『 約束 』

「……今日のお帰りは何時頃ですか?」

いつもの時間にいつものようにこの家を出ていく凌君。
僕は少し眠たい目を擦りながら、光の届かない隣の部屋から顔を覗かせた。
学生服に身を包んだ彼が、玄関で振り返って一言。

「うん、5時くらいかな。遅くなる時は連絡するね」

「わかりました。いってらっしゃい」

「行ってきます!」

凌君が鍵を閉めて出ていく。
僕が余計な光を浴びなくて済むように。

そしてそれを確認した僕は、凌君の部屋の押し入れに入る。
それがここに来てからの日常、僕に与えられた寝床だった。

『ヒドい奴』って思われてしまうのかな。
でも、これは僕が望んだ事。
幾ら暗幕で部屋を囲ってあっても、所詮は布。ぴっちりと閉まった押し入れには敵わないのだから。

「……ふぁぅ……おやすみなさい……」

昼間に活動が出来ない僕の睡眠時間は、今から。
普通の人間が起きてからが僕の休息の時間。
今は大体8時……そして起きるのが5時前。
この時期日照時間の関係もあるし、少し長めの睡眠時間は許して貰えないかな。







目が覚めたのは4:30。
ソロソロと押し入れの外に出ると、張り巡らされた暗幕から光が洩れてる。
流石に夏至を迎えたばかりとあって、あと2,3時間は陽は落ちてくれないだろう。

人と違ってしまった僕の身体は、色々なアレルギーのよう。
生水も、日光も、銀も、僕の身体を蝕むようになってしまった。

日中外に出られない。
シャワーも水道も使えない。
日常生活で僕が凌君の為に出来る事なんて、数える程しかない。

それでも彼が僕を此処に置いてくれるのはなんでなんだろう?
優しくしてくれるのはなんでなんだろう?
考えても答えは出なくて、僕はふと枕元の暦に目をやった。

「えー…と…? …あ! 今日は約束の……♪」

暦を確認して気が付いた、僕的ビッグニュース。
今日は凌君と約束したお出掛けの日。
ずっと楽しみにしてた、あの場所へ行く日。

「凌君早く帰って来ないかな……♪」

現金な僕は、一人ニコニコしながら凌君の帰りを待っていた。
押し入れの中でゴロゴロ……とても人には見せられない有様かもしれない。
でもそんな僕を余所に、凌君は遅くまで帰ってこなかったんだ。








「うーん…困ったなぁ……」

目の前に連なる洗濯物の山々。
そして洗濯物の主達はネット越しに分かれ、白や黄のゴムボールを追い掛けている。
そう、ここは女子軟式テニス部のコートだ。

「木之本先輩! 中体連の試合は応援に来れるんですか?」
「木之本君も忙しいのに頼んじゃってごめんね?」
「凌! これ頼んだ! 礼は後で体で払う!」

まぁ何故此処にいるかって、女体化した幼馴染みに頼まれたからなんだけど、僕には少々刺激が強いかもしれない。
汗で透ける白いシャツ。走り回るたびに見えるアンスコ。
そしてからかわれているとしか思えないようなスキンシップの数々。

元男が複数いるからと言われて来てみたけれど、どうみても普通の男な俺には目に毒な花園。
汗くさかった友達からも"女の子"の匂いしかしないというのも居づらい原因の一つかもしれない。

「…ねぇ高坂? さっきから何で僕におぶさってるのさ?」
「え? 彼女のいない凌に少しでも女の子との触れ合いをだな…」
「大きなお世話だよっ! ……ったくぅ…お前が付き纏うせいで出会いも少ないのに……」

さっき話した幼馴染みの高坂 柳(コウサカ ヤナギ)。
中学3年になってすぐ女体化したセクハラ魔神。そしてそれは女体化してからも変わらず……

「まぁまぁ、そう固い事言うな…って固くしてんのはこっちか?」
「ぅわぁ! どこ触ってんだ!?」

……少し友人として、人間として、不安だったりもしないでもない。






「何だよ、そんなに嫌がる事無いだろー? 女体化しそうだったら、俺が相手してやるからさぁ♪」
「……残念ながら、宛はあるからね。多分それはないよ」

……うん、なんか今勢いに任せて凄いこと言ってしまった…
あぁ、やっぱり凄い見られてる! え、ちょっと、部員の皆さんまで!?
やっぱり嘘はつかない方が良いね。小夜は良いって言ったけど、お礼とかでそんな事したくない。

「あーそーかぁ…遂に凌にも彼女が……っていつ!?そんなチャンスは無かったはずだ!!」
「答える必要は無いよね? 今日も約束あるから、こんな事しかしないなら僕帰るっ!」

いい加減帰らないと間に合わない。
多分、っていうか確実に楽しみにしてくれてる小夜は悲しませたくない。

「……待って」

…そんな僕を後ろから抱き留めたのは、外ならぬ柳で。
奴は僕の背中に頭を預けた。
そしていつもと違う、少し弱々しいような声で僕にこう言った。

「部活終わったら……話あるから待ってろ」

そして奴は部活に戻っていった。
……背中に、汗と柔らかい感触を残して。







「はい……えぇ…大丈夫です。……はい…それでは」

―――カチャン

「…………………ハァ…」

陽も傾き始めた6時過ぎ。
僕はお化粧も完了して、まだ一度も着ていないワンピースに袖を通して、勝負下着まで着けて……
……けど、約束の予定もキャンセルされてしまったところ。

電話の向こうの彼は本当に申し訳なさそうにしていたから、多分学校の用事なんだろう。
それならば仕方の無いことだ。仕方の無いこと……だけど何でこんなにモヤモヤするんだろう?

「……僕のバカ……ワガママなんだから……」

自分の頭に拳固を一撃。
……でも、少し頭がクラクラした程度。
僕はお風呂場にお化粧を落としに向かった。

僕はこの家にお世話になるようになって、少し変わったと思う。
何と言うか、恥ずかしがり屋な自分とワガママな自分が表にでてきたのかもしれない。

もしかしたら凌君のせいかな。お風呂から出る時も着替える時も、身体を隠して出てくる凌君。
別に僕だって元は男の子だったんだし、構わないのにね?
僕のお爺ちゃんとお婆ちゃんも隠してたりしなかったのに。

あ、今脱いでて思ったんだけど、勝負下着って何で勝負下着っていうんだろうね?
どういう時に着けるのか、結局教えてもらえなかったし……今度誰かに聞いてみようかな。







7時が過ぎて8時も過ぎた。もう流石に外は暗くて、でも凌君は帰らない。
―――まさか、事故にでも……!?
一度抱えた不安は簡単には離れてくれなくて、僕の中で膨れていくばかりだった。

そして九時を過ぎた時、膨らみ切ったそれは遂に弾け飛んだ。
僕は家を飛び出して、無我夢中で走り出していた。

狭いようで時には広い意地悪な街を走り回った。
いつか教えてもらった通学路沿いのお店や公園を思い出しながら一つ一つ探して回った。
そして僕は遂に凌君を見つけた。もう人のいない…明かりの無い学校の門に佇む、彼を。

「りょ…凌君……良かったぁ…心配しましたよ? 帰りま……」
「……あ…小夜……」

僕は目を疑ったんだ。いつも笑顔でいた彼の、見たことの無い沈んだ表情。
何があったんだろう? 何が、彼をここまで沈ませたんだろう?
笑顔を作る彼が何故か腹立たしい。彼の笑顔が好きだった筈なのに、僕はどうしてしまったんだろう?

「……今日はゴメン…帰ろっか?」

何で笑うの?何で無理するの?僕がいるからそうさせるの?
モヤモヤが大きな塊になって、それが僕を支配してゆく。

「……なん…で…?」

ダメ! 言っちゃったら止まらなくなってしまう。

「……なんで…無理するの…?」






言ってしまった、知られてしまった、僕の醜い本心。
言いたくなかったのに、知られたくなかったのに、もう止まらない。止められないんだ
それはまるで川から溢れた濁流のように、坂を転がり始めた石のように―――

「何で言ってくれないんですか? 何で嘘つくんですか? 僕はそんなに弱そうですか?」

ダメ…ダメなのに――……

「誰だって一人になりたい時なんてありますよ。でもあの家は凌君の家なんですよ…?」

「僕は凌君の迷惑には…邪魔にだけはなりたくないんです……」

知らない内に流れていた涙は、謝り切れないごめんなさいの気持ち。
傲慢で我が儘な僕は、一方的に感情をぶつけてしまった。

「……すみません、少し頭冷やしてきますね…」
「あっ!? ちょっ……小夜!?」

だから僕はその場から逃げた。
凌君の話を聞いたら、きっと僕は謝ってしまうから。
僕は、大事に飾って置いて欲しい訳じゃないんだから。

走って追ってくる彼を吸血鬼化してまで振り切った僕は、離れた公園まできていた。
視界にちらつく銀髪がうっとおしくて、ベンチに体を預けた。
自然と見上げた空は雲で朧になっていて、僕はそのまま考えていたんだ。







僕は凌君の…彼の辛そうな顔見ていたくなかったはずだ。
少しでも役に立てれば、と。そう思いながら今日までお世話になってきた。
……ところがどうだろう? 僕は結局自分のエゴを彼にぶつけただけで、揚句の果てには逃げ出した。
頭の中で繰り返される話題に終止符を打てずに、僕は一人で鞭の雨に打たれていた。

―――その時だった。

「お嬢ちゃん、こんな遅くにこんな場所にいちゃぁ危ねーぜぃ?」

僕を覗き込む、見知らぬ女性。
黒漆のような艶やかな長髪が、薄暗い街灯に映えて……僕は見とれてしまっていた。

「……ハァ……おい阿呆、それではそれでは質の悪い不良どもと変わらん」
「うるせーなぁ、俺の精一杯の可愛らしさだっつーの。ハイハイ不良でわるぅございましたねぇ!」
「おい、八つ当たりはいかん。 スマンな、行く予定だった店が臨時休業で虫の居所が悪いんだ」
「うるせぇよ、バカ。大体お前がマヌケなのが―――」

艶やかな髪の彼女に遅れて来た男の人は、とても落ち着いた様子―――に見えた。
けど女の人との会話は留まる事を知らず、よく喋る事を印象付けてくれた。

目の前で繰り広げられるテンポの良いやり取りは、小気味が良い位に罵り合っていて。
それは同時に二人がそれだけ深い関係なんだと僕に教えてくれた。
比べちゃいけない―――そんな事したらキリが無いと判っていても、今の自分にそれを重ねてしまう僕。
言いたいこと、伝えたいことは数多に在るのに、それは出すことが出来ない。

「………あはは…いいなぁ………」

羨ましくて、嫉妬している自分がいて、自然と口を付いた言葉に思わず慌ててしまった
――刹那。艶髪の彼女は僕の方を振り向いたんだ。






「ホレ見ろ! お前のせいで笑われちまったじゃねーか!」
「阿呆…何でもかんでも俺のせいにするなと……で、何が羨ましいんだ?」
「えっ!? …あの…その……」

突然話を振られて、しどろもどろになってしまった。
それでも二人は僕が落ち着くのを待ってくれて、話を聞いてくれた。

「……えと……何でも言い合える関係…っていうか…その……」
「……一緒に住んでる人に酷い事言って、逃げて…帰るのも怖くて……」
「……僕は何でもしてあげたいのに…凌君は、僕の前じゃ何も……アレ…? すみま…ヒッ…ぅ……」

胸が苦しくて、何だか無性に悲しくて、人前だというのに、僕は涙を止められずにいた。
泣いてちゃ二人を困らせてしまう。なのに、涙は止まらない。
何で? 力になりたい人なのに、思い浮かべると泣いちゃうなんて、それじゃ助ける事なんて―――

不意に僕の頭を包む柔らかい腕。
雛を守る親鳥のような温かさがそこにはあって……

「あー…まぁなんだ。泣きたきゃ泣けばいいさ。泣いてスッキリしたら、また話せ」

……僕は少し、甘えることにしたんだ。
絶える事なく頭を撫で続けてくれる彼女に、お婆ちゃんの温かさを重ねて―――









薄掛かった雲から月が顔を出す頃には僕の鳴咽は止まり、涙も治まった。
そして仄冷たい芝生の上で、黒髪のお姉さんが口を開く。

「なぁ、その『凌』とやらとはどんな関係なんだ? 付き合ってんのか?」

「えっと…凌君は家が無い僕を住まわせて下さって……とても優しい方です」
「それで、あのー……突き合うって、何ですか? 特に格闘技はやったことないですけど……」

「………へ?」

僕は何か変な事を聞いてしまったんだろうか。
まるで天然記念物を見るような目で見られ、僕は首を傾げた。

「……一つ聞いても良いだろうか。君はどんな幼少時代を過ごしたんだ?」

絶句している彼女を余所に、腕を組んだ彼が僕に不思議そうに尋ねて来た。

「え? えっと…お爺ちゃんとお婆ちゃんと一緒でしたよ?」

「そうか…学校には普通に?」

「いえ、身体が弱くて…あまり行けませんでした」

「ふむ、成る程な……要するに家を殆ど出なかった訳か」

ハァ、と一つ溜め息を吐いて彼は彼女を小突く。
……どうしたんだろう?








「あーーー……あのさ、お嬢ちゃん女体化したのはいつ?」

「ふぇ!? な、なんで判るんですか!?」

まだ言ってない筈だよね…?
僕が目をぱちくりさせていると、彼女は腰に手を当てて得意げに言った。

「乙女の勘ってヤツだな。一人称『僕』だし「誰が乙女か…」ハイ黙れ♪」

口を挟もうとしてそのまま彼女に止められる彼。
……それにしても鳩尾に肘があんなに……

「はーーー……あ……一ヶ月くらい前…でしょうか。」

家を出て宛も無くさ迷い続けた一月前。
目覚めてしまった僕が初めて過ごした一人の夜。
街から遠く離れた製薬工場跡地で、血の衝動に駆られるのを抑えながら過ごした夜。

お爺ちゃんとお婆ちゃんの温もりを切り離したあの日が、酷く懐かしい。
今、二人は元気に過ごしているのだろうか……
僕の心配も、してくれているのだろうか……

「……痛くて…熱くて…死んでしまいそうな位、苦しかったですね……」

地下室の隅で膝を抱えて過ごしていたあの時間は、今でも鮮明に思い出せる………。








【幕間】

「存外時間がかかったのぅ……」

少年は虚空に向かって言葉を漏らした。
しかしその先に人はおらず、闇にはためくなにかの羽音。

―――刹那、少年の眼は紅く光った。

「……まぁよい…そろそろ時も危うい……急ぐぞ!」

少年は風のように走った。
その姿は人にして異形の者。
樹から樹へ、そして電柱から電柱へ、影は軌跡を描きながら目的の場所へと到った。

『木之本』表札にはそう印されていた。
……紛れも無い凌と小夜の家。
少年はゆっくりとインターホンに手を伸ばした。

―――ピン、ポーン……ガチャッ

「さ……!?」

チャイムが響いて間もなく出て来た凌は、少年に取り押さえられていた。
玄関で声も出せずに、凌は少年の顔を見上げた。
こちらを見下ろす紅い眼、そして小夜のものより太く、長く、鋭く伸びた吸血牙―――

【幕間終】




「……えと…一番大事な事を聞き忘れてました。『童貞』ってどうやれば捨てられますか? 僕が手伝えるような事ですか?」

「「( ゚д゜)」」

僕の様々な質問に答えてくれていた二人。でも最後の質問になって二人は絶句していた。
そして急に僕に隠れながらボソボソと話し込む二人。
……少し聞こえちゃってるけど。

(ふむ、任せたぞ阿呆)
(おま、卑怯だぞ!)
(仕方ないだろう。こういうのは同性が適任だ)
(ふざけんなバカ! あっ、逃げんな!)

そんなやり取りの後、彼女は油の切れた人形のように振り向いた。

「あー、その……なんだ。アレだ! 男のm(省略されました。ありのままに伝えている模様です)って事をすりゃいいんだ! わかったか?」

「ココに、アレを……ですか? わかりました、ありがとうございました! 今日にでも、早速試してみます! それでは!」

「あ、あぁ……が、頑張れよ!」

手を振る二人に別れを告げて、僕は走り出した。
何だか引き攣った笑みを浮かべていたけど、どうしたんだろう?

薄明るい街灯を辿って家へと急いだ。
……やっと……やっと少し恩に報いる事が出来るんだ。
色々なモノを与えてくれた凌君に、やっと―――

目の前で泣き喚いた事なんて忘れてしまうくらい、僕は浮かれていたんだ。
……でも、家に着いた僕を待っていたのは、誰もいない家と凌君の血の匂いだけだったんだ―――




「……あれー?……凌くーん…?」

静まり返った家に吸い込まれていく声。
家のどこにも凌君の気配は無くて、あるのは玄関から漂う血の匂い。
匂いが残っているということは、此処で凌君が血を流してからそんなに時間は経っていない……

『お主が「小夜」か……』

―――耳鳴りと共に、頭の中に声が響いた。

『「凌」とやらは儂と共にいる。VIP総合病院の屋上に参れ』

「誰!? 凌君に何をしたの!?」

『良いか?5分以内じゃ……』

話は一方的に終わり、耳鳴りが消える。
誰? 何の目的で凌君を…そして僕を?

―――嫌な、感じがする……

病院まで大体2km。今は何も考えずに走るしかない。

―――僕は、駆け出した。








【幕間】

「ねぇ…君と小夜はどんな関係なの? 何でこんな事するのさ?」
少年の向こうに霞む朧月。
その微かな光の中の少年は、振り返って僕の首を鷲掴む。
片手で悠々と僕を持ち上げるその様は正しく異形の者。

「少し黙れ…冥土に往きたくはなかろう?」

もがいても決して外れることのないその力。
首に走る痛みは、爪が食い込んでいるからだろうか?

「お主が小夜を失うて、元の生活に戻るだけじゃ」

小夜が居なくなる…?

「……っか…っ…!?……ぁあ……っ…!」

絞め付けは次第に強くなってゆく。
細身の腕に力を抜く気配は無く、足掻いても、足掻いても、足は宙を蹴る。

「―――小夜は儂の嫁になる女じゃからの……」

薄れゆく意識の中で、僕は必死に小夜の名前を叫んでいた。
―――声なんか届かないと判っているのに……

【幕間終】








―――ダダダ……ダンッ!ダンッ!ダンッ!!

切れる息も流れる汗も、今は気にしてはいられない。
地面を蹴り、屋根を、雨樋を蹴り、パラペットの上へ。

「……よく来たの」

その声の元はあの家で聞いた声と同じモノで、僕は歩み寄る少年を睨み付けた。
年の頃はおよそ同年代。そして銀髪に紅い瞳―――?

「なんじゃ? 何を驚いておる。―――お主も同じであろう?」

ニィッと笑う口元には、吸血牙……そんな……仲間!?
同種が見付かって嬉しい反面、だからこそ凌君を掠った事を疑問に思う。
素直に喜べない理由が、あまりにも多過ぎた。

「……何の用ですか? 何で凌君を……」

「連れんのぉ…折角許婚をこうして迎えに来たというのに……」

「……許婚? 人違いではないんですか? 僕に許婚なんて……」

「何を言うか痴れ者が! 儂を虚仮にするのか!? 大体両親は何処じゃ!? 何故一緒に暮らさん!?」






僕の苛立ちは絶頂に達しようとしていた。
この人は何も知らずに凌君を巻き込んだ。
だから僕は―――

「親は居ません。僕は赤ちゃんの時に棄てられてたそうです」

―――冷たく、切り返す。

「なっ!? そんな……かっ……ぁ…っ……!?」

頭上に浮かぶ柔らかな朧月。少年は突如として膝を折った。
彼はのたうちまわりながら、静かに姿を変形させてゆく。
それは初めて見る、でもすぐに解る変化―――女体化の、兆しだった。
苦痛に歪む顔、痙攣する身体。
彼は恐らく、感じたことのないような熱に浮かされているだろう。

「……そうだ、凌君!」

僕は屋上を駆けずり回った。そして彼は思いの外早く見つかった。
屋上機械室の裏。月の光も当たらない場所で、彼は気を失っていた。
首元には切り傷と吸血痕、これは多分あの子が付けたモノ。

「……とりあえず家に…でもあの子はどうしよう……」

凌君を巻き込んで、掠って、傷付けて―――込み上げる憤怒。

でも、そこで僕は気付いたんだ。僕が同じような事をした時、凌首は―――?
彼ならどうするだろう? 彼なら―――浮かぶ、傍で眠る彼の笑顔……
僕は凌君を抱えたまま、あの子に歩み寄った。








少年は荒い呼吸を鎮めるように横たわっていた。
薄く開かれた目に力は無く、ただ虚空を見つめている。
力が入らないのだろう。僕もそうなった覚えがある。

「……一人で、帰れますか?」

微かに視線をこちらに向けて、微かに唇を動かし、無言。
腕をこちらに這わせる姿が憐れで、高揚感を覚えてしまう自分が少し嫌いになった。

「……どうです? 辛いですか? ……辛いですよね。これから君を凌君の家に連れていきます。嫌なら口を開けたままにして下さい」

少年の選択は口を開いているというもの。
自分で言っておいてアレだけど、僕は彼を抱き上げた。

「……やっぱりその姿に慣れるまで、いてもらいます。眠ければ寝ちゃって下さい。多分夜まで眠る事になりますから」

少年は何か言いたげな顔をしていたけど、僕は二人を抱えて家へと戻った。






空は白み始め、小鳥達の囀る声が聞こえてくる。
穏やかに寝息を立てる二人は、未だ起きようとはしなかった。

家に帰って二人を寝かせた僕は、ちょうどお風呂からあがってきたところ。
頭に髪を纏め、ゆったりとした服を着て、冷蔵庫からハーブティーを取り出す。
真水を飲めた少し前までを思い出しながら。

この身体になって、短い間に色々な事があった。
お爺さんとお婆さんとの別れ。性の反転。凌君との出会い……
出来ていたことが出来なくなるというのはとても不便で、それが日常の一部だと余計に大変だったりする。

それは例えば水であったり、光であったり……
要するに、今まで心地良かったモノが今は害しか齎さないというのは、辛いんだ。

陽の下で光を浴びたくても、冷たい氷水が飲みたくても、もう僕には出来ないんだから。

「………ん………んん…?」
「! ……凌君? 大丈夫?」

飲みかけのグラスをテーブルに置いて、凌君の所に駆け寄る。
少しずつ目を開く彼が名前を呼んでくれた事に、僕は胸を撫で下ろした。
そして、彼は僕の頭を撫でながら身体を起こす。

「ごめんね、心配させちゃったね…」

優しく僕の髪を梳く凌君は、申し訳なさそうに俯く。
彼が責任を感じることなんてないのに、ね…








「凌君……お願いがあります」

言わなければならない。そう思った。

「僕は凌君の笑顔が大好きです…………けど」

しっかりと、真っ直ぐに重なる視線。

「もっと色んな凌君を知りたい……だから」

もう学校の前で言ってしまった言葉。我が儘な僕は、これ以上待てないから。

「我慢しないって、約束して下さい……」

―…―…―…―…―…―

「小夜、今日暗くなってから学校に来てくれる?」

押し入れの中の僕に、凌君が囁く。
すっかり眠ってしまった佳夜ちゃんは、上で寝息を立てている。

「わかりました」

「うん。それじゃ、行ってくるね!」

3人の生活にも慣れた頃、凌君と交わした約束は、守られている。
最近は落ち込んだ凌君も悲しげな凌君も、段々と顔を覗かせるようになった。
後はどうやって僕が行動を起こすか……かな。

おわり


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最終更新:2008年07月21日 20:41
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