――冷たい月が、闇空に一筋の切れ間をもたらす。
まるで空の傷口のように鋭い三日月。
ならば、その裂け目から洩れ出す白い光は……血、なのだろうか。
それは、腐り落ちて尚血を流す、醜い私の心にそっくりだ。
美しいのは傷口だけで、その他はスモッグに覆われて星すら瞬かない闇の色。
お似合いだと思う。そのまま裂けてしまえばいい。
そうすれば、残るのは――
――美しい、『想い出』という名の傷口だけだ。
貯水タンクに寄り掛かり、私はただ茫然と陰りゆく空を見上げている。
朱から藍へ。藍から黒へ。
時折走る冷たい風が、髪を靡かせ、肌をさらい、がらんどうの私の心に吹き荒ぶ。
――寒い。
……寒い、のだろうか。
空虚な身体は、酷く静かで、まるで存在すらしないように。
首だけで闇を見上げているような、ふわふわと浮ついた感触。非現実感。
虚ろ。
虚ろな私の思考は、ただ一つを思う。
寒い。
……凍えるんだ。
手足の感覚なんて、疾うに失せた筈なのに。
ずっと隣りにあった温もりが。
永遠に失った暖かさが。
――虚ろで、寒い――
警備員の一人でも見回りにくれば、私を無理にでも『ここ』から連れ出してくれる。
だと言うのに人の歩く気配すらないのは、単に不用心なのか、或いは神が私に施す罰なのか。
――そこまで考えて、私はクスリと笑ってしまった。
罰が、こんなに他愛もなくてどうするんだろう。
こんなのは言わば当然。罰にすら値しない『罪の結果』。
傷付いた? 馬鹿馬鹿しい。傷付け、壊したのは私自身じゃないか。
立上がり、貯水タンクの乗った段の角から下を見下ろす。
ヒュウ、と闇に駆ける風の音。
眼下の闇は、きっと私を安らかな世界に連れていってくれる。
そうして私は、
……踏み出そうとする足を、全ての理性で止めていた。
逃げるな。
ふらつく足を引き摺って後退りすると、貯水タンクへと背を預けてへたりこむ。
私には、安らぎなんて与えられるべきじゃない。
あの人は優しいから。
……だから、まだ悲しませる訳にはいかないんだ。
両手で顔を覆い、嗚咽に痙攣しようとする身体を必死に抑え込む。
全て自分のせいなんだ。泣く資格なんかありはしない。
だから泣いてない、私は泣いてなんかいないんだ。
そう言い聞かせても震える身体が止まらなくて、苛立ち紛れに貯水タンクに顔を伏せて咽ぶ。
錆びた金属の匂い。
力なく叩く度、少しだけ鈍い音を響かせる貯水タンク。
僅かに伝わる水の流れる音だけが、少しだけ私の意識を逸らしてくれて――
ふと、違和感があった。
――水が、流れている。誰もいない筈の校舎へと。
警備員の人がトイレでも使っているのかもしれない。その辺りが自然な判断だし、そうじゃなくても精々蛇口の閉め忘れ程度の事なんだろうと思う。
――なのに、酷く嫌な予感がした。
だから探して、笑い飛ばそうと思っていた。
――――違和感の正体は酷く呆気なく見つかった。
「………………あ、れ?」
二階の男子トイレ。ああ、こちらに入ったのはやはりまだ『彼女』が『彼』だからなんだろうか。
携帯を取り出そうとする手がガタガタと震えて、上手く動かない。仮に取り出せたとしても押すべき番号が幾つだったかまるで思い出せない。
廊下まで広がった水が、闇に呑まれて黒く染まっている。
黒いのは、闇に呑まれているから。
洗面台へ俯せた華奢な身体。栓の閉まった洗面台から、次々に溢れてくる水道水。傍らに落ちた見慣れたカッター。水に浸かったまま、先の見えない左手。
「――――コゲ、さん?」
零れた水の黒は。
「…………コゲ、さん? あれ? 何やってるんですか? え?」
窓に差し込む月明りに、赤く映える。
「……ああ、ああああッ―――――――!」
――罰は、確かに最悪の形で下されていた。
最終更新:2008年07月21日 21:14