『釣り人は何を釣るか』

 それはもう十年近く前のことだった。
 俺はその時まだ子供だったけど妙に世間の事に敏感で先の事を考えていた。
 その日も俺は朝起きて最初に確認した。
 まだ自分が男であると。
『17歳まで童貞だと女になる』
 意味がよく分からないことだったが、俺はその時女に等なりたくないと考えていた。
 不安で、不安で、俺は夜になると眠れないことがあった。
 女になってしまうと、俺が俺でなくなって、世界が崩壊してしまうような気がしてならなかった。
「俺の名前、梓っていうの。女になった時のためにつけられたんだぜ」
 そう、当時の俺の親友が言った。
「女?」
 俺はその言葉が嫌で耳を塞いでしまいたかった。
 俺と親友の梓は二人で川に来ていた。梓は釣りが趣味で川辺に腰を下ろして釣り糸を垂らしていた。
「なんかニュースとかで言ってんじゃん。女になっちゃうって奴。お袋がそれを考えて俺の名前女っぽくしたらしいぜ。まいるよなぁ」
「女……になってもいいのか? 梓は」
「え? いいわけねえじゃん。真琴は?」
「……良くない。俺は女になんかなりたくない」
 俺はそう言い切っていた。梓は釣り糸を回収しながら俺を見た。針にに獲物はかかっていない。

「ふうん」
「なあ、どっちかが、女になっちゃってもさ」
 俺は震える声で言った。
「こうして、遊べるかな」
「……当たり前じゃん。お前何言ってんだよ」
 梓は再び川に釣り糸を垂らした。俺はその言葉にどれだけ救われたのだろうか。
 今では、それだけが支えとなっている。
 その後、梓とは同じ中学に進んだが、高校は別々のものになった。
 自然と疎遠になってしまったが、妙に俺は安心していた。
 恐らくこの時点で俺は確信していたのだろう。
 女になると言うことを。

 あれから十年近く経った。
 17歳の朝、俺は女になった。




 彼女がいなかったわけじゃないし、そのチャンスが巡ってこなかったわけでもないが、俺はなぜだか女になっていた。
 自分の胸に現れた豊かな膨らみと、失い寂しくなった股間を見ていたら、妙に恐くなってしまった。
「真琴、女の子になったんだからちゃんとしいとね」
 母親は俺が女になったことなど構わないらしく、そう言った。
 俺は母親に無理矢理着せられた女子の制服で学校へと向かった。
「真琴、見事に女の子だな」
「へえ、結構可愛いジャン」
「なあ、俺の彼女にならねえ?」
 クラスメイトは女になった俺を見て口々にそう言っている。
 今まで会話したこともない女子がそれを遮って「ほら、男子邪魔! 真琴ちゃん、服とかあるの? 今度一緒に買いに行こう」などと俺に話しかけてきた。
 なんとか最初は耐えていたが、昼休みを過ぎた辺りで俺は限界になり、授業をサボッて屋上に逃げ延びていた。
「はあ」
 息をついて買ってきた缶コーヒーを飲む。
 そして自分で自分の乳房をつついてみた。
「柔らかい……はあ」
 結構鍛えていたつもりなのでこうまでぷにぷにしていると気が滅入る。
 コーヒーを飲みながら空を見上げた。
「どうすんだよ……これから」

 彼女ともただの友達になるのだろう。
 下手したら今まで友達だった男共と恋人になるのか?
 いや、こんな元男なんて誰も欲しがらない。俺はどうすればいい。
 男として生きていた今までを捨てるのか?
 女として生きるというのか?
「ああ、嫌だ。何も考えたくない」
 俺は空になった缶を投げた。
 カランという軽い音がして缶は転がっていった。


 放課後、俺はわざと人気のない道を通っていた。
 今は誰とも会いたくない気分だった。
 スカートのヒラヒラには結局慣れなかった。
「はあ……鬱だ」
 俺はあきらかに意気消沈して歩いている。
 そして目の前から自転車に乗った男が上機嫌に口笛を吹いていた。
「……いい気なも……んだ」
 梓だった。
 俺は思わず鞄で顔を隠した。
 会いたくなかった。なんで、今日偶然にもこんな所で、こんな時に出会ってしまうのだろう。
 梓は俺に気が付かなかったようで横を通り抜けていった。
 俺は安心して鞄を下ろして前を向いて歩き出した。
「真琴?」
 俺はそう呼ばれ嫌な汗が全身から噴きだした。
 振り向くと梓は自転車から降りてこっちを見ていた。

「真琴じゃねえか。よ、久し」
「うわああああああああ!」
 俺は走っていた。
 走って走って走って走って。
 どこをどう走ったのだろう。
 橋の下まで逃げてきていた。
「はあ、はあ」
 俺は息を整えながらスカートをバサバサとばたつかせ空気を循環させる。
 こういうの便利だな。蒸れそうにないし。
「はあ……なんでいるんだよ」
 俺は呟いて辺りを見回した。
「そらお前、釣りだよ」
「うひゃぁ!」
 いつのまにか梓のやつは俺の後ろに来ていた。
 釣り竿を持って。
「なにやってんだ? いい歳して鬼ごっこか?」
 梓は俺に向かって微笑みながら言う。
「あ、えっと……そのぉ」
「なんだよ」
 梓は俺が女になったことに対して何も言わない。
 何故だろう。
「あ、あのさ」
「久しぶりなんだからよ、釣りでもしてかねえか?」
「梓!」
 俺は梓の言葉を遮るように大声を出した。
「なんだよ」
「あのさ、俺の格好……」
「ん?」

 梓はそう言われてまじまじと俺の服装を見る。
「ああ、別に普通じゃねえか? 制服だろ? お前のところはブレザーなんだな。俺の所はセーラーだよ」
「俺、女になったんだ」
「ああ、そうみたいだな」
 なんでもないように梓は言った。
「……なんか、変だとかさ、少し会話しづらいとか……ないのか?」
「あ? なんで。女になっても真琴は真琴だろ? 何も変わらねえよ」
 俺はその言葉を聞いて心の底から安堵した。
 俺を俺で見てくれている人がいたのだ。
 俺は嬉しくて嬉しくてこの親友の目の前でなら俺自身でいられるとわかって嬉しくて泣いた。
「う、ううう……ええええん」
「おいおい。なに泣いて」
 梓の胸に飛び込んでいた。ぎゅっとシャツを掴み顔を押しつけて泣いていた。
 別に構わない気がした。俺は今女の姿なんだから。
「離れろよ……なんか、むずむずする」
 梓はそう言って俺を離した。


「高校はさ、なんか馴染まないんだよなぁ」
 梓は釣り糸を垂れながら言った。
「あ、俺も」
 俺は笑いながらそれに答えた。
「やっぱさ、回りが男から女になってくの見てると妙な気にならないか?」
 俺は梓に尋ねる。
「んー? まあ、全然知らないやつが女になってるの見ると違和感感じるけど友達が変わるとなんか回りが言うほど変わった気がしなくてな」
 梓は外見でなく、友人を中身で見ているようで、そのおかげで俺は俺のままでいられたのだろう。


「やっぱ思うのはさ」
 梓が釣り糸を引きながら言う。
「お前がいないとつまらねえんだよな。学校」
 俺はそう言われ、しばらく反応できずにいた。
 最初に反応したのは俺の心臓で、妙に高鳴っていた。
「あ、ああ。そう」
「なんか冷たい反応だな。お前は?」
「え? 別にぃ。お前なんかいなくても他に友達いっぱいいるし」
 俺がそういうと梓は少し不満そうな顔をしてからにやりと笑い。
「何言ってんだよ。さっきわーわー泣いたくせに」
「あー! それを言うなよ! いいか、母さんとかにも言うなよ!」
 昔からこいつは俺が犯した失態を母親に報告するクセがあった。
 俺は立ち上がり上から指をさしてどう言った。
「はいはい。あ、パンツ見えた」
「見るな!」
 とりあえず蹴りを入れて俺は落ち着いた。
「別にお前のパンツなんか見ても嬉しくねえよ。昔は一緒に風呂入ったろうが」
「それは小学生低学年のころだろうが。今同じことしたら俺は警察を呼ぶぞ」
「……はあ、俺が思ってる以上にお前は女の子になってんだなぁ」
 梓は釣り糸を回収して立ち上がる。相変わらず針には何もかかっていない。いや、本当にかかっていないのだろうか。
「ま、たまにはこうやって昔みたいに会おうや。真琴」
「あ、うん。梓」

 俺はそれから梓の自転車の後ろに釣り竿を持って乗った。
 梓はすいすいと自転車を漕いでいる。
 俺は体重何キロになったのだろう。後で計ってみるか。
 俺は落ちないように梓の背中をぎゅっと掴んでいた。
 そこから伝わる体温が俺の体に乗り移ってきてたかのように俺も高揚していた。
 ああ、こいつは俺は俺だと言ったけど、俺も俺のままでいたいと思ったけどそれは無理みたいだ。
 俺はこいつの前だけでは昔の親友であった男の真琴じゃなくて、親友とは違ったもっと踏み込んだ女の真琴でいたいかもしれないと思っていた。
 俺は釣り竿を強く握る。
 釣り糸は風に揺れて危なげだった。俺は釣り糸を掴み、竿に巻き付けていった。
「いつっ」
「どした?」
 俺は針で指を刺してしまった。
 吹き出る血を舐めながら俺は梓に言った。
「お前の釣り竿が初めて釣ったの俺だな」
 それを聞くと梓は少し笑ってから。
「リリースかな」
 と言った。
「後悔すんぞ」
「構わんよ。キープしとかないといけないのか?」
「……別に構わんよ」
 俺は梓のマネをして笑った。

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最終更新:2008年07月21日 03:09
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