ひらひら、ひらひら。
桜舞う頃、俺は中学生になった。
学生服やセーラー服が吹雪の中を歩き回っていて、俺もその中の一人だったんだ。
『あゆむ君! へへ……また、一緒だね』
後ろから声を掛けられて振り返ると、そこには肩で息をする友人、尾崎さつきがいた。
さつきはいわゆる俺の幼馴染というやつで、然程趣味が合うという訳でもなかったけど、一緒にいて楽な事が僕にそうさせた。
さつきがどう思っていたかは解らない。 でも彼も俺によくくっついて来ていたから、嫌われてはいなかったんだろう。
ポトポトと、子猫のように寄り付いてくる彼といると俺は笑顔になって、そして何より優しい気持ちになれたんだ。
入学式。クラス発表。春という別れと出会いの季節。新しい俺たちの出会いはそこにあって、その時はもうすぐそこまで迫っている。
いつもいつも俺たちは振り回され、そしてその大きな何かに玩ばれるのだ。
《・・・という我が校の誇りを以って・・・》
校長の演説めいたありがたい話も麗らかな陽気に邪魔をされ、次第に俺の瞼は重くなっていく。
周りにもやはり同じような生徒は多くて、其処彼処から欠伸やちょっとした寝息が聞こえてくる。
熱弁さえもやがて子守唄へと変わって、俺が舟を漕ぎ始めた頃。
あのウトウトとした幸せな時間に、背中に何かが圧し掛かる感覚で俺の眠気は覚めた。
周囲の微笑で、ようやくその何かは俺の背中を退いたんだ。
『あ、ごめん……』
「いいよ。眠いなら寝てな。背中なら貸したげるよ」
『や、やだよ……恥ずかしいもん』
ほんのりと頬を染めてそっぽを向くさつきに俺も少しだけ恥ずかしくなって、顔を前に正した。
勿論校長の話なんて頭に入ってくることは無くて、周りの視線に耐えることで必死だったんだ。
町立桜ヶ丘中学校は俺たちの町の唯一の中学校で、その生徒の殆どが町内の小学校からの持ち上がり組みだ。
三箇所の小学校からの持ち上がりなので知らない生徒もそれなりにいるのだけれど、運が良い事に、俺とさつきは同じクラスになれた。
『あ……また一緒。よろしくね』
どうしてだろう。これからの一年が楽しみで仕方が無かった。
ひらひら、ひらひら。桜の花びらが、窓の外を舞っている。
楽しい時間というのはどれだけ惜しんでいてもあっと言う間に流れていってしまうもの。
その当たり前の流れを俺はどうしても変えることが出来なくて、最初の一年は過ぎてゆく。
委員会、部活動、新しい校舎に新しい友達。
俺とさつきはろくに一緒にいることもままならないまま、波に飲まれてしまった。
『へへ……なんか一緒に帰るのも久しぶりだね』
「部活も委員会も違うしな。 どう? 吹奏楽はうまくやれそう?」
『うん。 男子部員がちょっと少ないけど、楽しいよ。 新しい友達も増えたんだ』
「そっか、なら良いじゃん。 彼女とか出来たら教えろよ?」
『……僕にはまだ、そういうのは早いよ』
「そっか? 別にそうでもないんじゃね?」
『うーん……僕、ちょっと変なのかもね』
さつきの言ったことの本当の意味を、俺は後々知ることになった。
この時の俺は、さつきの見せた憂い顔に見向きもせず、ただ遠くの雲を見ていたんだ。
さつきの新しい友達に嫉妬して、さつきが俺から離れていってしまうようで寂しくて……
中学一年は慌しいままに過ぎ、俺たちは二年生になった。
新しい生活にも慣れ始め、後輩が出来た頃。
俺とさつきが会うことは殆どなくなってしまっていた。
『……別々になっちゃったね』
「ん……まぁ、仕方ない。 時間作ってさ、また遊ぼうぜ」
『……うん、そうだね!』
そんな二人の約束も果たされないままに、徒に時間は過ぎていった。
多分二人とも、クラスが違えばこうなってしまうのは解っていたんだろう。
さつきはいい顔をしていなかったし、僕にも漠然とした不安があった。
そして案の定、俺とさつきの道はこの時から少しずつ食い違っていってしまったんだ。
中学生にもなれば思春期も訪れ、それぞれの想いを胸に過ごしてゆく複雑な時期になってゆく。
そして俺も例に漏れることなく、恋をしていた。
同じクラスの大野 岬という俺の隣の席の娘は、いつも眠そうにぼんやりとしているのが印象的だった。
岬は変わった奴で、いつも一人だった。 友達がいないとかそういうのではないと思う。
実際クラスの女子たちと仲も良かったし、虐められるような性格でもな
かったのだから。
それでも彼女は一人で、部活も休みがちだった。 だから余計に俺の気に止まったのかもしれない。
猫のように背中を丸めて机に伏す彼女の姿が、小さくて、とても寂しいものに見えたんだ。
俺の気のせいなのかもしれない。 大きなお世話なのかもしれない。
どんな風に話しかけてもしつこい男に見られてしまうかもしれない。
それでも俺は話し掛けられずにはいられなかったんだ。
最初は一言から始めた。 次の日は、二言。
彼女は話し掛ければ話し掛けるだけ言葉を返してくれて、彼女とのその短いやり取りは俺の秘かな楽しみになっていた。
何かの相談をする訳でもなく、また何かを深く語り合う訳でもなく、ただ短い時間を話す。
朝、俺より必ず先に来て席に伏せている彼女に話し掛けるのが、心の拠り所になっていたんだ。
明日は何を話そう? 明日はもっと喋れるかな?
家に帰ってからも、そんな事ばかりしか考えられなかったくらいに。
「大野さん、おはよう」
「……んー……おはよ……いい加減『大野さん』はやめて……こそばゆい……」
「んじゃ…大野?」
「……そこで『岬』って呼べないから……童貞なんだよ……」
「……岬?」
「うん、そう。 そっちのが、あたしは好きだよ。 あゆむ」
女の子っていうのははしたない事は人前で口にしたりしない。
彼女はそんな俺の中の『女の子』というモノを次々とぶち壊していった。
でも俺は不思議と幻滅はしなくて、それどころか更に『大野 岬』という一個人に惹かれていったんだ。
短い朝の会話を重ねて、俺たちは次第に普段からも喋るようになっていった。
お昼休みに、休み時間に、授業中に、放課後に……
会話を重ねる事が嬉しくて、それに連れて嫌われる事が怖くなっていた。
見えない俺と岬との距離が離れていってしまうのが無性に怖くなった。
人間の欲望の際限の無さがこれ程に怖いものだなんて、この時初めて気付いたんだ。
話し掛けて嫌われるのが怖い。 けれどもっと岬と仲良くなりたい。
悩んで、悩んで、それだけで時間は過ぎていってしまうんだ……
「ねえあゆむ、あたし達、付き合おっか」
中学三年の春。 念願叶って俺は再び岬と同じクラスになっていた。
始業式の日の放課後、桜舞う駐輪場で俺は岬に呼び止められた。
突然だったんだ。
自転車のハンドルを掴んだまま呆然とする俺と、帰路を辿り始める岬。
慌てて追いかけて彼女の横に追いつくまで、まともに理解する事が適わないくらいに。
「……ほ、本気?」
「どうかな。 あたしじゃ、いや?」
断れる、訳がなかった。
自ら遠ざけようとしていたモノが、向こうから寄って来たんだ。
心臓は早鐘を打って、今にも飛び上がりたいくらいに嬉しくて……
あの何事にも喩え難いもどかしさは何なんだろう。
岬の小さな手がゆっくりと持ち上がって、そのしっとりとした感触が俺の頬に触れた。
俺はまた体を小さく震わすことしか出来ずに、声無く立ち尽くす。
未だかつてないくらいに顔が熱くなるのがわかる。
どうしてだろう。
岬に触れられることがとても嬉しくて、でも苦しかった。
「ん? 照れてんの? 愛いやつめ」
「……うるせーよ」
「んふふ……ま、色々教えたげるからよろしく。 じゃーね」
ふわふわ、ふわふわ。
女ってのはどうしてこうも同じ人間ではないかのような感じがするのだろう。
柔らかくって、熱くって、良い匂いで……
岬は知れば知るほどわからなくなる奴だった。
追いかければ追いかけた分だけ遠ざかる蜃気楼のような。
もしかしたら人の心ってのはそういう存在なのかもしれない。
そう思うようになったのも俺が少しは大人になったからなのだろうか。
まあ何を言いたいのかというと遂に俺も大人の階段を一歩昇ってしまった訳で。
色々と抱え込んでいたはずの不安が何処かに吹き飛んで行ってしまった訳で。
女体化という現象を回避するに至った俺は、薔薇色に染まった世界を謳歌していたんだ。
―――だから。
助けを求めていた手に、気付いてあげられなかったのだろうか。
大事な友人さえ気遣えなくなる程、俺は盲目していたのだろうか。
『あゆむ君』
そう呼ばれた俺は、違和感を覚えずにはいられなかった。
俺をそう呼ぶのは、あいつだけの筈だった。
こんなに……こんなに、可愛い『女の子』では、なかった筈なのに―――
『へへ……やっぱり、吃驚した?』
「…―――ッ!」
疑念が、確信に変わる。
笑顔を向けられるだけでこんなに苦しい思いをしたことが、他にあっただろうか。
俺はさつきを避けるようになってしまっていた。
女体化したさつきを目の当たりにしたあの時から、親友として接することが出来なくなってしまったんだ。
幼稚園の頃からずっと一緒だったさつきを『女』として意識してしまっただなんて、認めたくなかったのかもしれない。
そして俺はいつか、『親友』としてではなく『女』としてさつきを好きになってしまっていた。
そんなこと自分にはありえないと思っていたのに―――
時間は残酷にも刻々と流れ、高校受験を目前に控えながらも悩む日々は続いていた。
勉強に集中している間は全てを忘れられそうで、だから俺は必死に机に向かい続けた。
「あゆむ? どうかした?」
「いや……なんでも」
「しっかりしなよ、それじゃ落ちちゃうぞ」
「岬こそこんなとこで油売ってていいのか? いい加減どこ受けるんだ
か教えてくれても……」
「ダーメ! その内、ね」
心に秘めた想いを抑え付けながら過ごす岬との時間はとても辛かった。
もう以前のように際限なく膨れ上がる気持ちはなくなってしまっていたし、何より罪悪感が俺の大部分を占めていた。
唇を交わしても、体を重ねても、忘れることの出来ないモノ。
もうどうやってもこの気持ちが消えないモノになってしまったことを知った頃。
俺は見事志望校に合格し、岬は俺の前から姿を消した―――
最終更新:2008年07月21日 20:16