空は晴れ渡っている。
その私立高校では、今まさに文化祭の真っ最中だ。
そして高校の校門の前で、先ほどからずっと入ろうとも帰ろうともせずに立ち続けている少女がいる。
「ううー……」
次々と校門を潜って中に入っていく人たちは、その少女を奇異な目で見るが、立ち止まってまで観察しようという者はいない。
「なーんで、来ちまったかなあ…」
誰にとも無く呟く。
その、墨を溶いたかのように真っ黒な髪を持つ少女は、真樹という。
普段は近くの神社で巫女をやっているが、今日は知り合いの学校の文化祭ということで、普段は出ない神社の外に来てみたのだが……。
「来なきゃよかったかも…、けどなあ」
などと、さっきから堂々巡りをしている。
そんな彼女に遠くから声を掛ける者がいた。
「よおーっす! 真樹―!」
その人物こそ真樹の知り合いの武井であった。
「来ねー、来ねーと思ってたら、なんでそんな所にいるんだあ?」
「あ、いや、その……」
しどろもどろとなる。
「まー入れ」
いつの間にかすぐ側まで来ていた武井に、腕を引っ張られてしまう。
「お、おい……!」
“人の洪水”という言葉が一番にあうであろう。
次から次へと人が行き来し、尽きることは無い。
「うわっ……人って、たくさんいるんだな」
「はあ? 何言ってるんだ?」
「いや、こんなに人がいる所に来るのは久しぶりで……。ちょっと酔った」
「え? 大丈夫か?」
「少し、休める所に行きたい……」
「りょーかい」
そう言うと武田は、真樹の前に立ち人ごみを掻き分けていく。
少し行くと、そこは喫茶店の模擬店だった。
「ゲイ……バー?」
「そ。芸術クラスがやってるから、『芸バー』」
内装は確かにバーのように飾り付けられていた。芸術クラスの力をこれでもかという位に無駄遣いしている。
しかしそれほどに力を込めた模擬店でも、今が朝だからなのか店名のせいなのか、今一客入りは悪いようだった。
「ここでならゆっくりできるだろ」
「いや、まあ、何も言わないでおくけどさ……」
グラスに注がれたワイン(を模した食用色素を溶け込ませたジュース)を飲み、まったりしていると、段々落ち着いてきた。
「ふう……」
「大丈夫?」
「なんとか」
「……誘ったの、迷惑だったか?」
真樹は武井の言っている意味が分からず、一瞬きょとんとなる。だがすぐに、
「はっ。何言ってやがる」
と一笑に付す。
「笑うなよ。 誘うの我慢すりゃよかったか、とか色々考えて言ったんだぜ?」
「柄じゃねえ。っつってんの」
はいはい、そうですかと言い、武井は食器を片付ける。
「それじゃ、これからは思いっきりトバすからな?」
それから武井は真樹を、「文化祭と言ったらこれ!」といった場所にどんどん連れまわしていった。
飲食店から出し物。展示物。演劇。コンサート。お化け屋敷に大迷路。体育会系の部活の試合や、文科系の部活の体験コーナーも回った。
最後にPTA管理の休憩室に着いたときには、真樹はぐったりとしていた。
「よ、よくもまあ、こんだけ種類があるもんだ……」
「何言ってんだよ。これで全体の半分だぜ?」
「!?」
へなへなとその場に崩れ落ちる。
「もうダメだ武井。俺はここに骨を埋める。大隊長殿には『奴は勇敢に戦った』と伝えてくれ……」
「おいおい」
武井は息を一つつくと、
「ちょっとジュース買ってくんね」
と言って行ってしまった。
一人残った真樹は、小さく呟いた。
「……何だかなあ」
※ ※ ※
武井が廊下を歩いていると、反対側からやけに背の高い少年が歩いてきた。
「や、武井クン」
「ん? 村松か」
その少年――村松は、にこにことしながら武井に近寄ってきた。
「君が今日、ずっと一緒にいたあの子、誰なんだい?」
「んーと、まあ友人だよ」
一瞬考えてからそう答えた。
「友人、友人かあ。……名前は?」
「真樹だけど……」
言ってしまってから、武井は自分の失敗に気がついた。
この村松という男は“手が早い”ことで有名なのだ。
「マキ。マキちゃんね」
どうやら口癖らしく、先ほどのように同じ言葉を二度繰り返してから村松はにっこりと笑った。
「教えてくれて、どうもありがとう」
そのまま武井が今来た方向に行こうとする。
「何だ? 人のツレにも手ぇ出すのかよ?」
「友人、なんでしょ? いいじゃないか」
上手く上げ足を取られてしまった。
(ま、アイツなら何とかするだろ……)
そのままジュースを買いに廊下を進もうとして、武井は足を止めた。
「あ、そうだ。村松、あいつに触るのは我慢……」
振り返ると、もう見えなくなっていた。
※ ※ ※
(何やってんだろ……俺)
真樹は休憩室に据えられた机につっぷして考え込んでいた。
学校には二度と行くまいと心に固く誓っていたのに、こんなにもあっさりと来てしまっている。生徒としてではなく文化祭の客としてだ、と言い訳もできるが、それで心の中はすっきりする訳でもない。
(“あの頃”の想いが薄れてきてる……)
それは彼女にとって良い事ではあるのだろうが、逆に失くしてはいけない大事な一部のような気もしている。
(あいつから誘われても、我慢すれば良かったんだ……)
なぜその我慢ができなかったのだろうと考える。だが、頭の中には武井の顔しか出てこなかった。
(武井……か)
「って、何でアイツが出てくるんだよ!」
真樹がセルフ突っ込みを入れていたときに、後ろから誰かが声をかけてきた。
「やあ、マキちゃん」
「……はい?」
振り返ると、やけに背の高い、にこにことした顔の少年が立っていた。
「えーと、どちらさまでしょうか?」
「僕は村松って言うんだけど、まあ下の名前の“タツヒコ”って呼ばれるほうが多いかな?」
「別に名前を訊いたわけじゃ……」
「マキちゃん、どう? ここの文化祭は?」
まったく自然な動作で、村松は真樹の隣に座ってきた。
それが余りにも淀みがなかったため、真樹も反応できなかった。
「結構にぎわってて、面白いでしょ? あ、僕は文化祭委員やってて、結構いろいろ手伝ったりしたんだ」
「はあ……」
そう返す以外に、真樹には思いつかない。
「演劇部と吹奏楽部のスケジュールをどう調整するかとか、結構悩んだんだ。でも、かなり上手くいってたでしょ?」
そこまで来てやっと、真樹にはこの少年が自分を口説こうとしている事に気づいた。
同時に、首の後ろから気持ちの悪いものが“ぞわり”と這い上がってくるのを感じた。
「あの、俺、ツレを待たせてるから……」
立ち上がると真樹は、扉に向かって直進した。
「ちょ、ちょっと待ってよマキちゃん!」
焦った村松が、反射的に真樹の腕を掴んでしまう。
―――絶対に、やってはいけないのに。
※ ※ ※
「お前、キモイよ」「このクソ童貞」「もう童貞じゃなくて“天才少女”サマだろ?」「あーそうだった」「げらげら」「なあおい、なんとか言えよ」「いてっ」「何だコイツ」「おい逃げるぞ」「ぶっ殺す」「捕まえろ」「逃げんじゃねーよ」「ぜってえ殺す」
―――「捕まえた」
※ ※ ※
廊下を休憩室のほうに少し早足で帰っていた武井の耳に、つんざくような悲鳴が聞こえてきた。
「くっそ、俺のバカ野郎……っ!」
彼は手に持ったジュースを床に放り捨てると、全速力で駆け出した。
※ ※ ※
村松は急に叫びだした目の前の少女に、気が動転していた。
「な……? ええ……!?」
まだ腕を掴んだままだ。
「お、おい!静かにしろよ!ご、誤解されんだろ!?おい、こら!!」
ぐいと引き寄せる。
「……んなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
真樹は同じ言葉を延々と繰り返している。
「ちくしょう、何なんだよこの女……っ!」
こちらの言う事を何も訊かない少女に、村松はつい手を振り上げてしまう。
「ひっ……」
「このっ!」
ぱぁあん!
「うぇ……?」
殴られたのは、村松の顔だった。
「何やってんだ、この野郎」
殴ったのは、武井だった。
「な、なん……」
「離せ」
言うが早いか、武井は村松の腕を引っつかんで真樹から離す。
「大丈夫か?」
武井がそう訊いても、真樹はうーうーと呻き、下腹部を押さえているだけだ。
その様子を見ていた武井は真樹を抱きしめようと腕を動かすが、寸前の所でそれが止まる。
「………」
真樹はその一連の動作にも気づかず、顔面を蒼白にしている。そして手で口元を押さえると、
「おえっ……」
と、今にも戻しそうになる。
その瞬間、武井はぎゅうっと真樹を抱きしめる。
腕の中で真樹が一瞬体を強張らせるが、すぐに震えが止まる。
「あ……、たけ…い……?」
目だけで、自分を抱きしめた人物を確認する。
「俺……、俺……、俺……!」
「何も言わなくていいよ。さ、帰ろう」
その声は、あまりにも静かで、とてつもなく力強かった。そして、真樹を抱きすくめるその腕も……。
――こくん。
真樹が小さく頷いた所で武井は腕を離し、腕を引いて部屋を後にした。
後に残ったものは皆、一様にぽかんとしているだけだった。
この出来事が、この後いろいろな場所に影響を及ぼす事になるのだが、そんな事は露とも知らず、武井と真樹の二人は真っ赤に染まった街中を並んで歩いていくのだった。
「真樹、今日は……」
「武井!」
「はい!?」
「………謝るなよ?」
「柄じゃないから、か?」
「そうだよ」
「それでも……、それでも俺は……って、うわ!?何やってんのお?!」
「少しだけ、このままで」
「え、いや、でも……」
「こうしてると、落ち着く」
「…………そうか」
「………うん」
二人の影が、遠く伸びていた。
最終更新:2008年07月21日 05:27