鼻先を擽る淡いシャンプーの香り。
首筋にもたれ掛かる冷たい重み。
「……いき…ますよ…?」
「……んっ!?…ぁ…あぁ…っ!……」
チクッとした痛みの後に体の力が抜けていって、お腹の辺りに走るむず痒さにも似たもどかしさ。
「……んっ♪……ん…んちゅ……っ……」
肩に掛かる彼女の鼻息と、微かな啜音。
次第に背筋を走る甘美なる寒気。
「……ん……はぁ……ぁあっ……♪」
―――そして、頬を赤らめた彼女が震えながら放つ嬌声。
自然と起き上がってしまう欲望を押さえながら、僕はソファに身体を預けた。
「……はぁ…はぁ………ご馳走様でした……」
……こうして、週に一度の彼女の『甘露』は終わる。
吸血鬼である彼女との共同生活は、予想外にも順調に過ぎている。
これも彼女の従順な…というよりも大人しさのお陰なのかもしれない。
現に、暮らし始めて彼女が不満を漏らした事は無いに均しい。……でも、それが寂しくもあったりする。
そうそう、名前を聞いたんだ。
彼女は『壱原 小夜(イチハラ サヨ)』という名前らしい。……あ、ちなみに僕は『木之本 凌(キノモト リョウ)』。
「……ねぇ小夜……お買い物、行こうか」
「ふぇ? 良いですけど……私も…ですか…?」
夜の世界でしか生きていけない彼女は、外出する事を酷く畏れていた。
気持ちは察せなくもないけど、一緒に過ごせる短い時間を楽しみたかった。
……それに、必要な物もあるし、ね。
「うん、一緒に行こ?」
「はい…わかりました……」
小夜を半ば引っ張る形で連れ出すと、駅前へ向かった。
目的地は駅二つ先のショッピングモール。彼女の生活用品を揃えなきゃ、ね。
「あ、ちょっとお金卸してくるから待ってて?」
駅のベンチに彼女を待たせ、駅前のコンビニへ向かう。
あまり時間も無いので、自然と足取りが速まってしまう。
―――けど、やっぱり前は注意しながら歩かないと危ないね。
「うわっ!」ドンッ
「おおお、だ、大丈夫ですか?」
「ああ、いや、すみません。急いでたもので…本当にすみません」
「いいですよ、こっちもよそ見してたし……ん? 首の傷……」
狭まった視界に突然現れた人を、僕は避け切ることが出来ずにぶつかってしまった。
……そして、見られてしまった二つの傷。
幾ら治りの早い傷でも、1時間も経たずに消える訳がなかった。
反射的に首元を手で隠した僕は、苦笑いでその場をやり過ごそうとした……けど。
「え? あ、いや、これは……え? 噛み痕……?」
僕は、見てしまったんだ。
彼の首元に確かに在る、僕のそれとは違うけど、何かに噛まれた痕。
彼は僕と同じように首を押さえながら、焦りを隠し切れないでいた。
……きっと彼も同じ事を考えていたんだと思う。
お互い目を泳がせながら立つ僕たちは、形は違えど同じようなモノを抱えている。
「……頑張ってください」
「……ええ。あなたも」
……うん、やっぱりね。
僕よりも少し年上くらいなその人は、その後すぐに来た綺麗な女の人と街へ消えていった。
何だかその女の人に睨まれたり唸られたりしたような気もするけど、多分気のせいだろう。
僕はコンビニに急いだ。
―――ガタン…ゴトン…
ちょうど空いている時間帯らしく、電車はガラガラだった。
流れていく街の光が綺麗で、ガラスに映る彼女が綺麗で。
触れ合う肩を意識してしまう僕がいた。
「……でっ……かいですねぇ…!」
「うん、市内最大級らしいからね。」
駅から歩くこと10分弱。僕たちはショッピングモールに着いた。
なんだか嬉しそうにキョロキョロしている小夜が可愛くて、僕まで楽しくなってきてしまった。
「ねっ、凌君早く~!」
5mくらい先に行ってしまった彼女が振り向く。
……あぁ、本当に連れて来て良かったなぁ……
彼女の笑みにつられて僕の顔も緩んで、僕たちは手を取り合って店舗内へと進んだ。
「~♪~~♪~~~♪」
「………orz」
このショッピングモールに着いてから2時間。
どうやら僕は『どうせ元男だから…』と少々小夜を侮っていた事を認めなければいけないみたいです。
いえ、懐が寒くなった訳ではなく、2時間丸々を試着に費やしているだけなんですけども。
「……うーん…こっち…やっぱりこっち…?……うん……凌さん、これとこれ…いいですか?」
「あ、決まった?…えーと…?…これだけでいいの?」
小夜が持って来たの衣服は、思っていた数よりも大分少なかった。
こんな所で遠慮されるのが何だか寂しくて、僕は聞き返してしまったんだ。
「遠慮なんかしてませんよ?」だとか「私にはこれで十分です」という返事がくると思ってた。
でも彼女は俯きがちに手をモジモジさせながら、言ったんだ。
「……ぇと……その分私に…勝負下着を選んで貰えませんか…?」
……テンパるよね?そんで勘違いしそうになるよね?むしろこれ誘ってるとみて相違ありませんねっ!?
だって勝負だよ?誰と勝負するって僕としかないよね?よね?
……でもそこでへたれるのが僕。意気地無しも甚だしいよ…
「……え…?……えーと……どうしたの?」
「……その…接客のお姉さんが『一緒に来た彼に選ばせてあげれば喜ぶ』っておっしゃいまして…」
うん。余計なお世話だよ店員さん。
それでこの後、結局下着を選ぶことになってしまったのだけれど、とても恥ずかしい事になってしまったのでそこは省略させては貰えないかな。
【幕間】
採寸を終えた僕は、凌君の後でそっと彼を見ていた。
顔を真っ赤にしながら下着を選ぶ彼は、何でこんなにも僕に良くしてくれるんだろ?
皆僕みたいな化物は避けたいはずなのに、近寄りたくないはずなのに……
彼は怖がりもせずに僕を家に招いてくれた。そして血を与えてくれた。
……だから僕は、彼が少しでも喜ぶのならそうしたいんだ。
何も持ってない僕だけど、何も知らない僕だけど―――
【幕間終】
大体の買い物を終えた僕たちは、帰路についていた。
大きめの紙袋2つ分の荷物は、衣類と言えど意外と重さがある。
まぁ家までなら問題ないかな。
帰りの電車に乗って、ほぼ無人の車両に座る。
もうガラスに映る自分達ははっきり見える程に闇の帳は降りていた。
僕は、隠していた小さな紙袋を取り出した。
勿論小夜へのプレゼント。……喜んでくれるといいんだけど。
「はい、これあげる。必要だって教わったから」
「え…? 開けてみていいですか?」
「うん、いいよ」
中に入ってるのは、簡単なお化粧道具と薄いピンクのルージュ。
『必要だって教わった』なんて嘘。
本当は、似合うと思ったから買おうと思っただけなんだ。
「……ありがとうございます……大切にしますね!」
小夜はそう言いながら、うっすらと涙を浮かべて袋を抱えた。
でもそこまで嬉しがられても何だか少し恥ずかしくて、僕は家に着くまで彼女の顔をまともに見ることが出来なかったんだ。
最終更新:2008年07月21日 20:39