暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。
ここ数日、以前のような暑さは感じられない。
蒸し暑かった深夜帯も、大分楽に過ごせるようになった。
今まで使っていた扇風機をしまい、窓を半分くらい開けて過ごす。
時折流れてくる微風は、未だに付けてある風鈴の音を響かせながら俺の部屋に吹き込む。
心地よい風鈴の音が、部屋中に響きわたる。
この季節になってくると、大学の受験勉強に励む高校三年生にとっては、少しばかり楽に勉学に励むことができる。
俺も大学を受験をする高校三年生の一人だ。
今日はちょうどよい温度だ。湿度も高くはない。
暑さを気にすることなく机に向かうことができることはちょっとだけ嬉しい。
汗だくになりながら遅くまで勉強していた夏休みが懐かしい。
時を忘れ、俺は黙々と参考書と睨めっこしていた。
だんだん手首が痛くなってくる午前一時。
通しで勉強していたので、一息つく。
気が抜けたせいか、無性に喉が渇いてきた。
勉強中はそれほど気にならなかったのだが、終わったとたんに喉の渇きが襲ってくる。
それほど集中していたのだろう。時たまこういうことがある。
俺は乾いた体を潤すため、台所に向かう。
冷蔵庫から500mlのミネラルウォーターを取り出し、半分くらい一気に飲む。
余ほど喉が渇いていたのだろう。一息つくと、残りを全て飲み干した。
ふう、とため息をつく。
時刻は午前一時をまわっている。両親はすでに床についている。
兄貴はまだ帰ってこない。今日も夜遊びしているのだろう。
静寂に包まれているリビングルーム。時計のコチコチという無機質な音だけが響いていた。
俺はリビングに置いてあったスナック菓子を手に取り、自分の部屋に戻っていった。
部屋に戻り、スナック菓子を頬張る。
参考書をぺらぺらっと見ながら、俺はふと気がつく。
いつもらなこの時間になにかやっているはずだ。
時計に目をやると、一時十五分。すでにソレは始まっている。
机の端に置いてあるラジオを手に取り、慌てて電源を入れる。
急いで目的の周波数にあわせようとするが、中々ちょうどいい按排の位置が見つからない。
ノイズの入った声が俺の耳に届く。
すぐそこまで来ているのだが、中々出来ないもどかしさ。ツマミを持つ手が慎重に動く。
少し経って、何とかいつもの位置にすることができた。
ふぅ、と息を吐き、俺はラジオから流れてくる声に耳を傾ける。
いつもと変らぬ声が俺の耳に届く。まだ始まったばかりであった。俺は胸を撫で下ろす。
ハキハキとしたフレッシュな声。どこか幼さ残る口調だが、多くのリスナーから人気がある。
その声の主は、俺より二つ下の年である男の子。つまり高校一年生だ。
彼は学業に従事する傍ら、こういう仕事もしている。
俺は彼の持つ番組が非常に好きだ。俺だけではなく、他の高校生にも好評だ。
年齢が近いということもあるのだろうか。彼の考え方には共感するところが多々ある。
時折冗談を交え、他の出演者の方々の笑いを取る。話の進め方はすでに一人前だ。
俺は軽く参考書を読みながら、ラジオに耳を傾けていた。
カーテンから漏れる太陽の光で目が覚める。
どうやら俺は、ラジオを聴いている間に眠ってしまったようだった。
大きく背伸びをし、両手で目をこすった。
参考書は俺の涎でふにゃふにゃになっており、一部破けてしまっている。
頭をぽりぽりと掻きながら、どうしようかと考える。
とりあえず乾かすことを考えた俺。常に光のあたる窓際に置き、学校に行く支度をした。
それから数ヶ月が経った。
季節はすでに冬。暑さを感じた日々が懐かしく感じる今日この頃である。
大学受験も間近に迫ったこの日。俺はいつものようにラジオに電源をつけた。
毎日聞き続けてきたこの番組、俺の日課と化していた。
CMが終わり、彼の番組の時間となる。俺はわくわくしながら彼の登場を待つ。
タイトルコールの後、いつものように彼の元気のいい声が聞こえてくると思った。
だが、俺の耳に届いたのは全く別のものであった。
やわらかく、どこか弱弱しい声。男性の声ではなく、それは明らかに女性の声であった。
今日彼は休みなのかな、と疑問に思う。これは多分他の人なのだろうと思っていた。
でも彼が休むということは珍しい。今まで一回も休んだことはないと、番組内で豪語していた。
風邪もあまり引かないと言っていたし、こういうことは絶対続けると言っていた。
そういうポリシーを持っている彼なのだから、何があっても休むことはないだろうと感じていた。
首を捻りながらラジオに耳を傾ける俺。すると次の瞬間、驚くようなことが聞こえてきた。
『・・・私が・・・です・・・』
何が起きたのか全く分からなかった。
多分この番組を聞いている他のリスナーも、冗談だろとしか思っていないはずだ。
というより、冗談であってほしいと願うしかない。
まさか彼が童貞であったとは、正直驚きだった。
確かに番組内でそういうトークを振り掛けられると、結構スルーしていたり、言葉に詰まっていたりしていた場面が多々見受けられた。
彼は晩熟であったのだろうか、それともただ単に興味がなかっただけなのだろうか。
だが今更事情なんてものはどうでもいい。
彼が女体化してしまったという事実を受け入れる以外、どうしようもない。
ラジオから流れてくる彼・・・いや、彼女の声は、どことなく震えていた。
鼻をすするような音も聞こえる。泣いているのだろうか。
だが、それでも彼はいつもと変らず番組を続けていた。没頭だけ元気がなかったが、今はいつもと同じ彼がいる。
プロ根性と言うものなのだろうか。彼の精神力の強さに、俺は呆然とするばかりであった。
その後の彼は、今まで以上に人気がでた。
女体化してからも相変わらずのテンションで、リスナーである俺たちを元気付けてくれた。
俺も変らずに彼の番組を楽しく聞かせてもらった。
彼は女体化してからも逃げずに俺らの前に立ってくれた。
今までの自分を失ったというのに、そういう面を全く見せない。
むしろ、今まで以上にイキイキとしているように感じる。
並みの精神力ではできない、とてつもないことだ。
とても俺より下の年齢とは思えないほど。
俺は彼から様々なことを学ばせてもらった。
その後俺は大学受験に成功し、今は東京の大学に通っている。地元を離れ、一人暮らしだ。
楽しいキャンパスライフを満喫している今でも、彼の番組は欠かさず聞いている。
上京したての頃は、不安で一杯だった。知り合いは近くに誰もいなく、不安で一杯だった。
だが、実家から持ってきた使い慣れたラジオと、「彼」の声を聞くと、俺の不安は一気に吹き飛ぶ。
「彼」の声から「彼女」の声を聞き始めてから、俺は彼がどんな人なのか見てみたかった。
ブログなどをやっているようなのだが、どんな姿をしているかは誰もわからない。
俺は彼の姿を想像しながら、毎日の生活を送っていた。
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それからまた二年後。俺が大学三年になった時だ。
俺の所属しているサークルに、久しぶりの女の子が入ったという話を聞いた。
今まであまりサークルに顔を出していなかった俺。女の子と聞いて、すっ飛んでいった。
どんな人が入った?と他の人に尋ねる。すると彼らは、窓際に佇む彼女を指差した。
初めまして、と挨拶をする。どこか緊張気味に言う俺。後姿を見ただけで、綺麗な人だと分かる。
彼女はこちらを振り向く。「初めまして」と、はにかみながら言う。
端整にな顔立ちに、すらっと長い黒い髪。そしてどこか聞き覚えのある声だ。
気に掛かった俺は、彼女の耳元でこう呟く。
「ラジオ・・・やってましたよね・・・?」
それを聞くと、ふふっと笑みを浮かべる。
風に靡く髪を押さえながら、彼女は小さく頷いた。
最終更新:2008年08月02日 15:27