――水の音がする。
ピチョン、と暗闇に、落ちる雫の音が響き渡る。
ピチョン、ピチョン、と。
――これは夢だとは理解している。判らないけれど、理解している以上きっとこれはそ
ういうものなんだろう。
だと言うのに、その水音が闇にこだまする度に私の心は狂おしい程に波立つのだ。
あの水音は、水の音なんかじゃない。
闇が晴れる、月が差し込む、色が蘇る。
私は一人、長い長い廊下にひざまずいている。一面はどこからともなく落ちる雫を抱
え、僅かに水位を上げている。
パシャリ、と手をついて這いつくばった。跳ねる雫。
それは咎人を苛む水牢のように。
手に絡みつくのは、透明でなく、
――赤い赤い、罪の枷。
これは私が、望んでこうしたのだから。
ピチョン、ピチョンと水位は上がる。緩やかな死。あっさりとくるぶしまで上がってき
たこれは、きっと喉まで上がって私を締め殺す。
彼を、彼女を、主を返せと叫んで私を縊(くび)るのだろう。
……だからこれは夢。
腐臭すら放つような私の切望。
『彼』を殺した私に誰でもいいから罰を、と、資格もないのに縋り付いてはその夢に恍
惚とする、どうしようもない程下衆な夢。
そして私は、ようやく理解した。
彼は死んだ。私が殺したのだから、それは明らかと言うのすらはばかられる程明らか
で。
殺した。
いつの間にか膝程の高さまで上がってきた水面へ、私は静かに沈む。
死んだ。
せめて夢の中くらいは楽にさせて欲しくて、腕をゆったりと水に任せる。まるで手首を
切った彼の姿のように。
いなく、なった。
泣いてはいけなかった。
――いけなかった、のに。
「……う、ああ…………」
急激に水位を増した赤い水は、もう足さえつかない。
沈む。
「ひぐっ、うっく、うあ、あああ……」
この水の中なら、判らないから。
「――あ、ああああッ! っぐ……ふぐっ――うあ、うあああああッ! やだ、や
だぁッ!」
――もう、我慢が出来なかった。
「なんで、なんでっ! 私こんなつもりじゃなかった! こんな事したかった訳じゃな
かったッ!」
赤い水にたゆたう私は、ただただ子供のように泣きじゃくる。
身体を縮こまらせ、小さく丸くなって何も見ないようにと固く目をつむって。
「違うの――こんな筈じゃなかったの……だって、だってッ!」
――だって、彼はもう私を想う事はない筈だったのに。
いてくれるだけでよかった。
多くを望むつもりはない、いや、望む事さえ叶わなくなったからこそ。
たとえ遠くから眺める事すら私に許されなくなったとしても、そこにいてくれるだけで
良かったんだ。
それをわざわざ突き放そうとしたのは私のエゴ。
……辛かった。見ていられなかった。認めたくなかった。
「彼」はまだそこにいるのに、『彼』はもういないという事実が。
――いて欲しい、けれど近ければ近い程、その事実は確実に私を苛んで。
だから、遠くにいればいいんだと思った。
離れたかった。突き放したかった。蔑んでくれれば良かった。……私に見向きさえしな
くなれば、きっと一番幸せだと思った。
そうすれば私だってもう苦しい思いをしないで済む。彼が笑っている姿に胸を刻まれる
ような痛みを感じないで済む。
彼が笑う姿を、心穏やかに受け止める事が出来る。
……そして叶うならば、いつか、私の心がこの痛みを感じなくなった頃に、彼とまた、
いられたら――なんて。
あまりにも、虫の良い。 そのエゴが、殺したんだ。
彼を磔(はりつけ)にしたのは私の罪。
――そうして咎のように、彼は死んだ。
「―――――――ッ!」
夢にたゆたう。声にならない声を上げて、私はボロボロと涙を流して泣き叫んでいる。
ここは夢だから。私の夢だから。
せめてここだけ、今だけ、泣かせて欲しい。
この夢が覚めた後私が背負う磔の十字は、泣く事すら私に赦しはしないから。
――だからせめて、今だけは
失われた傍らの温もりを
この寒さを
せめて、悲しませて欲しかった――
……なのに。
「――――ぇ……?」
その温もりは、唐突だった。
「あ、れ…………?」
泣きじゃくる私の背を、頭を、そっと伝う温かさ。
顔を上げる。水は既に引いていた。
辺りは変わらない闇。差し込むのはただ冷たい月明かりだけで――
「……嘘」
――違う、これは月明かりじゃない。
背に触れる光は、懐かしい程に温かい。
「……嘘、だ」
――ああ、何で私は、まだ夢を見ているのだろう。 怖くて上を見上げられないのに、
その恐怖を少しずつ溶かしていくようなその熱は。
まるで
「……コゲ、さん?」
――そして私は、その光を見上げた。
一瞬、まだ夢の中にいるのかと思った。
独特の薬品臭と、ソファの乾いた匂い。それですぐに、視界が暗いのは自分が病院のソ
ファにもたれて寝てしまったからだと思い出す。頬が濡れているのは、多分本当に泣いて
しまっていたのだろう。
……なら、この髪を撫でる温かい手は誰なんだろう?
ああ、何故だろう。信じたいのに信じたくない。でもこの手が誰の手かなんて、疑うべ
くもない。
今目を開いたら、彼は私に何と言うのだろうか。どんな目で私を見るのだろうか。酷く
罵られるかもしれない、顔も見たくないと追い出されるかもしれない。
……でも、構わなかった。
目を開く。
「「あ……」」
そこには、求めてやまない彼女の――いや、『彼』の姿。……何を言うべきか判らなく
て、じっと目を見つめる。
「……あー、えっと、だな、まあ言いたい事は色々あるけど、さ」
そんな私の視線に照れたように、コゲさんは少しだけ目を反らして。
「……ありがとう、はーたん」
ふわりと、抱きしめられた。
……そのせいで結局、私の決意なんてあっさりぶち壊しにされてしまって――
「……えぐっ……ふぇっ……ふぇぇぇぇぇんっ! ……良かった、ひっく、本、っく、当
に、良かっ――! うあっ、よかった、ひぐっ、よかっ……!」
「……よしよし」
――その胸に縋り付いて泣けている自分に、心から安堵していた。
最終更新:2008年07月21日 21:15