いつも初菜の傍に居て、ずっとあの笑顔を見ていたい。そう思っていた。
彼氏・彼女の関係じゃなくても、友達でも良い。ただの知り合いでも良い。
俺は、彼女が笑っていてくれればそれで良かった。
―――彼女の幸せが、何であるかも考えないままに。
……思えば俺の自己満足だったのだろう。
彼女を想った気持ちも、彼女を突き放した行いも。
『なんで付き合ってくれなかったんですかッ! 抱いてくれなかったんですかッ! 私は、私が、どれだけッ――!』
―――喉元に、突き立てられるのだ。
あの時彼女が仄見せた真実の顔は、俺にその事実を教えてくれた。教えて、くれたんだ。なのに俺は―――
知って欲しかった。自分がどれだけ彼女を想っていたかを。
―――そのわがままで、彼女がどう思うかなんて考えないまま。
だから、俺が、いなくなるしかないと思った。
逃げたんだ。
「「あ……」」
ゆっくりと瞼を、長い睫毛を持ち上げた彼女と視線が交わる。
彼女の傍に、俺は居ても良いのだろうか?
裏切った。逃げ出した。そんな、泣かせてばかりの俺なのに―――
「……あー、えっと、だな、まあ言いたい事は色々あるけど、さ」
沢山の言いたい事がある。それは彼女に言いたかった事。
謝りたかった。許しを請いたかった。疑問をぶつけたかった。……お礼が、したかった。
彼女の投げ掛ける視線は、全てを見透かされるくらいに真っすぐで、揺らがない。
―――太陽を見つめるみたいに、彼女が眩しくて見ていられないんだ。
そしてその光はあたたかくて、ガチガチに固めた俺の心を、融いてしまうんだ……
「……ありがとう、はーたん」
止まらない。俺を形作っていたもの。心よりも早く、身体が動いてしまう。
俺はソファに腰掛ける彼女を、そっと抱きしめていた。
「……えぐっ……ふぇっ……ふぇぇぇぇぇんっ! ……良かった、ひっく、本、っく、当に、良かっ――! うあっ、よかった、ひぐっ、よかっ……!」
細い肩は小刻みに震えて、抑え切れなくなった鳴咽が溢れ出した。
俺はこんなにも、想われていたんじゃないか。
だからこそ、あんなに必死に俺を急かしてくれていたんじゃないか。
自分はなんて、馬鹿なことをしてしまったんだろう。
愛しさと失望が混じった複雑な感情は、やがて溶け合って拡がっていく。
もう彼女と一つになることが出来ない俺は、こうやって頭を撫でる事しか出来ないけれど……
「……ん、よしよし」
彼女の両の手が俺の腰に回って、少しずつその手に力が入ってゆく。
一つにはなれなくても、この距離でいい。
なれないからこそ、彼女に縋り付くのだから。
いつからだろう。
俺の中で初菜が特別な存在になっていて、子猫のように寄り添ってくる彼女を、愛おしく思い始めたのは。
…いつからだろう。
彼女の姿を目で追うようになったのは。
……いつからだろう。
彼女が俺を好きになってくれたのは。
こんなに近くにいる彼女を、俺は泣かせてばかりだ。
そしてこんな事が無ければ、これからもずっと、彼女を泣かせ続けたんだろう。
今の俺が傍にいる限り、彼女は俺に前の俺を重ねてしまうのだから。
「―――初菜」
はっきり、させなくちゃならない。
俺が彼女に突き付けるしかないのだ。
「色々気付いてやれなくて、ごめんな」
彼女の震えが、止んだ。
まだ顔は上げてくれないけど、俺は話を続ける。
「男じゃなくなっちまって、ごめんな。自分勝手で……ごめん」
俺の胸に額を擦りつけるように、彼女は頭を首を振るった。
その姿が『コゲさんは悪くない』そう言ってくれているようで、堪らない愛しさが込み上げる。
どれだけ力を込めても、今の俺では前みたくは出来ないけれど……
「……俺さ、多分これからも変わってっちまうよ。変わりたくなんかないけど……なんだかそんな気がするんだ」
多分、そんなに遠くない未来にそうなるであろう話。
俺はもっと女らしくなって、いつか自然に女として過ごすようになってしまうだろう。
変わってしまった今、俺の身体は意思とは関係なしに、子孫を殖やす準備を整えている。
苦しくて、悔しくて、でもどうしようもなくて……
噴き出すように、湧き出すように、俺は行き場の無い感情を吐き出した。
「……なんで女体化なんかあるんかなぁ? なんで、この歳なんかなぁ…… な…んで……俺、た…だ……はつ…なを……」
途切れ途切れになる言葉を紡ぎながら、力が入らなくなる膝を何とか奮い立たせた。
幼少以来感じた事がなかった鳴咽が、止まらない、止められない……
酷く、自分を無力に感じた。
もしかしたらあまり変わりは無いのかも知れない。それこそ、元からそうだったというのもあるだろう。
けど、こんなにやる瀬ない悲しみと悔しさを感じるのは初めてだった。
人の持つ適応力というのが、はっきりとした敵意を持って襲い掛かって来るのだ。
なまじ脳天気で適応力があるばかりに、俺は彼女をおいてきぼりにしてしまったのだから。
「……ごめんな。 泣いてもどうしようもないよな」
半ば自嘲気味にそう言うと、涙を拭って彼女を放した。
俺はもう、彼女の為に生きる。そう、本気で考えていたんだ。
バカな俺なりに、彼女の為に出来る事をしていこう。
彼女の笑顔だけでも―――せめて見ていられるように、と。
最終更新:2008年07月21日 21:16