのまま池を飛び出し塀に当たって甲高い音を立てた後、土の上に落ちた。

「ありがとう・・・相良さん」

 藤堂は背中を向けたまま、振り返ることは出来なかった。同じように相良も彼女を振り返ることはしなかった。その理由を知ることもまた、藤堂には出来なかった。

 それから二人はしばらく口を開くこともなく、藤堂も池の縁に腰掛け、ぼんやりと二人並んで水面を眺めていた。映った月を鯉が池の中から時折揺らした。

 静寂を破ったのは、相良のくしゃみだった。

「あー、くそ、湯冷めしちまった」
「・・・少し夜風に当たりすぎたな。そろそろ戻ろうか」

 立ち上がって膝についた土を払いながら藤堂は言った。相良は立ち上がって状態をそらせて思い切り伸びをした。

「っあー、眠いぜ・・・でも、戻って大丈夫か?妹さん、怒らせちまったみたいだけど」
「・・・あいつは暴力が嫌いだからな」

 藤堂が応援団に戻ろうとしたとき、最も反対していたのは母でなく琥凛だった。もちろん、最初に入部を決意したときも反対していた。応援団という組織が団員にどういう仕打ちをするかわかっていたからだった。事実、先輩団員に張り飛ばされて怪我をしたことも一度や二度ではなかった。

「私が行くからあいつのことは心配要らない。それより、風邪を引かないようにゆっくり休んでくれ。さっきの離れの部屋に寝床を用意しておいた」
「おう、悪りーな。あ、それからよ、その・・・まあ直接も言うつもりだけどよ、俺からも悪かったって妹さんに、伝えてくれな」
「・・・わかった。ありがとう、相良さん」

 相良の言葉に藤堂は微笑んだ。

「んー、その相良、さんっていうの、なんとかならねーかな」
「そうか?じゃあ、なんて呼べばいいかな?」
「そうだな・・・ま、聖でいいよ。男からそう呼ばれることはあんまねーけど、女友達にはそれで通ってるからよ」
「わかった。ありがとう。聖。じゃあ私のことは・・・」

 一瞬だけ、藤堂は考えた。だが、答えは既に出ていた。

「沙樹でいい。それが私の名前だ」
「そっか。じゃあ沙樹、おやすみ」
「待て」
「あん?」

 藤堂が用意した寝床のある離れに向かいかけた聖を藤堂が呼び止めた。

「私のほうが先輩なのだから『先輩』をつけろ。最低でも『沙樹さん』だ」
「・・・ハァッ!?この期に及んで先輩風吹かそうってのかよ!?」
「当たり前だ。部活動において、学年の上下関係は絶対だ」
「部活ってお前・・・これまでの流れで考えてそれでいいのか!?オイ!?」
「フフ・・・冗談だ。おやすみ、聖」
「おいおい・・・」

 藤堂は琥凛のいるであろう母屋に向かって歩き始めた。





 庭の玉砂利を踏みしめながら母屋に向かうと、思った通り琥凛は縁側の片隅で膝を抱えて座っていた。藤堂が姿に気付いて近づくと、膝を抱えた姿勢のまま背中を向けた。

 藤堂は傍らに腰掛けると、黙ってその細い肩を抱き寄せた。

「ごめんね、琥凛。お姉ちゃんが悪かった。怖い思いをさせてごめんね」

 語りかけながら、抱き寄せた背中を暖めるように撫でていた。しばらくさすっていると、妹の肩が震えていることに気付いた。すすり泣く声が低く聞こえていた。

「・・・お姉ちゃん・・・あの人のこと・・・ほんとに殴ろうとして・・・」
「ごめんね。あの人とはちゃんと仲直りしたよ。もう琥凛の前であんなことはしないから」
「・・・ひぃ・・・・ぃん・・・」
「ごめんね、琥凛。どうしたらお姉ちゃんのこと許してくれる?」
「・・・」
「ごめんね」

 抱き寄せた妹が泣き疲れて寝息を立て始めるまで、姉は背中をさすり続けていた。夜空からは半月がしんしんと照らしていた。

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最終更新:2011年11月09日 20:32
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