「ああっ!こんなんじゃだめだ!」
演奏を途中で止め、目の前のピアノの鍵盤を乱暴に叩く。バァーン!という不協和音が音楽室中に響き渡った。
同じ部屋で、ヴァイオリンを奏でていた綾がびっくりして演奏を止め、何事かとこちらをみる。
「どうしたの?どこにもミスはなかったと思うけど…?」
「もうコンテストは1週間後なのに…情景をうまく表現できてない。こんなんじゃ佳作にも引っかからない!」
俺の不安は、いらだちに変わっていた。
綾はそんな俺をみて、一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐに微笑みを浮かべる。
「大丈夫よ、少なくともわたしには『春』の爽やかさがありありと浮かんできたわ」
そう言いながら近づいてくる。そう言われても納得できず、うつむいたまま自分の未熟さに身が震えていた。
「コー君、もっと自信を持たなきゃ。コー君の演奏なら、聴いている人はみんな爽やかな気分になれるわ、でも…」
「でも、なんだよ?」
思わせぶりな言葉に顔を上げると、思ったより近くに綾の顔があってちょっとドキっとした。
「でも、今のままだと、観客はどこか完全にリラックス出来ないと思う。だから…」
その言葉の後、一瞬だけ、唇に柔らかく温かい感触が触れた。
「え?」
何が起きたのか、にわかにはわからなかった。綾はすぐに後ろを向いてしまった。
「コー君に必要なのは心の余裕、だと思うの。今のはそのおまじない。もし優勝できたら…続き、してあげても、いい、よ」
そう言うと、ヴァイオリンを片付けて音楽室を出て行ってしまった。
翌日から、綾は音楽室に来なくなった。しかし、綾の言葉を思い出すと、自然と鍵盤を走らせる指使いは滑らかな物になっていった。
コンテストまであと4日に迫り、練習を終えた後、教室の綾の机に、コンテスト前日に演奏の感想を聞きたいとメモを残して帰宅した。
コンテスト前日、音楽室で『春』を練習していると、綾が入ってきた。こちらを見た綾がびっくりした様子だったが、かまわず弾き続ける。
演奏を終えると、ゆっくりと立ち上がり、綾に向かって一礼をする。
「コー…君…よね?」
綾がびっくりした顔のまま聞いた。
「そうだよ、なんかこうなっちゃった。」
驚くのも無理はないだろう、あのメモをいれた翌日、女体化症候群と言われる症状に見舞われてしまったのだ。
「音楽室に入る前、聞こえてきた演奏が全然違ってたから…」
「で、俺の演奏、どうだった?」
「力強さの中に、繊細さが感じ取れる、すばらしい演奏だった…わ」
その言葉を聞いて、やっと明日のコンテストに向けて自信がついた気がした。
最終更新:2008年07月21日 03:16