『まえむきに。』 第一話『朝』

第一話  朝

体が…熱い…

喉が渇いて…

まるで、砂漠にいるような――――――


「はぁ…はぁ……頭、いたい」



まだ三月だというのに、熱くて寝苦しい。眠った感覚もあまり無い。
寝るときは寒いから毛布を何枚もかけて寝るんだけど
特に、ここ2~3日の目覚めは最悪だった。
体が妙に熱っぽく、発汗量も異常だったが
今日の体調は殊更にヒドイ。

「うぇぇ、まじで気持ちワルイ…。吐きそうッ――――!」

胃からアツいモノが込み上げてくる。
ジャージのズボンがずり落ちるが、構わずトイレに駆け込む。
昨日掃除したばかりのぴかぴかの便器に顔を突っ込んでそのまま吐いた。

黒いモノが便器にかかっても、吐瀉物まみれの便器の中にそれが入っても
アツく酸味のある胃液を吐き続けた。

「また掃除しないといけないな…昨日も酷かったけど、
 今日はとっても最悪―――ッ!」

昨日の夕飯分をゆうに超える量を吐いたというのに
胃はまだまだ吐き出し足りないらしい。

噴門部から粘液が分泌されて胃壁から塩酸が分泌されて
あれ?ペプシノーゲンはどこからだったっけ?



…そんなことを考えているうちに
意識は深い闇へと堕ちていった。


「ん……くさい…」

気がつくと自分は便器にもたれかかっていた。
それも汚物まみれの便器に。
嘔吐を繰り返したためだろうか?
疲労感や倦怠感が残っている。

「頭痛のあとに嘔吐か…俺の体はかなり不健康みたいだ…」



大学に進学し、一人暮らしも今年で3年目。
独り言も多くなったし、食事もレトルトや缶詰ばかり。
ついでに体も壊してしまった。
ついてないなぁ…
まぁ、今学期は単位全部取れたからよかったけど。
最近は女の子連中とも絶妙に接しているので
学校生活も概ね良好である。
でも、さすがにこれはついてない。

「くせえ、洗わないとな」

寝汗とゲロで汚れた寝巻を脱ぎ捨てて洗濯機に突っ込む。
と、そこまではいい。
何か柔らかいものが背中に触れている感触がする。

「―――――?」

手にとって、目で見て確認する。
これは髪だろうか?
試しに引いてみる。

「―――――!」



「うおぁっ!」

ゲロの臭いがする狭いユニットバスにある鏡には
長い髪を振り乱して、まるで気がふれたかのように驚いている女の子が映っていた。

「あああぁぁぁあぁああぁあああ――――!!」

この人物は誰だろうか?
俺の髪は長い。
でも、こんなに長くは無い。
そもそも体型が違う。
胸や体の柔らかそうな曲線は女性にのみ許された特権だ。
自分の声を録音して遊んだことがあるが、
きっと、こんな声じゃない。
鏡の中の人物。
その人が、自分の特徴を持たないのは明らかである。
しかし、鏡は、光がある物質に当たり補色を吸収された反射光を全反射する。
そして、その光が網膜に入ることで鏡に映っているものを認識できる。
また、このとき映し出される像は左右対称になる。
つまり、これらの性質を有効活用すれば目の前の人物が自分なのか他人なのか判別することができるはずだ。

「このように右手をあげれば―――――」

Good!
そうだ、動くなよ。
あんたが誰かは知らないが、
これが夢か幻ならここで邪悪な笑みを浮かべて
鏡の世界から襲ってくるはずなんだ―――!

「……なんで…?なんでなんだ…?」

鈴を鳴らしたようなか細い声が狭い空間に木霊した。

しばらくその場で呆然としていた。
呆然とするしかなかった。

「なんで……女に…なってるんだ?」

鏡の中の人物は右手を挙げて、焦点の定まらない視線は宙を泳いでいた。
その顔から見て取れる表情は、まるで能面のように無表情だった。
この鏡に映っている人物はそれほど驚いたのだろう。

後天性女体化症候群と呼ばれている病がある。
一般的に、病というと体を害するというイメージがあるが、
この病気の場合、体を害するということは特に無い。
では、人体にどのような影響を及ぼすかというと、
内分泌系が男性ホルモンを抑制し、女性ホルモンを促進することから始まり
代謝、および細胞が活性化することで脂肪や筋肉を燃焼させ、
細胞などで不足しているカルシウムイオンを骨から補う。
これらの過程で骨格が大きく変貌し、最終的に女性のそれに等しくなってしまう。
乳房の発達などの二次性徴も性ホルモンのバランスの変化に伴って起こり
容姿の変貌にかかる期間は数ヶ月から数十時間と個体差がある。
また、性器の変換は基本的に変貌の最終段階に生じ、それには数時間かかり、
高熱や激しい発汗、記憶に残らないほどの激痛を伴う。
そして、この病に対する治療法は無い。女になってしまったら一生そのままだ。

 では、この病を防ぐにはどうしたらよいか?
性交渉の経験の無い男性が女体化してしまうということが統計から判っている。
また、二児性徴を迎える頃の男子が女体化する確率が高く、歳をとるごとに罹患率が低下していく。
以上の事実から、精通後に性交渉をするのが最善の予防法である。
但し、性器同士の物理的な接触が必要不可欠である。

「……そっか、童貞だったからな………」

改めて自分のツキの無さを呪う。
女体化症候群に罹る確率は、思春期を迎えた少年の3%程度。
15~16歳が罹患率のピークでそれ以降は減少傾向にある。
そして、20歳を超えてからの罹患率は0.1%以下と言われている。
健常者同士の夫婦から腕や頭が複数ある奇形児が生まれてくる確率よりはるかに高いが、
それでも、この様な事態はまず起こり得ないことにカテゴライズされるはずだ。
結果が気に入らないならリセットでもしてやり直せばいい。
しかし、これが現実だ。投げられた賽の目を、人が決めることはできないし、
輪廻転生が科学的に証明されていないからリセットもできない。

「ははは、仕方ない…か…」

取り乱しはしたが、不思議と涙は出なかった。



「うぇぇ、頭がズキズキする………。あーあ、体もベトベトだ。」

中学や高校で、もしも女体化してしまった場合について簡単に習っているし、
女体化した友達からも話は聞いているので、このあとにどのような法的手続きを
しなければいけないのかはわかっているつもりだ。
しかし、こう体調が悪くて、体も汚れているとなれば、
いきなり行動する気にもならないし、したくもない。
それに、急な体の変化が自分にどんな影響を及ぼしているのか見当がつかないし
体の変化に心がついていけなくて自殺したという話も聞いたことがある。


今は、とりあえず、あついシャワーを浴びることにした。

シャワーを全身に浴びて体を温めたところで、
いつものように左腕から順に上半身を洗ってゆく。
ただ、体はいつものものとは違うのだった。
少しはあった筋肉が消えて、その変わりにあるのはしなやかで細い腕。
若干あった胸板も形の良い乳房に変わってしまった。
腰も以前よりも明らかにすっきりして完全にくびれてしまった。
脚も男性らしい力強さが無くなり、やわらかい曲線を帯びて細くなった。
お尻も丸味を帯びて、もはや男性のものではない。

「――――やっぱり、無くなっているよな。」

男性の象徴は、無くなっていた。
まるで、初めから無かったかのように。

「―――ッ!」

「………やりなおしたい……」

こぼれたミルクは元には戻せない。

「――――」

確かにその通りだ。
だが、俺には、ハイ、そうですかと事実を受け入れられるほど強くはない。
関わりたくない現実もある。今まで通り、目を背ければ良いのだ。

ただし、自分が女体化してしまったという事実は、
物理的にも精神的にも避けて通れるほど甘いものではない。

それは、俺が今まで避けてきた現実と同じだった。

「―――ったく、髪乾かすのもラクじゃねーな。」

頭を洗うのも簡単では無かった。
いや、頭を洗うという表現は間違っていると思う。
頭と髪を洗った。
その方がしっくりくる。
生え際から頭皮をマッサージしつつ洗い、
ここまではいつもと同じだが
毛を全て洗うのに時間がかかった。
手のひらで髪を挟むようにして丁寧に洗ったから。
リンスも一応同じような手順でしておいた。
もちろん、これが正しい方法なのかはわからない。

「ふぅ…、落ち着いてきたな。」

汗や垢と一緒に、体の倦怠感も洗い流されてしまったのだろうか
髪を乾かしているうちに気分も落ち着いてきた。
だが、落ち着いたからといって事態が好転するわけでもない。
問題は山積みなのだ。

「まずは親に連絡…と」

俺は、例えお世辞だとしても会話の巧い部類には入らない。
突然の知らせを聞いて混乱している親をなだめて
今後の打ち合わせを冷静に行うなんて技術は持っていない。
メールを入れて、しばらくして折り返しの電話がかかってくるまで
どんな会話をするか考えるか、忘れるか、その二択しかない。
親や親族の問題はまだ救いがある。
女体化してもそれなりの人間関係を――もちろん、前とは違ったものになるだろうが――
維持はできると思えるから。
でも、交友関係はどうだろうか?
あいつが女体化したときはどうだっただろうか?
高校が違ったから詳しく聞いたわけではないが、

好き好んで思い出したくなるようなことじゃない。
男のまま生きられたら、当事者にならなかったとしたら、
決して思い出すことはなかったろうに。

「……忘れよう、しばらく」

悪い癖だな、直そうと思っても、直せない。




第一話 朝 end・・・

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最終更新:2008年06月11日 01:55
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