都庁を遠目に一望できる高さにあるビルの一室。
上品に匠の技を振るわれたと思しき家具や、踏みしめるとふんわりと足を包みこむ、いかにも『お高い素材をふんだん使用しました』と言わんばかりのエンジ色の絨毯が私の目に留まる。
ここが、今日から私の仕事場
なのだ。
……と言い聞かせてみても実感や感慨はこれっぽっちもないのだけれど。
だってさ、普通こういう場所に行き着くにはエリートコースの紆余曲折を経て、苛烈窮まる出世ダービーを勝ち抜き、下げたくもない頭を下げ、時に涙を飲み、時に血反吐を吐き、清濁の全てを飲み込まんとするようなEXPを積む、そんな努力が必要でしょ?
ーーなーんにもしてないもん、私。
単に、政財界の凄い血統の人に後見人になってもらっただけ。要するにコネクションですよ。
そういう地位を自力で目指してる方々からは唾棄されそうな、言い得て妙だけど立派なズルですよ。
「緊張か? らしくないな」
落ち着き払っているようで、どこか楽しげな甘く低い声の持ち主が、私の横をすり抜けて、絢爛な執務室へ足を踏み入れていく。
「失礼な。せんせーの中での私はどれだけ図太い神経の持ち主なんですか?」
「さて、ね」
私よりも頭二つ分は高い背丈の男性は、何か言いたげな顔した後に、執務室の中央でピタリと歩を止めた、と思う間に振り返り右手を広げてみせる。
「ようこそ、異性化疾患対策委員会 委員長執務室へ」
ーーなんとも芝居がかった気障な演出の仕方だことですね。
下手な芸能人よりも甘いマスクを兼ね備えてるせいか、様になってるのも腹立たしい。
だから、負け惜しみ代わりに私も満面の作り笑顔で答えてみせる。
「ーー改めて……坂城 るいですっ、これからよろしくお願いしますっ」
「歓迎するよ」
白々しいやりとりであることは重々承知してる。多分、お互いに。
でもまぁ、そういう通過儀礼とかに重きを置くお国柄について則った形式だと、思っておこう。
……そうでもしなきゃ、気恥ずかしさに負けそうなんだもん。
【青色通知-ある私設秘書の話1-】
ーー坂城るい
それが私の今の名前。
うん? そう『今の』ね。
昔の名前は……発音が一緒だけど字が違ってた。
……まぁ、その、諸兄のお察しの通り、私も、ある奇病の数多の発病者の一人なわけです。
異性化疾患、っていう十数年前に流行語大賞にもノミネートされた病気の、ね。
その病状についての説明は……いらないか。
共通言語とも言うべき、この病気について私が知ってることは他の一般人が知ってるそれと大差は無いし。
……まぁ、私の症例は他の一般的な例とは少し違うのだけれど……長くなるので割愛。
その兼ね合いで知り合いになったのが、目の前で大仰なポーズをとって見せてる残念な二枚目さんだ。
名前は、神代 宗さん。
過去には医師の経験もあって、その時からの知り合いだったから私は『せんせー』って呼んでる。
さっきも話に出た奇病『異性化疾患』を研究し、それに伴う、ありとあらゆる問題を一手に担う厚労省の機関
『異性化疾患対策委員会(ネーミングがストレート過ぎると思う)』の若き委員長を務めている。
ーーと言っても委員長が本決まりするまでの代理役らしいけど。
代理とはいえ30代の異例の若さで一公的期間の長を務めるなんて、流石政財界きってのエリート家系。そのサラブレッドと評されるだけはありますよねぇ。……本人に言ったら頗る不機嫌になるから言わないけど。
ーーーーで、私は今日、そのエリートせんせーの私設秘書に晴れて着任したわけです。
さて、と。
程良く説明したところで現実回帰、っと。
「ーーでも、実際何をすればいいんです?
週一回、土曜日だけの私設秘書なんて、殆どなーんの役にも立たない気がするんですけど」
さっきも触れた気がしたけど、私は花も恥じらう女子高生なのである(自画自賛)。
勿論、平日は全日制の高校に通っているし、そこで勉学にも勤しんで……いますよ? それなりに。
そんな私が、社会人に混じって連日秘書業を行うなんて無理に決まってる。
まぁ、ぶっちゃけてしまうと私設秘書なんて名目でしかないってことなんですよ。
とはいえ、そんな宙ぶらりんな状況に胡座を掻く訳にもいかないから『週に一度だけでもその真似事をする』っていう取り決めが、私とせんせーの間で成立したわけで。
「……まぁ、追々覚えて貰いたいことは山ほどある。焦らずに精進することだな」
「追々って……」
このせんせー、事も無げに言ってますけどね……。
あるモノが頭を過ぎる。
それは、今日の着任式(まがい)の前日にせんせーから渡された分厚いB4の紙束を業務用のステープラーで止めた(制作者曰く)小冊子のテキストです。
うあ、思い出しただけで、拒絶反応からか頭痛がしたよ。
表紙には『可及的速やかに覚えるように』と達筆で書かれていて、一枚捲ればルーペ必須と言わんばかりの小さなフォントに乱れ咲く明朝体の専門用語の数々!
……私の知識許容量なんて端から無視なんですかね、せんせー?
そんな、私の脳内批判を余所に無骨な電子音がぴりりりりり。
ーー携帯だ。私のじゃない。
「はい神代です」
未だにフリック式じゃないパケット通信型の携帯電話の通話ボタンに押下するせんせー。私も人のこと言えないけど、経済的に私よりは100%余裕があるはずなのになぁ。
そんな下らないことを思いつつ、その後の数十秒間のせんせーの言葉は日本語に翻訳出来なかったので割愛。
「すまないが、事情が変わった」
携帯を可動域方面に折り畳みながらの、せんせーの申し訳なさの欠片も感じさせない平坦な口調が、執務室に反響する。
「坂城くん、ストリアセリンの件についてだが」
「スト……。え? な……なんですか?」
「ふぅ……」
人生で初めて耳にする固有名詞を一字一句違うことなく復唱するのって、思ったよりも難しいものだよね?
なのに、ちょっと聞き直しただけで、あからさまに溜め息吐いちゃいましたよこのせんせー。
ええ、ええ。スパルタなのは前々から知ってますとも。明言だってしてましたしねぇ。はい。
でもね、そんなあからさまにネガティブな顔をしなくたって罰は当たらないと思うんですよ。
お飾りの秘書じゃマズいっていうのは、百も承知してますが、それに関しましては日進月歩の精進を重ねていく所存でございますのでひらにひらにご容赦をばですね。
ーーそんな私の脳内言い分を察したのかはわからないけども、せんせーはデフォルトの作り笑顔を構築していく。
うあ、呆れてる。
今、絶っ対、呆れてらっしゃる。
そこに触れると本題から大きく逸脱するお説教が待ってることを以前の経験から察した私は、口を開く愚を犯すことはないですよ、えぇ。
「ストリアセリン、だよ」
アルファ波を含んだような甘く低い声が、その難解な固有名詞を歌い上げた。 聞き慣れない、馴染みのない名前だなぁ。
「テキストにも載せてあっただろう?」
え、ああ、あのテキストですか?さも当然のように仰いますがね、あんな六法全書から抜き出してきたような法律の箇条書きと、それに付随するような事例を数百通り載せた(市販のホッチキスの針も通さないような)分厚い冊子の一言一句を、一昼夜で覚えられますかフツー?!
ひとしきりの愚痴を脳内で吐き出してから「カタカナ文字、苦手なんですよ」と、愛想笑いを作って様子見。
……わー、コワい。 柔和な顔はしているけど目が笑ってない。このままいくとお説教フラグがびんびんだよこれ。急いで脳内検索を開始。……辛うじて一件ヒット。
「ストリアセリン? って……
確か脱法ドラッグでしたよね?」
確か、流し読んだテキストの百数ページ目あたりにはそう書いてあった気がする。尤も、小難しい文体で書いてあったから、意訳に過ぎないのだけれどね。
「40点」「うぐ……」
おそらく百点満点評価じゃないね、あの反応を見る限り。
「そもそも、どの法律からすり抜けた薬品だい?」「へ?」
思わぬせんせーの切り返しに、私は?マークを三つほど浮かべた間抜けな顔していたことだろう。
「どの法律って、そりゃ……薬事法とか、麻薬防止条例とかでしょう? 乱用を禁止する法律なんてそれだけじゃないんですか?」
多分、私は間違ったことを言ってない……はず。 けど、せんせーは不満そうな綺麗な顔を崩さず「一般論ではね」と、一蹴。
うむむ、なんか腑に落ちない。
「だが」
せんせーが逆説の接続詞を発した場合、大抵が高説の口火切りだ。長いので、適当に省略させてもらいます。ものすごーく眠くなるので。
敢えて一言で表すなら「ストリアセリンには違法性はない」のだそうで。
じゃあ、何故今こんな話題が挙がっているのでしょう? ……あ、そういえば、その説明がまだだったっけ。
その、ストリなにがしが今この部屋で議題に挙がってる理由。それは……
「……なんでしたっけ?」
「知らないな、目的語もなく疑問符を投げ掛けられても困る」
ですよねー。
「えっ、と。そのストリ……」「アセリン」「……が、どうしたんですか?」
壮大な回り道にようやく気付いたのか、せんせーは、我に返ったことを誤魔化すような咳払いをひとつ。……ちょっと声が裏返っててカワイイのがまた腹立つなぁ、もう。
「その、だな」
ーーーーこの時せんせーが初めて言いよどむ姿を目撃したことに、もうちょっとだけ違和感を覚えていれば……あんな憂き目に遭わされなかったんだろうなぁ。
「……折角の機会だ、顔合わせくらいは済ませるべきかもしれないな」
「あの、せんせー? さっぱり話が見えないんですけど」
「秘書としての初仕事だ」
「いぇっ!? 随分とトートツですね……」
「何分僕もこれで忙しい身でね。
なに、そんな大それた仕事を任せるつもりはないから安心してくれ」
秘書としてのノウハウがさっっぱりない幼気な女子に大それた仕事任せる方がおかしいと思いますが。
「具体的には何をすれば?」
「試薬の受取だ」
「……要するにお使いですか?」
「それだけではないがな。それとも渡したテキストを丸暗記の期限を優先してーー」「ーーそのお仕事、喜び謹んでお受けいたします」
というわけで、私はあくまで能動的にそのお使いを引き受けることと相成った訳だけどもーー。
ーー 今、私は猛烈に腹を立っている次第でございます。
なんなんですかねぇ、アレ。
何がって? せんせーのお使いで行ってきた、ある施設の方々のことですよ。
やれお使いで出向いてみれば、人のことをまるで珍獣を見るような目でジロジロ見た挙げ句に「委員長代理の使いか?」って疑うような口調で聞き返してきてさ。
えぇ、えぇ、百歩譲ってそこまでなら、まだいいですよ。
こっちはうら若き乙女ですもんね、しょーがないと思いますよ。ええ。
でもね、しまいには持参した委員会の入所パス(臨時用)の確認が取れた後もすごーく不審そうに睨み付けてきてさっ。あーもう、ムカつくったら!
しかも用が済んだらとっとと帰れとか、そういうニュアンスの言葉をオブラートに包み忘れたようにくどくどくどくどくどくどくどくどくど!
しまいには私の生まれについてまで言及されましたからねっ! プライバシーの欠片もあったものじゃない!
あーもぉっ、思い出しただけで腹立つ!
あーいうの大人にだけはなりたくないですなっ、全く!
ーードスドスという擬音がぴったりな歩調で、委員会ビルに戻ってきた私は、入所パスを受付さんに提示し、その十数歩先のエレベーターの▲ボタンを壊さない程度の勢いで連続押下する。
……まったくもうっ!
幸い、エレベーターは私のゴキゲンナナメっぷりを察してくれたらしく、すぐにチーンというビルの真新しさからは想像できないような陳腐なベル音が鳴り響く。
はぁ、お目当てのモノは手に入ったし、初仕事(お使い)は上手くこなせたけど……先行き不安だなぁ。
陰鬱な気分でエレベーターに乗り込み、16のボタンにうなだれた指を添え、ズラすように閉のボタンをーー。
「あー、待て待て、待ってくれ!」
ーー押そうとした矢先の必死な声。
普段の穏やかかつ聖人君子も裸足で逃げ出す優しさを持ち合わせた私ならば、人差し指を開のボタンにスライドしたのだろうけど、今の私はゴキゲンナナメ。
残念、無念またの機会にー。
……と思いきや。
閉じかけたドアに差し込まれる無骨な手が、ドアセンサーを遮った。
安全性の考慮された構造であるドアは私の意志を無視して立ちどころに開いていく。
電車とかなら巻き込み事故に発展しかねないような勢い。
……そんなことやってると早死にしますよ?
そう皮肉ろうと思ってやめる。相手が誰か分からないのに無闇やたらに喧嘩を売っても仕方ない。苛立ちは募るけども。
……で、開いたドアから入ってきたのは、小汚いジャケットとハットを身に付けた……オジサン? オニイサン?
どっちともつかないオトナの人だ。
なんていうか、荒事に慣れてそうなあまり私生活では関わり合いになりたくないタイプだなぁ。
「ーーお急ぎん時に悪ぃな嬢ちゃん」
とか思った矢先に、話しかけられたし。
私は余所行きのはにかみアルカイックスマイルを含んだ会釈で答える。
……や、あのですね。
本当に悪いと思ってらっしゃるのなら、まずエレベーターへの駆け込みはご遠慮願いたいのですけども。
それと、『嬢ちゃん』って呼び方もやめたもらいたいんですけども。
……ま、いいや、どうせエレベーターで乗り合わせただけだし。ここさえ乗り切れば、今後この人と会うことはないだろうし。
「っと、16階っと……あ?」
既に点灯する16のボタンを見て首を傾げるオジサン。
…………前言撤回。
このオジサン、今なんて言ったかな。
もしかして同じ階に御用なのですか?
もしかして、いや、もしかしなくても……?
「せんせ……委員長代理に何か御用ですか?」
お願い、首を横に振って下さいっ。
「あぁ、ちっと野暮用でな」
……ですよねー。
私利私欲き塗れた祈りなんてカミサマには通じませんよね。
うん、知ってた。
はぁ、関わり合いになりたくないって思った矢先にこれだよ。マーフィの法則こわい。
「そういう嬢ちゃんは? どっかで見たような顔なんだが……思い出せねぇ」
う。
せんせーからは外の人間に自分の正体を妄(みだ)りに話すなと釘を差されているんですけど。
まぁ、部外者からしたら知ったこっちゃないよね……。
はぁ、どうやってこのシチュエーションを誤魔化したものだろう。
「待て、言わなくていい、流石にそいつぁ無粋だな」
天に祈りが時間差で!
「当ててやるから」
通じてませんでした。
カミサマってばフェイントお上手。ボクサーか詐欺師目指した方がよろしいのでは?
そんな無駄な皮肉を余所に、私の左斜め後ろの壁に寄り掛かった男性は、それはもう頗る楽しそうに右手で口元を覆いながら、あーでもないこーでもないと思索に耽り始めた。
こっちのご都合は一切合切無視して。
で、彼の中で行き着いた結論は、小指を立てながらの「アイツのコレか?」というジェスチャーだった。
ぶっぶー。
私が両手を×にクロスさせたとほぼ同時にエレベーターの古臭いベル音が鳴り響いたので、ちょっとシュールな光景だった。
……ピンポン音だともっとシュールだったかもしれないけど、現実は甘くないらしい。
「ま、神代の野郎に訊きゃあ済む話だがな」
言いながら、エレベータのドアセンサーを抑える帽子の人。
ありゃ、この人……意外と紳士?
「オイ、早く降りろっての」
パンッ、という乾いた音が鳴り響く。と同時に、私はびくっと身体を震わせた。
「ひぁっ!?」
こここここここいつ、今、お尻触っ……!?
前言撤回っ! こいつ、絶対、変態っ!! (韻を踏んでるわけではありません)
「阿呆、俺ゃロリコンじゃねーんだよ。そんな色気のねーケツにムラムラなんざしねーから安心しろ」
文句を言う前に機先を征されてしまう。
しっつれーな、私、それなりに出るとこは出てますからねっ!?
……いや、だからといって触れとか、コーフンしろとかって訳じゃないんだけど。
……うぅ。
いくら通知受取人として働いてたとはいえね、見知らぬ不審な男性からカラダを触られることに抵抗が無い訳じゃないんですよ、お分かりでしょうかね? この破落戸様は?
「後5年も経ったら、野郎は目を虹色に輝かせて近付いて来っかもな?」
彼は含み笑いを浮かべながら、古びたハットを直し、私に続いてエレベータを降りる。
……5年、かぁ。
灰色の時期を除くと、男歴と女歴が均等くらいになる頃にイイ女になるのかぁー。へぇー。
……変な話。
「その時は、お茶にでも誘って下さい。ケンもホロロにお断りしますので」
「見た目と違ってかわいげのねぇ嬢ちゃんだこって」
「くすっ、お褒めに与り光栄です」
さて、浮き世めいた話を見知らぬ破落戸様と交わしてる間に、漸く目的地の直前まで歩を進めた訳だけど。
「ん、どしたぁ? 入んねーの?」
「……一応、仕事として訊きますが、身分を証明するものはお持ちですか?」
ま、名目上だけとはいえ秘書として、雇い主の安全確保は必要だよね、そりゃ。
そう思い職務を全うしようと口を開いたら。
「なっ!? おいおい、冗談だろっ?」
豪快にキョドりだしましたよ、この破落戸様。ここまで来て、真面目に犯罪者のセンですか? ご勘弁願いたいのですが。
851 :青色1号 ◆YVw4z7Sf2Y [sage]:2012/11/21(水) 09:20:14.45 ID:ocstN5JSo
「嬢ちゃん、まさか、お前さんも……サツか?」
「……………………は?」
今の私の妙な三点リーダは……重苦しく、絞り出した声で、それはそれは大真面目に明後日方向の大暴投クエスチョンを投げ掛けられたことへの、とても正常なリアクションだとご理解いただければこれ幸い。
……どうやら、この不審者の目は正しく物事が見えていない様で。
一体全体、私のどこをどー見たら警察に所属できるような年齢に見えるのかと。
人のこと散々ロリだの色気が無いだのとバカにした口が、何訊いてるんでしょうかね?
「どうやら、違うみたいだな……」
「いえ、合ってますよ」
「うえぇっ!!?」
さらっと嘘を吐きながら、上着のポケットに手を入れて何かを取り出すフリをしたら、挙動不審者が更にキョドりだした。
……なにこれおもしろい。なんでそんな簡単に信じるかなー。
「ーーその子は違う。戯れも大概しないか二人とも」
重厚そうなドアの向こうから、殊更テンションの低い雇い主の声。
私が初仕事という名のお遣いに出ている間に何かあったのだろうか? 冗句が通じにくく、本気と冗談のテンションギャップが薄い人とはいえ、少し違和感を覚えたーー。
「くそっ、これだから『前例』ってのは厄介なんだ」
ーー……真横で嘯く言葉の意味を意に介さないくらいに。
で、一応委員長代理のお客人だと思しき方と共に執務室へ。
私の不平不満を愚痴る間もなく、お客人は、この部屋の主に言う。
「そーいや、就任してから挨拶してなかったっけか?」
「構わない。立場が変わろうと、君にやってもらう仕事に大きな差異はない。むしろ、その方が気楽でいい」
ありゃ。
この破落戸様、本当にせんせーと面識がおありだったんですか。
……お友達は、多少選んだ方が良いと思いますですよ、せんせー?
「へいへい。お前といい、前委員長の美人サマといい、ここの組織のトップは変わり種が多いことで」
「……っ」
この破落戸……ハルさんを知っている?
「そう、彼を睨まないでやってくれ。
少なくとも見てくれよりは誠実な男だ」
「どーいう意味だ」
せんせーの、ある種分かり易いフォローに異議を唱える破落戸様。
……別に、睨んだつもりはありませんけどね。
何となく気になっちゃっただけで。
あんまり深く介入してるようなら、それなりに私も警戒しなきゃいけませんし。
「で、結局、このオジサンはどちら様なのですか?」
「オ、オジサンって……俺はまだーー」「ーー紹介が遅れたな」「俺の言葉は無視かよ?!」
まぁ、言い分を聞くだけ時間の無駄でしょうしねー。
「彼は、赤羽根。僕が資料係としてこの仕事に就いてからの仕事仲間だよ」
仕事仲間、ねぇ……。
こう言っちゃアレですけど、私とどっこいどっこいのレベルで、この委員会ビルに似つかわしくない風貌を拵えておいでのようですが。
「彼女は坂城るい、先ほど電話で話した僕の後任の連絡役だ」
「はぁっ!?」
「一応、私設秘書も兼任して貰う予定なのでそのつもりで」
「はぁぁぁあっ!?」
せんせーが続けざまに私の紹介をした途端、破落戸様、もとい赤羽根さんがそれはもう素っ頓狂な声をあげた。
……いや、そんなに驚かれても、なんの話か私自身はさっぱり見えてこないのですが。
「それじゃあ、この嬢ちゃんが、神代の後釜だってのかよ……?」
え。私が、せんせーの後釜?
いやいやいやっ。
天下の神代大先生の後釜が女子高生ってそんな酔狂なことがあるわけーーー
「そうだな。立場としてはそうなる」
……うそーん。
私は名目だけの、週休六日制のお気楽私設秘書もどきって話じゃなかったんですか?!
……世の中、そうそうそんな美味しい話はないってことですね。
あはは、うふふ、おほほ……はぁ。
「…………建て前では、って話か」
「察しが早くて助かる」
何やらオトナな雰囲気で、パニクる私をそっちのけに分かり合っちゃってますよ、この二人。
ーーその、次の瞬間
赤羽根さんが、せんせーに掴み掛かっていた。そりゃもう、そのまませんせーを喰い殺そうと言わんばかりの勢い。
って、え!? なにこれどういう展開ですか!?
さっきまで、和気あいあい……とまではいかないまでも、平静とした雰囲気で話が進んでたのに!
「何考えてやがる」
背筋が凍るような低い静かな声がした。
それは、さっきまで、私を相手にフランクに話していた人とは同じとは思えないほど、獰猛な声。
「君の主義思想に付き合う義理立てはないと思うが」
「てめーは、見本市でも開くつもりか!?」
見本市……?
「言葉には気を付けろ赤羽根、つまらない言い掛かりはよしてくれ」
「ふざけんなっ! てめーは何人の人間を利用すれば気が済むんーーー」「 ー ー ー 黙 れ と 言 っ て い る 」
せんせーの一言に、激昂した赤羽根さんが、一瞬にして気圧されたのが私にも分かった。
それは、赤羽根さんのそれとは全く逆の威圧。
でも、それは赤羽根さんの威圧を遥かに上回っていた。
……怖い。
そう頭で言語化するよりも早く身体が反応する。
「ぁ……っ!」
無意識に後ずさった足がもつれて、高そうなカーペットに尻餅をついてしまう。
幸いにも痛みは無い。
……それが足元に敷き詰められた高級カーペットのおかげか、張り詰めた私自身の神経のせいかは定かではないけれど。
「っ、悪ぃ、ビビらせちまったか」
突然の出来事に、真っ先に反応したのは意外にも赤羽根さんだった。
せんせーの襟元をピラニアのように掴んでいたごつごつした手が、私に差し伸べられた。
なんだか急に気恥ずかしくなり、私はその手を払いのけながらゆっくり立ち上がる。
「っ、別に、その……ボクは平気、です」
「……『ボク』?」
「えっ、あ……っ!?」
しまった……!
と思った時にはもう遅い。
私は、完全に無くさないようにと押し込めていたものを無防備に、みっともなくさらけ出していたのだ。
……初対面の人を相手に。
「あ、その、今のは……そうっ、赤羽根さんってボクっ娘が好きかなーって思ったので、そういうリップサービスで……」
ああ、苦しい。いつものブラフが全然出てこない。クールな私カムバック!
「もういい。別に、嬢ちゃんの秘密を他人様に言いふらすつもりはねーから、安心しとけ」
……あぁ、やっぱりダメだったかぁ。
でも赤羽根さんは、茶化しもしなければ、差別的な表現もしなかった。
……こういう荒っぽい手合いの人の傾向を考えると、少しだけ意外。
嫌悪感を示すか、茶化すかとかするものだと思っていたけど。
……ま、腹の奥底で何考えてるかまではわからないんだけど。
赤羽根さんは、どこか苦しげに私に笑いかけると、素早くせんせーの方へと向き直る。
「ーーいくら粋がっても、素手ゴロじゃてめーに敵いやしねぇし、何より嬢ちゃんの手前だ。
……この場は収めてやる」
「そうか」
「だがな、いずれはきっちり納得のいく説明はしてもらうぞ、必ずだ」
「……わかった」
赤羽根さんの怒りを滲ませた語意にも、せんせーは、あくまで平坦な口調を崩さなかった。
……でも、それが、いつものそれと少し違って見えたのは、私の気のせいなんだろうか?
「ーーんで、わざわざ呼びつけたのは、その引き継ぎの為か?」
何事もなかったかのように帽子を被り直す赤羽根さん。
こうやって割り切って考えられなきゃ大人になれないのかな、とか、よく分からない理論を構築してる間に、せんせーは小さく頷く。
「今後を考えた結果だ。
資料係だった頃と比べて多忙を極めている現状では、次に僕がキミ達に立ち会えるかも分からない」
まーた、大人な会話で私ばっかり置いてけぼりですよ。
と、内心でグチりながら窓の外に目をやる。
ここからだと、人が単なる点々にしか見えないなぁ。
動態視力が他人様より多少良くても何の役にも立たないーーー。
「ーー何を他人事のような顔をしている?」
「……へっ?」
多分、私は相当間の抜けた顔をして振り向いたのだと思う。その証拠に、赤羽根さんがくつくつと喉を鳴らして笑ってるし。
うむむむ。なんか悔しい。
「……ジジョーセツメーをオコタッておいて、それはないと思いますが」
「んだよ、前置きしてねーのか神代」
どうも話が噛み合ってないと思ったらやっぱり。
赤羽根さんの言うとおりらしい。
「言っただろう、僕も多忙なんだ」
文句を挟む間もなく、せんせーは委員長席の背もたれに掛けてあった上着を手に取る。
って、え、え、何処行くんですかせんせー!? いじけないでくださいよー!
「そろそろ、時間だ。今日はもう戻らない」
いやいやいや、だからもっとゆっくりしていってくださいませってば!
「まーた、お偉いご老体様方と、自慢と愚痴と酒のお付き合いかよ。
……おー、ぞっとしねぇな」
「全くだ。
どんなに美味な料理も酒も味などしないに等しい。
すまないが、後はそちらで進めてくれると助かる」
そんなせっしょーなっ!? いきなり、今日会ったばかりの人とマンツーマンで仕事の話をしろと!?
「オイオイ、こっちはどーすりゃいーんだよ」
そーだそーだ!
と、内心で赤羽根さんに加勢する。
十中八九伝わってないだろうけど、こういうのは気持ちが大事だからねっ、うんうん。
「仕事の流れを1から教えてやってくれ」
「マジかよ。ったく、しょーがねぇなぁ」
え、早っ、諦めるの早っ!
そこは、倫理的な観点云々をつついてもっとゴネても罰は当たらない部分だと思いますよ、私は!
ね、ねぇ、赤羽根さぁん……。
……あ、直感で分かる。これ、ダメっぽい雰囲気だ。
確かに、せんせーのこれまでの仕事を引き継ぐ上で仕事内容の把握は必要不可欠だとは思いますけどね、だとしても順序というものがあると思うのですよ。
だから、その心の準備ってものを、準備する時間が欲しいわけですよ。
ですから、そのー、ね? いきなり過ぎませんか? だから、今日はもうお開き、って訳には……。
「では、後は頼んだ」
すとーっぷ! 私の必死の乙女の主張(脳内での)をあっさり退けて、余所行きのコートを着ないでくださいせんせー!
気持ちが先走り過ぎたのか、私は無意識にその高そうなせんせーのコートの裾にしがみついていた。
わ、わ、どうしよう。何も考えずに行動しちゃったけど、何を言ってよいのやら……。
「どうした? 何かあるのかい?」
ここまできて、なんでもない、とは流石に言えない。何か、何か……なかったっけ?
あの、その、と、まるで好きな人に告白する乙女よろしく必死に目を右往左往させる。
そこで、来客用ソファに置きっぱなしになった私の鞄が映った。
「その、ストリアセリン、のことですけど……」
薬品名、間違ってないよね……? 妙な不安に襲われながら、恐る恐るせんせーを見上げる。
良かったぁ、どうやら間違ってなかったらしい。失念していたと言わんばかりのせんせーの顔つきがそれを如実に物語っている。
「……あぁ、貰ってきたのは粉末かい? 錠剤かい?」
「あ、えと、錠剤、ですね」
職員の方々に嫌味を言われながらだったから腹が立ってて曖昧だったけど……確か、薄いブルーのコーティングされたのを覚えてる。『サンプル品だから』って理由でそんなに数は持たせて貰えなかったんだよね。
「ふむ」
せんせーは何かを考え込んでいるみたいだった。その年不相応のキレイな顔が、無機質っぽくなる時は大抵思案に耽る時だから。……そして、どうやら結論が出たみたいだ。
「赤羽根、すまないがーー」
「ーー延期か? 別に構わねぇけど、お前さんの都合はいいのか?」
「なんとかする」
「わあったよ、とりあえず、今週分の資料はそこに置いとっからな。報酬、忘れんじゃねぇぞ」
A3サイズの分厚い茶封筒を、無造作にソファテーブルに投げると、赤羽根さんは早々に出口のドアノブへ手を掛けた。
……はぁ、セーーーーーフッ!
「んじゃ、またな嬢ちゃん」
「あの、嬢ちゃんはやめてください」
「覚えてたら気を付けるわ」
胸をなで下ろす私を後目に、からからと笑いながら赤羽根さんは、足早に委員長室から立ち去っていった。
……なんていうか、掴めない人だったなぁ。あんな身なりで粗暴な口調の割には、そこまで頭の回転は遅くは無さそうだったし。
「で、ストリアセリンについでだがーー」
せんせーは淡白に話を続けた。
まぁ、赤羽根さんとせんせーは結構古い知り合いみたいだから、今更気にするようなことはないんでしょーけどね。
「半分は、僕が預かろう」
「もう、半分は?」
「キミが譲る」
「はぁ……へっ?」
せんせーの予想外の返答。咄嗟のリアクションから疑問が浮かぶまで、一秒も掛からなかった。
え、いや、ストリアセリンって脱法ドラッグですよね? そんなの、未成年に渡して問題ないんですか!?
「今は詳しい説明をしてる暇はない、現段階の法律上では問題ないし、どうするかの裁量はキミに一任する」
一任って言うと聞こえは大変よろしいのですが。要はサークルスロー。丸投げですよね。
越権行為も甚だしいと私の形骸化した良識が叫んでおいでですが。
……ま、いいや。今更そういうのを主張してクロスカウンターを貰うのは勘弁したいとこだし。
「その言葉に二言はありませんね?」
「現段階の法律に抵触しなければ、ね」
……うーん。窓を開けはなって久方振りのサイドスローを披露してみようかと思ったけど、どうもそれはマズいっぽい。うむむ、どうしたものだろう。
「さぁ、もう閉めるよ。此処の勝手を知らない内は自由にさせられない」
せんせーが手招きをする。
ーーーー妙な初出勤となった私設秘書業は、コレにてお開き。
はぁ、これからどうなることやら。
そんな、漠然とした未来へもやもやを抱えつつ、私たちは委員長室をあとにした。
【青色通知-ある私設秘書の話1-】
最終更新:2012年11月30日 23:44