「おじゃましまーす…」
「おう、入れ入れ」
コーポ松村の4階、一番奥。
考えてみれば、西田の家に来るのは今年初めてだ。もう暮も近いのに……。
「汚いけど気にするな」
ガスガスと服やらバッグやらを蹴り飛ばし、道を作る西田。確かに汚い。男の目線で見ても汚いな。
「お帰り」
「!」
急に、居間から男が顔を覗かせた。
「ん?なんだ兄ちゃん帰ってたのか」
「悪いか」
ああ、そういえばそうだ。前にも一度会っている。
「お邪魔します……」
「……なに?また彼女変えたの?」
「ちっげえよバカ、死ね。この前言っただろ?」
「あー、あー……。そーいや確かに面影あるな」
「えーと……」
「じゃ、君が『アネキ』な訳だ」
西田、殺すぞ。
西田は居間から兄を追っ払うと、俺に椅子を勧めてきた。
「悪ぃな。ウチの兄貴、頭にウジ湧いてるから」
「家族のこと、ボロクソに言うのな……」
「兄弟持ってるヤツなら普通だぜ?」
そうなのか?一人っ子の俺の感覚がおかしいのか?
「それで、何だよ?」
「え?」
「俺んちに来た理由だよ」
「ああ、うん。なんかさ……」
言葉に出来るほど明確な理由は無い。
だから、考えながら、少しずつ口に出していく。
「その、さ。男だとか、女だとか、そーゆーのを決めるための、考え?それがさ、俺にはまだ出来てなくてさ」
「うん」
「お前と喋ってれば、何か、答えが出てきそうで…」
「おいおい、俺は女体化したことなんてねーぞ?」
「そうじゃなくて。なんていうか、心構えっつーか、お前のようだったら、悩まないんだろうな、って」
「俺はどんだけ無神経に見られてるんだよ……」
「そーゆう意味じゃねえよ。そうじゃなくて、何て言うかな……」
見つめる。
何か、まったくしっかりしていないモノ。それをあと少しで掴めそうな…。
考えすぎだろうか。
会話が途切れる。と、西田が立ち上がった。
「ちょっとトイレ」
「あ、うん」
西田が居間から出て行くと、狙い済ましたかのように西田兄が入ってきた。
「…文化祭で、痴漢をぶん殴ったんだって?」
「げ」
やっぱり言ってやがったか、西田め。
「カッコイイね」
「え?」
「うん、イイよ。凄くカッコイイ」
………コイツも俺を「アネキ」とか呼ぶ種類の人間か。
「それってさ、女の子を助けるためにやったの?それとも、その男に対して怒ったの?」
そんな質問は初めてだ。
「いや……、特に何も考えないで……」
「へーえ」
何なんだ?質問の意図がまったく分からない。
「じゃあさ、どっちだったら良かったと思う?」
な、何を言っているんだ?この人。
「女の子を助ける気持ちと、男に対する怒りと、どっちの気持ちで行動すれば良かったと思う?」
「それは……」
どうなのだろう。“どっちの方が正しかったんだろう?”
でも、たぶん、
「どっちでも駄目だったと思います。きっと。どっちの気持ちも、少しはあったかもしれない。けど、どちらでもなかったから。何でもなかったから、俺はあんな事をしたんだと思います」
「うん。そうだよね」
「え?」
答えを予想してたのか?
「今は、それでいいんじゃない?」
「何が、ですか?」
「あ、おいこらクソ兄貴!また俺の友達に変な事吹き込んでるな!!」
トイレから帰ってきた西田が、兄と何やら言い合っている。
でも、俺には聞こえない。
たった一つの事が、俺の心を占拠している。
そうか、そうなのか。
男にも、女にも“まだ”なり切れていないヤツ。それが“俺”なのか。
どちらでもないから、俺なのか。
「急ぎすぎてたのかな……」
誰にとも無く、呟く。
西田兄が笑った気がした。
「ホントにもう帰んの?」
「うん。なんだか、少しスッキリした」
「そっか」
いつかは決めなければいけない。けれど、それは今すぐじゃない。
ゆっくり、ゆっくり決めていこうと思う。
「そうだ、コレ、ウチの母親が勤めてる会社の試供品なんだけどさ」
西田は、小さい長四角の箱を手渡してきた。
「持ってなよ」
「これを?何で……」
「『持っているけど使わない』のも、『持っているから使う』のも、お前の自由だぜ」
「自分で決めろ、か」
「おうよ」
西田兄弟は、背中は押しても道案内はしてくれないのな。
何だか、笑えてしまう。
「じゃな」
「おう、じゃーな」
帰り道。あの三叉路に着く頃には、空が真っ赤に燃えていた。
手の中の箱を、夕空にかざしてみる。
何色なのだろう。この空と同じく真っ赤な色なのだろうか、それとも……。
今はまだ、確かめないで置こう。この、口紅は。
最終更新:2008年07月21日 04:57